法華三部経の要点 ◇◇57
立正佼成会会長 庭野日敬
富楼那は布教者の最高の手本
半歩主義で好リードを
五百品の中で過去世の富楼那をお褒めになるお言葉に、見過ごしてはならない教えがあります。
「彼の仏世の人咸(ことごと)く皆、之を実に是れ声聞なりと謂(おも)えり。而も富楼那は斯の方便を以て無量百千の衆生を饒益(にょうやく)し」とあります。
富楼那は立派な菩薩でありながら、常にへりくだって一介の声聞のようにふるまい、そうした方便によって多くの人々を教化したというのです。あとの偈にも「自ら是れ声聞なり 仏道を去ること甚だ遠しと説く」(「わたしはまだ修行中の身なんですよ。仏の悟りなんぞまだまだ遠い先のことです」と話す)とあります。
そんな下がった態度でおれば、一般の人々は一種の親近感をおぼえて気安く付き合い、気軽に話を聞くことができます。そうしているうちに、富楼那の人柄に自然と感化され、またその素晴らしい教化力に導かれて、いつの間にかしっかりした信仰者となっているのです。
わたしはこれを「半歩主義」と名づけ、一般の人を導くうえでいちばん好ましい、そして効果的な態度として推奨したいのです。
お釈迦さまのような大威徳を持ったお方は別として、名も聞いたこともないような人がお導きをしようと近づいてこられた場合、一般の人が心からの信頼を持って迎えるとは思えません。もし偉そうにしておれば、近づき難い感じを覚えましょうし、かえって反発を感じる人もありましょう。
ですから、賢明な布教者は、一歩ではなく、半歩だけ未信の人より先を歩んでいるぐらいの気持ちでいなければならないのです。信仰の場合だけでなく、世間よろずのことで人をリードする時、特に青少年の場合は、これに限ります。後輩たちは、兄貴といったような親しみを覚えて、心からその人についてくるのです。ボーイ・スカウトなどがうまくいっているのはそのせいなのです。そして富楼那は、そういった態度のいい手本なのであります。
人・天交接して
富楼那への授記のお言葉のうち、もう一つ大切な一句があります。「諸天の宮殿近く虚空に処し、人・天交接(きょうしょう)して両(ふた)つながら相見ることを得」です。
天人の宮殿が地上のごく近い空中に浮かび、人間界のものは天上界をまざまざと見ることができ、天上界のものは人間界をまざまざと見ることができ、お互いに心が通い合うのである……というのです。
人間界のものは財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲といった欲を追いかけ、煩悩にふりまわされて生きていますが、天上界のものはそうした煩悩にとらわれない清らかな身であるとされています。従ってわれわれは、ふつう人間界と天上界は別々のはるかに離れた世界であると思っています。
ところが、人間界全体に仏法がひろまれば、人間界と天上界の区別はほとんどなくなってしまいます。つまり、仏法を信じ行じることによって人間としてのさまざまな欲望も、自行化他の善のエネルギーとなってしまうからです。
そこで、清らかさという点では人間界と天上界はぐっと近づき、ますますこの世を楽土と化していくであろうということなのです。これがこの句に含まれている深い意味であります。
ですから、われわれ佼成会員が朝夕のご供養で唱える回向唱に「先祖代々過去帳一切の精霊。別しては今日命日に当たる精霊志す所の諸精霊」とありますのも、一種の「人・天交接」であるとも言えましょう。われわれは天上界の方々を見ることはできませんが、天上界の方々はわれわれを見ていてくださるに相違ありません。それを信じながらご供養しなければならないのです。ついでながら、大歌人、窪田空穂の傑作を紹介しておきます。
我が心引きしまる時は大空は手もて触るべく近寄りきたる
立正佼成会会長 庭野日敬
富楼那は布教者の最高の手本
半歩主義で好リードを
五百品の中で過去世の富楼那をお褒めになるお言葉に、見過ごしてはならない教えがあります。
「彼の仏世の人咸(ことごと)く皆、之を実に是れ声聞なりと謂(おも)えり。而も富楼那は斯の方便を以て無量百千の衆生を饒益(にょうやく)し」とあります。
富楼那は立派な菩薩でありながら、常にへりくだって一介の声聞のようにふるまい、そうした方便によって多くの人々を教化したというのです。あとの偈にも「自ら是れ声聞なり 仏道を去ること甚だ遠しと説く」(「わたしはまだ修行中の身なんですよ。仏の悟りなんぞまだまだ遠い先のことです」と話す)とあります。
そんな下がった態度でおれば、一般の人々は一種の親近感をおぼえて気安く付き合い、気軽に話を聞くことができます。そうしているうちに、富楼那の人柄に自然と感化され、またその素晴らしい教化力に導かれて、いつの間にかしっかりした信仰者となっているのです。
わたしはこれを「半歩主義」と名づけ、一般の人を導くうえでいちばん好ましい、そして効果的な態度として推奨したいのです。
お釈迦さまのような大威徳を持ったお方は別として、名も聞いたこともないような人がお導きをしようと近づいてこられた場合、一般の人が心からの信頼を持って迎えるとは思えません。もし偉そうにしておれば、近づき難い感じを覚えましょうし、かえって反発を感じる人もありましょう。
ですから、賢明な布教者は、一歩ではなく、半歩だけ未信の人より先を歩んでいるぐらいの気持ちでいなければならないのです。信仰の場合だけでなく、世間よろずのことで人をリードする時、特に青少年の場合は、これに限ります。後輩たちは、兄貴といったような親しみを覚えて、心からその人についてくるのです。ボーイ・スカウトなどがうまくいっているのはそのせいなのです。そして富楼那は、そういった態度のいい手本なのであります。
人・天交接して
富楼那への授記のお言葉のうち、もう一つ大切な一句があります。「諸天の宮殿近く虚空に処し、人・天交接(きょうしょう)して両(ふた)つながら相見ることを得」です。
天人の宮殿が地上のごく近い空中に浮かび、人間界のものは天上界をまざまざと見ることができ、天上界のものは人間界をまざまざと見ることができ、お互いに心が通い合うのである……というのです。
人間界のものは財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲といった欲を追いかけ、煩悩にふりまわされて生きていますが、天上界のものはそうした煩悩にとらわれない清らかな身であるとされています。従ってわれわれは、ふつう人間界と天上界は別々のはるかに離れた世界であると思っています。
ところが、人間界全体に仏法がひろまれば、人間界と天上界の区別はほとんどなくなってしまいます。つまり、仏法を信じ行じることによって人間としてのさまざまな欲望も、自行化他の善のエネルギーとなってしまうからです。
そこで、清らかさという点では人間界と天上界はぐっと近づき、ますますこの世を楽土と化していくであろうということなのです。これがこの句に含まれている深い意味であります。
ですから、われわれ佼成会員が朝夕のご供養で唱える回向唱に「先祖代々過去帳一切の精霊。別しては今日命日に当たる精霊志す所の諸精霊」とありますのも、一種の「人・天交接」であるとも言えましょう。われわれは天上界の方々を見ることはできませんが、天上界の方々はわれわれを見ていてくださるに相違ありません。それを信じながらご供養しなければならないのです。ついでながら、大歌人、窪田空穂の傑作を紹介しておきます。
我が心引きしまる時は大空は手もて触るべく近寄りきたる