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1673 件中の 421 件目~ 440 件目を表示
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59
...青年部の誕生 一 青年部の発足に当たって内容の細目ははなはだ漠然としていますが、具体的なことは逐次決めていったほうがよいだろうと思います。青年部のみなさんの精進いかんで、将来はすばらしい発展を遂げることと思います。 また、青年部のみなさんにとくにお願いすることは、物ごとすべてを善意に解釈することと、不退転の努力をなすことです。…
60
...機関誌「交成」発刊 一 戦後昭和二十三年八月に立正佼成会が宗教法人となったときの定款第一章に「社会浄化を図るため機関誌を発行する」と規定してあったのですが、これが実現して「交成」と名付けて機関誌の発刊を見たのは二十五年六月でした。 (昭和35年07月【速記録】) 機関誌「交成」発刊 二 昭和二十三年、旧本部拝殿ができたころ、すでに幹部の間から…
61
...諸施設の充実 一 その年(昭和二十三年)の暮れには、信者数一万八千世帯となっていた。 わずか二十五坪の本部兼道場ではどうにもならなかった。(中略)毎日毎日庭にむしろを敷き、ヨシズを張って、できるだけのことをしてみたが、それで追いつくものではなかった。 そこで、保谷にあった、もと軍需工場の練成道場を買い取って、移築し、本部修養道場とした。 (…
62
...会員激増 一 信者の少ないはじめのころは、一年一年が苦難の連続だったのです。しかもまた、その苦難が一面において信仰の法悦とでも申しますか、楽しい苦しみであったということもできたのです。 しいて言えば、私どもは創立当初においては、人間的考え方や常識をこえた神示と霊示による精神的修行を幾年か続けたのですが、それを信者の末端に、…
63
...地方布教 一 地方布教と名がつくほどのものは、昭和二十二年の茨城の野崎支部が最初で、その後、静岡・千葉・埼玉・神奈川・山梨・長野などがそれに次ぐ。 それも、現在のような計画的な布教ではなく、支部の発会式とか、道場の地鎮祭や落成式などにでかけたのを機会に、付近の信者たちに集まってもらい、説法をしたり、幹部指導をしたりしたものだった。 もっとも、…
64
...公益事業 一 新しい宗教といえば、世間の人びとのうちには、なんでも批判的に見たがるかたがあり、ややもすると新興宗教は現世利益を看板に掲げて、信者の数だけを増やそうとしているというように非難するのでありますが、私どもはつねづねみなさまに申し上げておりますとおり、立正佼成会の信仰はけっして病気治しや金儲けのための信仰ではないということであります。 …
65
...読売事件 一 最近、立正佼成会の発展をいろいろの眼でごらんになるかたがございまして、痛烈な批判──というよりりも攻撃せんがための攻撃を二か月余りも続けた大新聞もございます。 しかし、そのほとんどが的外れの批判であり、攻撃でありまして、立正佼成会の核心を衝いた本質的なものはないのであります。このようにたくさん頂戴したご批判の中に、あるいは二、…
66
...機関紙「交成新聞」発刊 一 現代は言論時代とか、マスコミュニケーション時代とか言いまして、ある場合には、報道によりまして人びとの気持ちをひじょうに間違った方向へ持って行けると同時に、正しい世論を喚起して大衆を啓蒙することもできるのであります。 これは、みなさんがすでに本年一月下旬以来新聞というものに対しまして、経験なすったことと思います。…
67
...続く試練 一 私の妻子が帰京して来た二十九年ころから、会の上層部に変な動きが目立つようになった。もっとも、このような空気はだいぶ前からあったのだが、第二の階段がどうやら収拾されたころから激しく表面化してきたのである。妙佼先生の住居(通称「お山」)の六畳間に毎日のように集まり、何事か相談しているようすだった。 そして、…
68
...果たされたお役 一 私どもは会長、副会長としてご法一途に足りないながらもこの二十年間、みなさまのご協力によって精進もでき、今日の教勢を見ることかできたのですが、現在のような教団としての秩序が備わったことの第一の原因は、妙佼先生が終始一貫、一歩下がって私のような者を会長として立ててくださり、…
69
...神々の降臨 一 霊友会では、降神して啓示を聞くことを、重要な行としていた。私も、妙佼先生も、新井先生から系統的な指導を受けていた。それが、立正佼成会を創立して一年ぐらいたったころから、ひじょうに強く現われるようになった。朝から晩まで〈神〉に引きまわされた。下がってくる〈神〉は、不動明王、八幡大菩薩、毘沙門天、七面大明神、日蓮大菩薩が主だった…
70
...証明役として 一 妙佼先生は、長く病身で、また精神面の悩みがあり、明けても暮れてもせいせいした気持ちになれなかったかたです。それが、信仰の道に入り、一転して幸福になってみなさんの前に立ち現われたのです。 そして「私を手本にしなさい。この法華経を持った者はかくのごとく幸せになる。商売も繁盛する。病気も治って健康になる」と、事実を端的に示し、…
71
...遷化 一 妙佼先生は、三十一年の晩秋あたりから、健康の衰えが目につきはじめました。それと反比例して、その布教活動はますます激しくなりました。以前に乳ガンの手術をされたことがありましたが、退院五日目には壇上に立って説法されたのです。それほどの強い精神力の持ち主でした。 しかし、こんどの場合は何かようすが違うように感じられました。…
72
...方便時代 一 ふりかえってみますと、不思議と十年ごとに竹の節のような節があり、その節を境としていちじるしい躍進をとげているのであります。 第一の十年は、いわゆる日中戦争のさなかに本会が創立され、その戦争がしだいに泥沼におちいり、ついに太平洋戦争に突入し、そして日本国はじまって以来の大敗北を喫し、みじめな戦後社会を迎えるという大動乱期にあって、…
73
...方便時代の意義 一 わが会は菩薩の集団です。行動的仏教者の集まりです。それゆえ、草創の時代は、六波羅蜜の順序のとおり、いきなり「布施」から入ったものです。 「何はともあれ、人を救うのだ。現実に悩み苦しんでいる人を、とりあえずその現実の苦悩から救うのだ」と、ガムシャラともいうべき布教、法施の行を展開しました。そして、じつに爆発的な成果をあげたのです…
74
...創立二十周年を迎えるにあたって 一 これまで立正佼成会は、教義を二義的に考え、実践中心でまいりました。あれも実行、これも実行、一にも実践、二にも実践ということで来たのであります。 (昭和32年11月【速記録】) 私どもは、成仏を願い、一生懸命信仰しているのです。成仏は言葉を換えて言えば、人格の完成です。 まず、家庭にあっては、…
75
...新しき時代へ 一 妙佼先生の死によって、“神”の声を直接聞くことはできなくなった。私はこの現実を、「直接聞く必要がなくなったから聞けなくなったのだ」と、受け取ったのである。 妙佼先生に下がった“神”は、不動明王・八幡大菩薩・毘沙門天・七面大明神が主だった。すべて仏教を守護する“神々”であって、法華経を信奉する者の究極的な帰依の対象ではない…
『法華三部経』十巻の写経
【写真】
免震工事を見学する庭野日鑛2代会長
【写真】
佼成 1970年1月号 時代に即した布教活動を
【機関紙誌】
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