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経典のことば45

一にはその意を制す。二にはもろもろの悪事の心中に入るを許さず。三には心中に悪事あらば即ち之を出して諸善を求む。四には心中に善あらば制持して放たざるなり。 (那先比丘経 巻上)

1 ...経典のことば(45) 立正佼成会会長 庭野日敬 一にはその意を制す。二にはもろもろの悪事の心中に入るを許さず。三には心中に悪事あらば即ち之を出して諸善を求む。四には心中に善あらば制持して放たざるなり。 (那先比丘経 巻上) 自己制御の忘失で破滅へ  お釈迦さまは自己制御ということを繰り返し繰り返し説かれました。法句経一〇三にも「千度戦場に出て千度敵に勝つよりも、ひとり己れに勝つものが最上の勇者である」と説かれ、スッタニパータ二一六にも「自己を制して悪をなさず、若きにおいても中年においても、聖者は自己を制す」とおっしゃっておられます。  最近の世相をつくづく眺めてみますと、この自己制御ということがまったく忘れられ、その害が地球上の至るところに噴き出していることに大きな危惧と恐怖を覚えざるをえません。いちばん恐ろしいのは「人を傷つけ殺すこと」に対する抑制が急速に失われつつあることです。  世界各地に頻発する爆弾テロ、それも不特定多数の市民を殺傷してはばからないのですから、背筋が寒くなります。  大人の世界がそうなら、子供たちも自己制御の教えやしつけを家庭や学校が怠っているせいでしょうか、最近いじめ行為が非常に悪質化し、また、公園に寝ていた気の毒な老人を殴り殺すという前代未聞の不祥事まで起こしています。  こういった傾向がしだいに一般化し、エスカレートしていくとすれば、人類は今後どんな道をたどるのであろうかと、胸が痛くなる思いがします。 心を操作する四つの道  こうした不幸な結果を防ぎ止める道は、やはりわれわれ個人個人が日常の生き方において、欲望をほどほどに制御することから始めるほかはないと思われます。ひとりひとりのそうした心がけが、積もり積もって社会的なひろがりを持つようになるからです。  那先比丘(第13回参照)がミリンダ王の問いに答えたこの四個条はお釈迦さまの自己制御の教えを敷衍(ふえん)したものでしょうが、まことに要を尽くしていると思われます。  「一にはその意を制す」。どこまでも突っ走ろうとするわがまま心を、自らほどほどに抑制しなさい――ということです。  「二にはもろもろの悪事の心中に入るを許さず」。とりわけ情報過多時代の今日、よくよく心しなければならない大事です。  新聞・週刊誌・テレビなどを通じて、さまざまな悪が毎日いやおうなしに耳目に入ってきます。人間の心はとかく外部の動きに引きずられやすいもので、いわゆる「流行」がそうした心理によって生まれることはご承知のとおりです。  とくに自己を確立していない人ほど外部の情報や流行に無抵抗で、近頃のいじめ行為の続発も、一つには情報が作った一種の流行心理によるものとも見られているのです。  仏教にはさまざまな意義と目的がありますけれども、その最も基本的な眼目は、「真理にもとづいてしっかりした自己を確立する」というところにあることを、このへんでもう一度見直してみたいものです。  「三には心中に悪事あらば即ち之を出して……」。これはとりもなおさず「懺悔」ということです。懺悔よりほかに心中の悪を追い出す方法はありません。  「四には心中に善あらば制持して放たざるなり」。梵語ではこれをダーラニー(陀羅尼)といい、漢訳して「能持」といいます。積極的に人間性を向上させる大道です。  自己制御をこのように分析・解明したのは那先比丘の大きな功績です。とくに二十世紀末のわれわれは、今日的な喫緊(きっきん)事としてこの四個条をよくよく噛みしめてみるべきでありましょう。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば46

善い努力は事の起こる前になすことである。後からなしてもその人を益することがない。 (那先比丘経 巻中)

1 ...経典のことば(46) 立正佼成会会長 庭野日敬 善い努力は事の起こる前になすことである。後からなしてもその人を益することがない。 (那先比丘経 巻中) 渇いてから井戸を掘っても  ミリンダ王が那先比丘に尋ねました。  「善い行いは、それを必要とする事が起こる前になすべきであろうか。事が起こってからなすべきであろうか」  それに対して那先比丘は問い返しました。  「王よ。ノドが渇いたからといって、それから井戸を掘り始めても、渇きを癒すことができますか」  「それでは間に合わぬ。前もって井戸を掘っておかねばならない」  「そうでしょう。もう一つ聞きますが、王はお腹がすいたとき、それから人民たちに土地を耕させ、穀物の種を播かせ、それが実ってから食べますか」  「もちろん、つねに時期々々に種を播き、収穫しておかねばならない」  「そうでしょう。ですから、善い行いは事の起こる前にしなければなりません。事が起こった後からしたのでは、その人を益することはないのです」  このやりとりから判断しますと、この善い行いというのは、善い努力、正しい努力という意味でしょう。困っている人を助けるというような善行なら、事が起こってからなすのが普通ですから。 事前の努力は地味だが  野球の名野手は、味方のピッチャーの投げる球と、相手のバッターの打球のクセをあらかじめ察知して守備位置を変えます。ですから、平凡なプレーヤーならヒットにしてしまう打球をも難なく処理します。  ラグビーのフォワードの名選手は、どんな混戦の中でも必ずボールの近くにいるそうです。つねに忠実にボールを追っているからです。ですから、チャンスがあれば鮮やかなトライに結びつけますし、また攻められてもボールを持った相手を確実にタックルします。  これらは一見地味なようですけれども、こうしたプレーこそが味方を勝利に導くのです。  人生行路もやはり同じだと思います。異変が起こってからあわてふためいたのでは、収拾は困難です。いつもから忠実にコツコツと努力を積み重ねておれば、自然にゆくての動向が見えてきますから、異変に対してもあらかじめそれを察知して身を処することができます。  また、すばらしいチャンスが訪れた場合にも、それをガッチリつかんでものにすることができます。平常の絶えざる努力が、目に見えぬ準備態勢をととのえているからです。  反対に、絶好のチャンスがやってきても、それをつかみ、その流れに乗るほどの力が蓄積されていなければ、せっかくの好機をみすみす逃がしてしまわなければなりません。  国家の運命についても、同じことが言えましょう。何よりも基礎固めが必要なのです。しっかりした基礎固めのできていない国家は、一時は好運に恵まれて繁栄しても、いつしか砂の城のように崩れ去ってしまうことは、歴史が証明しています。  では、国家の基礎固めは何かといえば、教育を第一に挙げるべきでしょう。次代を担う青少年を、正しい、心の豊かな、創造力に富んだ、そして真理に忠実な人間に育てていくことです。  これをおろそかにしたら、経済大国日本のゆくても安心してはおられません。異変はいつ起こるかわからないのです。  まことに那先比丘が言ったように「善い努力は事が起こる前になすことである」のです。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば47

行道者は食を貪らず (修行道地経 巻三)

1 ...経典のことば(47) 立正佼成会会長 庭野日敬 行道者は食を貪らず (修行道地経 巻三) 賢い鳥の話  お釈迦さまが舎衛国の祇園精舎で多くの人びとを集めて説法されていた時のことです。  ある国の王は鳥の肉が好きでした。それで家来たちに狩猟をさせて、いろいろな鳥を捕らえさせました。  捕らえた鳥はまず羽を切り、カゴの中に入れ、おいしいエサをたくさん与えて肥らせました。そして、いちばんよく肥った鳥から順々に調理の係へ回し、王の食膳に供していました。  鳥たちの中に頭のすぐれたものがいて、こう考えたのです。  ――肥った鳥は先に殺される。自分も、エサがおいしいからといってむやみに食べておれば肥ってしまい、そして殺されてしまう。かといって、食べずにおれば餓死してしまう。では、どうすればいいのか。食を節して、肥り過ぎもせず、痩せもせず、中道を守っていくならば、身体の元気さは変わりはないし、身が引き締まってきて立居振舞(たちいふるまい)が軽快になってくるはずだ。そのうちに切られてしまった羽もだんだん伸びて、飛べるようになるだろう――  こう考え、そのとおりを実行し、何カ月の後に係の者の隙を見て空中へ飛び出し、自由自在の身になりました。 軍事的に肥ってはならぬ  これはもちろん譬え話です。修行者の「食」の心得を説かれた教えです。このあとの本文に「適度に食事を取れば淫(いん)・怒(ぬ)・痴(ち)が薄くなる」と説かれています。  現代のわれわれにとっては、このような譬え話を個人の問題としてばかりでなく、社会的に、国家的に、さらに全人類的におし広げて考えるべきだと思うのです。  すぐに連想されるのは軍備の問題です。大正から昭和にかけて、日本は軍事大国への道を歩みつづけました。そして肥った鳥になりました。そうすると必然的に淫・怒・痴が盛んに生じ、中国を侵略し、満州国を起こし、ますます肥ろうとしました。  そうなると、世界は黙視しません。ABCD(Aはアメリカ、Bは英連邦、Cは中国、Dは蘭領印度=いまのインドネシア等)包囲陣という経済的制裁の鳥カゴが周りにつくられ、日本は主として石油について身動きならなくなりました。そこで苦しまぎれに起こしたのが太平洋戦争です。  その結果はどうなったか。日本は餓死寸前の状態になりました。しかし、弱りきったために鳥カゴの戸口が開かれ、どうやら自由が得られましたので日本は懸命になって身体の回復に努力しました。もともとは賢い鳥だったので、みるみる健康体となり、世界が驚くほどの経済大国になったのはご存じのとおりです。  ところが、最近になって、またまた空気が怪しくなってきました。軍備の食事を増やそうとしています。それがいかに愚かな所業であるかは、過去の経験によって明らかなはずです。しかも、今は核という絶対的な鳥カゴが取り囲んでいるのです。肥れば肥るほど危うくなります。  日本人は、この譬えにあるように真の意味で頭のいい鳥にならなくてはなりません。肥り過ぎもせず、痩せもせず、すべてに中道を守っていくべきでしょう。そうすれば、近隣の国から憎まれることもなく、進退が身軽になり、どんな変化にも適応していけるようになりましょう。それが国家としてのほんとうの自由自在だと思うのです。  国民の一人一人がこのような考えを持ち、それを強調していけば、国もそれに従わざるをえないでしょう。くれぐれも、再び肥った鳥にはならないことです。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば48

