法華三部経の要点 ◇◇66
立正佼成会会長 庭野日敬
多宝如来は真理そのものだが
宝塔には如来の全身います
見宝塔品に入ります。この品には初めから終わりまで不可思議な神秘的なシーンが展開されますがその一つ一つが重大な意味を持っていますので、どうしても解説の必要がありましょう。
前の法師品の説法が終わるやいなや、目の前の地上に、さまざまな美しい宝に飾られた光り輝く大塔がこつぜんと浮かび上がりました。そして、その宝塔の中から大音声(だいおんじょう)が響きわたり、「善哉、善哉。釈迦牟尼世尊は、すべての人間が平等に仏性を持つことを見通す智慧(平等大慧)に基づき、すべての人に菩薩の道を示す教え(教菩薩法)という、もろもろの仏が秘要として護ってこられた(仏所護念)妙法蓮華経をお説きになりました。まことに説かれる通りです。すべてが真実です。実に素晴らしい」と賞賛し、証明されるのです。
一同はその荘厳な情景に言い知れぬ感動を覚えるのですが、大楽説菩薩という人がお釈迦さまに「どういうわけでこのような美しい塔が地中から湧き出し、このような大音声が響きわたったのでしょうか」とお尋ねします。するとお釈迦さまは「この宝塔の中には如来の全身がおられるのである」とお答えになります。
如来とは「真如(しんにょ=根本の真理)から来た人」のことですから、つまり、この塔の中には宇宙の真理の完全なすがたがあるというわけです。
真理の現れは自由自在
宇宙の真理(真如)の完全なすがたと言っても、われわれ凡夫にはどうもピンときません。そこでお釈迦さまは、それを多宝如来という人格を持った仏さまとして説かれたのです。はるかなむかしに多宝如来という仏さまがおられ、その仏さまがまだ菩薩の時代に「自分が仏となったのち、いずれの世界ででも法華経が説かれるならば、その説法会の前に大塔を出現させ、その教えの真実を証明し、賞賛しよう」という誓願を立てられた……とお説きになりました。
このように、根本の真理という目に見えないものに人格を与えますと、凡夫にもなんとなく信仰の焦点が定まってくるからです。
キリスト教では、創造主である無形の絶対神に対しても「天にましますわれらが父よ」と言って祈ります。これも、「天にまします神」つまり、目に見ることのできない神を「父」という言葉で象徴して、人間にとってよりわかりやすく表現したものです。いずれにしても宗教信仰においては、信仰の対象を心にしっかりとつかみとるということが、なによりも大切なことだからです。
ここで、一つ心得ておきたいことがあります。仏教では「三身一体(さんじんいったい)」といって、法身仏(ほっしんぶつ=根本の真理である真如そのものである本仏)と、報身仏(ほうしんぶつ=法身がわれわれに理解できるような人格をそなえられた仏)と、応身仏(おうしんぶつ=真如に基づいて衆生教化のためにこの世に出現された仏、つまり釈迦牟尼仏のこと)とはもともと一体であるとしています。すなわち、『妙法蓮華経』を説かれたお釈迦さまこそ、この三身をそなえられた仏であり、その現れは自由自在であるということです。
このことを心の底にしっかりとつかまえることができてこそ、この品に充ち満ちている神秘的な出来事も腑(ふ)に落ちることと思います。