経典のことば(31)
立正佼成会会長 庭野日敬
持戒はこれ菩薩の浄土なり。
(維摩経・仏国品)
戒とは良い生活習慣
人間の究極の望みは何であるかといえば、完全な自由ということでしょう。現在の人間は、飛行機によって空を飛び回れるようにもなり、電波によって何万キロ離れた所のありさまを瞬時に知ることもできるようになりました。しかし、果たして人間は完全な自由を得ることができたでしょうか。あらゆる不幸から解放されることができたでしょうか。答えは、もちろんノーでしょう。
なぜノーであるかといえば、文明が進めば進むほど、人間は物に執らわれ、物に束縛されるようになったからです。こうした状態が続く限り、未来永劫いつまでも真の自由を得ることなく、ますます不幸な境界に陥っていくことでしょう。
では、真の自由とはどこにあるのでしょうか。真の幸福とはどこにあるのでしょうか。その疑問への回答が標記のことばなのです。戒律を守るところこそ、その成就があるというのです。これは逆説でも何でもありません。真の自由とは「心の自由」にほかならず、心の自由は真理に即した戒律を守るところにこそあるからです。
「戒」の原語である梵語のシーラは「良い生活習慣」という意味だそうです。例えば、朝起きたら歯を磨き、顔を洗う。これは良い生活習慣です。それをやらないと一日中気分が悪い。それをやると気持ちがサッパリします。
また、たとえ家族同士でも、朝、初めて顔を合わせたら「おはようございます」「おはよう」とあいさつを交わします。良い生活習慣です。それをやらない者がいると、何か怒っているのではないかなどと気懸かりになります。気懸かりということは、心が自由自在でないということです。お互いが機嫌よく「おはよう」を言い合えば、心がスガスガしくなります。
「戒」というものの本来は、こういうことなのです。
「律」は社会秩序の道
おもしろいことに、人間は表面の心では自由自在を欲しているようですが、一方では自ら制約を作り、その中で生きようという性向をも持っているのです。例えば、お茶などは勝手放題に飲んだらよさそうなものですけれども、いつの間にか茶道という難しい制約を作り出し、その中でお茶を喫することに楽しみを覚えるようになりました。
また、ボールを投げたり、打ったり、蹴ったりも、自由自在にやって遊べばよさそうなものですが、それでは本当の楽しさがないので、いろいろと様式を作り、ルールを決め、その厳しいルールに制約されながら精いっぱいに技を競うところに遊びの醍醐味があることを発見しました。
社会全体においても、やはり一定のルールというものがなければ、安らかに楽しく暮らしてはいけません。それも、もともとは特定のだれかが作って一般人に押しつけたものではなく、いつしか自然に出来上がった普遍的な筋道なのです。魯迅(中国の有名な文学者)は、その作品『故郷』の中で、「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる」と言っています。じつに至言だと思います。戒律の「律」というものの本来はそうした道をいったのです。
そのような道を歩いておれば、心にひっかかりがなく、自由自在な気持ちでおられます。そして世の多くの人がそうした人倫の道を歩くようになったとき、この世がそのまま楽しい浄土になることは必至です。まことに「持戒はこれ菩薩の浄土なり」なのであります。
題字と絵 難波淳郎
立正佼成会会長 庭野日敬
持戒はこれ菩薩の浄土なり。
(維摩経・仏国品)
戒とは良い生活習慣
人間の究極の望みは何であるかといえば、完全な自由ということでしょう。現在の人間は、飛行機によって空を飛び回れるようにもなり、電波によって何万キロ離れた所のありさまを瞬時に知ることもできるようになりました。しかし、果たして人間は完全な自由を得ることができたでしょうか。あらゆる不幸から解放されることができたでしょうか。答えは、もちろんノーでしょう。
なぜノーであるかといえば、文明が進めば進むほど、人間は物に執らわれ、物に束縛されるようになったからです。こうした状態が続く限り、未来永劫いつまでも真の自由を得ることなく、ますます不幸な境界に陥っていくことでしょう。
では、真の自由とはどこにあるのでしょうか。真の幸福とはどこにあるのでしょうか。その疑問への回答が標記のことばなのです。戒律を守るところこそ、その成就があるというのです。これは逆説でも何でもありません。真の自由とは「心の自由」にほかならず、心の自由は真理に即した戒律を守るところにこそあるからです。
「戒」の原語である梵語のシーラは「良い生活習慣」という意味だそうです。例えば、朝起きたら歯を磨き、顔を洗う。これは良い生活習慣です。それをやらないと一日中気分が悪い。それをやると気持ちがサッパリします。
また、たとえ家族同士でも、朝、初めて顔を合わせたら「おはようございます」「おはよう」とあいさつを交わします。良い生活習慣です。それをやらない者がいると、何か怒っているのではないかなどと気懸かりになります。気懸かりということは、心が自由自在でないということです。お互いが機嫌よく「おはよう」を言い合えば、心がスガスガしくなります。
「戒」というものの本来は、こういうことなのです。
「律」は社会秩序の道
おもしろいことに、人間は表面の心では自由自在を欲しているようですが、一方では自ら制約を作り、その中で生きようという性向をも持っているのです。例えば、お茶などは勝手放題に飲んだらよさそうなものですけれども、いつの間にか茶道という難しい制約を作り出し、その中でお茶を喫することに楽しみを覚えるようになりました。
また、ボールを投げたり、打ったり、蹴ったりも、自由自在にやって遊べばよさそうなものですが、それでは本当の楽しさがないので、いろいろと様式を作り、ルールを決め、その厳しいルールに制約されながら精いっぱいに技を競うところに遊びの醍醐味があることを発見しました。
社会全体においても、やはり一定のルールというものがなければ、安らかに楽しく暮らしてはいけません。それも、もともとは特定のだれかが作って一般人に押しつけたものではなく、いつしか自然に出来上がった普遍的な筋道なのです。魯迅(中国の有名な文学者)は、その作品『故郷』の中で、「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる」と言っています。じつに至言だと思います。戒律の「律」というものの本来はそうした道をいったのです。
そのような道を歩いておれば、心にひっかかりがなく、自由自在な気持ちでおられます。そして世の多くの人がそうした人倫の道を歩くようになったとき、この世がそのまま楽しい浄土になることは必至です。まことに「持戒はこれ菩薩の浄土なり」なのであります。
題字と絵 難波淳郎