世はみな無常にして会わば必ず離るることあり。憂を懐(いだ)くことなかれ。世相是の如し。当に勤めて精進して早く解脱を求め、智慧の明を以て諸の痴闇を滅すべし。 (仏垂般涅槃略説教誡経)

1 ...経典のことば(48) 立正佼成会会長 庭野日敬 世はみな無常にして会わば必ず離るることあり。憂を懐(いだ)くことなかれ。世相是の如し。当に勤めて精進して早く解脱を求め、智慧の明を以て諸の痴闇を滅すべし。 (仏垂般涅槃略説教誡経) 砂の城で遊ぶ人間  この経はお釈迦さまがご入滅を前にしてお弟子たちに最後の戒めを垂れ給うた、いわば遺言のような経だといわれています。  このお言葉の前半には、「わたしの入滅を歎くことはない」という弟子たちへの思いやりがこめられていますが、それよりも、「諸行無常という真理をこの際しっかり考え直せ」と、あらためて強く諭されていることのほうを重視すべきだと思います。  その証拠には、このあとにも「世は実に危脆(きぜい=危なくてもろい)にして牢強なるものなし」とも、「この三界は敗壊(はいえ=やぶれくずれる)不安の相なり」ともおっしゃっておられます。  われわれは、こうした危なくて、もろくて、くずれやすい世に住んでいながら、それを忘れて、ただ目前の損得ばかりに心を奪われて暮らしているのではないでしょうか。  ≪修行道地経≫というお経にこんなことが説かれています。  川原で子供たちが砂で家や城をつくって遊んでいた。「これはおれの家だ」「これはおれの城だ」と喜んでいるうちはよかったが、その中の一人が、過って他の子のつくった城をこわしてしまった。  こわされた子供は怒って、その子の髪の毛をひっつかんでなぐりつけた。そして、「みんな来い。こいつがおれの城をこわしたんだ。みんなでひどい目に遭わせてやろう」と言うと、ほかの子供たちも集まってきて、打ったり蹴ったりした。その上、「さあ、この城を元どおりにして返せ」と責めたてた。  そのうち日が暮れかかった。あたりが薄暗くなってきた。子供たちは、ふとわが家を思い出した。父母のいるわが家が恋しくなって、つくった砂の家も、こわされた砂の城もそのままにして、振り返りもせず、ちりぢりに帰って行った。 真のわが家へ帰る  この話を読むと、もろくて頼りのないもののためにあくせくしている人間の生きざまが、つくづくと空しくなります。とくに、大宇宙から眺めれば砂の一粒にも足りない小さな地球の上で、国と国とがいろいろと文句をつけて争い合っているのがどんなにバカバカしいことかと、思わず歎声を発せざるをえません。  ですから、日暮れどきに子供たちが砂の家や城をそのままにして家路を急いだように、われわれもほんとうのわが家に帰らなければなりますまい。それは、言うまでもなく、「心の家」です。「真理の世界」です。  標記のことばの後半は、このことを教えられているのだと思います。「当に勤めて精進して早く解脱を求め」とは、そのことなのです。  日本人の半分以上が、現在の生活に満足しているといいます。それは、じつは砂の家の暮らしに満足しているのです。砂の家はいつ崩れるかわかりません。それに対して、もし仏の家に入って真理の世界に住するならば、そこは決して崩れることはありませんから、いつも大安心の境地にいることができるわけです。  しかし、それで満足してはならないのであって、「智慧の明を以て諸(もろもろ)の痴闇(おろかな暗の世界)を滅し」なければ、ほんとうの信仰者とはいえません。多くの国々が砂の城をつくり、その城を壊したのなんのと愚かな争いをくりかえしているのが現状です。その痴闇を滅するのがわれわれ仏教徒の大使命であり、お釈迦さまの遺言の究極はそこにあるのではないでしょうか。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば49

仏世尊は種種の因縁もて殺生を呵責(かしゃく)したまい、離殺を賛歎したもう。乃至蛾子(ぎし)をも尚ことさらに奪命すべからず。いかに況んや人をや。 (十誦律巻四十五)

1 ...経典のことば(49) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏世尊は種種の因縁もて殺生を呵責(かしゃく)したまい、離殺を賛歎したもう。乃至蛾子(ぎし)をも尚ことさらに奪命すべからず。いかに況んや人をや。 (十誦律巻四十五) ことさらに殺生するな  お釈迦さまが何よりも殺生を戒められたことは今さらいうまでもありません。在家の信仰者に与えられた五戒も、まず不殺生戒から始まっています。  ですから、標記のことばであらためて注目すべきは、「蟻ですらことさらに殺してはならない」ということでしょう。  この世のあらゆる生物は、存在する必要があればこそ存在しているのだというのが根本条理です。個々の生物と周囲の生物との関係を狭い眼で見れば、たとえば小鳥が昆虫を捕らえて食うのは残酷なようですけれども、もし小鳥という天敵がいなければ昆虫の数は爆発的に増え、地球上の植物という植物を食い尽くして自らも全滅しなければならないという具合に、大きな眼で見れば、生物全体が食いつ食われつしておのずからなる調和を保っているのです。  ですから、仏眼(ぶつげん)という広大な眼で一切衆生を眺めておられたお釈迦さまは、殺生についても極端なことはおっしゃらなかったのです。魚や肉類を食べることも禁じてはおられませんでした。ただここにあるようにことさらに必要もないのに殺生するのは、相手が蟻のような微小な生きものであろうともよくないのだ……と戒められたのです。 微生物の不殺生をも  ところが現代の人間は、ことさらにさまざまな生物を殺しています。狩猟シーズンともなれば、野山の鳥や獣をたんなる楽しみのために殺しています。また、らくらくと登山をして観光を楽しむために、山を崩し、木を切り倒して自動車道路を造っています。  それがどれぐらい多くの生きものを殺生し、生態系のバランスを崩す行為であるか……それを承知しながらも、人間のわがままと貪欲から、あえてそうした殺生をやめないのです。  いちばん恐ろしいのは、この世でいちばん微小な生きものであるバクテリアの殺生ではないでしょうか。バクテリアはとくに土壌の中にたくさん棲息し、ふつうの畑の中には一立方メートル当たり、じつに百五十グラムいるのだそうです。百五十グラムといえば、封筒いっぱいの量でしょう。  そうしたバクテリアは、枯れた植物や動物の死骸を分解して栄養分の多い土に還元してくれているのであって、もしそのはたらきがなければ、地球上は動植物の死骸に覆われ、とても人間が住める世界ではなくなるでしょう。  ところが現代の人間は、農薬をはじめとする化学製品によって、こうしたバクテリアを大いに殺生しつつあるのです。家庭から出る生ゴミもすべて焼却します。土に戻してバクテリアを育てることをしません。だから、世界中の農地が痩せていく一方なのです。  これらはすべて、物を大量に生産し、大量に消費し、飽満的に、そしてらくらくと暮らそうとする人間の貪欲とわがままから起こったことで、このままでは、たとえ核戦争がなくても、案外早く人類は滅びに至るだろうと説く学者たちさえいるぐらいです。  このへんで人間は、もう一度お釈迦さまがお説きになった「大調和」の世界観に立ちもどり、不殺生戒のほんとうの意味を再吟味し、それをなるべく早く実行に移さなければなりますまい。そうでないと、自分で自分の首を絞めることになりかねないのです。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば50

