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法華三部経の要点 ◇◇50
立正佼成会会長 庭野日敬

人の本質を見れば一体感が生ずる

真の意味の「人間発見」

 化城諭品には、深い意味を美しい情景に象徴させた表現がたくさんあります。その随一は次の一節でしょう。
 「大通智勝仏阿耨多羅三藐三菩提を得たまいし時、十方各五百万億の諸仏世界六種に震動し、其の国の中間幽冥の処、日月の威光も照すこと能わざる所、而も皆大に明らかなり。其の中の衆生各相見ることを得て、咸(ことごと)く是の言を作(な)さく、此の中に云何(いかん)ぞ忽ちに衆生を生ぜる」
 現代語に抄訳しますと、こういうことです。――大通智勝仏が無上の悟りを得られたとき、十方世界の諸仏の世界が感動にうち震い、それらの世界の中間にある日月の光も届かない暗やみの場所が急に明るくなった。そこにいた人間たちは、自分のまわりに大勢の仲間がいることを発見して、「おや、どうしてこんなに大勢の人間が急に生じたのだろう」と言い合った――
 われわれは、身の回りに多くの人間を見ています。それはたいてい姿・形を見ているだけで、その本質を見ていません。すべての人間が宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の仏の子であるという本質を見ていないのです。ですから、見ているようで、ほんとうは見ていないのです。そうした心の状態を「幽冥の処、日月の威光も照すこと能わざる所」と言ってあるわけです。
 ところが、大通智勝仏が仏の悟りを得られると、にわかにそのやみの世界が明るくなった。そして、まわりにだれもいないと思っていたのに急に大勢の人間仲間がいることが見えてきた。その意味はもはや説明の要もないでしょう。

「縁」というものを見直そう

 いまの日本には、ここに説かれている「幽冥の処」にいる状態にある人がたくさんいるのではないでしょうか。一緒に住んでいながら、親が子を見ていない。子にも親が見えない。夫には妻が見えず、妻も夫が見えない。見ようともしない。だから、一日じゅう口をきかない親子が生まれ、帰宅拒否の夫が生まれ、離婚願望の妻が生まれるのです。
 こういう人たちにこそ仏法を説いてあげたいものです。せめて仏教でつよく教える「縁」ということをじっくりと話してあげたいものです。
 「袖(そで)すり合うも他生(たしょう)の縁」という言葉があります。道で見知らぬ人とすれ違い、袖と袖とが触れ合った。それも前世からの因縁によるものだというのです。「他生」でなく「多生」だという説もあります。何十ぺん・何百ぺんも死に変わり生まれ変わりながらつくりあげてきた縁があってこそ、袖を触れ合ったのだというのです。
 ただ一瞬、袖を触れ合っただけでもそうなのですから、ましてや、親子・夫婦となった縁がどれぐらい深いものか、それを考えてほしいものです。
 いまこの地球上には五十億の人間が生きています。あなた方夫婦はその中の二人です。「五十億分の二」という考えられぬほどの希少な確率で結び合わされた二人です。親子ともなれば、結び合いどころではない。もともと血を分けた仲なのです。同じ細胞から分かれた細胞を持ち、共通の遺伝子を持つ間柄なのです。
 こういう深い深い「縁」というものに思いを致し、それをしみじみとかみしめれば、相手に対する「愛(いと)しい」という感情が湧(わ)いて来ざるを得ないはずです。「愛しい」という感情が湧けば、心の表面を去来する反目とか疎隔といった気持ちはたちまち解消してしまいます。なぜならば、その瞬間に相手との一体感が生ずるからです。この一体感こそが、相手と自分をほんとうに結び合わせるものなのです。
 そして、この一体感を夫婦・親子といった身近なものから、隣人、そして世界中の人々へと少しずつでも拡大していくことです。「此の中に云何ぞ忽ちに衆生を生ぜる」といううれしい驚きも、ここまで深まってこそ、ほんとうの幸せに到達するものと知るべきでしょう。
                                                                   

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