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経典のことば(36)
立正佼成会会長 庭野日敬

愚人に交わるは 臭き物に近づくが如し 次第に迷いて非を習い 自ら覚えずして悪をなす
賢者に近づくは 薫香に染むが如し 自然に智を進め善を習い 清浄の行をなす
(法句譬喩品第一)

紙の香りと縄のにおい

 大雨が降ったあとの道を、お釈迦さまのあとについて、最近教化されたばかりのバラモンたちが歩いていました。
 お釈迦さまがつと立ち止まられて、路上に落ちている紙を拾うように命ぜられました。そして、
 「その紙は何だと思うか」
 と尋ねられました。バラモンは、
 「いい香りが残っておりますから、多分香を包んだものだったのでございましょう」
 とお答えしました。
 しばらく行くと、縄切れが落ちていました。お釈迦さまはそれも拾わせてお尋ねになりました。
 「何の縄だと思うか」
 バラモンは縄をかいでみて、
 「魚をゆわえたものでございましょう。なま臭いにおいがいたします」
 と答えました。そこでお釈迦さまは、
 「すべての物は本来、清らかなものだが、因縁によってあるいは罪を作り、あるいは福を得るようになるのだ」とお説きになり、重ねて標記の偈をお示しになったのです。

情報化時代に生きる教え

 偈の意味は説明するまでもありますまい。また――こんなことは昔から言い古されたことで、何をいまさら――という思いをされるかもしれません。
 だが、ちょっと待ってください。情報化社会といわれる今日こそ、このお言葉が千鈞(きん)の重みを持って迫ってくるとはお考えになりませんか。
 交わる相手は、何も人間だけとはかぎりません。現代においては人間よりもむしろ、テレビと交わり、ラジオと交わり、新聞と交わり、雑誌と交わる分量が多いのです。
 そういったものが提供する情報の中で、純粋な「報道」は、それがいかに痛ましい、残虐な、腹立たしい、汚濁に満ちたものであろうとも、現実の社会に生きる者として耳を覆うわけにはまいりません。
 しかし、純粋なニュース以外の情報に対しては、よほどしっかりした態度をもって選択し、対応しなければ、この偈に示された「臭き物」に近づいてそのにおいに汚染される恐れが十分にあるのです。
 とりわけ拾うのをやめるべき縄切れは、有名人のプライバシーを興味本位に覗き見る番組や週刊誌等の記事だと思います。それは、あるときは人間の心の隅に潜んでいる「人の不幸を喜ぶ気持ち」をかき立て、あるときは「ひとの幸福を羨む嫉妬心」を呼び起こし、ろくなことはありません。
 自分では井戸端会議をしているような軽い気持ちで見ているつもりでしょうが、この偈にあるように「次第に迷いて非を習う」ものです。いつしか人間としての品性が下落していくものです。
 やはり読書は、しっかりしたシンのある、重みのある本を読みたいものです。現代人は、ともすれば軽く読み捨てられるものに手を出しがちですが、その傾向が大きく集積すれば、軽薄で、刹那的で、無責任な思想の流れを生み出すことは必至です。そうした病弊はすでに顕著に表れつつあります。
 ものを見通す力を持つ人が見ると、真理の書からは尊い光が射し出ているそうです。そのような書物をゆっくりと読み、そのような後光の中で暮らしてこそ、ほんとうの文化人と言えるでしょう。
題字と絵 難波淳郎

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