我未だ道を得ざる時、功徳なき時には、諸の衆生等我と共に語らず、況や復た供養せんや。是の故に当に知るべし、功徳を供養して我を供養せざるを。 (大荘厳経論 巻十五)

1 ...経典のことば(50) 立正佼成会会長 庭野日敬 我未だ道を得ざる時、功徳なき時には、諸の衆生等我と共に語らず、況や復た供養せんや。是の故に当に知るべし、功徳を供養して我を供養せざるを。 (大荘厳経論 巻十五) らくだに積まれた財宝を  このお言葉の前に、次のような話が説かれています。  タクシャシーラ国のハクロウラという村にショウカバッダという人が住んでいた。先代までは大長者であったが、今はおちぶれて貧窮のどん底にあった。親族も、友人たちも、一人としてつきあってくれる者はなく、みんな軽蔑の目で見るばかりであった。  彼は村にいたたまれなくなり、よりよい人生を求めて旅に出た。そして大秦国(中国)に行き、そこで大成功を収め、巨万の富を得た。そして年老いてから故郷に帰ってきた。  これを聞いた親族や友人たちは、手のひらを返すような態度で、山海の珍味を用意し、香をたき、音楽を奏して、途中まで出迎えた。  ショウカバッダはわざと粗末な服を着、大勢のお供に混じって行列のいちばん前を歩いていた。故郷を後にしてから数十年たっていたので、その顔を見覚えている者はない。それで、本人とはつゆ知らず、  「あの……ショウカバッダさんはどこにおられますか」  と尋ねた。彼は、  「後ろのほうから来られます」  と答えて行き過ぎてしまった。  いくら待ってもそれらしい人がいないので、行列の後ろの人に聞いた。  「ショウカバッダさんは、どのお方ですか」  「いちばん前に歩いておられましたよ」  それを聞いてみんなが前へ駆けて行き、ようやく本人をみつけて、  「わたくしどもがわざわざ出迎えたのに隠れておられるとは、どういうわけですか」  と聞くと、こう答えるのだった。  「あなた方が会いたいと思われるショウカバッダは、あのらくだの背に積んである財宝でしょう。わたし自身ではないでしょう」 仏教の信仰は「法」の信仰  そこで標記のことばが生きてくるのです。  仏さまを賛え、仏さまを供養申し上げるのは、その悟られた真理を賛え、その真理をわれわれに説いてくださったことに感謝して供養申し上げるのです。それに加えて、悟りを開かれるまでの骨身を削るようなご努力を礼拝し、絶大な感謝をささげるべきでありましょう。  そのことは無量義経の徳行品の最後の偈にはっきりと述べられています。  「あまねく一切のもろもろの道法を学して、智慧深く衆生の根に入りたまえり、このゆえにいま自在の力を得て、法に於て自在にして法王となりたまえり。われまたことごとく共に稽首(けいしゅ)して、よくもろもろの勤め難きを勤めたまえるに帰依したてまつる」  われわれは、ともすれば、与えられる功徳のみを有り難く思い、その功徳のみに感謝しがちです。功徳を有り難く思うのも人情の常であって、あながち否定し去ることはありますまい。しかし、それのみに片寄り、そのためにのみ信仰するようになれば、信仰の本筋から外れてしまいます。なぜならば、そんな人は、功徳が現れないとさっさと信仰を捨ててしまうからです。  仏法の信仰は、あくまでも説かれた法に対する信仰でなくてはなりません。らくだの背に積まれた財宝を拝むようなのは邪道であると知るべきでしょう。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば51

倶会一処(くえいっしょ) (仏説阿弥陀経)

1 ...経典のことば(51) 立正佼成会会長 庭野日敬 倶会一処(くえいっしょ) (仏説阿弥陀経) 共に極楽に生まれたい  阿弥陀経は、お釈迦さまが舎利弗に語りかける形で極楽浄土のありさまをお説きになった短いお経ですが、その中で現実世界に生きているわれわれに、しみじみした深い情感を覚えしめずにはおかないのが標記のことばです。  前後の経文を読みくだしにするとこうなります。  「まさに発願して彼の国に生ぜんと願ずべし。ゆえはいかに、かくのごとき上善人と倶(とも)に一処に会(え)することを得ればなり。舎利弗、少善根福徳の因縁を以ては彼の国に生ずることを得べからず」  純粋な心で、悟りの世界である極楽浄土に生まれたいと願う者は、必ずその世界に住む「悟りを得た人たち」と一つの場所に住むことができるであろう……というのです。  わたしは、この「倶会一処」の場は、いわゆる極楽浄土のみでなく、人間対人間のほんとうの魂の結びつきのある所がすべてそれであると思われてならないのです。それも、一人対一人の結びつきから展開されていくものと思うのです。 一対一の人間関係から  慶應義塾大学の名塾長であった小泉信三博士は、「今度また人間に生まれ変わることがあったら、やはり現在世の妻と夫婦になりたい」と書いておられます。まことに「倶会一処」の典型と言えましょう。  親鸞上人は「たとい法然上人にだまされて、念仏して地獄におちるようなことがあっても、けっして後悔しない」と言っておられます。  日蓮聖人も、竜の口の法難に際して殉死しようとしたまな弟子の四条金吾に対する手紙に「もしそなたの罪が深くて地獄に行くようなことがあったら、たといこの日蓮を仏になるよう釈迦牟尼仏がどんなにお誘いになっても、それには随いますまい。そなたと同じく地獄に行きましょう」と言っておられます。  まことに人間対人間の、これ以上はないともいうべき深い信頼関係であり、「倶会一処」の極致であると言えましょう。こうなると、もはや地獄も極楽もありません。いや、そうした魂の美しい結びつきの世界こそが極楽だと言ってもいいでしょう。 人類全体が倶会一処に  われわれ立正佼成会の会員は、こうした美しい人間関係が、できうる限り多くの人と人との間に結ばれることを願うものです。  その原点ともいうべきものがわれわれの法座です。まず、そこに「倶会一処」の精神が生かされているのです。  「わたしも救われたい。あなたも救われてほしい。みんな一緒に救われましょう」……そうした純粋な思いが溶け合って、暖かい気流がそこにいきいきと流れ満ちるとき、必ずその願いは成就するのです。  なぜならば、そういった心境にある人間はすべて、標記のことばにある「上善人」にほかならないからです。  そうした「倶会一処」の輪をしだいに広げて日本国全体に及ぼし、さらに地球上全体をそうした浄土にしようというのが、法華経に説かれる「通一国土」の理想であって、われわれ法華経行者はそのために身命(しんみょう)を惜しまぬ努力を続けているわけであります。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば52

他に隷属(れいぞく)するはすべて苦なり。自在の主権は楽し。 (小部経典・譬喩経)

1 ...経典のことば(52) 立正佼成会会長 庭野日敬 他に隷属(れいぞく)するはすべて苦なり。自在の主権は楽し。 (小部経典・譬喩経) 真の自分の確認  近ごろ、新聞雑誌などでアイデンティティーという言葉がやたらと目につきますので、調べてみましたところ、「自分が自分であることの確信」ということで、つまるところは「真の自己」の発見とか「主体性」の確立とかいうことだそうです。  「なあんだ……」と思いました。アメリカの心理学者が十五年ぐらい前から言い始めたとかいうことを、何か新しい思想のように英語そのままで表現しなくても、お釈迦さまが二千五百年前にちゃんとおっしゃっているではないか……と思いました。  こういうところが、現代の日本人に「自分が自分であることの確信」がないことの表明ではないでしょうか。  日本には世界に誇るべき文化があります。太古からの神ながらの道に儒教と仏教の思想を溶け合わせ、千数百年の間、じっくりと醸(かも)し続けてきた、独特の精神があります。  川端康成さんがノーベル賞受賞の記念講演で『美しい日本の私』という題で話されたように、四季に移り変わる美しい自然といま言ったような精神が融合した「日本のこころ」というものがあります。あの講演で川端さんは、  春は花夏ほととぎす秋は月  冬雪さえて冷(すず)しかりけり という道元禅師の歌と、  雲を出でて我にともなふ冬の月  風や身にしむ雪や冷めたき という明恵上人の歌を引用して、「日本だけにあるもの」を世界の人びとに示しました。そして、「これらはつよく禅につながるものであります」という言葉で講演を結びました。 世界の日本人となるために  さて、標記のお釈迦さまのことばの意味は、「一方的に他に従うのは苦である。自分自身に主体性を持てば心は自由自在で楽しい」ということになりましょう。この前半の「他に隷属するはすべて苦なり」というのはたいへん深いところをえぐったことばだと思います。表面的には、易々として他に従っていたほうが気が楽なように考えられますが、じつはそうではないのであって、心の深層には、真の自己が確立していないことの苦がわだかまるのだ……という意味でありましょう。  この「真の自己」というのは、けっして「我(が)」ではありません。主体性を持てというのも、「我」を張り通せということではありません。そこのところを誤解しないようにして頂きたいものです。  法華経の薬草諭品にありますように、すべての草木は仏(宇宙の大生命)の恵みを受けて育つもので本質的には等しい存在ですが、その現れにおいては、あるいは亭々たる大木であり、あるいは楚々(そそ)たる草花であります。人間もそれと同様なのです。ですから、仏教で「真の自己を悟れ」と説くのは、その平等相の尊さと差別相の尊さの両方をしっかり自覚せよ、ということでありましょう。  このことは、個人の生きざまにおいても大切ですが、世界の中の日本人という視座から見ても非常に大事なことだと思うのです。日本人は「どの国の人も平等な人間仲間だ」という精神を持つと同時に、日本独特の文化を確保しそれに誇りを持たなければなりますまい。そうでなければ、世界の人びとに親しまれもせず、敬意も表されないでしょう。  標記のことばを、わたしはこのように拡大解釈したいのです。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば53

