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...衆生済度 一 お釈迦さまは、ただ正法のみがあるのだと、おっしゃっています。 そして「正法によって、あらゆる仏さまはみな悟りを開いた。自分もそのとおり正法によって悟りを開いた。のちの仏さまも、やはり正法によって正覚を成ずるのである」 と『阿含経』の中でいわれております。 過去の仏も正法、正しい法則によって成仏された。自分も正法によって、悟りを得て、この法を説いて聞かせている。後の世でもやはり、この正法によってのみ成仏が可能であるということを、はっきりとおっしゃっているわけであります。 (昭和31年11月【速記録】) 衆生済度 二 この世の中のあり方をひじょうにご心配になってお説きになったお釈迦さまの一代記を読んでみますと、お釈迦さまが各地をお歩きになられると、そのあとから出家されたかたがひじょうに大勢集まったと書かれております。 これはお釈迦さまのご人格の尊さがしからしめるものでしょうが、それだけではなく、当時の世の中にあって、人びとの知恵ではどうにも解決のつかないことを、お釈迦さまが一つ一つ納得のいくように、本当に安心できるようにお話をなさったからこそ、大勢の人が随いてくることになったのではないでしょうか。 (昭和31年04月【速記録】) 衆生済度 三 この間『阿含経』を読んでみましたところ、ひじょうにありがたいことが書いてありました。 ヒンギ(賓耆)というバラモン教の少年が、お釈迦さまのところにきて、お釈迦さまのやっていることを、めったやたらにけなしたというのです。 お釈迦さまが腹を立てるだろうと思ったところが、返事をなさらないので、少年は「返事ができないのか」とお釈迦さまをゆさぶったというのです。それでもいっこうに返事をなさらない。 ヒンギはさかんにいきり立って、お釈迦さまを誹謗し、腹を立てさせようとするが、お釈迦さまは沈着冷静でいる。「どうして返事をしないのか」と、だんだん問いただしたところ「それじゃ返事をしよう。よく聞け」と、お釈迦さまはこうおっしゃったのです。 「あなたがたとえば、自分の親戚を招待して座敷へお招きした。そして、ごちそうをどっさり出した。ところが、客が食べなかったら、どうなさる」と、ヒンギの質問とはかなり違った譬え話をもち出されたのです。ヒンギはうっかりと「ごちそうを出しても客が食べなければ、自分で引き取るよりしようがない」と返事しました。 そこでお釈迦さまは「あなたが一生懸命、私の前で、悪口をならべるけれど、私は少しも受けつけない。ごちそうにならない。ごちそうにならなければ、あなたのところに、その言葉が返っていくのだから、あなたがいくらけなしても、私には通用しないんだよ」とおっしゃるのです。 どうです。お釈迦さまというかたは、なるほどありがたいかただなと、私は『阿含経』を読んで、自分の愚かさを懺悔したわけであります。 みなさんもごぞんじのように、立正佼成会では、祀り込みに来た導きの親に、ごちそうを出しても、ちょうだいしません。いかにすすめても、さっさと帰られてしまう。するとごちそうを出したかたはポカンとして、あとは仕舞い込むよりしようがない。 それと同じで、お釈迦さまは悟りを開いているものですから、どんなに面と向かってそしられても動じません。 そしてその答えが、じつにふるっているではありませんか。 そのヒンギという少年は、歓喜し、たちまちお釈迦さまに帰依して、お弟子になったということです。 ですから、「お導きができない」というみなさんの悩みをよく耳にすることがありますが、お導きができないとか、自分の主人を導けないとかいうことを、根本的に分析してみますと、こうした、お釈迦さまのような方便が足りず、活用していないからではないでしょうか。 (昭和31年11月【速記録】) お釈迦さまのように心の中に慈悲があって、すべてのことを正しく見る。これが八正道の最初の正見であります。このものの見方が正しく、考え方が平らで、日常の行為がきちんとしていて、そして自分の分かっただけのことを、なまけず、休まず、連続して精進すれば、どなたでも必ず悟れるわけであります。 そのことをお釈迦さまは、四諦・八正道という言葉で教えておられるのです。 同じことを立正佼成会では、いろいろな言葉に替えて教えております。みなさんが道場で、「下がれ」とか、「捨てろ」「とらわれるな」といわれる言葉がそれです。 ですから、みなさんは知らずにすでにやっていることですが、お経をお読みになるとき、そういう意味で四諦・八正道という言葉をご覧になると、なるほどここに書いてあることだな、ということがお分かりになると思います。 (昭和31年11月【速記録】) 衆生済度 四 お釈迦さまは私どもに五戒というものを説かれました。その五戒についての話が『阿含経』に出てきます。 バラモン教の信者で跋提という長者がいました。お姉さんは難陀といい、ふたりともたいへんな財産家でした。しかし、ふたりともいっこうに施しをする気持ちがありません。 このふたりに、なんとか施しをさせようというので目連尊者が話しに行きました。お導きに行ったわけです。 ところが、お釈迦さまはよく布施をさせるという評判が立っており、そのお弟子が来たものですから「布施をしろ」といわれるに違いないと跋提さんは思い「布施なんてまっぴらだ」と、欲の塊のようになって耳を横に向けておりました。 すると目連尊者が、いきなり「仏教には五大施というのがある」と話したものですから「そーら見ろ、また布施の話が始まった」と、耳に栓をせんばかりの気持ちで聞いています。 「それじゃ第一の布施は何だ」といったところ「生きものの生命を取らないということだ。不殺生だ」という答え。「何も生きものの生命を取る必要はないじゃないか。おもしろい布施だな」と考えて聞いていました。 「そのつぎは何だ」というと「盗みをしないことだ」と尊者が答えました。「ははーっ、自分は盗みなどぜんぜんしようと思っていないし、そんな必要もない。そんなことが五大施の一つなら」というので、さらに尋ねました。 「つぎには不邪淫だ」「自分にはりっぱな妻があるから、何もめかけや、てかけをつくる必要はない。これも私には守りやすいことだが、こんなことが布施なのかな」と、これも抵抗なく聞きました。 つぎは何か、と訊くと「不妄語。うそをつかないことだ」という。「これも自分にはぴったり。自分は多くの人間を使って、日ごろからみんなに、うそをついてはいけないと訓戒を与えているくらいだから、自分がかつてうそをついたことはない。そんなのが布施かね」と、すっかり喜んで、まっすぐに、素直に聞き入れたのです。 「五大施の最後は不飲酒。酒を飲んではならないことだ」「自分は酒があまり好きではないから、これも私には守りやすいことだ。お釈迦さまはそんなことを教えているのか」と、跋提長者がいいます。 尊者は五大施について諄々と説きますと、長者はたいへん喜んで「なるほど、五大施を守れば、世の中に罪をつくらないで、りっぱな行ないができるのか。これはありがたい話だ」と、さっそく「きょうは一つ朝めしを食べてください」と目連尊者にごちそうをしました。 目連尊者はまた二大施という区別もあり、法施と財施をいい、法施はご法を弘めるという布施、財施はものを施す布施だと、ひとしお深い意味を説きました。目連尊者は神力があって、跋提長者の腹の中を見通しておりますから、そういう話を諄々と聞かせたのです。 長者はすっかり喜んで、目連尊者が帰るときには「敷物を、おみやげにやろう」と蔵に入りました。敷物を出してみると、大きくて良すぎるので「こんなに良いのでなくてもいいんだがなあ」と、別なのを出してみると、また良すぎる。「小さい、おかしなものをやろう」と探しても、長者の蔵の中だからいい物ばかりしか出てこないのです。 ところが、尊者は長者の心が手にとるように分かるのです。そこで「今は闘いの時期ではない」と申しました。つまり、あれこれ迷って、心の中で闘っているべきではない。施しに闘いは禁物だというのです。長者はびっくりして、腹の中をすっかり見通されたことがわかり、その敷物を差し上げたのでした。 こうして目連尊者のお導きで、跋提と難陀という姉弟のふたりの長者は、やがて大いなる解悟、五果得の道をりっぱに果たすことになったということです。 このように私ども人間は、とかく強情で欲ばりで、物に執著するものです。そこで、みなさんがお導きがうまくゆかない場合は、あの人にはどんな方便を説いたら入会してくれるか、どんなことを言ったら話に聞き入ってくれるか、自分がどんな行ないをしたら、その行ないに感動して入会することになるか、といった方便がひじょうに難しいのじゃないかと思います。 さきの話のようにお釈迦さまのお弟子さんがたは、お師匠さんがりっぱなら、お弟子さんもりっぱなかたがたですから、どんな人の腹の中も見通して、欲深い人には、その欲が大きければ大きいほど、布施の行をさせて功徳を積ませ、諄々と悟りを開かせたということが『阿含経』の中にくわしく書かれているのであります。 (昭和31年11月【速記録】)...
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...縁起観 一 信仰をしていないかたは因縁なんていうと、すべて悪いことばかりを考えてしまいますが、実際はそうでなくて、不幸があっても信仰している人にはうまくすらすら物ごとが運ぶのであります。 ついせんだっても新宗連(新日本宗教団体連合会)の楠事務局長のお坊っちゃんが、オート三輪車にはね飛ばされ大怪我をいたしました。舌を幾針も縫い左腕を折ってしまったほどの大事故で、本当にお気の毒なことでしたが、不幸中の幸いとでも申しましょうか、いろいろのお手配がすらすらとついて迅速に傷の処置ができたのであります。 事故の現場を折よく自動車が通りかかりましたので、ただちに佼成病院に運ぶことができたのですが、時間がもう夕方でしたので、いつもならば宿直の先生しかいないはずのところ、ちょうどこの日に限って外科のお医者さんがたが帰り仕度をしているところだったのであります。そこでお医者さんの手が揃いましたので、時を移さず手術室にはこんで、とどこおりなく傷の手当ができたのであります。 このようなことは偶然といえばそれまでですが、自動車が折よく通りかかったことといい、手術の運びが迅速にできたことといい、まったくちゃんと予定していたように準備が整っていた、と言ってもいいほどだったということは、やはり縁につながっていたと言えると思うのであります。 ですから“大難が小難”ですむということも、この因縁を説いた言葉でありまして、最悪の事態の場合でも縁によってこのように良い結果を得るのであります。そこに信仰があり感謝の気持ちも起こってくるのであります。 このように、世の中のことはすべて助け合い、寄り合いの縁につながるものであるということをお釈迦さまがお説きになっているのでありまして、その現象の因をたずねてみますると、すべて自分の心の働きであるということが分かるのであります。そこで私どもはつねに正しい心を持って、正しい願いを持って行けという仏さまの教え、ご法というものもおのずから分かってくるのであります。 (昭和32年05月【佼成】) 私どもは時々刻々に自分に現われてくる問題を、仏さまのみ教えのとおりに解決しておけばいいのであります。ですから朝起きたならば朝の行ない、昼になったなら昼の行ないを懈怠なく、自分が本当に神仏のご加護がいただけるような心構えに、それを処して行く素直な気持ちになれば、自然に因縁も解決されるのであります。 (昭和29年12月【佼成】) 縁起観 二 みなさんが“自分よりまず人さま”ということと、宇宙全体がかかわりあい、もちつもたれつの関係にあることを、分かっていただき、悪いことをすれば必ず悪いことが起こるという因縁因果の法則を心の底から認識されれば、本来悪いことができなくなるものです。 ところが「正直者がバカを見る」などということを平気で言って、それが常識になっているような時代なのですから、そういう人に、本当は正直者が得をするのだということをよく教えなければなりません。この因縁因果の法則を教えたお経を読んで、そのことがよく分かると思います。 ものには必ず順序があります。宇宙では無数の星が一糸乱れず、衝突することなく整然と動いています。太陽系では地球も、他の惑星も太陽を中心として動いています。同じように人間も、自分の置かれた条件の中で、自然の法則どおり順序よく動けば、幸せになることは当たり前なのです。 お釈迦さまは、みずから人間の姿でこの世に出て来られ、その当たり前の道をお説きになったのです。それが経典となって示されているわけです。 (昭和31年06月【速記録】) 縁起観 三 十二因縁と申しますと、三部経を読んでいられるかたはすでにお分かりのことと存じますが、「無明」ということがいちばん初めに出てまいります。 つぎは行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死というように十二に分け、その中で「無明」という字は明らかでないと書いてありますから、(中略)この「無明」といういちばん根本となるところの始まりがわけの分からないものであります。そして行というのは、その「無明」というものに立っての行でありますから、(中略)今世には努力なさるけれどもいっこうに救われなくて、いろいろの困難な問題が相次いで起こるのであります。 このような人は、人さまから見ればひじょうな努力家でも、自分がうまく行かぬときには、世をはかなんで恨んでみたり、最近ではすぐ「社会悪」の影響だとかと騒ぎ回り「こんな弱い身体や運の悪いのは自分のせいではない」と親を恨んだりするのであります。 しかし、これはけっして親を恨む筋合いのものではなく、自分そのものの魂の中に、元やった行為が自分についているのであって、それは親の胎内にやどを貸してもらったけれども、親が悪いからではなく自分自体がそういう因果を持ってきているのであります。 魂が人間になるということは、母親の胎内に宿ったときに胎児という形ができて、識別がつくことを「識」というのでありまして、これが今世のいちばん初めになるのであります。 この「識」のつぎが「名色」となるのでありまして、仏教で「色」というのは物質(肉体)のことであります。そこでその「名」というのが心の問題を指していうのでありまして、「色」が体でありますから、心と身体であり、魂と肉体ということであります。 いよいよ魂があって身体ができて、母体の胎内にだんだんと成長してくるわけであります。しかも胎児は目も耳も口もちゃんとできて生まれるのであります。 