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法華三部経の要点 ◇◇55
立正佼成会会長 庭野日敬

 創造と調和の世界こそ現実の宝処

全体の幸せのための創造

 前回では「化城宝処の譬え」をおおむね個人の人生に即して解説しました。そして「宝処」とは何かということまで立ち至ることはできませんでしたので、ここであらためてそのことを吟味してみましょう。
 元の意味での宝処はもちろん「仏の悟り」ですが、それはまずさておいて、ここでは二十世紀末あるいは二十一世紀の現実世界における宝処とは何かということについて考えてみることにします。
 前回に「前へ前へと歩きつづけねばならないのが人間のさだめである」と述べましたが、その「前へ歩く」とはどんなことかといいますと、「創造すること」です。価値あるものごと、すなわち自分をも他人をも、世の中全体をもしあわせにするものごとをつくり出していくことです。
 なにも「大きな仕事を」というのではありません。また、「物」を造り出すことばかりが創造ではありません。流通にせよ、サービスにせよ、文化活動にせよ、すべてが創造なのです。その人その人の才能や職分に応じ、それぞれの持ち前を正しく、十分に発揮しつくせば、それが創造なのです。
 そうした創造のはたらきは、かならず目に見えぬところで総合され、大きな、ダイナミックな調和をつくり上げるものです。そのような創造と調和の状態こそが、人類究極の理想の姿「この上ない宝もの」だと断じていいでしょう。
 お釈迦さまは、救われの一つの段階として「我(が)を捨てよ。現象を超越せよ。そうすれば心の安らぎを得ることができるのだ」と教えられました。つまり「化城」の中での安らぎです。ところが、自分自身はそうした安らぎを得てみたところで、世間のおおぜいの人があいかわらず苦しみもがいているのでは、その安らぎは独善的な自己満足に過ぎません。ですから、その「化城」を出て、人間みんなのしあわせのための創造的人生に歩み出す、それこそが宝処への再出発にほかならないのです。

後戻ってのやり直しも

 もう一つ断っておきたいことがあります。前回に「後戻りしてはならない」と書きましたが、ただ一つ例外があります。それは、道に迷ったときの、やり直しのための一時的な後戻りです。こういう実例があります。
 初めての山に挑んだパーティーが道に迷ってしまいました。六人のうちの五人は「なあに、そのうち見当がつくさ」と、そのまま進んでみることにしましたが、一人だけは「そんないい加減なことはできない。おれはおれのやり方でやる」と頑固に主張してそこに残りました。
 ただひとりになったその人は、いま来た道を後戻りして、正しいルート上だったことが確認できる地点まで帰りました。そして、その場所を原点としてほかのルートをたどり、それも間違いだとわかるとまた原点まで戻り、また他のルートをたどってみるというやり方で、八度もやり直したあげくついに正しい道をみつけて助かったのでした。あとで、他の五人はけわしい谷間で遺体となって発見されたそうです。
 いまの人類がそのとおりではないでしょうか。間違った道に踏み込んでいるのではないでしょうか。このまま進めば、破滅に立ち至るのではないかと心配されます。その悲劇から逃れるためには、いっぺん人間らしい人間という原点、自然と人間との共存という原点に立ち戻り、正しい道を発見して再出発すべきではないでしょうか。
 法華経全体がそうですけれども、特に化城諭品は、人類の未来についていろいろなことを考えさせる一章です。
                                                     

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