汝らもし勤め励むならば、事として難きものなし。小(わず)かな水も常に流るればよく石を穿(うが)つがごとし。 (仏垂般涅槃略説教誡経)

1 ...経典のことば(53) 立正佼成会会長 庭野日敬 汝らもし勤め励むならば、事として難きものなし。小(わず)かな水も常に流るればよく石を穿(うが)つがごとし。 (仏垂般涅槃略説教誡経) 普通人への救いの教え  むかしの家には雨樋(あまどい)のないものが多く、屋根から雨水が落ちる真下には、平たい切り石が並べて敷いてありました。  その敷き石を見ると、必ず大小の穴が点々として穿たれていました。それは雨のしずくが何十年という間につくったものなのです。  あの柔らかい、しかもごく小さい水のしずくが、硬い石の上に穴をあけるとは、ちょっと考えられないようなことでしょうが、それはまぎれもない事実です。今の若い人も、田舎の旧家などを訪ねれば、まさしく見ることができましょう。  その理由は、考えてみるとじつに簡単なことです。同じ個所に集中して、繰り返し繰り返し、雨垂れが落ちるからです。  仏道の修行にしても、実生活のあらゆる修業にしても、勉学や研究にしても、そのとおりなのです。たとえ人並みすぐれた才能がなくてもかまわない、心をそれに集中して、ほんの少しずつでも繰り返し繰り返し根気よく続けていけば、必ず志を達成することができる……そのことを教えられたのが標記のことばです。 自力・集中・反覆  こういう話を聞きました。  若いころから頭角をあらわした将棋九段の芹沢博文さんは、お手伝いさんが何人もいる裕福な家に生まれ、何不自由のない幼少年時代を過ごしました。  小さいとき将棋を習い、大人を負かすほどになったので、棋士となることを目指して中学一年のとき沼津から上京し、高柳八段の内弟子になりました。が、朝は五時半に起きて部屋や庭の掃除をしたり、将棋盤や駒を磨いたりの仕事、学校から帰ると使い走りやら何やらの雑用ばかりで、将棋はいっこうに教えてもらえません。  毎日の仕事の中でいちばん肝要なのは、いくつかの新聞に載っている将棋欄の記事を切り抜いて、スクラップ・ブックをつくることでした。一冊が出来上がると師匠のところへ持っていくのですが、一日分が抜けていたり、順序が逆になっていたりすると、目の玉が飛び出るほど叱られるのでした。  ところがある日、師匠が庭でたき火をしているのを見ると、毎日コツコツとつくったスクラップ・ブックをつぎつぎに燃やしているではありませんか。少年は、腹が立つやら悲しいやらで、その場から沼津へ帰ろうか……と思いました。しかし、なんとか考え直して、師匠のもとに留まったのです。  その辛抱が幸いして、ついに今日の大成を見たわけですが、あとでよくよく思い出してみると、スクラップ・ブックは師匠には用のないもので、内弟子の少年が切り抜きをしながら将棋欄を読んで、一心に将棋のことを考え、自力でその秘奥をつかみとるように……という師匠の心遣いだったのです。  わたしはこの話を聞いて、これこそ「小水よく石を穿つ」の神髄だなぁと感じ入りました。毎日の将棋欄の棋譜を全部記憶していたわけではありますまい。しかし、表面の意識では忘れても、潜在意識にはちゃんと刻みつけられているのです。それがしだいに積み重なってこそ、名人上手といわれるようになるのです。  楽をして、インスタントに、人から教えられて覚えたことには、そうした積み重ねがありません。「自力で」「集中して」「繰り返す」……この三つが揃ってこそ何事も大成するのです。よろずのことが手軽になってしまった今日、大いに考え直すべきことだと思います。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば54

己れに勝る有るを見るも嫉妬を生ぜず。己れ他に勝るを見るも驕慢を生ぜず。 (優婆塞戒経巻三)

1 ...経典のことば(54) 立正佼成会会長 庭野日敬 己れに勝る有るを見るも嫉妬を生ぜず。己れ他に勝るを見るも憍慢を生ぜず。 (優婆塞戒経巻三) 嫉妬にはプラスがない  優婆塞(うばそく=在家の男子修行者)に対する戒めは、「殺生をするな」「盗みをするな」「嘘をつくな」「よこしまな性行為をするな」「酒を飲むな」の五戒が基本となっています。しかし、もしお釈迦さまが二十世紀の現在に生きていらっしゃったら、「酒を飲むな」の代わりに「嫉妬をするな」をお入れになったのではなかろうか……と推察されます。  それほど嫉妬を強くお戒めになっておられ、出曜経の中でも「嫉(ねた)みはまず己れを傷つけ、後に人を傷つける」と説かれ、また「その報いは天に向かって唾を吐くようなもので、それは自分の顔に降りかかってくるのである」ともお説きになっておられます。  才能とか、技術とか、地位とかが自分より優れた人を見て、「よし、あの人のようになろう」と発奮・努力するのは、もちろんいいことです。そうした前向きの姿勢に反して、羨(うらや)むとか嫉(ねた)むとかいう心作用にはただマイナスしかありません。  羨むというのはうらがやむことです。うらは「うら寂しい」などというように「心」のことで、やむは「病む」です。つまり、羨望することは自分の心が病むばかりで、いささかのプラスもないのです。  ねたむの語源は、むねいたむ(胸痛む)とも、ねいたむ(根痛む)ともいわれ、これまた、そのまま、自分の心を傷つけるものなのです。  ですから、自分の力ではどうにもならぬ他人の属性や境遇、例えば生まれつきの美貌とか、富豪の家に育ったとか、自然に持っているスター性等々に対しては、「あの人にはあの人の世界があり、自分には自分の世界がある」とあっさり割り切ることが大事だと思うのです。人間としての本質は自他すこしも変わりはなく、違っているのは現象の上ばかりに過ぎないのですから。 不嫉妬と不憍慢は相通ず  松下幸之助さんの言葉に「他人は自分より偉いのだと考えるほうが得(とく)だ」というのがあります。松下さんは、生家の事情で小学校を中途退学したので、成人してからも他人がみんな自分より偉く見え、どんな人の話にも素直に耳を傾ける習慣が身についたのだそうです。  そうした習性によって他人から吸収できたものは測りしれぬほど大きく、そのおかげで今日の大を成されたのだそうです。経営の神さまとまでいわれる今でも、人の意見を聞いて学ぶ姿勢は変わらず、すなわち憍慢なところが少しもないと聞いています。  つまり、少年時代から自分に勝る人を嫉む心がなく、素直な、へり下った心を持っておられたからこそ、今日のような大御所的存在になっても憍慢の気持ちが起こらないのでありましょう。  結局、不嫉妬と不憍慢は表裏一体をなす心の姿勢であり、どちらが卵でどちらが鶏ともいえない関係にあると思います。  最近の世相を眺めてみますと、どの階層にも嫉妬のドス黒い影が渦巻いています。子供の世界にもそれがあって、最近、中学二年生の十一人の女生徒が、転校してきた子が男子生徒に人気があるというので殴る蹴るの暴行を加えたことが報道されました。恐ろしいことです。  嫉みは己れと人とを傷つける不毛の心作用です。憍慢はその裏返しで、これまた己れの人格を低下させ、人の心をかき乱すものです。たいていのことにはプラス面とマイナス面があるものですが、嫉妬と憍慢にはただマイナスしかない!……このことをよくよく胸に刻んでおきたいものです。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば55

