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法華三部経の要点 ◇◇5
立正佼成会会長 庭野日敬

われわれも仏さまと同じ悟りを得られる

善業の因縁より出でたり

 前回に引き続き無量義経・徳行品の要点について述べましょう。
 法身(ほっしん)の仏さまの無量のお力とお徳を賛嘆した大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)は、今度は一転して、法身の仏のこの世への現れである応身(おうじん)の仏、すなわちお釈迦さまの完全なお徳を賛嘆します。
 そして、どうしてそのようなお徳を完成されたかについて、「それは、長い間さまざまなご修行をなさった結果であり、そうして得られた慈悲のはたらきと、智慧のはたらきと、何ものにもはばかることなく法を説かれるはたらきによるものであります。さらにそのおおもとをただせば、衆生の一人として善業(ぜんごう)を積まれた因縁によるものであります」ともうしあげるのです。
 この最後の一節は、原文では「衆生善業の因縁より出でたり」とありますが、これが徳行品の最大の要点の一つです。
 お釈迦さまは完全円満な人格のお方でありますが、もともとは平凡な衆生の一人だったのです。また、ある日突然、神がかりになって仏となられたのでもありません。カピラバスト城の王子ではありましたが、とにかく普通の人間だったのです。妃もお持ちになり、お子さんもつくられたのです。
 現世においてだけではありません。前世のそのまた前世においてもやはり衆生のひとりに過ぎなかったのです。それが、何世にもわたる多くの過去世においてさまざまな修行を積まれ、無数の善行をなさったその積み重なりに加えて、現世においても、一切の世の人びとを救おうという志を立てられ、数々の修行を積まれたその結果、たぐいのない大人格を成就(じょうじゅ)されたのです。
 このことはつまり、われわれのような平凡な人間も仏道修行を積み、善い行いを重ねていけば、いつかは必ず仏さまのような悟りを得られるのだということにほかなりません。これが法華三部経全体に通ずる大思想ですが、「衆生善業の因縁より出でたり」の一句に、その大思想がさりげなく述べられているのです。ですから、この一句はしっかりと胸に刻んでおいて頂きたいと思います。

容貌も心と行いによって

 次に大荘厳菩薩はお釈迦さまのお顔やお姿の美しさを、口を極めてほめたたえます。そして、その結論として「衆生身相の相も亦(また)然(しか)なり」ともうしております。これがまた大切な一句です。
 もちろん、前の「衆生善業の因縁より出でたり」と密接につながっているのであり、われわれ衆生の顔や姿の相も、仏道修行と善い行いを積むことによってどんなにでも美しくなっていくものだ、という真実を述べているのです。
 よくテレビなどで、娘時代から病人の世話に一身を捧げてきた看護婦さんとか、一生を草花の愛育に努力してきた園芸家とかの人びとが紹介されますが、そんな人たちの相貌(そうぼう)を見ますと、目鼻立ちといった表面の形を超えた何ともいえないりっぱな顔をしておられます。内から輝き出してくる美しさです。慈愛というか、慈悲心というか、そうした高い精神性がおのずから相貌に現れているのです。
 真・善・美ということがいわれますが、これはけっして別々のものではなく、つながっているのです。「真」(宇宙の真理・天地の道理)を行いのうえに実践するのが「善」であり、真をありのままに具現したのが「美」なのです。花が美しいのは、本仏に生かされるままに咲いているから美しいのです。
 ですから、見かけの姿・形の美醜にこだわることはありません。心に「真」を思い、行いの上に「善」を行っておれば、それは必ずあなたの相貌をほんとうの「美」に変えていくことに間違いありません。


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