法華三部経の要点 ◇◇65
立正佼成会会長 庭野日敬
こだわりのない心で人に対せよ
衣・座・室の三軌
法師品の要点中の要点は「わたしの滅後にこの法華経を説く時は、如来の室に入り、如来の衣(ころも)を着、如来の座に座して説きなさい」と教えられた、いわゆる衣(え)・座・室の三軌でありましょう。その三軌を「如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり」と解説なさっています。
ただ概念的に「大慈悲心を持て。忍耐せよ。空の悟りを基本にせよ」とおっしゃるのでなく、部屋・衣服・座席という具体的な物に即して説かれたところに、人々の心を把握しておられるお釈迦さまの説法名手ぶりがよく現れています。前回に「象徴」の大切さを強調しましたが、ここにもまたそれが巧みに用いられているのです。
如来の室というのは大広間です。そこには大勢の人が入れます。大慈悲心の象徴です。衣服は寒さを防ぎ、外傷から身を護ります。妨害・中傷・悪口など、説法者に加えられるマイナス行為に動揺しない忍耐心の象徴です。座というのは座席です。座席はどっかと腰を落ち着けている所ですから、つまり「空」がすべての説法の不動の座標となるべきだということの象徴です。説法者はこの三つの心構えの上に立って法を説けと教えられているわけです。
空の原理からが入りやすい
さて、その三軌の中の慈悲は感性に関するものです。柔和忍辱の心もおおむね感情の問題ですから、それを持とうと思っただけではなかなかその通りにできるものではありません。そこで、理性的な現代人にとっていちばん入りやすいのは最後の「空」という仏法の基本原理でありましょう。
空といっても、それを完璧に解説するには一冊の本が必要なほど難しい問題ですが、現実のわれわれの心がけとして煮つめてみますと、結局「現実の姿にこだわらない」ということに帰すると思います。すべての人は仏性をもち、久遠の仏さまに生かされている存在ですから、現象に現れている姿にこだわることなく、どの人にも同じ気持ちで対する、そういった態度こそが「如来の座」であり、それはひとりでに慈悲の心にも、柔和忍辱の心にもつながるものだと思います。
福沢諭吉が少年のころ、知能の遅れたチエという若い女性がよく彼の家へやって来ました。諭吉の母親は快くそれを迎えて庭に座らせ、髪のシラミを取ってやってから、何か恵みものをして帰らせるのを常としていました。
諭吉は母親が取ってやったシラミを庭石の上に乗せて小石でつぶす役目をさせられるのが毎度のことでした。汚いし、臭いし、いやでたまりません。ある日、「母上、胸が悪くなりました。やめさせてください」と言いました。すると母親は、「情けない人ですね。チエはね、シラミを取ってもらうと気持ちがよくなることを知っているんですよ。しかし、自分ではシラミが取れないから、こうしてやって来るんです。チエができなければ、できる人がしてあげるのが当然ではないですか。同じ人間ですもの」と、こんこんと言い聞かせました。
後日、「天は人の上に人をつくらず。人の下に人をつくらず」という不滅の名言を残した福沢諭吉をつくったのは、母親のこうした「諸法空」の心であり、それに基づいた家庭教育だったのです。
衣・座・室の三軌は決して別々の徳目ではなく、密接につながっているのです。ですから、いちばん入りやすい「現象の姿にこだわらず、人と人とを差別しない」という「空の座」から出発すれば、ひとりでに「慈悲心の室」にも入り、「柔和忍辱の衣」を着ることもできるものと思います。