この「名色」のつぎが「六入」であります。要するにこれは目ができ耳ができることでありまして、お山詣りをするときに、よく六根清浄と唱えますことは、お経にある眼・耳・鼻・舌・身・意のことであります。この六つがチャンと区別がついてハッキリすることを「六入」というのであります。 「六入」に入って目鼻がつくと、いよいよこの娑婆すなわち今世へ生まれ出るのであります。今世に生まれるやいなや自分自身の感覚的な触感の生活が始まるのであります。「触」というのは三歳ぐらいになって物心がつくと、冷たいとか熱いとかいうことがますます分かってくるのであります。 そのつぎが「受」でありまして、五、六歳から十五、六歳ぐらいになりますと、こんどは人さまの感化と影響を敏感にドンドン受け入れるようになるのであります。要するに親や先生の教えを受け世間のすべてのことを覚えるという働きを十五、六歳ごろまでは「受」という問題で経験するのであります。 さらに十七、八歳の思春期になりますると、精神的にも肉体的にも普通に発育した人ならば異性を求める「愛」という問題が起こるのであります。これはだれでもそういう心理状態になるのでありまして、お釈迦さまはこれを「愛」という言葉で表現されておるのであります。 「愛」のつぎには「取」という問題であります。すなわち愛情だけでなく、そういう人を自分が取ったらということで、つぎが「有」となると、取りたいというのではなく、もう自分の主人なり奥さんになってしまった問題をいうのであります。するとそこに欲望が起こり、物欲・色欲・名誉欲等、五欲が起こるのであります。 このように考えてまいりますと、最初の「無明」と「行」と「識」と「名色」と「六入」ということまでは胎内における五つの問題で、「触」と「受」と「愛」と「取」と「有」との五つは現世の問題であります。 すなわちそうした行為が自分たちのすべてを決定するわけでありまして、自分のものにするのに手段を選ばずということになると、同じ「取」でも本当に純粋のものでなくて、ひじょうに深い罪を作ることになるのであります。(中略) つぎに母親の胎内の問題と、生まれ出てからの問題と、さらにつぎの世に生まれる問題がでてくるのであります。中でも四苦という問題は、お釈迦さまも生老病死をお説きになり、涅槃を究竟せしめるとありますように、四諦の法輪をお説きになる根本はここにあるのであります。 生老病死の問題は人に責任をもってもらうことのできないことで、自分自体で解決しなければならない問題をいかに処理するかということが、お釈迦さまでもいちばん大きな悩みの根本であり、それはまたわれわれ一切衆生の悩みであるわけであります。 これは、お釈迦さまご自身がお悟りになったことを、一切衆生に認識させたいという大慈大悲のお気持ちが四諦の法輪となり、さらにその意味をよく分からせるために十二因縁の法をお説きになった。前世から生まれて物心がついてからおとなになるまでの間の問題を十に分け、さらに来世に生、老死・憂悲・苦悩の二つをお説きになったのであります。 (昭和32年01月【佼成】) 縁起観 四 因果の法則については、最近出てくるいろいろの問題を考えて見ますると分かるのであります。 たとえば母の胎内におったときの「名色」「六入」というような問題で、名は体を表わすというが、みなさんの知らないうちに名前がついたとする。親御さんは子どもを幸せにしたいと思って選んでつけたところが九画とか四画であったりして画数がよくない、こういうようなことが知らないうちにきまっているのでありますが、やはり前世からそういう名前がつく前に、親の心をそのように動かすものなのであります。 十二因縁のほうから言いますと、心の動きというものや前世の行為というものからだんだん成長して今世になってくる。今世になってしだいに物心がついておとなになってみると、私どものすべての行為が全部総決算されて、自分の因縁として出てくるのであります。すなわち名前までもそういうふうにつくということは、十二因縁の法則から申しますとなるほどと分かるのであります。 最近日本では太陽族などと言いまして、青少年の問題で指導者がひじょうに悩んでいるようでありますが、人間は母体の胎内にいるうちに「識」からその問題が起こって、だんだんと「名色」「六入」というような問題が現われてくるのですから、母の胎教が悪いと似てくるのは当然であります。 仏教の教えからすれば子どもは授かりものであると考えることがたいせつであると思います。人間の霊魂を無視し、生命というものの神秘を認めない唯物的生物学的な考えしかもたぬ親から生まれた子どもは、大きくなっても人格の優れた人物になることは少ないのであります。 要するに親たる者は胎内に子どもが宿ったときに、すべてのことを善意に解釈するような心、すなわち深い信仰を持ち修養をしなければならないと思います。(中略) 因縁という言葉を聞くと何か抹香臭いような感じがするという人もございます。立正佼成会ではその上に名前や行為や病気についてまで因縁という言葉を使いますが、お釈迦さまは二千五百年も前に十二因縁ということを説いておられるのを見ましても、今日そのとおりになっているのであります。 お釈迦さまは過去・現在・未来を一貫したところの法を、この十二因縁という言葉をもってお説きになっているのであります。実際に二千五百年前にお釈迦さまがご自分で悩みを抱いて、この悩みを解決するために精進された結果、これを理論的に説明されたこの十二因縁によりまして、前世から今世にいたるまでの関係が分かり、現在の心根性や境遇というもののすべては、自分自体でだんだん積み重ねてきたものであることが分かるのであります。 さらにまた来世においての生と老死というものを説いているのであります。すなわち無明は行に縁たり、行は識に縁たり、識は名色に縁たり、名色は六入に縁たり、六入は触に縁たり、触は受に縁たり、受は愛に縁たり、愛は取に縁たり、取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死・憂悲・苦悩に縁たりとありますように、私たちの苦しみの根本不幸の根は正しく最初の無明にあるのであります。 なぜ無明が苦しみや不幸の根本なのかと申せば、初めの無明と最後の老死・憂悲・苦悩とが縁によってつながるからであります。縁と言いますのは因と果との仲人のような役をするもので、親子の縁にしても夫婦の縁にしても、縁によって固く結ばれております。 それと同じように無明から行に縁があり、行から識にという順に、終わりの憂悲・苦悩と離れない縁があるのであります。 しからばいかにすれば苦を除いて真の幸福が得られるのでしょうか。(中略) 無明滅すれば則ち行滅す、行滅すれば則ち識滅す、識滅すれば則ち名色滅す、名色滅すれば則ち六入滅す、六入滅すれば則ち触滅す、触滅すれば則ち受滅す、受滅すれば則ち愛滅す、愛滅すれば則ち取滅す、取滅すれば則ち有滅す、有滅すれば則ち生滅す、生滅すれば則ち老死・憂悲・苦悩滅す、と教えられております。滅するということは断ち切る、なくするということでありまして、(中略)私たちの心の暗であるところの根本の無明をなくしさえすれば順々に因縁がなくなってまいります。(中略) 仏教はどこまでも自分自体が悟るための奥深い人間的内省の教えであります。しかし私たち凡夫は、自分では正しいと信じても、とかく間違った道に入ってしまうものであります。 そこで本会で結んでもらうということをつねに申しますように、へりくだった気持ちで、先輩から自分で悟るためのヒントを与えていただくのであります。結局ご法の根本は「無明」という分からない問題を自分で掘り下げて悟ることであると思います。 それをハッキリと識り、それが行為となって現われ、さらに識別されなければ、いかに仏教を信仰し立正佼成会に入っても、すべての幸福感というものは出てこないものであります。 これを要するに因果律とか、因果の法則とか、すべてお釈迦さまのお説きになったご法を根本的な指針として、自分の行為を考えなければ救われないのであります。 (昭和32年01月【佼成】)...
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...因縁果報(四諦の法門) 一 四諦の法門とは、苦・集・滅・道ということをお説きになったものです。 まず「苦」。 「苦」はなぜ生ずるのか、苦はなぜ苦なのか。“人生は苦である”とか“苦の娑婆”とかいわれているけれども、人間お互いがわがままをし、勝手なことをして、案外世の中の実態を深刻に考えないようです。 簡単に苦とはいっても苦らしく真剣に考えないようです。 苦にはまず、生老病死があります。だんだん年をとり、やがて病むこともある。どうかすると死んでしまう。これは人間である以上避けられない、仕方のないことです。 ところが、日常は、そういうことをあまり考えないで、ぼやっとしているものです。 お釈迦さまが四諦の法門をお説きになった趣旨は、つまるところ人間の苦の実態をはっきりわかるように示されたのだと思います。 いわゆる四苦・八苦という言葉がありますが、生老病死が四苦、そのほかに、私どもが求めているものがなかなか手に入らないという苦もあれば、自分の不心得から出てくる煩悩によって生み出される苦もある。 また、いつまでも可愛い人に会っていたいと思っても、なかなか一緒にいられないという苦、会いたくない人に会わなければならない苦といったいろいろの苦があります。 それを大別して四苦・八苦といいますが、まだまだたくさんあります。 (昭和30年07月【速記録】) お釈迦さまは人間の苦の中で最も大きなものとして、生老病死の苦を挙げておられます。これは人さまに責任を転嫁することのできないもので、自分がこの娑婆に生まれた以上だんだん年をとるということは当然であります。永い一生の間には病気にもなるわけであります。 たとえ患いがなくとも、人生の最後には総決算としてだれでもが貧富の別なく彼の世に行かなければならない。この生老病死という苦は、だれにもどこにも責任を負わせることはできない。人間生まれたときからみな自分で背負ってきたものであることを、お釈迦さまはよく説き明かされているのであります。 お経を見ますと、お釈迦さまはこの問題をいちばん最初にお悟りを開かれたとき、五人の比丘に生老病死ということと涅槃の境地とについてお説きになったのであります。 (昭和31年07月【佼成】) 因縁果報(四諦の法門) 二 「苦」の実態を説かれたあとは「集」であります。 苦が重なっている状態を調べてみると原因があります。それが集です。その苦の出てくる根拠は何かということを調べてみると、知らず知らずのうちに苦の原因を自分たちが作っていることが分かります。 たとえばみなさんがよく懺悔話をされますが、親を親とも思わなかったとか、主人を立てないで、いろいろと因縁を出して、自分勝手なことをしていたとか、主人のほうでも二号をもったとか、自分で苦の原因を作っているわけです。すると苦がますます集まってきます。 よく考えてみると、初めは面白いと思って始めたことが、じつは苦の「集」になっているのです。要するに苦の根本を自分で作っているわけです。こういう原因があるから、こんなふうに苦がだんだん濃さを増してくる。それが集であります。 つぎに「滅」です。苦をなくすためには、どうしたらよいか。どういう気持ちになったらよいか。 私どもにはわずらわしい名誉欲とか、物質欲とか、驕慢の欲とか、いろいろの欲があります。そういう欲を抱いているのが集諦の根本であり、苦の原因をつくっているわけです。 そうしたことに対し、心を本当に清浄にし、もののあり方を真に悟ると、これが滅の状態であります。安楽の涅槃寂静の状態になります。その境界を寂光土とか、安楽世界とかいうのです。 (昭和30年07月【速記録】) 因縁果報(四諦の法門) 三 滅のつぎは「道」です。 これは順序からいうとちょっとおかしいようでありますが、最初に苦諦を説き、つぎに集諦を説き、つぎに滅諦、さらに道諦を説いておられます。 いちばん最後の道諦というのは、悟りを開いて本当に安楽な気持ちになるには、どんなことをしたらよいかを説かれたのです。道であり、つまり道であります。こういう修行をすれば、こういう悟りの境界に到達できるのだという生き方を説いたものです。 ここでも苦集と同じく、滅道というように、結果のほうを先にお説きになり、つぎにその原因を説かれています。私どもが毎日こうして道場に集まり、お互いに暑い中で一生懸命お導きをして仏道修行に励んでいます。これが道諦です。道を守るのに欠かせないのが導きです。 お互いに、この導きというのは楽ではありませんが、これを深く考えてみますと、お導きをしてだんだんに修行させてもらううちに、今までひじょうにたいせつに思えていたものが、まったく何の価値もないことが分かってきます。 たとえば、主人が幾ら稼いでも足りないような生活をしていた人が、生活の実態を調べてみると、そのことがつまらない虚栄心のために、まったく無価値なものを求めていたことが分かってくる。 そのつまらない虚栄を張る金を、電車賃に替え、毎日人さまをお導きする。そしてひとりひとり安心立命の人をつくっていく。これが自分の真の行くべき道であり、その道なんとしても守らなければならない、歩まなければならない道だということを悟ると、その生活、心の状態はまことにのんびりしたものになるわけです。 また、おれがおれがという気持ちが強く、自分の思うようにならないで苦しんでいた人が「自分よりも、まず人さまのために」という気持ちになって一歩を踏み出す。 するとすべてのことが少しも苦にならなくなるわけです。「ああ、こんな境界があったのか。こういう道があったのか。こういうことをすればよかったのか」というような順序で悟れるわけです。 本部や道場においでになるみなさんは、ひじょうに明るい顔をなさっています。これは苦集滅道という四諦の法門の最後の道諦の修行をさせてもらって、いくらかでも悟りを得られた結果であると思います。 お釈迦さまは、この四諦の法門を、まっ先に説法されました。このことから考えてみますと、やはり凡夫には結果を先に説かなければだめなのです。こういう結果がある。ではそのもとは何か、ということをだんだん説いていく。 そのように私どもが納得のいくように、お釈迦さまがお説きになったからこそ、当時の人びとがつぎからつぎへと出家をされ、その後について行き、大きな人の列がインドに展開されたのであります。 (昭和30年07月【速記録】) 因縁果報(四諦の法門) 四 本会の行学園正面頂上の鼓楼は、みなさまもごらんのとおり、八角形になっておりますが、これはお釈迦さまのお説きになられた八正道を形に現わして作ってあるのでございます。