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法華三部経の要点 ◇◇64
立正佼成会会長 庭野日敬

象徴の尊さ大切さ

経巻の中に如来の全身が

 法師品の説法でお釈迦さまは、「薬王菩薩よ。法華経が読まれ、書かれ、説かれる所、そしてその経巻の安置されている場所には七宝の塔を建てよ。ただし、その中に仏舎利(ぶっしゃり=仏の遺骨)を納める必要はない」。その理由は、「此の中には已に如来の全身います(経巻の中には仏の全身が宿っているからだ)」とおおせられています。
 また、ずっと前のほうに「仏を罵る罪よりも、法華経を受持し読誦する者を罵る罪のほうがはるかに重い。仏をたたえる功徳よりも、法華経の持経者をほめたたえる功徳のほうがはるかに大きいのだ」ともお説きになっておられます。
 お釈迦さまはそんな私のないお方なのです。病身の老弟子バッカリを見舞いに行かれたとき、バッカリが「世尊にお目にかかりたくてたまらなかったのですけれども、こんな体で長い間くやんでおりましたから……」と申し上げると、「いや、いや。やがて死んで腐るわたしの肉体を見る必要はないのだよ。わたしを見るというのは法を見るということなんだよ」とおおせられました。
 私心というものが微塵(みじん)もなく、法(真理)をこそ第一とお考えのお方だったのです。「此の中には已に如来の全身います」の一句には、世尊の悟られた正法の全ぼうが尽くされているという意味はもちろんですが、こうした無私の正法尊重のご精神もこめられていることを知るべきでしょう。

象徴が人を神仏に近づける

 それにしても、「経巻所住の所に塔を建てよ」とはどういうことでしょうか。よく「仏像や仏塔を拝むのは偶像崇拝だ」と言う人もありますが、それは一方的な決めつけであって、われわれは帰依の対象である「見えざる仏」の象徴として拝むのです。
 この象徴というものが、われわれ凡夫にとっては非常に大切なものなのです。偶像否定のプロテスタントが多数の国であるアメリカにおいても、大統領の就任式には聖書に手を置いて誓いのことばを述べるではありませんか。
 また、アメリカの法廷では、聖書に手を置いて、正直な申し立てをすることを誓います。そうすることによって心が神に近づくからです。聖書は考えようによっては一種の「物」です。しかし、物ではあってもただの物ではない。真理の書であり、神の象徴なのです。われわれが拝む仏像も、仏塔も、そして法華経の経巻も、まさにそれなのです。
 ついでですが、ブッシュ大統領就任式の際のことばを思い出しましょう。
 「私は大統領として最初に行うことは祈ることである。『天にまします父よ、我々は頭を垂れ、あなたの愛に感謝します。今日をあらしめた平和と、その平和の継続を可能にする信仰を共有できることに対する我々の感謝を受け入れたまえ。(中略)正しい力の使い方がただ一つあります。それは人々に奉仕することであります。神よ、我々にそれを想起せしめよ。アーメン』」
 長々と引用しましたが、その理由はほかでもありません。政治の基底となるものは正しい信仰でなくてはならぬという認識を持ってもらいたいためです。政教分離は、制度の上では必要でしょう。しかし、正しい宗教が真理に帰依し、真理を行うものである以上、政治も経済もこれがバックボーンとならなければならない。それがないと必ず腐敗します。 
すこし脱線しましたが、これは大切な脱線だったと思います。ともあれ、象徴としての仏像などを礼拝し、供養することは、神仏に近づく正しい、そして賢明な手段だということを、ここのくだりから悟っていただきたいのであります。
                                                     

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