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経典のことば(30)
立正佼成会会長 庭野日敬

忍辱はこれ菩薩の浄土なり。
(維摩経・仏国品)

たんなる忍耐ではない

 忍辱というのは、現代語に訳せば「忍耐」となりましょうが、それでは、不幸な境遇や生活の苦難などをジッと辛抱することのように単純に解釈されがちです。もちろんそれも忍辱の一部ではありますが、しかしこの徳目の中心となるのは、じつは人間関係のうえの苦痛を耐え忍ぶことなのです。
 それも、たんにこらえるということではありません。歯をくいしばって己を抑えることではありません。他から与えられる苦悩や侮辱などに心をかき立てられることなく、よく平静を保つことをいうのです。
 中村元先生監修の『新・佛教辞典』には、「瑜伽師地論(ゆがしじろん)によると、忍辱には三つの特相があって、①忿怒(ふんぬ)しないこと。②怨みを結ばないこと。③心に悪意を懐(いだ)かないことと説く」とあります。
 忿怒しないというのは、カッとならないことです。怨みを結ばないというのは「いつかは仕返ししてやる」などという思いを胸中に残さないことです。悪意を懐かないというのは「お前だって欠点だらけじゃないか。そのうち思い知るぞ」といったような考えを起こさないことです。つまりは寛容ということです。許すということです。

自己を反省、相手を理解

 豊臣秀吉が小田原城を攻めた時のことです。城の守りが固く、なかなか落ちません。秀吉は少しも焦らず、京都から芸人を呼んで能狂言などを催していました。
 ある日のこと、本陣近くで将兵たちが能狂言を見物していますと、宇喜多秀家の部下の花房職之(もとゆき)という武士が馬に乗って通りかかり、「大事な戦いの最中に何たることだ」と大声に言い放って行きました。それを伝え聞いた秀吉は激怒して秀家を呼び、「花房をすぐ縛り首にせよ」と命じました。
 秀家は「家来の中でもすぐれた豪の者である花房を……」と、足取りも重く自分の陣屋の方へ歩いていますと、秀吉の使いが馬で追いかけてきて「殿のお召しでござる」とのこと。御前に出ると秀吉は「いま怒りに任せて縛り首を命じたが、名誉を重んずる武士である。切腹にしてつかわす」と命じます。秀家は心ならずもお礼を言上して引き返しますと、途中でまた使いの者が追ってきて「殿のお召しでござる」と言います。
 不思議に思って再び伺候すると、秀吉はニコニコしながら「先刻の切腹は取り消しにする。花房とやらは余の威光を恐れもせず堂々と苦言を呈するとは見上げた者だ。加俸してつかわせ」と、打って変わった命令です。秀家は感涙にむせんで引き下がったのでした。
 秀吉ほどの地位にあれば、いったん命じたことは簡単に取り消せないものです。それを自らの反省によって早々に取り消したばかりか、かえって増俸を命ずるとは、やはり天下を統一したほどの人物であると思います。しかも、反省したら、もったいぶったりせずにすぐ使いを出したところなど、いかにも淡泊で、じつに好感が持てます。われわれ庶民にも真似のできるような、ちょっといい話ではありませんか。
 つまるところ、忍辱とは、自らを反省し、相手を理解することによって心を平静に保つことです。こうした反省と理解が自他の間に交わされるようになったら、この世はずいぶんと平和な、明るいものに変わることでしょう。まことに「忍辱はこれ菩薩の浄土なり」なのです。
題字と絵 難波淳郎

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