まさに水上の泡を観ずべし。 (出曜経第二十四)

1 ...経典のことば(55) 立正佼成会会長 庭野日敬 まさに水上の泡を観ずべし。 (出曜経第二十四) 水の泡で冠を作る  このことばを冒頭に掲げられたお釈迦さまは、次のような物語をなさいました。  ある国王に幼い娘があった。あるとき大雨が降って王宮の庭の池に無数の泡ができた。雨上がりの太陽がその泡をさまざまな色にきらめかせ、たいへん美しかった。幼い娘はそれを見て、父の王に、  「あの泡でわたしの冠(かんむり)を作って……」  と言い出した。王は-水の泡で冠など作れはしないよ-と言い聞かせるのだが、子供はダダをこねて承知しない。  もしかすると……と思った王は、町の金銀細工師たちを呼び集めて、あの泡で冠を作れと命令したが、みんな頭をかかえたり、うすら笑いを浮かべるばかりである。そのとき一人の老細工師が進み出て申し上げた。  「もし王女さまが、気に入った泡を取り上げてわたくしに渡してくださいますなら、冠を作って差し上げましょう」  そこで王女は池のみぎわにしゃがんで泡を取ろうとしたが、もちろん手を触れるとたんに消えていくばかりだ。王女はやっと自分の望みがむなしいものであることを知り、「お父さま。やはりわたくしには黄金の冠を作ってください」とお願いしたのであった。  この話をなさったお釈迦さまは、-水の泡が人目には美しく見えるように、この世の物質的な栄えもそのとおりである。人びとはその外見に目をくらまされて、むやみやたらとそれを追い求め、ついには疲れ果てて死を迎えるのである-とお説きになりました。 「徳」こそ永遠のもの  このお経を読んでわたしは、その黄金の冠とは何だろうと考えてみました。空(くう)でないもの、実質のあるもの、いつまでも残るもの、となると、それは「徳」にほかならない……と思い当たったのです。  人間の歴史を振り返ってみますと「力」によってはなばなしい活躍をした人物は数々おります。アジア全土からヨーロッパまで席捲(せっけん)したジンギスカン、逆に西から東へと征服の旅を続けついにインドまで攻め入ったアレクサンドリア大王、そうした「力」で成し遂げた偉業の跡はいったい今どうなっているでしょう。まったく泡のように消え去っているではありませんか。  日本でいえば、戦国時代に全国統一を実現した奇略縦横の偉人秀吉も、死に際しては次のような歌を残しています。  「つゆとを(置)き つゆとき(消)へにし わがみかな なには(難波)のことはゆめのまたゆめ」  それらとまったく対照的なのはお釈迦さまです。身にまとわれたのは褐色の衣一枚、財産といえば托鉢用の鉄鉢一つ、八十歳の老齢に及んでも、あの酷熱のインドの地を、背痛をこらえながらハダシで歩いて布教を続けられた。生まれ育たれたカピラバスト国はとうに滅びてしまった。  しかし、その残された「徳」は永遠不滅です。二千五百年後の今日まで絶えることなくアジア諸民族の心の中に生き続け、その魂を浄化しつづけてきました。しかも人類の危機が切迫している現在、ヨーロッパやアメリカの人たちまでが、仏教によって人間的によみがえろうと指向しているのです。  「力」は水の泡です。過ぎ去っていく時間の上にむなしく浮かび、かつ消えるうたかたです。それに対して「徳」は無限のいのちを持つ黄金の冠です。このことを、個人の生きざまの上にも、民族や国家のあり方の上にも、再思三省すべきでありましょう。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば56

悪(あ)しき業(わざ)を楽しみとしてはならぬ 酒を飲まば程を過ごしてはならぬ (小部経典・大吉祥経)

1 ...経典のことば(56) 立正佼成会会長 庭野日敬 悪(あ)しき業(わざ)を楽しみとしてはならぬ 酒を飲まば程を過ごしてはならぬ (小部経典・大吉祥経) いじめはどうして起こる  このおことばをつくづくと味わってみますと、お釈迦さまはなんという人心の機微を鋭くとらえておられた方だろう、そして何というものわかりのいい方だろう……と感歎せざるをえません。というのも、悟りを開かれる前に二十九年ものあいだ俗人としての生活をなさったせいではないだろうか……と思われるのです。  悪いことを楽しみにしてはならない、とはどんなことでしょうか。  人間は動物の一種であるからには、闘争心というものを根底に持っています。残虐性すら潜在意識の中に潜ませているのです。  子供たちは、トンボのしっぽをむしり取り、草の茎などを差しこんで飛ばすような残虐なことをします。お釈迦さまが、小川で捕らえた魚を踏んづけて遊んでいる子供たちに、「お前たちがこのようにいじめられたら苦しいだろうとは思わないか」と質問され、子供たちが「苦しいと思います」と答えたところで、「そうだろう。そのことを考えればいじめるのはよくないことだとわかるだろう」と諭された話は有名です。  子供はよくケンカします。たいていのケンカは一過性のもので、「腹が立ったからなぐった」「なぐったからなぐりかえした」で、たいてい終わりになるものです。  ところが、そうした「悪しき業」を楽しみにするようになったら、恐ろしいことになります。いま教育の問題を超えて社会問題にまでなりつつあるいじめは、じつにこうした心理から起こっているのです。弱い子をからかい、いじめることに楽しみを感じ、快楽を覚えるからこそ、しつこく、そして、次第に悪質なやり方でいじめるようになるわけです。  このことに深く思いをいたし、お釈迦さまがなさったように自省心を起こさせるか、あるいは楽しみをほかのことに振り向けさせるような指導がぜひ必要ではないか、とわたしは思います。 酒はほどほどに  次にお酒のことですが、お釈迦さまが不飲酒戒を定められたからといって、心のどこかで罪悪感を覚えながら飲んでいるような人がいるかもしれませんが、お釈迦さまのご本意は「自制せよ」というところにあったようです。  ということは、比丘に対する不飲酒戒が定められたいきさつからも推察することができます。(魔訶僧祗律巻二十)にこうあります。  お釈迦さまがクセンミ国にとどまっておられたとき、クセンミ国にかんばつが続いているのは悪竜のせいだとして、人々がサーガタという比丘に調伏(じょうぶく)を頼みました。サーガタは神通力をもって見事に悪竜を調伏したので、雨が降り、五穀が豊かに実るようになりました。  人々はサーガタを招待して、たいへんなごちそうをしました。そのとき出された酒を飲み過ごしたサーガタが精舎に帰りますと、ちょうど世尊は大衆を集めて法を説いておられました。  それほど酔ったとは思っていなかったサーガタが、その席につらなって説法を聞いているうちに、酔いが発してきて、いつしか世尊の前で横になり足を伸ばして寝込んでしまったのです。  世尊がどうしたわけでこんな不作法をするのかと他の比丘にお尋ねになりますと、その比丘は「飲酒すること多きに過ぎて酔臥するなり」と答えました。そこで、世尊は「今日より後、飲酒することを許さず」と仰せになりました。この問答からしても、それ以前は飲み過ぎない程度なら許されていたようなのです。  いずれにしても、少量の酒は百薬の長ともいわれていますし、不飲酒戒を「絶対」と考えなくてもいいように思われます。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば57

あまねく衆生のために不請(ふしょう)の友となり、大悲もて衆生を安慰(あんに)し、哀愍(あいみん)し、世の法母とならん (勝鬘経)