(中略) これはお釈迦さまが涅槃に入る“道”を正道と言って、その道に八つあることをお説きになり、正しい人生の道の根本をお示しくださったのであると言われております。 八正道と言いますと、文字だけをちょっと見ますと簡単のようですが、考えてみればみるほど、味わってみればみるほど、また実行してみればみるほど難しいのであります。 そしてまず第一に、「正見」──すなわち物を正しく見るということをお説きになっております。 これは自分自体を正しく内省しなくてはならないでしょうし、自分の周囲の具合もよく見なくてはならない、それもみな、自分たちの我見や邪見の眼で見てはならない。私どもの見るところは、ややもするとひじょうに偏見的になりやすいからであります。 自分をなるべくりっぱに見せたい。自分の立場をよくしたいというような考えが先に立つのであります。これでは正見でなく邪見になってしまうのであります。また自分の知っている範囲のことだけにとらわれて、ほかにもっと求め、もっと奥の真の意義を悟ろうとしない偏見の見方をしておるものであります。 そういうようなことでは八正道の第一歩の”正見”からしてすでに落第なのであります。 第二には「正思」ということであります。 すなわち物の考え方が正しいことでありますが、つねに心を正しく持つことは第一番の正見がパスしていれば、自分自体を正しく見、また周囲の環境をも完全に見ることができるのであります。さもないと正しいことを考え、心の働きを正しくすることは不可能であります。その正しいところの正思、心を正しくすることに努めて、間違った考えはただちに直すことがたいせつであると存ずるのであります。 人間というものは何かに突き当たってどうにも解決のつかないようなときには、ご法に縋って案外簡単に陰を信じたり、神仏にたよる気持ちにもなるものでありますが、どうにか勝手なことができるうちはなかなか正しく考えないで、自分の考えがいちばんよいのだという気持ちになるのであります。 たとえばお参りするということがなんていやなことだろう、科学のひじょうに発達した今日の世の中に、医者にかかれば病気は治るのに、なぜお参りなんかに行くのか、またお医者が絶対に安静だというのに道場に通って病気が治るのかというような考え──これは正しく思う、すなわち正思に至っていない証拠ではないでしょうか。 正しく思っているならば、本当の安静というものはまず心が正しくなって、物の見方をもっと深く考え、すべての物のあり方を正しく思惟することによって、なるほど本当の安静は信仰を元として得られるものだということを自覚するはずであります。 これが理解できれば、肉体だけを休めておいてもけっして安静にはならず、逆に心を正しくするようなご法を実行し、神仏にお誓いをしてなんら動揺することのない境地に到達した気持ちになるというのが、真の安静であると理解できるのであります。 第三の教えは「正語」であります。 これは言葉に現われるところが、すべて正しいということであります。 観普賢経(仏説観普賢菩薩行法経)の中に「舌根は五種の悪口の不善業を起す」とありますように、禍いというもののほとんどが口から起こると申しても過言ではありません。ご法にも聞法と言いまして、私どもが最初に認識させていただくためには、なんと言ってもお話を聞くことが第一番に必要であります。聞くということは言葉を聞くのでありますから、この言葉ほど大事なものはないのであります。 みなさんは道場で「お体裁じゃいけない」と言われますが、お体裁なんということもみんな口からであります。心にもないお世辞をいう、真実でないのに真実のような顔をする、このお体裁の本家本元は口でありますが、自分の心に、はっきりと意識して言っているならば、まだお体裁とは言えないかもしれません。本当にありがたいと思ってありがたいというのは、お体裁ではないのであります。 逆に心ではありがたく思わないのに、この場合ありがたいと言ったほうが都合がよいから、ちょいとありがたいと言っておこうというのがお体裁であります。そこで、「舌根は五種の悪口の不善業を起す」と言いますと、口で言う五つの悪いことで、妄語、悪口、両舌、綺語、誹謗であります。 すなわち妄語は嘘を吐くこと、悪口は人の悪を挙げること、両舌は人を離間するようなことを言い、こちらの人にうまいことを言って、向こうの人に行ってまたうまいことを言い、ぜんぜん正体はどこにあるか分からないようなことを言う、行き当たりバッタリのことを言って世の中を惑わし人びとを争わせるのであります。 綺語とは人を挑発煽動するように誇張して言うこと、誹謗は人の欠点をさがし、正法の行なわれることに妨げをすることで、要するに闘争というものの大部分はこの五種の悪口から起こるのであります。 このように、正しい言葉を吐くことはなかなか難しいものであります。正見と正思が完全にできれば正しいことをいつも考え、心の働きが正しいものでありますから、自然に正しい言葉、すなわち正語が口から出るわけであると説かれているのであります。 第四には「正業」であります。毎日の行ないが正しいことでありまして、私どもは頭の中でこれはよいことであると判断し、よいことをすべきであるということは分かっても、これを実践に移さなくてはなんにもなりません。みなさんが道場におきまして、「懺悔は実行ですよ」と支部長さんや幹部さんから言われるのがこれであります。 どなたでもとかく話を聞けば、なるほどごもっともであると感じますが、感心するだけでは駄目なのであります。それを聞いたなら自分の行ないに現わさなければいけない、分かったことを自分の行ないに現わすことが大事なのであります。 つぎに「正命」であります。 ある仏教学者の説に従いますと、これは正精進、正念とともに生命の要素でもあり、これによってわれわれの人格が築かれていくとしてありますが、正命の命には職業の意味も含まれ、世の中に害毒を流すような職業をえらばず、つねに悪をなさず正しい生活に徹することを意味するとあります。 新しい信者さんが本部へお参りして、信者同士が合掌し合う姿を見てまず第一にひじょうにありがたいところだと言いますが、実際にお互いが敬虔な気持ちで拝み合うということは貴いことであります。こうして拝み合うところには拳骨が飛びっこないのであります。 このように正しい行ないが実行できれば、すべての物ごとがすらすらと運ぶわけであります。商売も繁盛するでしょうし、家庭の不和もなくなり完全の生き方ということになります。 これに反しておいしい物ならば出鱈目に食えるだけ貪り食おうということですと、腹痛を起こしたりする。これでは正しい生き方とは申されません。自分の身体に適当なだけ食べて、おいしい気持ちのうちに止めて“腹八分目に医者いらず”という生き方が大事です。 そういうように私どものすべての生き方、生活の仕方には以上のべた五つの教えが根本となるのであります。 第六は「正精進」であります。すなわち正見、正思、正語、正業、正命というような五つの生き方を一時も休まず、つねに怠慢の心なく全力をそそいで実践するのであります。これが正しい精進、すなわち正精進であります。 このように教えをよく味わってみますると、「八正道」と口で言うのはすこぶる簡単でありますが、ゆるみなく精進していくということはまことに難しいのであります。 第七は「正念」であります。 自分が正しいことに信念をもって精進することを実行しなければなりません、正しいことを絶えず念じて忘れないことが肝心なのであります。 たとえば「毎朝お経をあげて夕方にはお水を取り替え、読経三昧に入りご先祖さまのご供養をしなさい」と申されても、本当にありがたいかありがたくないか、その心に念ずる力があるかないかによりまして、その値打もちがうのであります。 私どもはこのご法に掴まる機縁を得て、お経をあげさせていただいたことをよく考えてみますと、こういう境界にならせていただくまでには大勢のかたの慈悲をわずらわしているということを考え、経典の意味をよく味わいまして、不動の精神で正しいことを念じつつお経を読むようになれば、これはもうご功徳の出ることは間違いないのであります。 このように正しいことに対して信念ができて不退転の気持ちになってはじめて、正念の教えに徹することができるのであります。 最後は「正定」、すなわち正しいことによりまして心が決定するのであります。この境地になりますと、本当にだれがなんと言おうと、どういうことがあろうと動揺することもなく、自分というもののやっていることに人さまがどうこう言っても、けっして迷うことのないようになるのであります。そこに仏さまの智慧が自然にわきいで、行動に現わすことのすべては、ご法にあてはまるようになるのであります。 このように八正道の教えをお釈迦さまは私どもにお説きになり、これを行ずることによって、人間として逃れることのできない生老病死の四苦に対しても、心を煩わさないような悟りが開けることをお教えくださったのであります。 (昭和29年07月【佼成】)...
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...自灯明・法灯明 一 お釈迦さまのご入滅のときに、五十年間もお説法を聞いたお弟子たちは、お釈迦さまがお亡くなりになった後は、だれを師匠としていったらよいかと心配しておたずねしたということであります。 そのときにお釈迦さまはどういうことをおっしゃられたかというと、「自灯明」すなわち“自分を灯明とせよ”とおおせられた。お釈迦さまは指導者はいらないと申されたのであります。 一切のご法の中心となりましたところの指導者が亡くなるというのに、本来ならばご入滅後には阿難尊者か、それとも迦葉尊者かが中心となって法をまもれとおっしゃるだろうと思っていたお弟子さんたちも、意外に思ったことでしょう。 そのつぎにお釈迦さまの申されたお言葉は「法を灯明とせよ」ということでした。日蓮聖人も自分の心というものを師匠としてはならないと申されておりますように、人間は本能の赴くままの行ないをしたらとんでもないことになるのであります。 そこでお釈迦さまは、五十年間お説法なされたご法を第一番に定規として“灯明”とせよとおおせられたので、それではそのご法を真に持つのはだれかというと、自分ですから、ご法を中心とした自分にならなければならない。人さまが救ってくれるだろうと思ってお題目さえ唱えておればご利益があるだろう、商売が繁盛するだろう、病気も治るだろうというような考えではいけないという意味であります。 すなわち、ご法のとおりの行ないをするのは自分なのだと自覚することであります。そこでお釈迦さまは、“自灯明”と“法灯明”というお言葉をのこされたのであります。 (昭和29年07月【佼成】) 自灯明・法灯明 二 お釈迦さまの申された自灯明、法灯明ということも、お釈迦さまの亡くなられた後は、お釈迦さまの説き残されたところのご法を依り所とせよ、同時にそのご法というものは自分というものを依り所としなければ、本当の本質は現われないのだと申されたのですが、自灯明と申しますと、おれの言うことはなんでも神さまと同じだ、などと断定する人がないとも限らないのでありますが、私どもは自分のやっていることや、現在自分の心の中に描いていること、このさき歩まんとしているところの理想などすべてのものが、時々刻々お釈迦さまとは雲泥の差があることが分かるのであります。 そこで、私どものほうは余り自灯明の主張ができないので、まず法灯明のほうに行くのが賢明ではないかと思うのであります。 いつも道場の法座の中で「法を大きくしなさい、法を小さくしちゃいけません」と支部長さんや幹部さんが口を酸っぱくして叫んでいるのはそこであります。ご法に徹する人になり切れば、その人を自灯明にしていくべきでありますが、私ども荒凡夫そのままに自灯明というのでは“おれは一家の主人である、おれのいうことは自灯明であるからおれを灯明としてみんなついてこい”などというと、とんでもないところに脱線いたします。 立正佼成会にいたしましても、私が“おれは会長だからおれの言うことならなんでも聞け”などと言うとたいへん危険性がありますので、これはお釈迦さまがちゃんと涅槃経の中に「法に因って人によらざれ」とハッキリとご法によらなくてはならないことをお示しになっております。 したがってご法を正しく持ち、自分たちが努力して自分たちが正しい心になって、どこからも非難される余地がなく、どこにもだれにもさわりのない行ないをするような人間になってこそ、安心立命を得る信仰者となりうるのであります。 本尊は尊いのでありますけれども、同時に自分自身も尊い正しい行ないをしなければならないということが分かるのであります。ですから、(中略)まず会員のみなさんは自分の心に描いていることを法華経の鏡に照らしてみて、自分の至らない点を自覚して懺悔する、導きの親御さんや支部長さんに欠点を指摘されても反発する気持ちをなくして、ただちに素直に反省することが肝心であります。 お互いさま自分の腹の中に秘めているところの罪、こういうものを根底から懺悔することが仏教のいちばんたいせつな点であります。 (昭和29年08月【佼成】) 自灯明・法灯明 三 信仰はお互いに縁によりまして導かれたり導いたりして、手を取り合い、修行に鞭打たれはじめて人格の完成もできるのであります。またいろいろの方便によって精進もできるのでありますが、結局はやはり自分の心しだいであります。 しかし自分を灯明とすると申しましても、信仰者として自分が間違ったことをしたならば、どんなに神仏にお願いしてもご利益はないのであります。 (昭和32年11月【佼成】) みなさんは毎日道場においでになりまして“自我を捨てろ”と幹部さんから言われると、一面だけを聞くと、この“自灯明”のほうを消すことのように見えますが、真の“自灯明”を生かすためには“法灯明”を完全にふみ行なった人の“自灯明”でなければならない。 その意味におきまして、お互いに一つ一つ懺悔をしてみますと、あれもこれも間違っておった。お釈迦さまのお教えになったところの八正道の規範にぜんぜん乗っていない。やっていることも、しゃべっていることも念じていることも、みなとんでもない間違いだらけであると悟らせていただけるのであります。 このお釈迦さまが最後にお説きになった“自灯明”“法灯明”ということは、これは滅後の私どもに対して遺されたお言葉でございますから、私どもはどこまでも法にそむいた間違ったことをしてはいかん、ご法どおりの行ないをして、みなともども幸せにならなければならないのであります。 (昭和29年07月【佼成】) ...
