法華三部経の要点 ◇◇69
立正佼成会会長 庭野日敬
現実から理想へ理想から現実へ
まず現実の大安心を
法華経は、すべての人間が仏となるという究極の理想を説きながらも、決して現実をおろそかにしていません。例えば信解品の『長者窮子の譬え』においても、父の長者(仏)が窮子(衆生)に「ずっとここで働きなさい。そうすれば賃金も上げてやろうし、米とか麺(めん)とか塩や酢など、日々の必需品は必ず供給するから、安心して働くがいい」と生活の保証をしています。つまり、信仰による安心(あんじん)の境地を説き、考えようによっては現世利益を約束しているとも受け取れるのです。
そうした理想と現実の絡み合いは法華経全巻に見られるのですが、この見宝塔品では、次に挙げる一節に見られるように、ひとまず理想への希求が説かれています。「爾の時に大衆、二如来の七宝塔中の師子座上に在して結跏趺坐(けっかふざ)したもうを見たてまつり、各是の念をなさく、仏高遠に坐したまえり。唯願わくは如来、神通力を以て我が等輩(ともがら)をして倶に虚空に処せしめたまえ」。
仏さまはわれわれよりはるかに遠い所にいらっしゃる、われわれもあの境地にまで達したいものだ……と大衆は願ったのです。するとお釈迦さまは、ただちに大衆を宝塔のある虚空へ引き上げてくださいました。つまり、理想への希求を承認してくださったわけです。
これから先、『嘱累品第二十二』までは虚空で説かれたということになっています。『序品』からこの『見宝塔品』までは霊鷲山で説かれたのですが、『薬王品第二十三』以降は虚空から再び地上である霊鷲山に戻って説かれたとされており、これを「二処三会」と言い、法華経の重要な教相となっています。つまり、信仰もまず現実の問題から入り、次第に理想の境地へと向かうけれども、理想の境地を体得したら再び現実に立ち返り、一段と高い次元で現実の諸問題を解決しなければならない。それが信仰というものの大筋なのだ……というのです。まことに完ぺきな構造の教えであると言わざるをえません。
教化・養成には二方針あり
この品にはもう一つの要点があります。それは最後のところにある「六難九易」の法門です。「須弥山を手にとって他の世界へ投げ移したり、足の指で大千世界を動かしたりすることは難しそうだがまだまだ易しい。わたしの滅後の悪世で法華経を説くことのほうがずっと難しいのだ」といったような、ふつうの見方からすれば正反対のことがいろいろ説かれています。
教義的に見ればさまざまな解釈ができます。例えば「あなたが確かな存在であると思っている心身は、空なのですよ」と説いてもなかなかわかってもらえない。それほど難解な真理なのだ。……といったような意味だという考え方もありましょう。しかし、それよりも、六難九易の法門は教化や養成の方法の一つだと考えたほうがより適切なようです。
おおまかに見て、教化や養成の行き方には二通りあります。例えば三味線を習いに来た人に、初めはやさしい曲から入らせて、「上手、上手」とほめながらだんだん難しい曲へと進ませていく行き方が一つ。もう一つは、専門家を志す人には「一人前の三味線弾きになるには二十年かかると思いなさい」と最初にドカンとおどかす行き方です。そう言われて逃げ腰になる人はしょせん専門家にはなれない人で、「よし、やってみせるぞ」と発奮し、覚悟を固める人こそがモノになるのです。難しいことは承知の上でけいこしているうちに次第にそれに引き込まれ、夢中になってしまうのです。
「六難九易」の法門も、この後者のように受け取るべきだと思います。法華経の信仰には専門家・素人の相違はないのですけれども、とにかく難信難解を承知の上で必死に取り組む人こそがその神髓を体得できるのだ……というわけでありましょう。
立正佼成会会長 庭野日敬
現実から理想へ理想から現実へ
まず現実の大安心を
法華経は、すべての人間が仏となるという究極の理想を説きながらも、決して現実をおろそかにしていません。例えば信解品の『長者窮子の譬え』においても、父の長者(仏)が窮子(衆生)に「ずっとここで働きなさい。そうすれば賃金も上げてやろうし、米とか麺(めん)とか塩や酢など、日々の必需品は必ず供給するから、安心して働くがいい」と生活の保証をしています。つまり、信仰による安心(あんじん)の境地を説き、考えようによっては現世利益を約束しているとも受け取れるのです。
そうした理想と現実の絡み合いは法華経全巻に見られるのですが、この見宝塔品では、次に挙げる一節に見られるように、ひとまず理想への希求が説かれています。「爾の時に大衆、二如来の七宝塔中の師子座上に在して結跏趺坐(けっかふざ)したもうを見たてまつり、各是の念をなさく、仏高遠に坐したまえり。唯願わくは如来、神通力を以て我が等輩(ともがら)をして倶に虚空に処せしめたまえ」。
仏さまはわれわれよりはるかに遠い所にいらっしゃる、われわれもあの境地にまで達したいものだ……と大衆は願ったのです。するとお釈迦さまは、ただちに大衆を宝塔のある虚空へ引き上げてくださいました。つまり、理想への希求を承認してくださったわけです。
これから先、『嘱累品第二十二』までは虚空で説かれたということになっています。『序品』からこの『見宝塔品』までは霊鷲山で説かれたのですが、『薬王品第二十三』以降は虚空から再び地上である霊鷲山に戻って説かれたとされており、これを「二処三会」と言い、法華経の重要な教相となっています。つまり、信仰もまず現実の問題から入り、次第に理想の境地へと向かうけれども、理想の境地を体得したら再び現実に立ち返り、一段と高い次元で現実の諸問題を解決しなければならない。それが信仰というものの大筋なのだ……というのです。まことに完ぺきな構造の教えであると言わざるをえません。
教化・養成には二方針あり
この品にはもう一つの要点があります。それは最後のところにある「六難九易」の法門です。「須弥山を手にとって他の世界へ投げ移したり、足の指で大千世界を動かしたりすることは難しそうだがまだまだ易しい。わたしの滅後の悪世で法華経を説くことのほうがずっと難しいのだ」といったような、ふつうの見方からすれば正反対のことがいろいろ説かれています。
教義的に見ればさまざまな解釈ができます。例えば「あなたが確かな存在であると思っている心身は、空なのですよ」と説いてもなかなかわかってもらえない。それほど難解な真理なのだ。……といったような意味だという考え方もありましょう。しかし、それよりも、六難九易の法門は教化や養成の方法の一つだと考えたほうがより適切なようです。
おおまかに見て、教化や養成の行き方には二通りあります。例えば三味線を習いに来た人に、初めはやさしい曲から入らせて、「上手、上手」とほめながらだんだん難しい曲へと進ませていく行き方が一つ。もう一つは、専門家を志す人には「一人前の三味線弾きになるには二十年かかると思いなさい」と最初にドカンとおどかす行き方です。そう言われて逃げ腰になる人はしょせん専門家にはなれない人で、「よし、やってみせるぞ」と発奮し、覚悟を固める人こそがモノになるのです。難しいことは承知の上でけいこしているうちに次第にそれに引き込まれ、夢中になってしまうのです。
「六難九易」の法門も、この後者のように受け取るべきだと思います。法華経の信仰には専門家・素人の相違はないのですけれども、とにかく難信難解を承知の上で必死に取り組む人こそがその神髓を体得できるのだ……というわけでありましょう。