1 ...経典のことば(57) 立正佼成会会長 庭野日敬 あまねく衆生のために不請(ふしょう)の友となり、大悲もて衆生を安慰(あんに)し、哀愍(あいみん)し、世の法母とならん (勝鬘経) 不請の友とは  このことばは、勝鬘夫人(しょうまんぶにん)がお釈迦さまに「これから一生のあいだみ教えのとおりに精進いたします」と、固くお誓いした(第十四回参照)その誓言(せいごん)の一節です。  この「不請の友」という語がなんともいえぬ尊い、深い、そして広大な意味をもっていることに、わたしは強烈な印象を受け、いつもこの語が脳裏から離れません。  不請の友というのは、「来てください」と頼まれもしないのにその人のところに行ってあげる友だち……という意味です。  何か困った事態が起きて「ひとつ助けてくれ」と頼まれたり、悩んでいることがあって「君の意見を聞かせてくれないか」と相談をもちかけられたりすれば、ほんとうの友だちならさっそく行ってあげるでしょう。  ところが、勝鬘夫人は、衆生のすべてを友と見、大きな慈悲心をもって、苦しみ悩んでいるその友のところへ、頼まれもしないのに行ってあげて、真理の教えによって安らかな境地へ導きたい、いや必ずそういたします……とお誓いしているわけです。 世の法母となろう  いまのせちがらい世の中にも、このような人があります。ネパールに多い結核患者を救うために一家をあげて移住し、山の中の不自由な生活の中で医療活動に専念された岩村昇先生もその一人でしょう。  祖国におれば、学者としても、オルガン奏者としても、一流の地位におられたのに、わざわざアフリカの熱帯の森の奥に病院を建て、気の毒な黒人たちの救済に一生を送られたシュバイツァー博士もその典型です。  そんな傑出した人ばかりでなく、いまの日本の庶民にも、海外協力隊員として発展途上国へ出かけ、困難を克服しながら、現地の人々の技術指導に取り組む青年たちがたくさんいます。これまたりっぱな「不請の友」といえましょう。  では、内地にいて普通の生活をしているわれわれは、そうした尊い「不請の友」になれないのかといえば、けっしてそうではありません。心さえあれば、だれでも、どこででも、できるのです。宮沢賢治の有名な詩に  東ニ病気ノコドモアレバ  行ッテ看病シテヤリ  西ニツカレタ母アレバ  行ッテソノ稲の束ヲ負ヒ  南ニ死ニサウナ人アレバ  行ッテコハガラナクテモイイトイヒ  北ニケンクヮヤソショウガアレバ  ツマラナイカラヤメロトイヒ  ヒデリノトキハナミダヲナガシ  サムサノナツハオロオロアルキ  ミンナニデクノボートヨバレ  ホメラレモセズ  クニモサレズ  サウイフモノニ  ワタシハナリタイ  とあります。干ばつがあれば涙を流し、冷夏にはオロオロするような普通の人間でも、東西南北の衆生の「不請の友」となりうるのです。  わたしたちの教団でつねにすすめている「お導き」も、つまりは「不請の友」になりなさいということです。そして「世の法母」となりなさいということです。  「法の母」これまたいいことばですね。味わい深いことばですね。世の中の人々の法の母となる……これほど尊い所行がほかにありましょうか。どうかそういった意味で、標記のことばをよくよく噛みしめていただきたいものです。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば58

聞(ぶん)をもってのゆえに大涅槃を得るにあらず、修習をもってのゆえに大涅槃を得。(大般涅槃経巻二五)

1 ...経典のことば(58) 立正佼成会会長 庭野日敬 聞(ぶん)をもってのゆえに大涅槃を得るにあらず、修習をもってのゆえに大涅槃を得。 (大般涅槃経巻二五) 実践なければ功徳なし  これは、仏法の教えを聞いただけでは本当の心の安らぎを得られるものではない、その教えを繰り返し繰り返し身に修め習ってこそ最高の安らぎに達することができるのである……というお諭しです。このすぐあとに、  「たとえば、病人の醫教および薬の名を聞くといえども病いを治することあたわず。薬を服用するをもってのゆえに、よく病いを治するがごとし」  と、説かれています。お釈迦さま得意の巧みな譬喩です。同じような譬喩を、別なところで説いておられます。  「多聞(たもん)ありといえども、もし修行せざれば、聞かざるに等し。人の食(じき)を説くも、ついに飽くあたわざるがごとし」  いくらたくさん法の話を聞いても実行しなければ聞かないのと同じである。ちょうど、人が食べものの話をするのをいくら聞いても、自分が食べなければ腹がふくれないのと同じなのだ……というわけです。 無意識に積み重なるもの  これは、なにも信仰の修行に限ることではありません。人生のすべてに通ずる真理なのです。  大学で、経済原論とか、経営学とか、商品学とかいったものをいくら学んでも、社会に出てすぐそれが役に立つと思ったら大間違いです。卒業して会社に入り、あるいは商売を始め、実地にさんざん揉まれ、試行錯誤を繰り返すうちに、自然と経営や商売のコツが身についてくる……それはだれしもご承知のはずです。  スポーツでもそうでしょう。近ごろ、ラグビー熱が盛んなようですが、ラグビー選手だった人に聞きますと、ボールを持った相手がこう走ってきたらこう向かって行ってタックルしろ、と監督やコーチに教わっても、初めのうちはスルスルと抜かれてどうしようもなかった。それが練習や試合を何十遍とやっているうちに、相手の方向およびスピードと自分の方向およびスピードを無意識のうちに計算してピタリと捕らえることができるようになる……という話でした。じつに微妙な境地で、潜在意識の中にあるコンピューターが一瞬のうちに計算をしてしまうのでしょう。ここが修練の功徳の神髄なのです。  信仰の修行も同じです。ご宝前で読経をするにしても、毎朝毎夕それを一心に続けていってこそ、いつしか仏さまや諸菩薩・諸天善神と心の波長が合致するようになり、何ともいえない法悦を覚えるようになるのです。それも一種の涅槃といっていいでしょう。  もっと進んだ修行は、人のために説くことです。人を仏道に導く実践活動です。これは、見知らぬ他人を相手にする場合が多く、それだけにさまざまな困難に遭遇します。理解力の弱い人があったり、科学万能の人があったり、宗教と迷信を混同している人があったりします。しかし、そうした千差万別の人にぶつかっていくうちに、無意識のうちに自分自身も磨かれていくのです。まことに「教えるは教えらるるなり」です。  さらに、そうした努力を繰り返すうちに、努力すること自体が言うに言われぬ喜びとなって心中に躍動するようになります。このような歓喜は、菩薩行だけがもたらす常楽我浄の境地であって、これこそが「修習をもってのゆえに得る大涅槃」だといってもいいでしょう。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば59

心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ (法華経・方便品)

1 ...経典のことば(59) 立正佼成会会長 庭野日敬 心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ (法華経・方便品) 法華経の教相の明るさ  仏教の信仰といえば、たいていの人が陰気くさい、じめじめした感じのものと見ているようです。すくなくとも、キマジメで、しかつめらしいムードのものと感じているようです。  ところが、法華経の信仰に関するかぎり、そうではないのです。明るくて、はつらつとして、勇気と希望と、歓喜にあふれた信仰なのです。それは、法華経の教相全体を眺めてみればよくわかることでしょう。  本論の冒頭である方便品には、それまで究極の悟りが開かれないことを悩んでいた舎利弗をはじめとする声聞(しょうもん)の一群がいたり、仏さまが説法なさろうとすると席を立って行ってしまう人たちが出たりしますが、一心に法を求める人たちが残っていますと、だんだんと説きすすめられる「人間には無限の可能性がある。だれでもついには仏になれる」という素晴らしい全的人間肯定の教えに、しだいに心がわき立ってきます。とりわけ、成仏を保証された舎利弗はなおさらです。 つねに新しい喜びを  そこでその説法の結論としてズバリ仰せられたのが標記の言葉です。  それ以後の各品のお説法を見ても、すべて、「初めは不幸でも修行すれば必ず幸せになる」という思想につらぬかれています。譬諭品第三の「三車火宅のたとえ」でもそうでしょう。まさに大火に焼かれそうになっていた子供たちが門の外に走り出たために無事に助かり、しかも大白牛車(だいびゃくごしゃ)という素晴らしい車を与えられて喜びます。  信解品第四の「長者窮子のたとえ」でもそうでしょう。幼い時父の家からさまよい出て五十年もの間、苦しく貧しい放浪の旅を続けていた男が、実は大富豪の実子だと分かって、その無限の富を受け継ぐことになります。  いろいろ挙げればキリはありませんが、法華経とはそんな教えなのです。ですから、日本国第一の法華経行者であられた日蓮聖人をしのぶお会式も、賑やかで、勇壮で、はつらつたる行事になっているのです。いくたびか生死の間を潜り抜けられた苦難のご一生なのに、その忌日に行うお会式にはいささかの陰気くささもありません。  わたしどもの会は、もちろん法華経を所依(しょえ)の経典としています。である限り、われわれの信仰は、どんなつらいときにも行くてに明るい希望を持った前向きのものでなくてはなりません。  法座にしてもそうです。新しく入会する人の大半は何かしら心身に悩みを持った人です。寂しい人です。ですから、初めて法座に出たときは重苦しい感じでいるでしょう。しかし、先輩やリーダーの人がその人の相談をわが事のように共感し、共に泣き、共に考え、あるいは厳しい愛の叱咤や激励が必要なときもありましょうが、その中から一脈の明るい希望の光が見え始めるとき、当人の喜びはたとえようもないものなのです。  信仰歴の古い人でも同じです。後から入ってきた人がどんなに誤った道を歩み、どんな苦悩の中に沈んでいても、自分も共に苦しみながらその人を立派に立ち直らせたときの喜び、人生これ以上の幸福感はないと思います。そうした歓喜の信仰が法華経の信仰であり、それを端的に示されたのが標記のことばだと受け取ってもいいでしょう。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば60