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...法華経を所依として 一 私どもはこの会を始める前、十五年間も信仰的遍歴をいたし、いろいろ迷いに迷って最後につかまったのがこの法華経という大法なのであります。 つまりお釈迦さまのお説きになった教えがいちばん尊い、しかも、その教えの中で最も尊いのが法華経でありまして、私どもは十五年も迷った末にこの法華経に一切をなげうって帰依いたしました。そしてあの信仰この信仰と研究したことが、すべて枝葉末節のものであったことが分かったのであります。 かくいたしまして法華経を中心としたところのご法を弘めるべく、神示のままに妙佼先生とともどもに幾多の辛苦艱難を経まして、今日見るような教勢発展の基礎を作ったのであります。 (昭和32年04月【佼成】) 立正佼成会の教えは『法華三部経』、すなわち「無量義経」、「仏説観普賢菩薩行法経」、それと法華経一部八巻、この三部経を所依の経典としまして、この経典の精神に則って、人さまの喜びということをなんとかしてたくさんこしらえなければならない、苦しんでいる人、悩んでいる人、それを一刻も早くお救いしなければならない、こういうことが法華経の修行であります。 そこでこの法華経の修行としましては、菩薩行と申しまして──みなさんのおタスキにも「教菩薩法、仏所護念」と書かれてありますように菩薩の法を教える法であります。 (昭和28年06月【佼成】) 法華経を所依として 二 科学がだんだんと進んで、物質文明は素晴らしく進歩をとげましたが、一方精神文明の面から見ますと、われわれの心が遣り場に困るような状態に追いこまれているのが今日の情況であります。 こういうときに法華経が弘まるということをお釈迦さまがはっきりとお説きになり、さらに日蓮聖人がそのことを身をもって私どもにお示しになっています。 こういう状態のときがくることは、立正佼成会の草創期に「法華経が立正佼成会を元として世界万国に弘まるべし」と、神さまがご降臨になっておおせになっているのです。すでに日蓮宗があり、霊友会もあり、あらゆるところに法華の行者がいて、立正佼成会が元となって法華経が弘まるという言葉には、神さまのお言葉でもその当時いささか疑惑をもったものであります。 ところが、会を創立してからわずか十六年しか経っておりませんが、法華経を唱えている教団はたくさんありますが、本当に心の中から懺悔をし、清らかな気持ちでお互い心を抱き合い、手を握り合い、異体同心となって立ち上がるというような教団はほかにありましょうか。 そうなりますと、仏さまの本当の心持ちを伝える和合僧は立正佼成会にあり、とはっきり申し上げたいのであります。 (昭和28年08月【速記録】) 法華経を所依として 三 立正佼成会の教えは、法華経を中心とした教えで法華経を所依の経典としております。法華経を解釈するときに、とくに日蓮聖人のご遺文を通して学びますと、はじめてはっきりとその意味が分かり、納得がいくのであります。本当に法華経を生かすことができます。 日蓮聖人のお言葉の中にこういうのがございます。「経文に我が身普合せり、御勘気を蒙れば彌々悦びを増すべし」これは聖人が『開目鈔』の中で、法難を顧みて述懐された言葉でございます。聖人は、いろいろの難に遇えば遇うほど、いよいよ悦びを昂じ、感ずるというのです。聖人はあまりにも手きびしく、ずば、ずばっと世の中の状態を衝きました。「政治が悪いためにこういうことが起こるのだ。政治の悪い国は善神がよそへ行ってしまう。悪神が入れ替わってくるから国の中は乱れるのだ」というような、強い言葉で北条幕府を諌めました。それが幕府の勘気にふれて、佐渡ケ島に島流しにされました。 『開目鈔』の聖人のお言葉は、その法離の体験についておおせになっているものです。 このように日蓮聖人は、松葉谷で寺(註・草庵)を焼かれて追い立てられ、伊豆へ流され、あるいは小松原では眉間に傷をつけられ、そして最後は佐渡へ流されました。 こうしていろいろの法難をこうむられたのですが、このことは法華経「勧持品」の中に「数数擯出せられ塔寺を遠離せん」とはっきり示されているとおりです。経文にわが身が普合したことはまことに悦ばしいことであると、かように聖人は法難に喜びを感じておられるわけであります。 現在、私どもが遭遇していること(註・昭和三十一年読売新聞が立正佼成会の非難記事を連日にわたって掲載したこと)を考えますときに、「何かそこに、私どもの役目があるのではないか」と感ぜずにはいられないのであります。 では「私どもは何によって、そのような信念をもちうるか」といいますと、私どもが帰依している法華経に依るのであります。法華経に一切を捧げて、信仰を進めているからでございます。 (昭和31年04月【速記録】) 法華経を所依として 四 法華経の真の精神は、何年行じても、行ずれば行ずるほど、奥の深いもので、まことに甚深微妙の法であることが分かってきます。 行ずれば行ずるほどありがたくなり、解釈を深く進めれば進めるほど、世の中のありとあらゆる現象や、ありさまがしだいにはっきりとしてきて、これこそ真剣に行じなければならない教えであることが、お分かりになると思います。 立正佼成会は法華経の本当の精神を行ずる会であることを自覚なさいまして、もう一度「如来寿量品第十六」を熟読していただきますと、その意味がはっきり分かってくると思います。 みなさんは道場に来まして、一にも二にもお互いの体験をとおし、法華経の真実の姿を把握して、世に処していくべきだということを、認識していただきたいのであります。 (昭和28年11月【速記録】) 今こそ、正しいご法を全世界、人類すべて、国境も、民族も越えて、信奉し受持すべきときではないでしょうか。法華経は真理である。真理は一宗、一国に限られる小さなものでありません。 (昭和25年【創・佼】)...
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...弘法のこころ 一 お釈迦さまのご説法というのは八万四千の法門と申しますから、われわれの想像を絶するほどたくさんあるわけであります。 法華経の「薬草諭品」を拝読しますと、五十年間人間の迷いや苦しみ悩み、すべてのことを解決すべくあらゆる方便をつかってお説きになったのであります。お釈迦さまの智慧からいうならば、われわれ凡夫の智慧などは海中の一滴の水のように小さなものであります。そのようにお釈迦さまの慈悲心は広大無辺なのであります。 そこでお釈迦さまが五十年間説法された中で、本当の肝心要の所だけをまとめて説かれたのが法華経であります。お釈迦さまは一代のご説法を要約されて、その中に“法華最も第一なり”と書いてあるのであります。みなさんは一切経が分からなくとも、また法華経の法門全部分かったわけでなくとも、お経を毎朝読ませていただき、また人さまをお導きさせていただき、毎日ありがたいと思ってご法というものを片ときも忘れないようになるならば、ご法を受持していることになるのであります。 法華経十七番(分別功徳品)のお経を拝読いたしまするというと「この経を持つ者は福量るべからず」とありますように、福は際限なく功徳が出てくるということであります。とくにみなさんは法華経を日々お読みになっているのですから、力強く人さまにも話ができるのであります。 しかも自分自身が仏教の教えに則って行動すれば幸福になることは疑いなしなのであります。森羅万象悉くが仏さまの教えのとおりであります。私どもは迷うことが少しもないように、ご法門にチャンと結ばれているわけであります。 (昭和31年10月【佼成】) 弘法のこころ 二 現代の布教法は、攻撃的折伏行でなく、内省的な摂受行でゆかねばなりません。言葉を換えて言えば、法華経の第十三番の「勧持品」二十行の偈に説かれた忍難弘教の方法よりも、第十四番の「安楽行品」の行き方を採用せねばならぬときであります。 これは苦しい行き方をやめて、楽の行をせよという意味ではありません。他宗を折伏攻撃するような強い行き方をとらずに、人を攻める前に先ず自分を攻めるという「忍辱」の行をとることであり、荒い言葉を使うよりも柔らかく優しい言葉や態度、すなわち「柔和善順」の態度をとるということであります。 これをさらに言い換えれば「卒暴ならず」の経文のように最下級の卑しい者の乱暴な言動を慎み、心臓を波打たせたり顔を真っ赤にして怒るというようなことのない「心亦驚かず」の明鏡止水の心境に住しておらねばならぬと教えられております。 さらにご法の実行もせずに、むやみに法義を論じたり、自分勝手の無茶な行動をとってはならないということを、お経文には「亦不分別を行ぜざれ」と説かれております。 このことは現代のインテリにはあり勝ちなことで、たとえば親に孝行することはよいことであると分かりながら、親孝行をしようとしないのでございますが、このようにご法を無視し実行しようともせず空理空論を論じたり、自分勝手な無茶な行動をとることは、私どもの慎まねばならぬことでございます。 現代の宗教界もまた、ご法の実践を忘れて、いたずらに空理空論に走るばかりか、むやみに他教団を攻撃してトクトクとしているように見える教団もありますが、「安楽行品」には「諸法を戯論(いたずらに弄する無義無益の論義)して諍競(互いに争い合う)する所あるべからず」と厳にいましめておられます。 (昭和28年10月【佼成】) 弘法のこころ 三 先ほど来のお説法をうかがっておりますと、まことに奇跡としかいいようのないようなご功徳がいただけたということであります。 では、どうしてそのような奇跡が現われるのかというと、これはけっして立正佼成会の指導とか私どもの力というのではなく、ひたすらにお経にはっきり示された、規範を行ずるからであります。 経典を読んでみますと、お釈迦さまがはっきりと、今日のような悪世のときに、この法を弘めよとおっしゃっています。この法を弘めるにはどういう心構えが要るのか、どんな身の振り方をしなければならないか、どのように気を遣い口のきき方を慎まなければならないかと、いわゆる身口意三業の教えを、私どもにひじょうに分かりやすく、細かく「安楽行品」にお説きになっているわけです。 さらに身口意三行の修行は、究極において仏の誓願と同じ誓願に入らなければならないと、規範が示されているのでございます。 そういう規範に従って、私どもが菩薩の行を、幾分でも行ずるところに、功徳がいただけるということが、経典に銘記されているのであります。 「尊い先生」とか何とか言われますが、そうではなく、みなさんの行じます行ないそのもの、みなさんの日々夜々に読経されます法華経そのものが、甚大なご功徳を体現させ、どんなことでも成就させるのであります。 私ども立正佼成会の教えは、そして法華経の教えは、そういう教えなのであります。 (昭和28年09月【速記録】) 弘法のこころ 四 自由平等ということがいわれ、ややもすると自由をはき違えるような傾向が多分にあるようです。 これとちょうどいい対象として法華経に「安楽行品」という名のお経がございます。お経の名前は「安楽行品」というのですから、字面だけ上から読み下しますと、安楽に行じられるということなのですが、よく読んでみますと、なかなか安楽ではないのです。簡単に棚からぼた餅をいただくようなわけにはいかないのです。 しかし、その安楽でない修行を、私どもがいちばん楽しい行ないとして行ずるところに功徳が出るのであります。 ここが難しいところであります。たとえばみなさんが体験されたことをお話しされたり、自分の間違っていたことを懺悔されたりすることは、まことに簡単にできるのですが、その気持ちになり切ることは、なかなか容易ではありません。 また、「旦那さんに下がりなさい」といわれ、家に帰って旦那さんに「まことに今まで不逞の女房で申しわけございませんでした。きょう限りやさしい女になりますから、どうかお許しください」と、口では言えるのではありますが、その言葉に気持ちがぴったり当てはまらなければならないのです。 口の上では一応そういう言葉を並べて、頭を下げて畳にすりつけても、その気持ちになり切るということは、これは容易ならぬことでございます。 「安楽行品」の意味をよく考えてみますと、人から見られてもりっぱな人間は、そうした成しがたいことが心の中から喜んで行じられ、安楽の行になってくるわけです。 こうしてすべての行ないに間違いがなければこそ、その人の行ずるところは、まったく安楽の境地におれるわけであります。 (昭和28年09月【速記録】) 弘法のこころ 五 幸せになる道はただ一つ、宇宙の大法則であるところのご法をしっかり握って、法華経そのものの真価を本当に知りたかったら、説かれたところにそって精進してみればよい。法華経を信奉して行ずる者は本当に幸せ者であることが必ず分かってくるのであります。 どんな宗教でもよいが、最後は、妙法二字の精神に帰することが悟れるからなのであります。 (昭和28年03月【佼成】)...
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...依法の確信 一 私はつねに本会は「釈迦教」であると申しておりますけれども、社会からは日蓮宗の所属教団であるかのごとく誤解されております。 しかし本会は(中略)宗教法人立正佼成会として、ぜんぜん独立した教団を形成しているのであります。私どもはあくまでも身口意三業にわたって菩薩道を行じて無窮の修行を続けてゆくべきことこそ法華経精神であり、しかも日蓮聖人のご本懐であると確信しているのであります。 日蓮聖人ほど、教種釈尊を尊崇されたかたはないと申されております。ご遺文の中にも至るところに釈尊を尊崇すべきことを強調され、伊東ご流罪の際ご感得になられた釈尊像をつねに肌身離さず随身仏として奉持され、佐渡ご流罪中も三昧堂にこの釈尊像を安置され、池上ご入滅の際もこの釈尊像を奉安せられていたと伝えられているのであります。 本会もまた大曼荼羅の御前のお厨子の中には釈迦牟尼仏をご本尊として奉安し、ご本懐たる法華経によって「仏身を成就すること」すなわち完全円満なる人格者たる仏に成ることを目標として、身口意三業にわたって修行をしているのであります。 (昭和29年09月【佼成】) 依法の確信 二 お釈迦さまご在世の当時、あるいは滅後もいわゆる原始仏教時代においてはお釈迦さまのお心というものが比較的正しく伝えられましたが、しだいに神学的組織にのみ専念し、ある面では仏教体系は整ったのでありますが、その反面には大衆の生活基盤であるべきはずの仏教は出家僧侶の専有するところとなり、この傾向を改めようとして滅後七百年のころに仏教改革の運動が起こったのであります。 これがインドにおけるところの大乗仏教運動であるとされております。この運動の結果として、『般若経』『華厳経』、『維摩経』、『勝鬘経』、その他、『大無量寿経』、『大乗涅槃経』、それに私どもが信奉しているところの『妙法蓮華経』というような大乗経典が結集されたのであります。 けれどもせっかくの大乗経典も中国に伝わってからは、経典として持たれたのみで、その真の精神という面では釈尊のお心にかなったものではなかったのでありまして、この点ではさすがにわが国の聖徳太子は、釈尊のご本懐を顕わすことに努力いたされましたけれども、奈良朝時代、平安朝時代と、いわゆる像法の仏教が続いて、仏像や大伽藍などに美術的な絢爛たる文化的の業績にとどまった傾向があるのであります。 (昭和29年09月【佼成】) 依法の確信 三 今日までの日本仏教を見てまいりますと、小乗仏教、大乗仏教といろいろの表現をしておりますが、その同じ仏教の中にもいろいろの角度からお説きになる祖師が出まして、あるいは、どうせ人間には菩薩行なんということはできないことで、ほど遠い話であるから、ただ念仏を唱えていればよいのだと教えた祖師もあり、あるいはまた、坐禅を組んで三昧に入ればただちに仏性が現われて仏さまと同じ境地になれるという簡単な解釈──簡単な解釈というと語弊がありますが、とにかくそのような方法で仏性が現われるというように説いた祖師もあります。(中略) 鎌倉時代の仏教の考え方も仏教全体を見るということより、各祖師の教えというものによって極端に左右されていた傾向がありました。 また各自の宗旨に対する執著と申しますか、そういった気持ちもきわめて強かった。そこで日蓮聖人が法華経弘通のために、いわゆる四箇の格言を掲げて──念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊と叫んだことによって、日蓮坊不届の奴だというので人びとがみないきり立った。