人間釈尊(7)
立正佼成会会長 庭野日敬
弟子として衆の模範となった妃
太子の結婚について
いわゆる仏伝は別として、古い経典のどれを見ても、シッダールタ太子の結婚についてはほとんど触れられていません。ということは、太子の出家や成道に対して深刻な影響をおよぼすことのない、人間としてごく普通の出来事であり、妃もそのような人柄の女性だったからでありましょう。
中村元博士は『ゴータマ・ブッダ』の中で、妃の名前がさまざまに伝えられていることに関してこう述べておられます。
「ヤショーダラーというのは、インドでしばしば聞く名である。その名がはっきり伝えられていないところから見ると、おそらく妃は典型的な淑(しと)やかなインド貴婦人で夫に対して従順であったために、表面に表われるほどゴータマの一生に衝撃的な影響は与えなかったのであろう。例えば妃が悪性の婦人であったとか、婬乱の人であって、それがゴータマの出家の原因となったのであるならば、早くから聖典の中に個人名がはっきり伝えられていたに違いない。ちょうどデーヴァダッタ(提婆達多)のように」と。
たしかにヤショーダラー妃は、そのような婦人であったようです。そのことは、太子が出家された後の生活ぶりからも察することができます。ひそかに出城されたその夜、帰ってきた馬手チャンダカの報告を聞いた直後はさすがに嘆き悲しんで、
「わが君よ。わたしが妻として正しく務めを果たしているのに、なぜわたしを置いて行ってしまわれたのですか。夫婦一緒に出家苦行したという王の例もあるではありませんか。また、布施と説法の催しを夫婦揃って行えば、未来の世に善い果報が得られるというではありませんか。それなのに、なぜお独りで……」
と恨みつらみを述べましたが、すぐ思い直して、
「きょうからわたしは正式の寝床には寝ません。香水を入れた湯には入浴しません。身を飾ったりお化粧をしたり、模様のある着物を着ることもしません。おいしい料理も、飲み物も口にしません。宮殿の中に住んでいても、山林の中にいるつもりで苦行の生活をいたします」
という誓いを立てました。そして、ずっとその誓いのとおりの生活をしていたといいます。
また、のちに出家して、かつての夫である釈尊の弟子になってからも、自分には厳しく仲間の尼僧たちにはやさしく、あらゆる点で衆の模範となったことでも、その人柄が察しられます。
妃の二人の弟が歩んだ道
ついでながら、多くの仏伝は、ヤショーダラー姫を得るためにシッダールタ太子が難陀や提婆達多などと技くらべをしたことを伝えていますが、これはありうることではありません。なぜならば……。
難陀はシッダールタ太子の異母弟で、太子が成道の数年後に故郷に帰られたとき新婚二日目だったといいますから、その年齢差は十五歳ぐらいはあり、太子の成婚当時はまだ幼児だったわけです。
また、ヤショーダラー姫は釈迦一族のスプラダッタ王の娘であり、提婆達多も、阿難もその実弟です。弟が姉に求婚などするはずはありません。
それにしても、この兄弟の兄のほうは釈尊のお命まで奪おうとした反逆者となり、弟は常随の侍者として終生心からお仕えしたことを思えば、運命はいろいろないたずらをするものだと言わざるをえません。いや、運命のいたずらではなく、やはりその人の持つ心ざまの違いなのでありましょう。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎
立正佼成会会長 庭野日敬
弟子として衆の模範となった妃
太子の結婚について
いわゆる仏伝は別として、古い経典のどれを見ても、シッダールタ太子の結婚についてはほとんど触れられていません。ということは、太子の出家や成道に対して深刻な影響をおよぼすことのない、人間としてごく普通の出来事であり、妃もそのような人柄の女性だったからでありましょう。
中村元博士は『ゴータマ・ブッダ』の中で、妃の名前がさまざまに伝えられていることに関してこう述べておられます。
「ヤショーダラーというのは、インドでしばしば聞く名である。その名がはっきり伝えられていないところから見ると、おそらく妃は典型的な淑(しと)やかなインド貴婦人で夫に対して従順であったために、表面に表われるほどゴータマの一生に衝撃的な影響は与えなかったのであろう。例えば妃が悪性の婦人であったとか、婬乱の人であって、それがゴータマの出家の原因となったのであるならば、早くから聖典の中に個人名がはっきり伝えられていたに違いない。ちょうどデーヴァダッタ(提婆達多)のように」と。
たしかにヤショーダラー妃は、そのような婦人であったようです。そのことは、太子が出家された後の生活ぶりからも察することができます。ひそかに出城されたその夜、帰ってきた馬手チャンダカの報告を聞いた直後はさすがに嘆き悲しんで、
「わが君よ。わたしが妻として正しく務めを果たしているのに、なぜわたしを置いて行ってしまわれたのですか。夫婦一緒に出家苦行したという王の例もあるではありませんか。また、布施と説法の催しを夫婦揃って行えば、未来の世に善い果報が得られるというではありませんか。それなのに、なぜお独りで……」
と恨みつらみを述べましたが、すぐ思い直して、
「きょうからわたしは正式の寝床には寝ません。香水を入れた湯には入浴しません。身を飾ったりお化粧をしたり、模様のある着物を着ることもしません。おいしい料理も、飲み物も口にしません。宮殿の中に住んでいても、山林の中にいるつもりで苦行の生活をいたします」
という誓いを立てました。そして、ずっとその誓いのとおりの生活をしていたといいます。
また、のちに出家して、かつての夫である釈尊の弟子になってからも、自分には厳しく仲間の尼僧たちにはやさしく、あらゆる点で衆の模範となったことでも、その人柄が察しられます。
妃の二人の弟が歩んだ道
ついでながら、多くの仏伝は、ヤショーダラー姫を得るためにシッダールタ太子が難陀や提婆達多などと技くらべをしたことを伝えていますが、これはありうることではありません。なぜならば……。
難陀はシッダールタ太子の異母弟で、太子が成道の数年後に故郷に帰られたとき新婚二日目だったといいますから、その年齢差は十五歳ぐらいはあり、太子の成婚当時はまだ幼児だったわけです。
また、ヤショーダラー姫は釈迦一族のスプラダッタ王の娘であり、提婆達多も、阿難もその実弟です。弟が姉に求婚などするはずはありません。
それにしても、この兄弟の兄のほうは釈尊のお命まで奪おうとした反逆者となり、弟は常随の侍者として終生心からお仕えしたことを思えば、運命はいろいろないたずらをするものだと言わざるをえません。いや、運命のいたずらではなく、やはりその人の持つ心ざまの違いなのでありましょう。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