仏種は縁に従(よ)って起る (法華経・方便品)

1 ...経典のことば(60) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏種は縁に従(よ)って起る (法華経・方便品) あなたには深い仏縁がある  世の中にはお寺や神社の前を通ってもそしらぬ顔をしている人がよくいます。お寺に入ることがあっても、建物や仏像を歴史的遺物、もしくは芸術品として鑑賞するばかりで、仏さまに向かって手を合わせることをしない人があります。  そういう人は、前世においてほとんど仏教に縁のなかった人かもしれません。また、この世に生まれてからも、神棚や仏壇のない家庭に育った人でありましょう。  それにくらべてわれわれは、こうして仏法を信仰し、朝夕ご宝前で供養し、そのうえ法華経を広めるために懸命の努力をしているのですから、よほど前生から仏教に深い縁があったことは確実です。それにつけて思い出されるのは、法華経の主題ともいうべき「授記」ということです。お釈迦さまが弟子たちに、「そなたは必ず仏となることができる」と保証されることです。  その際にお釈迦さまは「これから何万年もの間、何千とも知れぬ仏に仕えて修行したのちに……」といった条件をつけられます。それを読みますと、あまりにも気の遠くなるようなその時間の長さに、ただぼう然とし、自分とは全く無関係の世界のように思い込みがちです。  ところが、そうではないのです。その長い道程の中の今日、この瞬間こそが大事なのです。先にも述べましたように、いま仏法を一心に信仰しているあなたは、すでに何千年の間、仏道を修行してきた身かもしれません。とにかく深い仏縁を持つ身であることは確かです。  そのことをしみじみと心にかみしめ、自分にそなわっている人間としての価値を改めて見直し、自信をもってこれからの人生を生きるべきだと思います。 美しい感動を呼び起こす  では、どのような人生が最も価値あるものかといいますと、法華経の教えによるならば、己の仏性をますます磨き出すと同時に、他の人の仏性を目覚めさせてあげることに努力する人生です。そういう人を菩薩というのです。  といっても、なにも難しく考えることはありません。標記のことばにあるように、「仏性はある縁に触れてこそ目覚めるもの」なのですから、日ごろの生活の中で、いつもそのような縁をつくることを心掛けておればいいわけです。  例えば、評論家の草柳大蔵さんが実行しておられるように、レストランなど周囲に大勢の人がいる時は特に、食事の前後に合掌して拝む……という行為だけでもいいのです。  それを見た人は、なんとなく「いいなあ」と感じましょう。その「いいなあ」という感じこそがたいへんな意義を持つものなのです。その瞬間に、その人の心の奥の奥にあった尊いものが、スーッと表に出てきたわけです。その尊いもの、それが仏性なのです。  また、なにか困っている人を見かけたら、親切に手伝ってあげる。悩みを持っている人には愛情に満ちた優しいことばをかけてあげる。それだけでもいいのです。それを受けた人の心にはなんともいえないホノボノとしたものが芽生えるでしょう。「ありがたい」という気持ちで心が温まるでしょう。それが仏性の目覚めにほかならないのです。  仏性の目覚めは、理屈や説教で起こるものではありません。ある美しい感動こそがそれを芽生えさせるのです。それが「仏種は縁に従って起る」の真義です。お互いさま、世の中を明るくするために、そうした縁をつくることに心掛けようではありませんか。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば61

其の国の中間幽冥の処、日月の威光も照すこと能わざる所、而も皆大に明らかなり。其の中の衆生各相見ることを得て、咸(ことごと)く是の言を作(な)さく、此の中に云何(いかん)ぞ忽ちに衆生を生ぜる。 (法華経・化城諭品)

1 ...経典のことば(61) 立正佼成会会長 庭野日敬 其の国の中間幽冥の処、日月の威光も照すこと能わざる所、而も皆大に明らかなり。其の中の衆生各相見ることを得て、咸(ことごと)く是の言を作(な)さく、此の中に云何(いかん)ぞ忽ちに衆生を生ぜる。 (法華経・化城諭品) 幽冥の処とは心の闇  新宿でも、渋谷でも、一日じゅう人・人・人で、まるで人間の川が流れているようなありさまです。そのただ中を通りながらも、何か用があって急いでいるときは、そんな大勢の人には目もくれません。まったく無縁の人・人・人です。目には見えていても、いないのと同じです。  なにか思い屈することがあってトボトボ歩いているときは、その何千という人の中にありながら、ここに歩いているのは自分一人……という気持ちをひしひしと感じます。ヨーロッパのある作家が「人は群衆の中にいるとき最も孤独である」といったそうですが、仏の教えを知らない人にとっては、まったくそのとおりです。  そういった症候群の中のもっとひどい、いわゆるノイローゼ気味の人だと、周りにいる大勢の人がみんな自分を軽蔑しているかのように、あるいは敵意をいだいているかのように見えて、いたたまれない思いがするのです。  これらの人々は、白昼の光の中にいても心は闇なのです。真っ暗なのです。では、その心の闇を切り開いて光を投げかけるものは、何でしょうか。それが標記のことばに語られているわけです。  「其の国の中間幽冥の処」というのは、人間の心にある闇の世界のことです。その世界の中では、周りにたくさんの人がいても、いないのと同じで、まったく孤独地獄の中にいるのです。 真に人生を明るくするもの  ところが、大通智勝仏が仏の悟りを開かれますと、いままで真っ暗だった世界がにわかに明るくなり、闇の中にいた人々が自分の周りに多くの人間がいるのを発見し、「おや、どうして急にこんなに大勢の人が生じたのだろう」と口々に言い合った……というのです。  「生じた」のではありません。これまで見えなかったのが「見えてきた」のです。他の存在を認めるようになったのです。ここのところが肝心なのです。  仏の教えのゆきわたらない所では、人々は自分のことしか考えません。苦しみ悩んでいる人はその苦悩からのがれたいともがくばっかりで、他人のことなどかまっておられません。仕合わせに暮らしている人は、その仕合わせを守っていこうという気持ちだけでいっぱいで、これまた人はどうなってもいいという冷たさです。  みんながエゴだけをしっかりと握りしめ、我(が)ばかりにしがみついていますから、他の人とシンからうちとけることがありません。親子でも、夫婦でも、形のうえでは一緒に暮らしていても、心の底では孤独なのです。じつに寂しい、うすら寒い人生です。ところが、ひとたび仏の教えがゆきわたりますと、事情が一変します。いわゆる「諸法無我」で、この社会はすべての人間が支え合い、持ちつ持たれつしてこそ成り立っているのだということがハッキリわかってきます。知性によるそうした理解だけでなく、――みんなは同じく仏さまの分身なんだ。兄弟姉妹なんだ――という温かい心情がしみじみとわいてきます。  そうなると、人生がにわかに明るくなります。孤独の闇は消え去り、そこから大勢の友だちが現れてきます。このようなはたらきが法華経の功徳の神髄なのです。標記のことばには、その功徳が神秘的な表現で描かれているわけです。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば62

是の人は少欲知足にして能く普賢の行を修せん (法華経・普賢菩薩勧発品)

1 ...経典のことば(62) 立正佼成会会長 庭野日敬 是の人は少欲知足にして能く普賢の行を修せん (法華経・普賢菩薩勧発品) ほんとうの豊かさと美しさ  いわゆるサラ金地獄に苦しむ人が驚くほどたくさんいます。妻子を捨てて蒸発したり、一家心中をしたりという悲劇も後を断ちません。  現在の日本人は、国の歴史が始まっていらい、最高の豊かな暮らしをしているというのに、どうしてこんな現象が起こったのでしょうか。ズバリ言えば、豊かさに心がゆるんで欲望にブレーキをかけることを忘れたからです。  よりよい生活をしたいという欲望は人間として当然のものであって、自分の努力によってそれを達成していくことは生活のごく自然な進歩といえましょう。  ところが、欲望というものはほうっておけばどこまでも肥大し、増長していくものであって、知性の足りない人はそれに歯止めをかけることをせず、もっともっとと、求めつづけるために、つい自分の努力の範囲外のものに手を出して、おしまいには身を滅ぼしてしまうのです。  盆栽の松は、あまり葉を繁らせると根が弱り、そして枯れてしまいます。人間もそれと同じなのです。欲望の葉をいつもほどよく剪定(せんてい)していると、つねにすこやかに生きることができ、しかも美しく生きることができるのです。 人類生き残りのためにも  標記のことばは「(法華経の教えを学び、受持し、実行する者は)ひとりでに世間的な欲望が少なくなり、満足することを知り、普賢菩薩のような行いを実行するようになるだろう」という意味です。  普賢菩薩は理(真理)・定(じょう=不動の精神)・行(ぎょう=真理の実践)を司る菩薩といわれています。ですから、法華経をしっかり学び、身も保ち、それを実践する人は、自然と真理にかなった不動の精神を持ち、それを日々の暮らしのうえに実行する人となる。その結晶というべきものが、少欲知足(しょうよくちそく)の生活である……ということになりましょう。  つまり、物質的な生活はほどほどにし、精神的に満ち足りた生活をするのが、ほんとうの豊かさである……ということなのです。たんに「豊か」であるばかりでなく、よく剪定した鉢植えの松のように、「美しく」さえあるのです。スガスガしい美しさです。これが法華経人間の姿なのです。  このことは、個人の生き方の問題にとどまらず、じつは人類全体の生き方に対する重大な警告と受け取らねばなりますまい。  現在の人類は、より安楽に、より早く、より豊かにという欲望にブレーキをかけることなく、石油系の燃料を濫費し、そのために上空をとりまく排ガスと炭酸ガスの厚い層が異常気象を引き起こし、大干ばつの原因となっています。しかも酸性の雨を降らせて草木を枯らし、それが森林の濫伐に追いうちをかけ、地球の砂漠化を急速に推し進めていることはご存じのとおりです。  いまのうちに生き方の根本を「少欲知足」へと切り替えなければ、遠くない将来に人類総飢餓に陥ることは目に見えています。  その悲劇から逃れるためには、せめてわれわれ法華経の信仰者から先に立って「少欲知足」の生活に徹し、そして一日も早く、一人でも多くの人にこの教えを説き広めていかねばなりますまい。それはたんなる「布教」ではなく、じつに「人類生き残りの道」にほかならないのです。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば63