ただちに反響があったのでありますけれども、今日ではこんなことを叫びましてもいっこうにだれもなんとも思わない、日蓮という坊主はなかなか派手なことを言ってるなという程度で、なんらの反響もないと思います。 今日では教義がどうだということよりも、まず、自分の安心の得られる宗教、広い意味において結局自分が救われる宗教を求めるという、つまり実践してみたところの結果の出る出ないにかかっている、そういう面で宗教を正しく批判する傾向にあると思われるのであります。 (昭和28年06月【佼成】) 依法の確信 四 法華経の中に、不自惜身命という尊い言葉がございます。これは命がけということでありますけれども、なかなか実行は難しいことなのであります。日蓮聖人のように本当に命がけで道を求めた大先覚でなければとうていできないのであります。 こう申しますとみなさまは、そんなに難しく骨の折れる信仰ではついて行けないと言って、懈怠の心を起こすかもしれませんが、これは法華経の教えというものはお釈迦さまのご真意そのものであるということが分かれば、自然に分かってくるものなのであります。 『無量義経』の中に「初・中・後説……」ということが教えてございます。すなわち「……文辞一なりと雖も而も義各異なり、……義異なるが故に衆生の解異なり、解異なるが故に得法・得果・得道亦異なり、……」とございます。これは初めに説いたことと中ごろに説いたこと、さらに終いに説いたことは文字は同じで、本質的なものは同じなのだけれども、それを受け取る者の機根によって、いろいろに異なって聞こえるというのであります。 また『涅槃経』の中にも、仏さまのお説きになったことは一つのお声ではあるけれども、聞くものひとりひとりの機根が異なるので別義を得、とあります。 過日、ご守護尊神、お曼荼羅さまの勧請式にも、私は『涅槃経』の中の「……義に依って、語に依らざれ…」ということについて話しましたが、私どもは言葉にとらわれ過ぎてはいけないのであります。言葉そのものを根に葉に取って、それを後生大事に頑張りたがる、それでは教えの本質をあるがままにつかむということにならないのであります。 すべからく自分というものを空しくし我を捨てなければならないのであります。それは自分の考えていることを一応キレイに捨ててしまって、仏さまの教えの中に飛び込むことを意味するのであります。 仏教の道というものは、どこまでも、自覚反省の道であると思います。自分の歩んでいる道を自覚しないで、自分で分かったような気持ちになり、偉くなったような増上慢の心になってはならないのであります。しかも仏道の最も厳然たるところは、久遠の本仏というものがたんなる形の上に表わされたものではなくて、私どもに真の道を指示してくれるところの原動力であるということであります。 (昭和32年08月【佼成】) 依法の確信 五 現在では発祥のインドにおきましては、その真の仏教の精神は失われているのであります。 過日も立正大学のある教授が、「南方から日本の大乗仏教の研究に学生が四、五人来て、そして徹底的に行じたいというのだが、なんとか立正佼成会でそういう人を面倒をみてやってくれないか」ということを言って帰られたのであります。きのうもそのかたから手紙が来ておりました。来たる十五日過ぎに、また一ぺんうかがってとくに親しく話をしたいが一つお考えいただきたい、とのお手紙を頂戴いたしたのであります。 いよいよ仏教の真の精神を、日本から世界に知らさなければならないときが来たことを痛感いたすのであります。しからばその使命を果たすのはどこであるか、私どもはこれをお互いさまよく考えてみなくてはならないのであります。(中略) 法華経の広宣流布という重大な責任が、われわれ立正佼成会にあることがハッキリと現象に依って現われてまいったのであります。 (昭和31年02月【佼成】) 依法の確信 六 今や世界中をあげて平和を念願しております。しかし、いっぽうにおいては原水爆の実験禁止でさえもなかなか実行できないのであります。 先進国のようなつもりでいても、ヒューマニズムに反するようなことを平気でやるようになる。明らかに人類の不幸を招来する怖ろしいことであるのを知りながら、なおかつ、力の外交という時代から脱却できないということは悲しむべきことであります。(中略) しかしながら、日本の政治家の中には自分の都合主義の政治家ばかりで、国家の大事ということよりも党の人気がどういうようになるか、選挙のときにはどうしたら票が集まるかと、こういうようなことで、正しい政治がなかなか行なわれない場合が多いのであります。 こういう状態下に置かれるのですから、いよいよ法華経精神というものの真髄を大衆に普及し、世界平和の根本をなす指導原理を立てなくてはならないときが来ていると思うものであります。平和はだれでもが愛好しているけれども、平和に対しての建設的な手をどういうように打つかということは難しいのであります。 宣伝的や人気取りの道具に平和の美名を使うことが多くて、平和を根本から打ち立てようという意欲が足りないように思われるのであります。だれでも平和を嫌うものはなく、これだけは神仏はもとより凡夫も同様に平和を好むことは当然のことと思うのであります。 仏さまは絶対の平和思想を、二千五百年の前にお立てになっております。そのご法が現在のような状態にだんだん滅尽してまいりますと、大千世界を足の指にひっかけて投げることは難しくないという「見宝塔品」のお経のとおり、まったく一瞬にして地球を破滅させるようなことは容易にできても、正しいご法を正しく守って行くことはまことに難しいというのであります。 (昭和32年07月【佼成】) 依法の確信 七 われわれ宗教家といたしましても、人類共通の福祉と幸福のためには一宗一派の教団のことばかり考えないで、もう一歩進んだ考えを持つべきであります。自分の殻に閉じこもっているというような、そういうことでは絶対に真の世界平和は維持できないというところに来ているのであります。 どんな宗教であろうと宗教である以上、平和を願わないことはないのでありますし、お互いの立場を理解できないような偏狭な教えというものもありえないのであります。自分の宗派をなんとかして大きくしようとかというような小さな考えでなく、まかり間違えば一瞬にして世界がなくなるというような時代であることを認識して、小異を捨てて大同につくという大きな考えの下に、平和運動を積極的に起こさなくてはならないと思います。 要するに仏の理想とか神の精神とかいうものが、ハッキリと現実の世の中でも分かるようになってきたといえるのであります。 そういう意味におきまして、私どもは、宗教家として悪世末法といわれる現世に生まれ合わせてこそ、かえって働きがいがあるといえるのではなかろうか。またどうしてもそういうことをしなければならないときだ、たださせられるように仕組みが出来ているのだ、という一つの自覚をもってこの問題に忠実に奮闘しなければならないのです。 個々の人間をして安心立命の境地に在らしめることはもちろん、世界全体の平和維持という大きな使命が双肩にかかっているという自覚をもって、一寸の狂いもない法華経の教えを基とした菩薩道の実践に邁進しなくてはならないと思うのであります。 (昭和32年07月【佼成】) ...
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...日蓮聖人 一 お釈迦さまがご入滅になって、もう二千五百年近くもたちます。この長い間、法華経の布教はいろいろのかたによってなされてきました。とくに日本では法華経は聖徳太子の時代からたいせつにされました。 一般にご法とか妙法という言葉を使うときには、その奥に法華経という意味がただよっており、ただ法という字だけが文献に出ている場合は、だいたい法華経の意味だということを、歴史学者が言っているほど、日本の国は法華経に縁の深い国なのでございます。 このように、法華経は長い間布教され、伝統がありますが、本当に法華経を法華経らしく行じた人はだれか、経文に照らし、経典によって、真に法華経を行じた人はだれか、ということになりますと、日蓮聖人をおいてほかにはありません。そう私は思います。 (昭和30年02月【速記録】) 日蓮聖人 二 日蓮聖人は十二歳にして虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給へ」(『良観等を破する御書』)という願をかけられ、二十年間一生懸命修行を体得され、あらゆる学者について勉強された末に、三十二歳にしていよいよ自分の考えていることを発表され、法華経流布の旗印をあげられたのでございます。 日蓮聖人のご遺文を見まして気がつくことは、時ということをひじょうに重視されていることです。たとえば『撰時鈔』の中には「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時を習うべし」とあります。 日蓮聖人は、お釈迦さまが世にお出ましになり、ご入滅なさって後五百年ぐらいまでに、仏教はどういうふうに発展したか、その後の千年はどういうふうであったか、それから後はどうなったか、また日本に仏法が入って七百年のうちにどう進歩したか、また堕落したか、そういう実態を一つ一つ取り上げられ、『撰時鈔』というりっぱなご文章をまとめられているわけであります。 これは、日蓮聖人がかなりお年をとってからまとめられたのですが、そのねらいは三十二歳にしてすでにおもちになっていて、法華経流布のあの大誓願を声明されたわけであります。 (昭和32年01月【速記録】) 日蓮聖人 三 『撰時鈔』の中で日蓮聖人は、こういうことをおっしゃっております。 「悪法を取り出して、国土安穏を祈れば、将軍家竝びに所従の侍已下は、国土の安穏なるべき事なんめりと打ち思ひてあるほどに、法華経を失ふ大禍の僧どもを用ひらるれば国定めて亡びなん。亡国の悲しさ、亡身の嘆かしさに、身命を捨てて此の事を現わすべし。国主世を保つべきならば、怪しと思ひて尋ぬべき所に、唯讒言の言のみ用ひて様様の仇を為す」 「漢土・日本に智慧勝れ才能甚じき聖人は度度ありしかども、未だ日蓮ほど法華経の方人して、国土に強敵多く儲けたる者無きなり。先づ眼前の事を以て日蓮は閻浮第一の者と知るべし」 「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事敢て疑ひなし。これを以て推せよ、漢土月氏にも一閻浮提の内にも、肩を竝ぶる者はあるべからず」 閻浮提、つまりこの娑婆にはひじょうにりっぱな人も出ているし、知恵のすぐれた人も出ているが、自分に対する法難、いろいろな強敵の現われ方など見るというと、自分こそ日本第一の法華経の行者である、と日蓮聖人ご自身はっきりおっしゃっているのです。 漢土・月氏というのは中国とインドのこと、昔よく使われた唐・天竺というのと同じような意味です。閻浮提となると、これは人間世界を指しています。日蓮聖人のご遺文には、よく漢土と月氏を取りあげておられますが、世界全体を見渡しても、自分と肩を並べるものが、まだ出ていないとおっしゃっているわけです。 これはご自身が言われているばかりでなく、七百年をへた今日われわれが考えましても、この娑婆に日蓮聖人ほど仏さまの教えをはっきりと、敢然と人びとに知らせるために、このように法難をこうむったかたは、ほかには絶対にありません。 現代の世の中のいろいろな法難を見ると、法難、法難といわれておりますが、日蓮聖人のように正しいご法を説くことによって、いろいろな災難が加えられているのではなく、不敬罪とか、経済問題・脱税問題といったことで難儀を受けているというのが多いようです。 日蓮聖人は、この国が滅びていくことをご心配になり、国が滅びたなら自分の身もやっぱり滅びるのだと、亡国の悲しさ亡身の嘆かしさから身命を捨てて、このことをあらわすのである、と言われております。 建長五年四月二十八日に、日蓮聖人がお題目を唱え始められたときの決定のほどが、のちに『開目鈔』や『撰時鈔』となって現われたわけでございます。 (昭和30年04月【速記録】) 日蓮聖人 四 「仏に九横の大難あり」(『法華行者値難の事』)というように、お釈迦さまの時代でも、九つの法難があったということであります。 キリストははりつけにまでされたわけであります。 鎌倉時代の親鸞聖人にいたしましても、日蓮聖人にいたしましても、今日ではお祖師さまとしてひじょうにみなさまに尊ばれておりますが、そのご在世中は、まことにきびしい法難を受けられました。日蓮聖人のご遺文を拝読いたしますと、ほとんど罪人扱いされていたのです。 昔から“故郷に錦を飾る”という諺があり、ご自身も望んでおられたでしょうが、それどころか、佐渡ヶ島まで流されて、なんの顔あって帰られよう、というありさまでした。 数々の法難を蒙られた日蓮聖人は、法華経「勧持品第十三」の中に「数数擯出せられ塔寺を遠離せん」とあることが身に当てはまって、「まことにありがたいことである。私がこの世に生まれて来なかったなら、お釈迦さまの一代のご説法がみんなうそになってしまう。自分が出たことによってお釈迦さまが大妄語の人でなくなったのだ」と、自分の果たした役目をひじょうにお喜びになっているわけであります。 龍ノ口のご法難のときなどは、首を切られようとしたのですから、たいへんな災難だったのです。 そのときもお弟子の四条金吾が泣きながら傍に行きますと、日蓮聖人は「自分のこうした汚れた身体を、この汚ない首を法華経のために奉るならば、川原の砂を黄金に変えるようなものだ」と言ってひじょうに悦ばれ「これほどの悦びを笑えぞかし」(『種種御振舞御書』)と、堂々とした態度で、お題目を唱えられたと、伝記の中に載っているのであります。 (昭和31年04月【速記録】) 日蓮聖人 五 日蓮聖人は、宗教の本質を、ご自身のお言葉を通じ、また身をもって私たちにお示しくださっています。上行菩薩の再誕として生まれた法華経の行者──日蓮聖人のお導き、で私たちも少しずつでも法華経を行じさせていただくのです。 日蓮聖人のようなりっぱなことはできませんが、法華経の精神につながり、聖人をお慕い申し上げて集まったみなさんの、あの怒濤のごとき叫びが、今日のこの立正佼成会を形づくっているのであります。 正しい、普遍の論理に貫かれた宗教の本義を示され、真に私どもの依り所となる境地をきわめられたお釈迦さまの教えは、聖人を介して、私どもに如実に示されているのであります。 (昭和29年10月【速記録】) 日蓮聖人は「ひとりでも成仏しない者のいるうちは、自分だけ成仏しようとはしない。法華経を唱えるものが地獄に堕ちるならば、地獄までも喜んでともに行って、お題目を唱えよう」とおっしゃっています。 お題目を唱えて地獄へ行くわけはないのですが、これは言葉のアヤとして言われたのです。 法華経は、仏さまの本懐である教えである以上は、すべての衆生を救わずにはおかないという大信心を、このような表現でおっしゃったわけであります。 (昭和31年01月【速記録】) 日蓮聖人 六 日蓮聖人は妙法蓮華経「勧持品第十三」番に現われた修行というものをハッキリと証明されましたが、そういうことはわれわれにできるものではない。私たちは日蓮聖人のような本化の菩薩がお出ましになってお説きなったものを、迹化の菩薩の態度をもって心から信奉し、本当に陰を信じ、聖人をお慕いしながらすべてを実行させていただくように努めているだけであります。 またこれは第十四番の「安楽行品」のお経の中にありますように、私どもは他の人の善悪長短を批判するのではなく、まず自分たちそのものの行ないが、法華経という明鏡に照らして、また現在のような悪世の世相に照らし合わせてどうか、ということを内省するのでなくてはならないと思います。 妙佼先生もよくおっしゃるように、私どもは人を誹謗することではなく、人さまからひじょうに突慳貪な態度をされても、それは自分の心のどこかに、やはり突慳貪の気持ちがなかったかと反省してみることがたいせつであるというように、いわゆる反省懺悔の実践そのものを指導原理とする行き方、これが迹化修行の仕方であると思います。 これは日蓮聖人の時代から七百年過ぎた今日の修行方法でなくてはならぬと申し上げたのでありますが、本当に私どもの一挙手一投足がややもすると憍慢な気持ちになり、あたかも本化の上行菩薩のまねをし、それほどの自信もなく論理を究めることもできないのに、日蓮聖人のつもりでご法を振り回すと、とんでもない間違いが生ずるのであります。これでは法華経に疵をつけるおそれなしとしないのであります。 そこで私どもは、どこまでも十四番の「安楽行品」をつねに熟読させていただき、あの中に説いてあることを一つ一つ実行いたしたいと思っておるものであります。 (昭和30年06月【佼成】)...
