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法華三部経の要点 ◇◇56
立正佼成会会長 庭野日敬

 説法第一の富楼那に学ぼう

「助宣」の今日的な解釈

 五百弟子受記品に進みましょう。この品は多くの弟子たちが「将来かならず仏の悟りを得るであろう」という保証を頂く章ですが、経文の大半は富楼那という高弟への授記とお褒めの言葉に尽くされています。お釈迦さまがよほどの信頼を託された人物であったのでしょう。こうおおせられています。
 「我常に其の説法人の中に於て最も第一たりと称し、亦常に其の種種の功徳を歎ず。精勤して我が法を護持し助宣し、能く四衆に於て示教利喜し、具足して仏の正法を解釈して、大に同梵行者を饒益す。如来を捨(お)いてよりは、能く其の言論の弁を尽くすものなけん」 
この一節の中に布教の心得がおおむね尽くされていますので、その要点をあげて説明することにしましょう。
 第一に「我が法を護持し助宣し」とあります。この護持、すなわちお釈迦さまのお説きになった法を心の底から信じ、護り持(たも)っていること。これが布教者にとって絶対不可欠の第一条件です。いささかでも疑念などを抱いていたのでは、自然と人を説得するだけの迫力が不足してくるからです。
 また「助宣」ということも大事な要件です。直訳すれば、お釈迦さまの助手として教えを宣(の)べ伝えることですが、後世のわれわれとしては次のように解釈すべきでしょう。
 タテには時代の移り変わりがあり、ヨコにはさまざまに風習の異なる国や民族があり、それぞれに環境や生活様式やものの考え方がずいぶん違ってくるものです。そうした差別相を無視して千遍一律な説き方をしたのでは、根本においては万世不変である仏法であっても、すべての人を納得させることはできません。ですから、二千五百年前にインドで説かれた正法に、それぞれの差別相に応じた解釈を加えて人びとに「なるほど」と領得してもらってこそ、仏さまの説かれた正法が生きてくるのです。これが「助宣」の現代的な受け取り方であり、そのあとに「仏の正法を解釈して」とあるその「解釈」もやはりそういった意味に考えていいと思います。

教えを説く合理的な順序

 次に「示教利喜し」とあります。これは教えを説き、人を導く合理的な順序です。
 第一に、教えのあらましを示します。のっけから細かいことを説いたりすると、初心の人には何のことやらわからず、かえってそっぽを向かれてしまいましょう。ですから、未信の人も心を動かすような話題を選んで仏教のすばらしさを説くのです。それが「示」です。
 そして、相手の人が「なるほど」と心を動かしたら、そこでもっと深く教えの意味を説いてあげます。それが「教」です。
 教えの内容がほぼ理解できたら、次には教えを実行して得られる利益(りやく)を話します。それが「利」です。相手によってはこれを第一に持ってきてもよいのであって、そこは隨宜説法(ずいぎせっぽう=相手に応じて適宜な説き方をする)でいくことです。
 そうしていよいよその人が教えに入ったら、絶えず感激を覚え、法の喜びを感じるように仕向けるのです。それが「喜」です。そこまでいけば、その人はもはや退転することはないでしょう。
 もう一つ、お釈迦さまや富楼那に学ばなければならないことは、「わかりやすい言葉で法を説く」ということです。お釈迦さまは、マガダ国ではマガダ国の俗語で、コーサラ国ではその地方の方言で法を説かれたといいます。
 富楼那は六十種もの言語に通じていて、どんな辺境にも布教に出かけて行ったといいます。今後の日本人は世界人とならなければなりません。政治家や事業人はもちろんですが、信仰者にしても、これからの若い人は、この点においても富楼那の後を継ぐ意気込みを持ってもらいたいものです。
                                                     

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