人間釈尊(9)
立正佼成会会長 庭野日敬
新しい精神世界への希望
インドにおける出家の事情
人間が熟慮に熟慮を重ねた一大事を決行するには、内的にせよ外的にせよ、あるふんぎりが必要です。シッダールタ太子が、かねてから思い定めていた出家を決行するにも、それがあったようです。それは一子ラーフラ(羅睺羅)の誕生です。
そのころのインドでは――富裕な上流階級に限ってのことですが――一生を四つの時期に分けて過ごす風習がありました。
第一は学生(がくしょう)期で、少年時代には師の家に住み込み、学問(主として宗教聖典)を学びました。それがすむと家に帰って結婚し、ふつうの家庭生活を営みます。これを家住期といいます。そして、男の子に恵まれ、その子が成長すれば、父は財産をその子に譲り、森に入って質素な宗教生活に入ります。その際、妻は子に扶養を託してもいいし、一緒に森の生活をしてもいいことになっていました。これを林住期といいます。最後の第四期は遊行(ゆぎょう)期といって、髪やひげを剃り、鉢と杖と水瓶だけを所有物とし、すべての執着を捨てて乞食(こつじき)の生活をするのです。
もちろん、すべての上流階級人がこのとおりしたわけではありませんが、それが理想的な一生のパターンとされていたわけです。
現代のわれわれから見れば、最後の遊行期などはとうてい考えられもしないもののようですけれども、よくよく吟味してみますと、「人生の後半期には特に精神生活を重んじよう」という点において、大いにうなずけるものがあります。
ともあれ、釈尊をはじめ宗教的偉人がインドに輩出したのは、こうした土壌が背景にあったことは知っておいていいことでしょう。
若者らしい気迫の出家
さて、多くの仏伝は、一子羅睺羅が誕生したその日に太子が出城されたと伝えています。前述の古代インドの風習から考えて、跡取りが生まれたことが太子の出家決行のふんぎりになったものとして納得がいきます。
中国の儒者や日本の国学者たちは、太子が家族を捨てて出家したことを非難し、仏教排斥のひとつの理由としました。しかし、それは不当な非難であって、太子はそのような無責任な方ではなかったのです。当時のインドの風習に従って、家住期をとどこおりなく終えたうえで、心おきなく出家されたものと思われます。
心おきなく……とはいっても、人間である以上、家族への微妙な愛情は断ち切りがたいものがあったでしょう。そのことは、次のようなことからも察することができます。
渡辺照宏博士によれば、太子はいよいよ出家の決心を決めると父王の居間に行き、ハッキリとその意志を伝えました。父王はそれを聞いて「何でも望みをかなえてやるからとどまってくれ」と頼みましたが、どうしてもその固い意志をひるがえさせることはできなかったのでした。
義母のマハープラジャーパティと妻のヤショダラー妃に対しては、出家の意志など絶対に漏らしませんでした。父には打ち明け、母と妻には秘し隠しにしていた……その理由は容易に察することができます。男性の愛情と女性の愛情の差異をよく心得ておられたのでしょう。
しかし夜半、愛馬カンタカにまたがって城を出る太子の心中には、家族に対する感傷などほとんどなかったものと思われます。新しい精神世界へ挑戦する烈々たる気迫と大いなる希望に胸はいっぱいに膨らんでいたことと推察されます。
それこそが青年の青年たるゆえんであり、大いなるものを打ち立てる人の首途(かどで)にふさわしい姿であるからです。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎
立正佼成会会長 庭野日敬
新しい精神世界への希望
インドにおける出家の事情
人間が熟慮に熟慮を重ねた一大事を決行するには、内的にせよ外的にせよ、あるふんぎりが必要です。シッダールタ太子が、かねてから思い定めていた出家を決行するにも、それがあったようです。それは一子ラーフラ(羅睺羅)の誕生です。
そのころのインドでは――富裕な上流階級に限ってのことですが――一生を四つの時期に分けて過ごす風習がありました。
第一は学生(がくしょう)期で、少年時代には師の家に住み込み、学問(主として宗教聖典)を学びました。それがすむと家に帰って結婚し、ふつうの家庭生活を営みます。これを家住期といいます。そして、男の子に恵まれ、その子が成長すれば、父は財産をその子に譲り、森に入って質素な宗教生活に入ります。その際、妻は子に扶養を託してもいいし、一緒に森の生活をしてもいいことになっていました。これを林住期といいます。最後の第四期は遊行(ゆぎょう)期といって、髪やひげを剃り、鉢と杖と水瓶だけを所有物とし、すべての執着を捨てて乞食(こつじき)の生活をするのです。
もちろん、すべての上流階級人がこのとおりしたわけではありませんが、それが理想的な一生のパターンとされていたわけです。
現代のわれわれから見れば、最後の遊行期などはとうてい考えられもしないもののようですけれども、よくよく吟味してみますと、「人生の後半期には特に精神生活を重んじよう」という点において、大いにうなずけるものがあります。
ともあれ、釈尊をはじめ宗教的偉人がインドに輩出したのは、こうした土壌が背景にあったことは知っておいていいことでしょう。
若者らしい気迫の出家
さて、多くの仏伝は、一子羅睺羅が誕生したその日に太子が出城されたと伝えています。前述の古代インドの風習から考えて、跡取りが生まれたことが太子の出家決行のふんぎりになったものとして納得がいきます。
中国の儒者や日本の国学者たちは、太子が家族を捨てて出家したことを非難し、仏教排斥のひとつの理由としました。しかし、それは不当な非難であって、太子はそのような無責任な方ではなかったのです。当時のインドの風習に従って、家住期をとどこおりなく終えたうえで、心おきなく出家されたものと思われます。
心おきなく……とはいっても、人間である以上、家族への微妙な愛情は断ち切りがたいものがあったでしょう。そのことは、次のようなことからも察することができます。
渡辺照宏博士によれば、太子はいよいよ出家の決心を決めると父王の居間に行き、ハッキリとその意志を伝えました。父王はそれを聞いて「何でも望みをかなえてやるからとどまってくれ」と頼みましたが、どうしてもその固い意志をひるがえさせることはできなかったのでした。
義母のマハープラジャーパティと妻のヤショダラー妃に対しては、出家の意志など絶対に漏らしませんでした。父には打ち明け、母と妻には秘し隠しにしていた……その理由は容易に察することができます。男性の愛情と女性の愛情の差異をよく心得ておられたのでしょう。
しかし夜半、愛馬カンタカにまたがって城を出る太子の心中には、家族に対する感傷などほとんどなかったものと思われます。新しい精神世界へ挑戦する烈々たる気迫と大いなる希望に胸はいっぱいに膨らんでいたことと推察されます。
それこそが青年の青年たるゆえんであり、大いなるものを打ち立てる人の首途(かどで)にふさわしい姿であるからです。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