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...四箇格言 一 仏教が日本に渡って約七百年たった鎌倉時代には、仏教が形式的となり、専修的になってきていました。そうした仏教はけっして本当のお釈迦さまの教えではないというので、日蓮聖人が「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」ということを言われました。 当時の既成教団のあり方が、本当の仏さまのお気持ちではないということを指摘されたのが、この四箇の格言といわれるものであります。 (昭和31年01月【速記録】) 四箇格言 二 四箇の格言を言い出された日蓮聖人のお気持ちは、これを公表すればどんな事態が起こるかを考え、ひじょうに悲壮なものがあったのではないかと思います。 しかし、日蓮聖人はこれを黙って過ごすことができなかったのです。このままにしておけば国が滅びてしまう。本来、国を保っている国主なら、どうすればよいかを訊きにくるのが当然だ。ところが、国主はただ讒言のみを聞いて、あの坊主は憎らしいと考え、日蓮聖人をなんとか追放してしまおうとしたのです。 「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」という指摘に対し、人びとは少しも真の仏教の本質を考えようとしないのです。他宗の側は、自分たちの勝手な教えが、仏教の本義であるように宣伝し、これが一番だと思い込んでいる。 念仏宗は相も変わらず念仏を唱えている。禅宗は坐禅を組んで満足している。律宗はいろいろの戒律だけにこだわり、清浄に著し、現世に対するはっきりした指導方針を認識しない。仏教がこの現世、娑婆で重大な使命があることを少しもわきまえていない、というありさまです。 日蓮聖人は「これをなんとか正さなければ国は滅びてしまう。間違った悪法をとり入れそれに頼って、国家の安穏を願っているが、とんでもない間違いだ」ということを、明らかにされたのであります。 私どものわずかな間の経験でありますが、第二次大戦の際、日本は神国であるから竹槍で絶対に大丈夫だ、という声もありました。 ところが、いよいよ国敗れてみますと、とんでもない間違いをしていたことが分かったわけです。当時国中の人は正しいご法を上下一致して持たずに、神さまに参拝することで大丈夫だというような安易な気持ちだったのです。そのために国は負けたのです。 ところが敗けた原因を、凡夫ではなく、神仏のせいにしてしまったのです。こんなに一生懸命国民が拝んだのに、戦争に敗けてしまった、神も仏もない、などという人が出てきたものです。 自分の行ないとか、思想とかは考えないで、神仏にその責任をもっていってしまうというのは、われわれ凡夫のつねであります。 こういうあさましい状態を、つぎからつぎへと繰り返すというのが濁悪世なのです。それが末法なのであります。 日蓮聖人はそういう末法の時代をはっきりと認識し、大覚世尊の使いとしての決定のほどを、この娑婆で公表したのです。 現在のように信教の自由とか、思想の自由とかが認められている時代ではなかったのです。ひじょうに乱暴がはびこる、ひじょうに野蛮な時代でした。国の掟というものはあったに相違ないのですが、今日のように徹底してはいなかった。 ですから、うまいこといいかげんにごまかして、日蓮聖人を佐渡へ流す。その途中、まかり間違えば、龍ノ口で首をはねてしまうということも可能だったのです。それが当時の国情でした。 そういう時代になんら臆することなく、日蓮聖人は堂々と法華経流布の旗印をあげたのです。しかもすべての他の宗派に対して、いつでも公場対決をして、はっきりと本師釈迦牟尼仏の主旨を述べて、正しい認識をさせようという考え方をもっておられたのであります。 (昭和30年04月【速記録】) 四箇格言 三 当時「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」の四箇の格言を日蓮聖人が言い出されると、みんな躍起となって、瓦や石を投げたり、竹の棒を持ってきてひっぱたくぐらいはまだ軽いほうで、ややもすれば、一刀のもとに首をはねるというほど、強盛に自分の信仰を守ろうとしたのです。 ところが今日はどうでしょうか。新宿の広場であろうが、どこであろうが「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」とどなったところで、ただひとりでも石をぶつける人があるでしょうか。おそらくないだろうと思います。 そうなりますと、説法は無意味になります。しかし、当時は違っていました。日蓮聖人は人びとを啓蒙し、ことの筋合いを正して、しっかりと説法を聞く人が来るように、この四箇の格言で一つの刺激を与えたのであります。 ただし、これは私の考えで、日蓮聖人に直接聞いてみなければわかりませんが、南都の各宗派など、八宗・十宗といわれた、批判の人ばかりいるようなところでは、そのようなことを言ってもなんにもならないから、そんな呼びかけはなさらなかったと思います。 ともかく日蓮聖人は、法華経の鏡に一つ一つの現実を照らして、現在の状態をどうすべきかを色読され、それを強調されたのであります。 (昭和28年11月【速記録】) 四箇格言 四 法華経をかかげて、一切衆生を救おうという日蓮聖人は、分からない人には、赤ん坊に母親がおっぱいをやるような気持ちで、なんとか分からせるように教えようと努力されたのであります。 ところが分かる人はなかなか少なく、本当の法華経の精神を叫べば叫ぶほど、法難が増してくるありさまで、日蓮聖人は四回も生命にかかわるような大難を蒙ったのでした。 しかし最後は、日蓮聖人の偉大な人格を、当時の鎌倉幕府の執権も認めることになったのです。執権は佐渡の国に島流しにしていた日蓮聖人を鎌倉へ呼びもどして、 「あなたが九年前におっしゃったことがそっくりそのとおりになっているのですから、あなたのために日本一のお寺を建てて差し上げましょう。どうか、そこで国家の安泰を祈っていただきたい。ただし、他宗をそしることだけはやめてもらいたい」 と、時の執権が申しました。 時の日本の最高権力者、執権が、頭を低くして日蓮聖人にお願いしたのですが、日蓮聖人は、 「間違った教えを支持するようではいけない。たとえば、コップの中に黒い墨を入れておいて、上からいくら水を入れても清くはならない。その黒いものを一度全部空けて、清らかな水を入れなければ、コップの水は澄まないのだ。この法華一乗の道によって、釈尊からわれわれに賜わった大慈悲の丸薬を、そのまま正直にいただく心構えでなければだめだ」 とおっしゃって、身延の沢に入ってしまわれたのです。 (昭和31年01月【速記録】) 四箇格言 五 日蓮聖人が「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」と叫んで、いわば当時の既成仏教に対し爆弾をはなったような論戦をいどんだことを考えるならば、(中略)これは教えを弘めるところの「時」と、相手である「人」(機根)と、「所」と、説かれる「順序」という点から検討して考えてみなければならないのであります。 それは、当時の人心なり宗教家たちの眠っていたありさまを観察した結果、激しい論戦をさせることによって妙法を悟らせるための手段であって、けっして日蓮聖人はけんかをさせるのが目的ではなかったのであります。 日蓮聖人は仏教の本義を求めてやまない熱においても、そのつかみえたところの高さと深さにおいても、またそれを忠実に弘めなければならないという信念と、与えられた使命に対する自覚というような点でも今までのどの開山にもなかったような、いわば前人未到ともいうような境地を開いた、と私は信じます。 しかしながら、その当時(中略)この仏教の本義であるところの法華経についてはほとんど顧みるところがなかった。書いたものを見ても最後のところにちょっと触れてあるという程度であった。それほど法華経についての認識のない時代において、またそうした機根の人びとを相手にして法を弘めるためには、尋常一様の方法や手段ではとうてい間に合わない話で、どうしてもあのような積極的な折伏の手段方法によるほか、途はなかったことになるのであります。 そしてまた、「教」「機」「時」「国」「序」の見地からみて、当時の人びとに対しては法華経の真髄を直接に注ぎこんでも、けっして効果はないということを日蓮聖人は考えられておられた。そこでまず「題目の流布」をもって正法弘通の方策とせられ、真実本懐の流布までには及ばされなかったのであります。 題目の流布に力を尽くされたのは、一つの方便なのであって、その方便をもって日蓮聖人のご本旨と見るがごときは誤りもはなはだしいといわなくてはなりません。現在のようにマイク一つで世界中に放送ができる時代であったなら、おそらくあのような激しい折伏手段はとらなかったのではあるまいか、おそらくは死後に残されたところの真実本懐の流布もでき、宗教統一の願望さえも達せられたのではあるまいかと私は考えるのであります。 (昭和28年03月【佼成】)...
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...立正安国 一 日蓮聖人は鎌倉幕府に対し、『立正安国論』を突きつけて、一切経は、どのお経もみな仏の金言には違いないが、それらのお経の魂となるのは法華経であることを、明言されております。 この『立正安国論』の中に「間違った悪政をしいているところには、善神が去ってしまって、悪神が入れ代わる」ということがいわれています。 これは政治のことで例えられていますが、政治だけと考えるのは間違いだと思います。家庭におきましても、やはり主人が間違った考えをしていると、家の中は動揺し、親子や夫婦でけんかする。家の中がおさまっていないために、いろいろの災難が起こるということになります。 これは、明らかにその家から善神が去り、悪神が入ってきているからであります。 (昭和29年10月【速記録】) 立正安国 二 日蓮聖人は、国内政権の争い、いわゆる自界叛逆と、外国からの侵略の大難、いわゆる他国侵逼の難ということを予言され、「これを未然に防ぐには、現在のような仏教のいき方ではだめだ。法華一乗の道を完全に行ずることによって、日本中の人がみんな菩薩のような気持ちになるところに、はじめて安定した世がやってくる」と叫ばれたのです。 (昭和28年02月【速記録】) 立正安国 三 日蓮聖人は、各宗派が、わが宗がいちばんいいのだと、勝手気ままに、自分の宗だけを立てて、同じ宗教の中で争っていることではいけない。本当のお釈迦さまの教えはどこにあるかを、もう一度みんなが真剣に考えなければならない。仏の教えが真実であるならば、必ずみなさんが納得でき、行ずることができ、そして救われる法があるはずだというので、ときの執権に向かって公場対決を叫んだのであります。 (昭和29年10月【速記録】) 立正安国 四 日蓮聖人が北条幕府に諫言された『立正安国論』に致しましても、その内容は、必ず公場対決を迫られるときがある。そのときに仏法の正しいことを語り合ったならば、だれにでも分かってもらえるだろうという民主的な信念から、どこまでも論理の上に立ったりっぱな宗教体系をもって論義を立てられているのであります。 この信念が容れられずに、とうとうさまざまのご法難に遭遇される結果になったのでありますが、その教義の問題においては、七百年前にすでにはっきりとしたところの線をお示しになっておられます。今日私どもはただ日蓮聖人のお示しになられましたその方法をもって、万人に納得の行くような実践修行をすればよいという段階であります。 また、正法、像法、末法という仏教発展についての時代的な推移──たとえばどのお経がどの時代に弘まるかということまで、日蓮聖人ははっきりと明示いたされまして、これからの末法の時代においては法華経が弘まるべきであるとして七百年を越える昔に叫ばれたのであります。 しかも上行菩薩の再誕としての大自覚の中に法華経の教論をすすめられまして、末法万年にわたって私たち迷える衆生を救うところの順序方法が、確然と教義の上において立てられているのであります。 (昭和27年12月【佼成】) 立正安国 五 日蓮聖人は末法の時になって、本当に万民がお題目を唱えるということを理想として掲げているのであります。今日は日蓮聖人のその理想が実現するかしないかの時機であると思われるのであります。 しかし私どもはおかげさまで諸経中王最為第一の法華経に遇い奉ることができ、お互いに精進させていただき、その教えを行じて見るとひじょうに結果がハッキリと出るというところまで行きますと、もう疑う余地がなくなるのであります。私たちは戦争などについて考えて見るよりも、とにかくひとりでも多く正しい宗教に導いて、私どもと同じような平和な気持ちの人をつくるということが、先決問題となるのであります。 みなさんは体験によって、ご法に対しては疑う余地がないという人もたくさんあると存じますが、法華経の経文に明示されたとおりの精進を続け、心を正しく持ち、その行ないが正しくできるならば、真理は一つなのだから必ず人も自分も救われるのであります。 私どもはお釈迦さまが今日のことまで予言されている経典を日々読ませていただき、縁あってその教えにつながっているのですから、それを信じて徹底的に行じ、同時に自分の周囲の環境全部をそういう心の状態の人びとにいたしたいと思うものであります。 よい政府ができて、よい政治が行なわれれば、たしかに世の中が明るく万民楽しむことができるのでありますが、実際にはなかなか一朝一夕に世の中がよいほうに変わるというわけにはいかないと思います。また、首相がどんなに手腕をもっておりましても、私どもが政治に全部おまかせして今すぐ安心ができるとは考えられません。 むしろ私どもといたしましては、正しい宗教の力によって本当にその教え──それは思いつきや、きのうきょうの問題でなく、二千五百年来変わらないところの法華経を依り所としていますことは、まさに“我此土安穏 天人常充満”であると思います。しかも、この妙法の大法の中に一切を投げこみ、融けこんでご法のとおりの生活をするならば、心配のない境地になることができると存じます。 (昭和30年04月【佼成】)...
