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法華三部経の要点 ◇◇8
立正佼成会会長 庭野日敬

無量義とは一法より生ず

性欲無量だから説法無量

 これまで「この世のすべてのものごとの変化のありさまをよく観察しなさい」と教えられてきましたが、ここで一転して、それを人々の説法のしかたに絞り「是(かく)の如(ごと)く観じ已(おわ)って、衆生の諸の根性欲に入る」とおおせられました。いよいよこの無量義経(もちろん後につづく妙法蓮華経も)の眼目である「人を救う」という本題に入るわけです。
 根というのは「機根」のことで、その人が持っている根本的な能力のこと。性というのは性質。欲というのは欲望。この三つは人それぞれによって持ち前が違います。人を救うには、まずその持ち前を見究めよというわけです。そして、こうお説きになります。
 「性欲(しょうよく)無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、義も亦(また)無量なり」
 性質と欲望は人によって千差万別です。金銭を極度に欲する人、愛欲に溺(おぼ)れる人、名誉欲にかられている人、権勢には目のない人等々、数えあげればきりがありません。
 いや、そのようにある欲求を極端に求める人もありますが、世の多くの人はそれらの欲求をおおむねいくらかずつ持ち合わせており、その持ち合わせ方の分量が人によって違うわけです。よくコーヒーなどでいろんな種類の品種を混ぜ合わせるのをブレンドするといいますが、人間の性質や欲望もそれと同じで、ごく普通の人でもさまざまな性質や欲望を自分なりにブレンドして持ち合わせているのです。
 そのブレンドのありようがじつに千差万別なのです。ですから、人に仏法を説いて救いに導くには、その人の性質や欲望のブレンドのありようをしっかりと見究めて、それに応じた教えを説かなければならない……というのが「性欲無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、義も亦無量なり」の意味なのです。
 どうかすると、どんな人に対しても型にはまった同じような説き方をする人がありますが、それでは現実に人を救えるものではありません。われわれの教団では「会員即布教者」を旗印としていますから、この「性欲無量なるが故に、説法無量なり」という一句こそは、全会員が常に頭に刻み込んでおかねばならぬ金言なのであります。

久遠本仏の大いなる慈悲

 この一句は人を導く現実的な手段を述べられたものですが、しかし、その手段の枝葉末節ばかりにとらわれていますと、つい小手先の導きに終わり、大事な根本を忘れてしまう恐れがあります。そこで、続いて、
 「無量義とは一法より生ず。其(そ)の一法とは即ち無相なり、是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを、名(なづ)けて実相とす」
 とお説きになるのです。
 それぞれの人の性質・欲望に応じてそれにふさわしい内容の法を説かなければならないのだけれども、その千差万別の説法の内容(無量義)も必ず宇宙の真理である一つの法にもとづくものでなければならない……というのです。
 そのあとにつづく「其の一法とは即ち無相なり」に始まる実相ということはたいへん難しい教えですが、宗教的にわかりやすく言いますと、「この世の一切のものは、久遠本仏の大いなる慈悲によって生かされているのだ」ということになりましょう。
 一人びとりは、現象面ではさまざまな姿・形・性質・欲望を持っているのだけれども、もとをただせば、久遠本仏の実の子という尊い存在だということです。別の言葉で言えば、みんな仏性をもっているのだということです。そのことをしっかりと胸の底におさめていてこそ、ほんとうの教化、ほんとうの救いができるというのです。


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