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法華三部経の要点 ◇◇14
立正佼成会会長 庭野日敬

だれでも人を救える

「度」とは目覚めさせること

 無量義経の十功徳品に説かれている第三の功徳に「未だ自ら度すること能(あた)わざれども、已(すで)に能く彼を度せん」とあり、第四の功徳にもまた「未だ自ら度せずと雖(いえど)も而(しか)も能く他を度せん」とあります。こうして二度も繰り返して説かれるほど、このことは無量義経最大の要点の一つであると言えましょう。
 「度」というのは氵(さんずい)のある「渡」と同じくワタスと読み、他の人を迷いのこちら岸(此岸)から悟りのあちら岸(彼岸)へ渡してあげることです。といえば何か現実離れしたことのように聞こえますが、つまりは人を真理に目覚めさせてあげるということなのです。
 そこで、冒頭の句は、自分はまだ真理に目覚めてはいなくても、人を目覚めさせることができるというのです。わたしどもの会では「信仰者即布教者」を信条としていますが、入会したての人で自分自身にある救いを自覚した人が、たとえまだ仏教の教義などはよくわからなくても「有り難い教えですよ。いっしょに信仰しましょう」といったごく素朴な言葉で人にすすめ、何十人という人を正法への目覚めに導いた例は数えきれぬほどあります。
 まことに「自ら度すること能わざれども已に能く彼を度せん」なのです。

他を度せば自分をも度す

 では、そうして「他を度した」本人はどうなるのか。他を度しているうちに、その努力と体験を通じてひとりでに自分も法に目覚めていくもので、そのような実例もわが会には無数にあります。古人がいみじくも言ったように「教えるは教えらるるものなり」であります。『心のプリズム』(朝日新聞科学部編)という本にこんな実話が載っていました。
 意志が弱く、酒代のために三人の子供のふだん着まで質に入れ、二十年間に五十回も職を変えたというアル中の人が、ある断酒会に入ってついに酒をやめることができたという話です。
 その人は、まず試しに三日ほど酒をやめてみたところ、断酒会の仲間から「大したものだ」とほめられ、ほめられると悪い気がせず、飲みたくてたまらないのを我慢していた。
そのうち、新しく会に入ってきた仲間のことを夢中で心配するようになり、なぜ酒をやめねばならないかをけんめいに話をするようになった。自分自身はまだ飲みたい気持ちは残っていたにもかかわらず、後輩たちを説得することがそのまま自分を説得することになり、とうとうまったく飲まずにいられるようになってしまった……という話です。これなどは、他を度することによって自らをも度してしまった典型的な例でありましょう。
 ただここで見忘れてならないのは、その人が救われたのは、まず断酒会という正定聚(しょうじょうじゅ=正しいことを信条として結束した仲間)に入ったからだということです。その正定聚に入らなければ先輩にほめられてヤル気を起こすこともなく、後輩たちを説得するうちにいつしか酒から離れることもなかったのです。だからこそ、われわれの会でも、サンガへのお導きを何より大切な行としているのです。
 冒頭にかかげた句は、結局のところ「まず人を救え」ということにほかなりません。大自然の姿を眺めてみても、花はまず蝶(ちょう)や蜂(はち)に蜜(みつ)を与えることによって雄しべの花粉を雌しべにつけてもらいます。熟した柿(かき)の実は、まず小鳥に果肉を食べさせることによって種子を方々に撒(ま)き散らしてもらい、子孫を増やしています。「まず与える」ことによって自分も利益を得ているのです。これが天地自然の理であると知るべきでしょう。


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