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法華三部経の要点 ◇◇67
立正佼成会会長 庭野日敬

法華経は全真理を統合した経典

部分的な真理は散在するが

 宝塔の中に真理の全身である多宝如来がおられると聞いた大楽説菩薩が「ぜひ多宝如来の仏身を拝みとう存じます。世尊の神力をもってどうぞ拝ませてください」とお釈迦さまにお願いします。するとお釈迦さまは「多宝如来は、十方世界に散らばっておられる諸仏の分身をことごとく呼び集めたうえでないと身をお現しにならないのである」とおおせられます。
 このことにも重大な意味があるのです。世の中には真理の教えはたくさんあります。哲学もそうですし、科学もそうです。道徳も人間の道を教え、文学も人生の真実を伝えています。しかし、それらは真理の部分部分を明らかにしたものです。それに対して法華経はあらゆる真理を統合した経典です。
 ですから、法華経が真実であることを証明しようとするならば、どうしても全宇宙に散らばっている真理の部分部分の教えを一ヵ所に集めたうえでなければ証明できないわけです。
 そこでお釈迦さまは、まず十方世界の真理の教えをことごとく呼び集め、またご自分の分身をも呼び集められました。それを見とどけられたお釈迦さまはスーッと空中におのぼりになり、宝塔の頂上の前におとどまりになりました。
 そして右手(智慧の象徴)でギーッと宝塔の扉をおひらきになりますと、その中に、多宝如来があたかも禅定に入ったかのように身動きもせず座しておられるのです。梵語の経文からの訳には「あたかも瞑想を完成したかのように、四肢が痩せ身体は衰えて玉座に座り」とあります。
 ということはつまり、真理は尊いものではあるけれども、ジッとしているだけでは意味がないということにほかなりません。真理はそれが動き出し、多くの人びとのために説かれ、理解され、そして活用されてこそ意義が生じてくるということが、多宝仏の右のようなお姿に象徴されているのです。

行動こそが決め手である

 玉座の中央に座っておられた多宝如来はおん身を半ばおずらしになり、「釈迦牟尼仏よ。どうぞこの座におつきください」とおおせられました。釈迦牟尼仏はすぐ宝塔の中にはいられ、多宝仏と並んでお座りになりました。このことを「二仏同座」といい、見宝塔品の要点中の要点といっていいでしょう。
 二仏同座は何を意味するかといいますと、真理そのものと、真理を説く人とは同格であり、同じように尊い存在であるということです。前にも申しましたように、真理はだれかによって説かれ、理解され、活用されてこそ意義が生じてくるものだからであります。
 法華経は、多宝如来が大音声を発して言われたように、すべての人間が平等に仏性を持っていることを説き、その仏性を顕現するための菩薩行を教える経典です。
 そのことは、方便品の「万善成仏」の法門から説き始められています。子供が遊び半分に砂の上に仏さまの絵を描くという素朴な行為ですら、成仏の因となるとあります。その行為によって仏性が育てられていくわけですから。
 譬諭品の『三車火宅の譬え』では、羊の引く車や鹿の引く車や牛の引く車を求めて門の外へ走り出るという行動こそが救われにほかならない、と説かれています。信解品の『長者窮子の譬え』でも、窮子が二十年間もコツコツと汚い所を掃除する働きをつづけたからこそ長者(仏)の後継ぎになれたのだ、とあります。
 われわれ今日の信仰者にとっても、その道理はまったく不変です。行動こそが大事なのです。だからこそ、法華経信仰者を特に法華経行者というのであります。
                                                     

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