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...一天四海・皆帰妙法 一 私どもがお互いに努力していますことは、本当の人間になろうということでございます。 日蓮聖人は「一天四海 皆帰妙法」とおっしゃっております。一天四海というのは、つまり、森羅万象のことです。その森羅万象はすべて妙法によって生かされているのであります。 そのことの意味を、その真理をはっきりと把握して、おのおのが真のあり方、万物の霊長としてのあり方を悟って、精進しなければならないということでございます。 (昭和31年04月【速記録】) 一天四海・皆帰妙法 二 「天に二日なし 国に二君なし」という言葉があります。今日の言葉にかえて申しますと「天に二日なし、世界に二法なし」ということになると思います。ご法というものは、真理というものは、どこまでも一つなのであります。 仏さまは、人間として娑婆に生まれ、五十年間説法されて、人格完成のためのご法を、分かりやすくお説きになったのでございますが、そのお釈迦さまの一代の説法の魂といわれるところの法華経に、経は一つにならなければなりません。 富士山に登る道は、吉田口もあれば御殿場口もあります。北から、南から、西から、東から、いろいろな道から登れましょう。そして登りつめたところは、一つの富士山頂であります。その登りつめた頂上がすなわち法華経なのであります。 ですから、ご法はみな一つのもので、いろいろの宗教があっても、最も正しく、これでなければならないというところまでせんじつめますと、それは妙法でございます。法華経でございます。 このことは、すでに七百年前に日蓮聖人が一切経をお読みになられて、お釈迦さまの出世本懐の義は法華経にありと悟られたのであります。経に二経ないところの、このご法を正しく弘めなければならないという理想をかかげられたのであります。 (昭和31年04月【速記録】) 一天四海・皆帰妙法 三 日蓮聖人は「竜樹・迦葉にも勝れたり」(『義浄房御書』)とみずからを言い、自分が説いている法華経の尊いことを力説されております。とくに経文に照らして、末法の時代の問題をはっきりとらえて、法華経の尊いことを叫ばれたのであります。 そのときからすでに七百年、今日まで日蓮宗の法華経宣布がつながっているのですから、本来だと、もう全部が四海帰妙の旗印の下に入っていてもよさそうなのですが、なかなかそう簡単にはいかないのであります。 四一開会ということば(『法華文句』)があります。理・人・行・教の四つに分けて説き、その各々が唯一のものに帰するのだと教えています。 真理は一つです。法華経という大真理は、どなたが取り扱っても同じです。 水は高いところから低いところに流れます。その水を、一切のものの一つの象徴としてみますと、高いところから低いところへ流れて平らになるわけです。 法華経は、自力でもなく、他力でもなく、中道の調和のとれた、人間らしい生き方を教えております。 まず第一番に「理」というものをとりあげてみますと、森羅万象ことごとく、いろいろ現われ方は違っているが、せんじつめてみると、その根本の理は一つなのです。 たとえば素直な人、強情な人、利巧な人、愚かな人と、いろいろの人がおりますが、それぞれの人は、その人なりの条件や境遇を通ってそうなっているのです。そうした現われ方を順々につきつめてみますと、その根本の理において一つです。ですから理一でございます。 つぎに「人」つまり人間味を考えてみましょう。 同じようにたいへんな財産家があり、貧乏人もあり、いろいろの人があります。しかし、すべての人びとはその根元においてはまったく平等です。みんな仏さまになれる性質を自分の中に持っています。仏性です。それにだんだん磨きがかかると、最後には仏になれるわけです。 その仏になれる性質を持っていることでは人間みな一様で、つまり人一です。 つぎに「行」の問題です。 行にはいろいろの行があります。声聞の行、縁覚の行、菩薩の行、いろいろな行があります。しかしこれらをせんじつめたところが仏行であります。仏さまに近寄るために、究極的には菩薩の道を行じることにおいて行一です。 一般の生活の中で朝早く起きるのも行でありますし、また、茶道、華道、礼儀作法なども行であります。そうした行も、根本は仏さまのような人格を完成しようというところにつながっているのです。 最後に「教」です。 お釈迦さまは一代五十年間、ひじょうにたくさんの説法をされたわけですが、その説法が八万法蔵というようなお経になったのです。 このように仏教は、たくさんのりっぱなお経を結集して今日に伝えられましたので、どれをとっていいのかわかりません。読んでみようとしても、どこから読み、解釈していいのか、ちょっと見当がつかないことがたくさんあります。 法華経の経文は、そういうものを統一し、開三顕一といって、声聞、縁覚、菩薩の三乗の道を開いて、一仏乗を示しているのです。 この一仏乗、平等一仏乗のために、法華経は説かれたのです。 昔の言葉で、八万法蔵、一切経は、馬で七馬半も積むほどあったということです。それほどの数の経巻があるわけです。それにいちいち目を通して、解釈をするなどといったら、いつになることやらわかりません。 その経を一つにまとめて遺されたのが、法華経であります。 法華経の精神は、いろいろな方便の門を開いて真実の相を顕わし、一乗という一つの道に帰一させるものです。 要するに、いろいろな形、さまざまな角度から方便を説いてこられて、最後には真実の相にもってこられているのです。教えは一つなのであります。それが教一です。 ですから、法華経を本当に読んでみるならば、八万法蔵が引き寄せられて一つのものになります。しかも、他力でも自力でもない、その中央の平等の道を説いております。 最近、法華経を信奉する教団が伸びているのは、今日の人びとが、そのようなことをだんだん理解してきたからだと思うのです。 現代的な感覚をもって法華経を読んでみますと、現実的な問題をひじょうに明快に解いていることが分かります。 「なるほど私どもの行くべき道はここにある。このように実行しなければならない」という方針が、はっきり示されているからであります。 (昭和30年02月【速記録】) 一天四海・皆帰妙法 四 法華経を身をもって行じ、お互いに体験を重ねてまいりますと、あの経文に示されたとおりにまったく理屈は抜きにして現証というものがひじょうに顕著にあらわれるのであります。お題目を唱えながら、廃れたというような教団もあるのですが、こういう中に同じお題目を唱えている私どもの教団が、つぎつぎと修養道場を建てましてもなかなか間に合わないほどに、たくさんのかたがたに集まっていただけるということは、これはやはり日蓮聖人が七百年前におっしゃった四海帰妙──一天四海みな妙法のご法の中に入っていることが明らかなためであると存じます。 法華経というものを完全に身をもって行じているならば、現在われわれの住んでいる世の中のありさま、世の中の法則というものがみんな分からなくてはならない。ところがなかなかその法則が分からないから、自分の家庭のわずか五人か七人の家族でもつまらぬことで争いなどを起こすのであります。(中略)どういうわけで一家が不和になるのか、どういうわけで国がもめるか、どういうわけで世界が平和にならないか、そういうようなことが日ごろの修行によって一切ハッキリとして判断もでき、処理もできるのでありますから、このご法を弘めずにはいられないのであります。 要は私どもは法華経の行者であり、この悪世末法に生まれたということは、これは何かのお役があるからで、そういう宿命があってこういう時代に、百千万却にも遇い難い法華経に帰依することができたという喜びを感ずるのであります。 (昭和30年10月【佼成】)...
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...法則活用の意義 一 立正佼成会で姓名学をやっているとか九星学をつかっているというと、「ああいうものはみんな迷信だ」というふうに一笑に付してしまうかたが多いのであります。あるいはまたこれを非難の材料にしがちであります。 これはなるほど知らない人にはぜんぜん想像もおよばぬことですから、迷信といったほうが簡単でありましょう。あるいは新しい会員の中にも立正佼成会は九星学や姓名学でもって人を救うのであると、こう思っている人たちがあると思いますが、そうではありません。 救われるには、自分の心を直し、間違った考え方を直してこそ救われるのです。 (昭和28年12月【佼成】) 法則活用の意義 二 姓名学とか九星学というのはけっして絶対のものではないのであります。このことは、みなさん、覚えておいていただきたいと思います。 これが絶対のものである、これが信仰であると思うと、たいへんな間違いでありまして、姓名学とか九星学とかいうのは、統計的にこういう名前で、こういう星の人がこうなるものであるとか、こうあるらしいということです。こう申し上げればよいと思います。 (昭和31年05月【速記録】) 姓名の鑑定や九星学によるところの、早く言えばそれらの診断によって自分の因縁を知り個性を知り、今後みずからを処してゆくべき指針を得るところにその目的があるわけであります。 けっして鑑定そのものが宗教でもなく信仰の方法ではありません。 (昭和28年12月【佼成】) 法則活用の意義 三 釈尊は万億の方便を以て、宜しきに随って法を説き給うたのであります。仏教団体のゆえに姓名鑑定を入信者に対する方便として用いてはならぬ、という理由はないと存ずるのであります。日蓮聖人も「予が法門は四悉壇を心に懸て申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且らく世間普通の義を用うべきか」(『太田左衛門尉御返事』)と教えられております。 現代の人びとで何物をすてても真実の仏法を求めようというような純粋な人は、ほとんど見当たらないといっても過言ではないと思います。むしろ反対に物質欲や名誉欲に狂奔する人、家庭内にあっては夫婦、嫁、姑、兄弟姉妹などが相対立、相争っている人たちが多いのであります。 これでは善い結果を得るはずはない。まず自分の間違った個性を鑑定によって一応知り、反省懺悔の機会を得て後、法華経に説かれている菩薩道を実践しようとするのが立正佼成会のあり方であります。 (昭和29年10月【佼成】) 法則活用の意義 四 立正佼成会の鑑定は方便でありますが、この方便を正しく用いるならば、それはすでに方便ではなく真実に直結して大きな効果を発揮でき、人をも世をも救う手段となるのであります。釈尊が法華経の中で説かれました“三車の譬”といい“化城の譬”といい、“良医の譬”といい、いずれも“方便”を実地に応用されているものと考えられるのであります。 しかし、方便がたんに方便に終わるのでありましたならば無意義でありますが、真実に到達させるための、慈悲の教化手段としての方便であるならば、その方便から真実の効用を生ずるのであります。 また、方便がたんなる“方便”としてのみとどまらず、むしろ“真実の方便”として転換しうるものであるとすれば、必ずや世を益して余りあると信ずるものであります。立正佼成会の鑑定が現代人のセンスに合うとか合わないとか、(中略)信ずるに足りないといったところで、それは現代人の知識の現段階を標準としての批判なのであります。現代の科学も思想も進歩の過程にあるので、現在が最高至善のものでないことは、物理学のいちじるしい進歩の歴史をひもといても、容易に理解されるところでありましょう。 私どもは浅薄な知識をもって、すべてを批判し尽くそうとしないで、事実の前に一応謙虚な気持ちになることが必要ではないかと思うのであります。 (昭和29年10月【佼成】) 法則活用の意義 五 ある経済学者の話に「経済学とは、最小の費用で最大の効用を生み出す学問である」とこのように簡単に定義されておりました。要するに、「物の本性」を百パーセント発揮すること、いかなる物でも尊重してむだのない効用を生みだすことが、経済学のいわば奥義であるとの話で、私はたいへんこれを面白く聞いたのであります。 信仰をする者の心構えとしてこの言葉を借りてまいりますと、「最低の幸福を最大限にこれを味わう方法」すなわち、いかなる境界にあっても、その中から最大の悦びを生み出す心の持ち方に転換してゆくことがたいせつだと思うのであります。 この転換があってこそ、はじめて真の満足が得られます。これが幸せであります。仏教で説くところの娑婆即寂光土とか煩悩即菩提と申しますが、まったく紙一重のところから、幸不幸の結果の生まれることを教えられたものであります。 このように、私どもの心の持ち方、身に行なう所作、すべてのことが、自分自身の運命を一歩一歩と、よくも悪くもみずから定めているわけでありますが、これは自分ではなかなか分からないものであります。自分では分からないところの尺度を目盛盤に照らして「あなたは何画だから強情だ、何画だから欲張りだ」と、本部へくると言われる。あるいは知らず知らずに犯してきた方罪についても教えられる。 ですから、こういう注意や指導を受けましたならば、一つ聞いたことをまず実行させてもらう。手近のわずかなことからでも結構ですから、多少でも自分の身にひびくところがあったならば、よい方向へと実践してゆくのであります。 持って生まれた因縁の解決も、犯してきた罪の解決も、すべてが徐々にうまくゆくところに、ご法の妙味といいますか、ハッキリしたところの──よくみなさんが申しますように切れば血の出るというような真実が現われてくるのであります。 ところがその反面には、自分の悪い所を早く直さなければならないといいましても、ただ「いけない、いけない」と思って、それだけに拘泥してしまうというと、かえっていつになっても悪いところがとれません。何か問題にぶつかっても、その解決だけに心を奪われると、そのこと自体が欲なのです。 私どものように過去から罪障をたくさん積んできた者が、信仰したから一ぺんにすべてのことが解決してゆくだろうと、焦って考えること自体が迷いの一端であります。そこで「陰を信じなさい」「一切をおまかせしなさい」という言葉が出るわけであります。 (昭和28年12月【佼成】) 法則活用の意義 六 概して新しい宗教には新陳代謝が激しく、入会者がひじょうに多い代わりに、途中で落ちる人も多いのであります。 お釈迦さまも「縁なき衆生は度し難し」と申されたくらいで、ご法につかまった人を絶対に落とさないということはできないのでありますが、私どもの慈悲心が仏さまの大慈悲にくらべましたら、とても小さいものなのですから、ただいわゆる“種々の方便、種々の譬論、因縁”をもって徐々に人さまをお導きさせていただいているにすぎないことを悟らなくてはなりません。 お経の中にも因縁、譬論をもって人を導くとありますように、いろいろの方便をもってその人その人の機根に応じて法を説き、精進させるように努めなくてはならないのであります。 (昭和30年08月【佼成】)...