我神力を以て仏を供養すと雖(いえど)も身を以て供養せんには如(し)かじ。 (法華経・薬王菩薩本事品)

1 ...経典のことば(63) 立正佼成会会長 庭野日敬 我神力を以て仏を供養すと雖(いえど)も身を以て供養せんには如(し)かじ。 (法華経・薬王菩薩本事品) 犠牲的精神で布教を  はるかなむかし、日月浄明徳如来という仏さまが法華経の教えをお説きになりますと、それに感激した一切衆生憙見菩薩が、感謝と帰依のまごころを捧げるために、神通力をもって天の花々やりっぱな香を仏さまのみ上に降り注ぎました。  しかし、それではまだほんとうの供養ではないと考え、自分の身に火をつけて燃やし、その焼身の光明で大千世界をあまねく照らし出した……というのです。  これは何を意味しているかといいますと、第一に、自己を犠牲にして仏さまの教えを説き広めることが、仏さまに対する最高の供養だということです。  供養には「利供養」「敬供養」「行供養」の三つがあります。利供養というのは、仏前にお花や、お水や、お茶や、ご飯などをお給仕することです。敬供養というのは、まごころを込めて合掌・礼拝することです。  その二つも仏教徒として欠かしてはならない供養ですが、いちばん仏さまに喜んで頂く供養は、最後の行供養です。日々の暮らしに、仏さまのみ心にかなうような行いをすることです。その行いの中でも最高の行為は、自分の労力や時間を犠牲にして仏さまの教えを説き広めること、これです。これが一切衆生憙見菩薩(のちの薬王菩薩)の焼身の大光明があまねく世界中を照らし出したということの意味なのです。  このことは、現在のわれわれ日本人のためにこそ説かれた教えだと、わたしには思われてならないのです。  この経文のはじめに、日月浄明徳如来のおられた世は、たいへん平和な、いい時代だったことが述べられています。それにもかかわらず、一切衆生憙見菩薩は一身を犠牲にして「行供養」をしたのです。  いまの日本も、日月浄明徳如来の世には遠く及ばないにしても、世界でいちばん平和で、幸せな国です。その平和と幸福に酔いしれていることなく、いまこそ法華経精神を説き広めるために挺身しなければならない……と、お釈迦さまがわれわれ日本人に指示されているように思われてならないのです。  その意味からしても、われわれ法華経の行者はこの薬王菩薩品を改めてしっかりと読み直し、覚悟を新たにしなければなりますまい。 生命を完全燃焼させよ  法華経行者でない一般の人々にとっては、この焼身ということをどのように受け取ったらいいのでしょうか。  それは「生命を完全燃焼させよ」ということだと思います。法華経は人間の生命の永遠性を説いています。現世の人生は確実に次の人生へ、次の次の人生へとつながっているのだ。だから人間としての無限の進歩のために、逆に悪道へと墜落してしまわないために、この世の一生を大事にせよ、きょう一日を精いっぱい生きよ……と教えているのです。  それも、自発的な完全燃焼でなければ意味はありません。一切衆生憙見菩薩が自ら進んで焼身したように。他から強制されていやいや燃焼したのでは中途で燃えつきてしまいます。いまの大方の学生が、高校までは受験勉強に完全燃焼させられ、大学に入ったとたんに虚脱してしまうのがその一例です。小学生・中学生が喜んで自分を完全燃焼させる場を与えられていないために、イジメ行為などに走ってしまうのは、もっと悲しい一例です。  右の第一の受け取り方でも、あとのほうの受け取り方でも、どちらでも結構。せっかくこの世に生まれてきたのですから、臨終の一瞬まで燃え尽きることのないよう、お互いさま精いっぱい生きようではありませんか。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば64

能く衆生をして歓喜し礼して、心を投じ敬(うやまい)を表して慇懃(おんごん)なることを成ぜしむ (無量義経・徳行品)

1 ...経典のことば(64) 立正佼成会会長 庭野日敬 能く衆生をして歓喜し礼して、心を投じ敬(うやまい)を表して慇懃(おんごん)なることを成ぜしむ (無量義経・徳行品) 見たいと欲せられる顔に  これは大荘厳菩薩をはじめとする多くの菩薩たちが、仏さまの相好(そうごう)をほめたたえたあとで申し上げたことばです。仏さまのお顔やお姿を拝していると、ひとりでに歓喜の心が湧き、尊敬の思いが生じてまいります……というのです。  顔つきなどはどうでもいいのだと言う人もありますが、そうではありません。大衆を指導する立場の人は、やはりある種の魅力をもっているべきなのです。宗教者でもそうですし、教師でもそうです。法華経の薬王品に登場する一切衆生憙見菩薩も、「すべての衆生が見ることを憙(ねが)う菩薩」という意味です。  卑近な例を一つあげましょう。  先年不幸な脅迫を受けたあのグリコが、いまのような大手メーカーにならない以前の話です。創業者の江崎利一社長があるデパートの食品売り場を視察していると、女学生の二、三人がキャラメルを買おうとしていました。――グリコを買ってくれるといいが――と思いながら見ていますと、彼女らの手は隣に並べてあった他のキャラメルに伸びたのです。  そこで江崎社長は彼女らにグリコを買わないわけを尋ねてみました。すると、「箱の人の顔が幽霊みたいで怖い」と言うのでした。大変なショックでした。その絵は、人が懸命に走っている様子を描いたもので、みんなが健康になってほしいという願いを込めて社長自身が考案したものでした。  言われてみると、表情があまりにリアルで苦しそうだったのです。そこでいろいろ考えをめぐらした結果そのころ開催された極東オリンピックに出場したフィリピン選手がニッコリ笑ってゴールインする姿がいいということになり、商標をそれに変えました。すると、たちまち売り上げが伸び、今日のような大会社になるキッカケとなったのです。顔一つといっても、バカにならないのです。 顔はゴマカセない  かといって、問題になるのは顔の造作ではありません。その表情が大切なのです。もっとつきつめていえば、内なる心ざまがおのずから滲(にじ)み出る顔貌、それこそが大切なのです。  標記のことばのずっと前に「衆生善業の因縁より出でたり」ということばがあります。仏さまのいまの立派さは、まだ普通の衆生であられたころの善行が因縁となって成就されたものだというのです。  またこのことばのすぐ後には「是れ自高我慢の除こるに因って、是の如き妙色の躯(み)を成就したまえり」とあります。自らを高しとする慢心などをすっかり捨て去られたからこそ、このようなスガスガしいお姿になられたのだ……というのです。  要は心ざまなのです。心に汚れがなければ、顔つきもひとりでに清らかになってきます。心が慈悲に満ちておれば、表情もおのずから慈悲円満の相になってきます。  それも、一日や二日でそんな変貌はとげられません。長い年月にわたる心の修養、魂の修行の積み重ねが、次第次第に顔つきを変えていくのです。リンカーンが、「人間四十歳になれば自分の顔に責任をもたねばならぬ」と言ったのは、まことに至言だと思います。  とにかく、口ではどんなゴマカシが言えても、顔だけはゴマカシがきかないと知るべきでしょう。まさに恐るべし、です。 題字と絵 難波淳郎 ...