経典のことば(42)
立正佼成会会長 庭野日敬
この国の人びとは、みなすぐれた人ばかりである。
(旧雑譬喩経下)
凶暴な人びとの教化
お釈迦さまが王舎城の霊鷲山で法をお説きになっておられた時のことです。隣国に、人民が凶暴で、さまざまな悪事をしてはばからない一国がありました。お弟子の中で神通第一といわれた目連が、あの国へ行って人びとを教化したいと決意し、世尊にお許しを願いました。
世尊がお許しになったので、目連は勇んでその国に行き、熱弁をふるって悪行の罪の計り知れないことを説き、善をなすことをすすめました。ところが、人びとは怒って目連をののしり、教えに耳を傾けるどころではありませんでした。目連はスゴスゴと帰ってきました。
それを見た智慧第一の舎利弗は、「人を教化するには智慧を授けるに限る」と言い、世尊の許しを得て出かけて行きました。しかし、その国の人びとは唾をひっかけて侮辱し、相手にしませんでした。
次には摩訶迦葉が行きましたが、これもむなしく帰ってきました。こうしてたくさんのお弟子たちが代わるがわる行きましたが、みんな追い返されてしまいました。
それまでの様子を黙然と見守っておられたお釈迦さまは、やはり菩薩でなければ、かの国の人びとは教化できないとして、文殊菩薩にそれを命ぜられました。
文殊菩薩はその国に行きますと、第一声に「この国の人びとは、みんなすぐれた人ばかりである」と言い、個々の人に会うごとに、「そなたは勇気がある」「そなたは孝心がある」「そなたは胆力がある」などと、おのおのの長所ばかりを認めて称賛しました。
みんなはいい気持ちになり、文殊菩薩を手厚く供養するのでした。文殊は頃合いを見はからって、こう言いました。
「そなたたちはわたしを尊敬し、供養してくれるが、わたしの師である釈迦牟尼世尊はわたしなんぞ足元にも及ばない尊いお方である。世尊を供養するならば、わたしを供養するよりも幾十倍もの福が得られるだろう」
人びとは大いに喜び、文殊に連れられて霊鷲山にお詣りし、世尊のお説法を聞くようになったのでありました。
愛語には廻天の力あり
「叱る教育」と「褒める教育」とどちらがいいか、いろいろ議論が分かれているようです。わたしはこう思います。知性の発達した相手には「叱る教育」も効果があるが、未熟な者には「褒める教育」に限ると。
とりわけ、凶暴で非行に走る傾向のある相手に対しては、文殊菩薩がしたように、その人の持つ良い個性を認め、理解してあげることが第一の要件だと思います。どんなワルでも、心の隅には自分の悪行を「よくないなあ」と考える気持ちが潜在しているのですが、世間が「悪い奴」と決めつけ、冷たくするために意地になって悪行を重ねるわけです。
だから、自分のある一点でも褒めてくれる人があれば、無性に喜び、人間がガラリと変わることが多いのです。凶暴な人間は、わるく言えば単純で幼稚だし、よく言えば純粋なところがあるからです。
一般の人びとにしても、褒められて悪い気持ちのする人はありません。ただし、おべっかやへつらいは別です。ほんとうにその人を理解して褒めれば、理解されることは人間にとって無条件の喜びですから、心がホドけてくること必定です。
道元禅師が「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」と喝破されたとおりなのです。
題字と絵 難波淳郎
立正佼成会会長 庭野日敬
この国の人びとは、みなすぐれた人ばかりである。
(旧雑譬喩経下)
凶暴な人びとの教化
お釈迦さまが王舎城の霊鷲山で法をお説きになっておられた時のことです。隣国に、人民が凶暴で、さまざまな悪事をしてはばからない一国がありました。お弟子の中で神通第一といわれた目連が、あの国へ行って人びとを教化したいと決意し、世尊にお許しを願いました。
世尊がお許しになったので、目連は勇んでその国に行き、熱弁をふるって悪行の罪の計り知れないことを説き、善をなすことをすすめました。ところが、人びとは怒って目連をののしり、教えに耳を傾けるどころではありませんでした。目連はスゴスゴと帰ってきました。
それを見た智慧第一の舎利弗は、「人を教化するには智慧を授けるに限る」と言い、世尊の許しを得て出かけて行きました。しかし、その国の人びとは唾をひっかけて侮辱し、相手にしませんでした。
次には摩訶迦葉が行きましたが、これもむなしく帰ってきました。こうしてたくさんのお弟子たちが代わるがわる行きましたが、みんな追い返されてしまいました。
それまでの様子を黙然と見守っておられたお釈迦さまは、やはり菩薩でなければ、かの国の人びとは教化できないとして、文殊菩薩にそれを命ぜられました。
文殊菩薩はその国に行きますと、第一声に「この国の人びとは、みんなすぐれた人ばかりである」と言い、個々の人に会うごとに、「そなたは勇気がある」「そなたは孝心がある」「そなたは胆力がある」などと、おのおのの長所ばかりを認めて称賛しました。
みんなはいい気持ちになり、文殊菩薩を手厚く供養するのでした。文殊は頃合いを見はからって、こう言いました。
「そなたたちはわたしを尊敬し、供養してくれるが、わたしの師である釈迦牟尼世尊はわたしなんぞ足元にも及ばない尊いお方である。世尊を供養するならば、わたしを供養するよりも幾十倍もの福が得られるだろう」
人びとは大いに喜び、文殊に連れられて霊鷲山にお詣りし、世尊のお説法を聞くようになったのでありました。
愛語には廻天の力あり
「叱る教育」と「褒める教育」とどちらがいいか、いろいろ議論が分かれているようです。わたしはこう思います。知性の発達した相手には「叱る教育」も効果があるが、未熟な者には「褒める教育」に限ると。
とりわけ、凶暴で非行に走る傾向のある相手に対しては、文殊菩薩がしたように、その人の持つ良い個性を認め、理解してあげることが第一の要件だと思います。どんなワルでも、心の隅には自分の悪行を「よくないなあ」と考える気持ちが潜在しているのですが、世間が「悪い奴」と決めつけ、冷たくするために意地になって悪行を重ねるわけです。
だから、自分のある一点でも褒めてくれる人があれば、無性に喜び、人間がガラリと変わることが多いのです。凶暴な人間は、わるく言えば単純で幼稚だし、よく言えば純粋なところがあるからです。
一般の人びとにしても、褒められて悪い気持ちのする人はありません。ただし、おべっかやへつらいは別です。ほんとうにその人を理解して褒めれば、理解されることは人間にとって無条件の喜びですから、心がホドけてくること必定です。
道元禅師が「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」と喝破されたとおりなのです。
題字と絵 難波淳郎