法華三部経の要点 ◇◇58
立正佼成会会長 庭野日敬
問題多きものをも見放されなかった釈尊
問題多き比丘・迦留陀夷も
五百品の一つの特色は、お釈迦さまに手間をかけさせてばかりいた問題多き比丘の迦留陀夷(かるだい)と、知恵遅れの周陀(しゅだ)が「仏の悟りを得るであろう」と保証されたことです。
迦留陀夷はカピラバスト国の名門の出で、太子時代のお釈迦さまのご学友でしたが、才気にあふれ、弁舌さわやかな美男子でした。太子が出家された後、外務大臣もしくは移動大使ともいうべき要職にあり、後に祇園精舎が建てられたコーサラ国に駐在し、そこの大臣の妻と問題を起こしたほどのプレーボーイでした。
カピラバストの浄飯王は、出家されたお釈迦さまを何とか翻意させて太子の地位へ引き戻そうと考え、この迦留陀夷を使者としてつかわしましたが、かえってお釈迦さまに教化されてお弟子入りをしてしまいました。
しかし、出家したとはいえ、在俗時代の素行はなかなか改まらず、沙弥(少年僧)たちの先頭に立って村々を歩きまわり、人びとをからかったり、大声で騒ぎちらしたりしました。若い比丘をなぐる。他教の修行者とケンカをする。祇園精舎の森のカラスを得意の弓で何羽も射落とす。そうしたヤンチャばかりでなく、出家の身でありながら、いろいろと女性問題を起こし、比丘尼や在家信者たちがお釈迦さまに訴え出たこともたびたびでした。
お釈迦さまは、そのつどこんこんと戒められました。迦留陀夷は恐れ入っておわびを申し上げるのですが、しばらくするとまたいたずらの虫が頭をもたげるのでした。それでもお釈迦さまは、教団から追放されることなく、辛抱づよく見守っておられました。
悟りをひらいてからの彼は家庭教化の名人となり、舎衞城の一千軒の家庭を夫婦もろとも仏道に導いたのでした。最後には、かつて自分が教化した女が人妻でありながら盗賊の首領と通じたのを改心させようと努め、かえってその女に謀られ、盗賊に殺されるという壮烈な殉教を遂げたのでした。
知恵遅れの周陀も悟った
周陀は周梨槃陀迦(しゅりはんだか=しゅりはんどく)の略です。たいへんな知恵遅れで、兄の離婆多(りはた・この五百品で一緒に授記された頭脳明せきな仏弟子)が出家した後は暮らしにも困っていました。そこで、兄にすすめられて出家し祇園精舎入りをしたのですが、なにしろ自分の名前さえ覚えられず、板に書いてもらって首にさげているという始末でした。
ましてや偈ひとつ覚えることもできなかったので、兄は最終的な励ましとして「おまえのような者はとても仏法を学ぶことはできない。出て行きなさい」と、祇園精舎の外へ押し出してしまいました。
門の外でシクシク泣いている周陀をみつけられたお釈迦さまは、「心配せずにここで暮らすがよい」と慰められ、一本のほうきを与えて「これで毎日精舎を掃除しなさい。掃除しながら『塵を払わん、垢を除かん』と唱えなさい」と命じられました。
周陀はいいつけられたとおりを懸命に行じましたが、この偈だけはなかなか覚えられず苦心しました。しかし、一心というものは恐ろしいもので、いつしか完全に唱えることができるようになり、と同時に、なんともいえぬすがすがしい心境に達したのです。ある日久しぶりに弟の顔を見た離婆多は「あッ、おまえは悟りをひらいたな」と言いました。そのとおりで、知恵遅れだった周陀も、後にお釈迦さまに命じられて比丘尼たちに説法するまでになったのでした。
この二人への授記は、後世の凡夫であるわれわれにとって絶大なる励ましです。と同時に、どんな人間をも見放すことをされなかったお釈迦さまの大慈悲にただただ頭の下がる思いを禁じえません。ありがたいことではありませんか。
