法華三部経の要点 ◇◇15
立正佼成会会長 庭野日敬
法華経はあらゆる生あるものへの教え
永遠不滅の教え
それでは妙法蓮華経に入りましょう。
まず第一章の序品ですが、この章はいかにも不可思議な光景や遠い過去世の追憶などに終始しています。それはもちろんたんなる神秘的な物語ではなく、法華経が空間的にも時間的にも無限永遠の教えであることを象徴しているのです。
空間的に無限のひろがりを持つ教えであることは、その説法の座に集まっている聴衆の顔ぶれを見れば歴然としています。実在の人物は男子・女子の修行者たちとマガダ国のアジャセ王とその家臣たちだけで、あとは文殊菩薩・観世音菩薩をはじめとする法身(ほっしん=現実に身体をもつ存在ではなく、真理や救済力の当体としての身)の菩薩、釈提桓因(しゃくだいかんにん=帝釈天)をはじめとするバラモン教の神々、八種の竜王たち、乾闥婆王(けんだつばおう)・阿修羅王・迦楼羅王(かるらおう)といった鬼神たちなどです。
ということはつまり、法華経が宇宙のありとあらゆる生あるものに正しい生き方を教える経典であることを象徴しているのです。
つぎに、時間的な永遠性ということは、後段に述べられている、過去に二万もの日月燈明仏(にちがつとうみょうぶつ)がおられたというくだりによく現れています。
最後の日月燈明仏が、まだ出家されない前の八人の王子が仏道に入って仏となられ、そのうち最後に成仏された方を燃燈仏と申し上げた……と述べられていますが、一般には、燃燈仏とは過去世に出られた仏の中でいちばん古い仏とされているのです。
ところが、この法華経においては、その燃燈仏の前に二万もの日月燈明仏が出られて次々に教えをリレーしてこられたと説くのです。ということはつまり、「法華経の教えは、無限の過去から永遠の未来まで永遠不滅の真理である」ということの象徴にほかなりません。
宗教協力の源流がここに
仏教の根本思想は、宇宙のあらゆる存在はいわゆる「神」によって造られたものではなく、ある因(原因)とある縁(条件)とが合致して生まれたものであるとしています。したがってお釈迦さまは、天上にあってこの世を支配する神々の存在を認めてはおられませんでした。
しかし、お釈迦さまは、古来のバラモン教の信仰を頭から排斥しようとはなさらなかったのです。法華経説法の座に、天上界の主である帝釈天や、月・星・日の神々であるという名月天子・普香天子・宝光天子や、その家臣であるという四天王などがつらなっているのは、そういった神々をも仏法の中に包容し、仏法によってそれらに新しい存在価値を与えようとされたわけです。
これもお釈迦さまの大智慧と大慈悲の現れだということができましょう。何事にしても、頭から否定し、捨て去ってしまっては、それでおしまいです。そうではなく、否定しなければならないものごとも、その否定を乗り越えて新しい存在価値を発見するならば、そのものの生命を新しく創造したことになります。つまり、生かせないものごとはなにもないのです。
このようにして、これらのバラモン教の神々は「仏法護持」の神々、言い換えれば「真理を護る徳と力の象徴」となったわけです。八百万(やおよろず)の神々の存在を信じていた日本人は、そうした思想をスムーズに受け入れ、帝釈天や毘沙門天などをお寺に祀り、崇敬しています。
ともあれ、いま世界の心ある人々に受け入れられて一大潮流となっている「宗教協力」の胎動が日本から始まったのは、その源流が法華経のこの序品にあり、それを日本人が素直に受け入れたからであると思うのですが、どうでしょうか。