立正佼成会会長 庭野日敬
問題多きものをも見放されなかった釈尊
問題多き比丘・迦留陀夷も
五百品の一つの特色は、お釈迦さまに手間をかけさせてばかりいた問題多き比丘の迦留陀夷(かるだい)と、知恵遅れの周陀(しゅだ)が「仏の悟りを得るであろう」と保証されたことです。
迦留陀夷はカピラバスト国の名門の出で、太子時代のお釈迦さまのご学友でしたが、才気にあふれ、弁舌さわやかな美男子でした。太子が出家された後、外務大臣もしくは移動大使ともいうべき要職にあり、後に祇園精舎が建てられたコーサラ国に駐在し、そこの大臣の妻と問題を起こしたほどのプレーボーイでした。
カピラバストの浄飯王は、出家されたお釈迦さまを何とか翻意させて太子の地位へ引き戻そうと考え、この迦留陀夷を使者としてつかわしましたが、かえってお釈迦さまに教化されてお弟子入りをしてしまいました。
しかし、出家したとはいえ、在俗時代の素行はなかなか改まらず、沙弥(少年僧)たちの先頭に立って村々を歩きまわり、人びとをからかったり、大声で騒ぎちらしたりしました。若い比丘をなぐる。他教の修行者とケンカをする。祇園精舎の森のカラスを得意の弓で何羽も射落とす。そうしたヤンチャばかりでなく、出家の身でありながら、いろいろと女性問題を起こし、比丘尼や在家信者たちがお釈迦さまに訴え出たこともたびたびでした。
お釈迦さまは、そのつどこんこんと戒められました。迦留陀夷は恐れ入っておわびを申し上げるのですが、しばらくするとまたいたずらの虫が頭をもたげるのでした。それでもお釈迦さまは、教団から追放されることなく、辛抱づよく見守っておられました。
悟りをひらいてからの彼は家庭教化の名人となり、舎衞城の一千軒の家庭を夫婦もろとも仏道に導いたのでした。最後には、かつて自分が教化した女が人妻でありながら盗賊の首領と通じたのを改心させようと努め、かえってその女に謀られ、盗賊に殺されるという壮烈な殉教を遂げたのでした。
知恵遅れの周陀も悟った
周陀は周梨槃陀迦(しゅりはんだか=しゅりはんどく)の略です。たいへんな知恵遅れで、兄の離婆多(りはた・この五百品で一緒に授記された頭脳明せきな仏弟子)が出家した後は暮らしにも困っていました。そこで、兄にすすめられて出家し祇園精舎入りをしたのですが、なにしろ自分の名前さえ覚えられず、板に書いてもらって首にさげているという始末でした。
ましてや偈ひとつ覚えることもできなかったので、兄は最終的な励ましとして「おまえのような者はとても仏法を学ぶことはできない。出て行きなさい」と、祇園精舎の外へ押し出してしまいました。
門の外でシクシク泣いている周陀をみつけられたお釈迦さまは、「心配せずにここで暮らすがよい」と慰められ、一本のほうきを与えて「これで毎日精舎を掃除しなさい。掃除しながら『塵を払わん、垢を除かん』と唱えなさい」と命じられました。
周陀はいいつけられたとおりを懸命に行じましたが、この偈だけはなかなか覚えられず苦心しました。しかし、一心というものは恐ろしいもので、いつしか完全に唱えることができるようになり、と同時に、なんともいえぬすがすがしい心境に達したのです。ある日久しぶりに弟の顔を見た離婆多は「あッ、おまえは悟りをひらいたな」と言いました。そのとおりで、知恵遅れだった周陀も、後にお釈迦さまに命じられて比丘尼たちに説法するまでになったのでした。
この二人への授記は、後世の凡夫であるわれわれにとって絶大なる励ましです。と同時に、どんな人間をも見放すことをされなかったお釈迦さまの大慈悲にただただ頭の下がる思いを禁じえません。ありがたいことではありませんか。