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...法則活用の心得 一 みなさんが鑑定をした場合、悪い因縁の人の鑑定をしたときほど、あとあとまで忘れないで記憶に残るものです。これと同じように、鑑定を受けて悪いことだけが頭に残り、あとからいろいろ結んでもらったことが耳に入らない人があります。 ですから、そういう人には注意深く指導しなければなりません。 ──悪い因縁というものは、自分の知らぬうちに、自分の中に展開している。そういう悪い運命、個性によって動かされている、仏教でいうところの六道の輪廻から解脱して、そのような不幸が来ないよう導くために鑑定をしたのだから、悪いことをいわれてびっくりしているようではいけない。救われるところの道があるから悪くなってくる因縁が分かる。悪くなっている原因を探究して、その悪因を善因に切り換えるためにこういう指導をしている。だからその因縁を切るために喜んで精進する心になることがたいせつだ─── こういうことをよく話してあげなければなりません。 そうしないとせっかく話してあげたことが生きないのです。かえってはっきり聞かされたために、動揺するだけの結果を残すおそれがあるわけです。 (昭和32年11月【速記録】) 法則活用の心得 二 入会した人に対して、信じなさいと、頭からただ申してもなかなか信じきれない人が多い。そこで、「どういう心持ちを持ったから、あなたはそのような結果になったのです。こういう因縁の名前をもって生まれたから、そのような運命になるのです」ということの尺度を一応計ってみせるのであります。 では、今日まで来た問題をどう解決するか、将来はどうすればよいかということは、これはおのおのの信仰によって道が展けるわけであります。 (昭和28年12月【佼成】) 法則活用の心得 三 医者が患者をみる場合に、まず聴診器をあてます。つぎに脈をみる。体温を計ってみる。血圧も調べる。これは直接の治療の方法ではありません。 体温なり血圧なりの状態を統計のグラフに照らし、あるいは医者の経験によって、病気の診断が一応つくわけになるのであって、体温計の目盛をよんで熱が下がるというものではもちろんありませんし、診察の結果を聞いただけで病気が治ると考える人もないのであります。 ですから、医学の理論を聞いても治療にならないと同様に、姓名学や九星学の理論というものを聞いたからといって、けっしてその人の運命が変わるわけではないのであります。(中略) ですから、これにとらわれてしまって、信仰の本質を失ってはならぬと、これはしばしば申していることでありますが、ただお互いさまに自分のことが目盛の上にはっきりと分かり「こういうことがいつ来る」ということまで幾分でも分かることによりまして、もう間違いのないところに一歩一歩と進まれるということは、まことに私どもほど幸せな結構な境界のものはないということになるのであります。 (昭和28年12月【佼成】) 法則活用の心得 四 姓名の判断をなんのために用いるのかと申しますと、ちょうど統計表のグラフを読むように因縁因果の現われを、寸法に測ってみるのであります。人間の心の持ち方というものと、形に現われてくる結果というものを見ておりますと、それこそ微細な点まではっきりと私どもの鑑定の「グラフ」に現われてくるのであります。 ですから、要するに信仰生活によって救われるという因果の理を手っ取りばやくみなさんに説明するのには、たとえば姓名学という最も的確なものによって、そのグラフの目盛を読んであげるのが早いわけであります。 「あなたにはこういう個性がある。だから考え方にも行ないにもこんな色がある」と示されて、それを直すか直さないかによって、幸福が得られるか得られないかが決まるわけであります。 (昭和28年12月【佼成】) 法則活用の心得 五 ここ数年来、教勢の異常な発展に伴いまして、立正佼成会の姓名鑑定がしばしば世の批判の対象となり、仏教団体は姓名学を採用すべきではないというようなご忠告をいただいたり、なかには、姓名鑑定の予知の限界を発表せよと申されるかたもありますので、私は前にも本誌上や宗教専門の新聞雑誌でこの問題に触れたことがあります。 しかし私どもは本会の姓名鑑定を特別な秘法とも考えておりませんし、むしろこれによって人の世の災難を予知するために用いるというようなことであっては、仏道をも害するものであると考えておるほどであります。 私どもはただ、人の姓名によって象徴されている性格なり個性なりを指摘し、その人が過去に歩み来たった経路を指示して、そこに因縁果報の道が厳然として実在するものであることを認識させ、その根本原因は自己のあやまれる性格と行動にあることを悟らせるために、方便として採用しているに過ぎないのであります。 すなわち自己の個性の欠陥を矯正し、あやまった我見を放棄して、仏の心を心として仏道を実践したならば、そこに新たなる因縁果報の道が展開されるのでありまして、ここにこそ宗教の世界、正しい仏道が必要となってくるのであります。 したがいまして、仏道的実践を喚起させないで、たんなる姓名鑑定を行なうとするならば、それは仏教を毒するものと考えるものであります。 (昭和29年10月【佼成】) 法則活用の心得 六 立正佼成会では(中略)姓名鑑定を方便として用いるのでありますけれども、それによって私たちが自己の悪い個性を自覚し、さらに反省懺悔の気持ちが起きて、ひいては菩薩行の精進ができるといたしましたならば、姓名鑑定はもはや方便でなく、真実に直結するものということができるのであります。 世の中には、他人の運命を鑑定する街頭の職業的易者で、自己の運命を開拓しえないで一生涯悪因縁に翻弄せられ、ついには陋巷に朽ち果てるような人もおります。これは、法華経の本旨から申しますと当然の帰結なのであります。 それは正しい宗教の実践のないところには新たなる運命の展開がないからであります。 (昭和29年10月【佼成】) 法則活用の心得 七 立正佼成会の姓名鑑定を批判するかたがたは、姓名鑑定によって世事万般が解決するならば、政治も科学も無用となると申されますが、たとえその秘法を識り尽くし会得した易者自身でありましても、自己の運命が意のままにならぬと同様に、良いこととは知っていても、それを実行しようとしない人たちには平和な生活が来ないのであります。 私はつねにみなさまに申し上げているのでありますが、私どもは菩薩道の実践修行を忘れていたのでは幸福な生活は得られない。幸福はたんなる口先の唱題や観念的思惟や知識で獲ちえられるものではないのであります。 実践を無視した論理の遊戯は仏の誡められているところであります。 私は立正佼成会創立以来、妙佼先生とともにご法一途に日夜菩薩道の実践修行に徹するよう努めてまいりました。姓名鑑定もこの実践修行を忘れて行なうのであれば、たとえ方便として用いられるものであっても邪道であると考えるものであります。 したがいまして、改名したからとて、それで人間の運命が良いほうに変わると考えましたらたいへんな考えた違いであります。改名してもしなくても、自己の今までの誤った考え方や行動を一擲して、新たなる考え方、生き方をするところに新たなる運命がおのずから展けるのでありまして、姓名鑑定をただ予知の尺度としてのみ使用するならば、そこには弊害こそあれ、人生に利益するものではないと信ずるものであります。 本会の鑑定はあくまでも菩薩道実践の裏づけがあっての鑑定なのであり、そこにこそ正しい弘法の方便としての大きな意義があるのであります。 (昭和29年10月【佼成】) 法則活用の心得 八 方位を使うとひじょうに便利で、何ごとでも活用でき、けっして窮屈なものではありません。とくに時期を知っていると便利です。 悪い時期にぶつかった場合は、いい時期を待って話をすると、こちらの思うように話が決まり、すらすらと事が運びます。ですから方位を知っていると、ひじょうに都合がよいわけです。 (昭和32年11月【速記録】) 法則活用の心得 九 方位ばかりでうまくやろうとして、ウの目、タカの目で九星表ばかり繰って、商売しようとしても、そういう人は成功しません。 どうしてもそれに頼らなければならない回り合わせになってきたとき、どんな方法をとるかを決めるために使うものです。いよいよこうしようと決心したときに、その大事な鍵を開けるための方位なのです。 年中欲のために、あっちの吉方へ行って買い、こっちの吉方で売るといったことばかりやっているようなことは、けっして許されないのです。 方位を活用して、とんとん拍子にあっちへ行って儲け、こっちへ行って儲けしていると、物の欲だけは満たされ、思うとおりになる。 人間だれしも楽をして大儲けができるとなると、だんだんろくなことを考えなくなるものです。やがて、金を使うことを覚え、その人は滅亡するのです。 (昭和32年11月【速記録】) 法則活用の心得 十 一般に吉方を使うとうまくいくのは事実です。しかしうまく行き過ぎるから堕落してしまうのです。 ですから方位、九星を教える場合は、最初に、こういった場合にはこういう条件が必要、こういうことが起きた場合はこういうことにひっかかってはいけないということを、よく相手の心にたたき込んでおかなければなりません。 心によく根締めをしたうえで教えないと、方位でいい方向へ行き、いい条件になって大騒ぎをされても、結局はその人の一生を泥沼に埋める結果を招きかねないのです。つまり立正佼成会のご法の行き方、心構えをしっかり固めてから、方位を使った場合はひじょうに有益なものになります。 心構えが悪く、この方位を悪用すると、最後の結果はよくないことになるのです。 (昭和32年11月【速記録】)...
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...召集解除 一 昭和十六年八月八日、私に召集令状が来た。中日戦争の末期、そして日米戦争の危機がだんだん濃くなっているころであった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 昭和十六年十二月に太平洋戦争が始まったのですが、戦争が始まらないうちに、もう海軍は四方八方に手を回していました。私の弟などは前年の八月に海軍に召集され、開戦の年の八月には私も召集になりました。 (昭和34年03月【速記録】) 召集解除 二 入団までの日数はいくらもありませんでした。召集令状がきたその晩、立正佼成会の今の細谷理事さんの結婚の仲人をつとめました。 その日は、結婚式をしたのですから佳い日だったのでしょう。妙佼先生とふたりで式場に行きました。式場では召集令状がきたなんていうと、みんなが動揺するので、式が終わるまでは黙っておりました。 (昭和54年01月【速記録】) 私は、召集令状のことは知らぬ顔をして結婚式に行き、お祝いを述べ、その帰り道に妙佼先生に「じつは、きょう召集令状がきたのですよ」といったところ、妙佼先生はびっくりしまして、それからがたいへんな騒ぎになったわけであります。 (昭和41年03月【速記録】) 召集解除 三 妙佼先生に神さまからお告げがありまして、妙佼先生は「経文にあるとおり父がいま他国へ行く。昭和十六年の年に父が他国へ行く。どんな良薬があっても、みんなが少しもそれを取って飲もうとしないからだ。みんなが気がついて、薬を飲む気持ちになれば、父は必ず帰ってくるのだ」という説法をいたしました。私の留守のときでした。 すると「軍国主義の世の中で、そんなばかなことはない」とみなさんが疑ったものです。立正佼成会が今日のように盛大になるとは考えられないような当時に、妙佼先生がいろいろいっても、結果が出るまでみなさんが疑ったのも無理はありません。妙佼先生の説法にも、みなさんは「そんなばかなことがあるものか」と思っていたのです。 いよいよお別れだというので、中野神明町で私がやっていた牛乳屋の二階の本部に幹部だけ何人かが集まりました。六畳と四畳半の二間しかない本部です。お経を一巻ご供養申し上げて出発することにしたわけです。 最後の十回のお題目を唱えていると、突如として神さまがご降臨になりました。私が式長をしていたのですが、後ろのほうでがさがさしているものですから降臨だと気づきました。 さっそく、いかなる順序でご降臨になりましたか、とききましたところ「汝に一言、神がいうことがある」「きょうの門出を何と心得る」という神さまからの問いかけに、「男子の本懐これに過ぎるものはございません」と答えました。 当時の私の心意気であったわけです。 (昭和34年03月【速記録】) 召集解除 四 妙佼先生に神の啓示があって、 「庭野は三日ないし五日で帰る」 という宣告なのである。 「この世に大役を持つ者が、一兵士として戦地におもむくとは何ごとか。庭野にはまだまだ自分を捨てきれないところがある。真に自分を捨て切ってこそ、仏の後継ぎではないか。そこをよく考えて出発せよ」 まことに、きびしい神示である。(中略) 私は、この神示を聞いて反省した。──召集令状に接して心が勇み立つというのは、本当にこの世における自分の使命に徹しきっていないからだろう。なるほど、そう言われれば、自分を捨てきってはいない。捨てきっているならば、かえって出征することが残念であるはずだ。 だが、「三日ないし五日で帰る」などということは、ありうるはずがない。国家が遂行している大戦争から見れば、私の一身などはまことに微小なものである。台風の中の一枚の紙きれのようなものである。戦争というものは、善良な庶民であろうと、悪党であろうと、金持ちであろうと、その日に困る貧乏人であろうと、日雇い労務者であろうと、大学教授であろうと、あらゆる者の個人としての存在を無視して、一緒くたに吹き飛ばしてしまう台風である。約千人の信者を持つ一宗教団体の指導者など、ものの数ではない。いくら妙佼先生の神示でも、こればかりは、なにかの錯乱の結果であろう──こう考えていた。 八月九日午後八時、百名ほどの信者と町内の人びとに見送られて、東京駅を出発した。そして翌十日に舞鶴海兵団に出頭した。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 召集解除 五 舞鶴へ行きましたところ、「はるばるご苦労さんでしたが、帰っていただきましょう。そのうちまた呼び出すかもしれませんが、今回は一応帰ってもらいます」といわれました。 (昭和34年03月【速記録】) 身体検査の結果、不合格になったのである。 私は呆気にとられた。と同時に、身体じゅうが燃え上がるようなものを感じた。一枚の紙きれと思っていた自分の身が、にわかにぐっと重くなってくるのを感じた。 仏は微小者に対して、微小者を救う使命を与えられていたのだった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 召集解除 六 その時、私は右脇腹に癰ができていました。毎日牛乳配達をしなくてはならず、仕事を休むわけにはいかないのです。それに私の祖父たちが針で切ったりするのを、手伝わされた経験があるものですから、こんなもの自分で切れば大丈夫だと、かみそりで切ろうとしたのです。 ところがなかなか切れないので、妹に、刃の必要部分だけ残し、包帯で巻いたかみそりで切らせて膿を出し、治療しました。そのまま休んでいれば治るのでしょうが、朝、配達を終わってから治療し、午後二時にはもう車をひいて行くものですから、傷口が動くのです。 少したつとまた熱をもって膿が溜まる。しかも立って歩き回るものですから膿がだんだん下へおりる。四、五日経つと上のほうは治るのですが、根が下へ移って、やはり膿が出る。そこをまた切る。しかし、うまく治らない。そこで、専門の医者に頼みました。 医者は耳かきみたいなものでほじるので、火をつけたような痛みです。それを五回くらいやったので、だんだんしぼんではいましたが、入営のときはまだたいへんな傷でした。私のほうは平気だったのですが、軍医さんは傷を見て「いや、ご苦労さん。お帰りください」というのです。 しかし、即日帰郷で帰る途中、傷口にガーゼを入れようとしても、ぜんぜん入らないのです。それまでは箸のようなもので傷口にガーゼを突っ込んで、絆創膏を貼り、さらしを巻いて頑張っていたのです。 家に帰って、いくらやってみてもガーゼが入らない。家内に見せたら、肉が上がってしまっているのだから、入るわけがないというのです。癰は治ってしまいました。もしそのまま入団していたら、あの戦争ですからどうなったかわかりません。ですからこの傷は、私の生命を救ってくれた傷でした。 (昭和54年11月【速記録】) 召集解除 七 帰郷の途中、京都へ出まして、桃山御陵に参拝しました。それからさらに伊勢にお参りしようと思いましたが、その日はもう伊勢に行く汽車がなく、電車で行けば、八木という駅で乗りかえて行く便があるということでした。 橿原神宮行きの電車に乗りました。ちょうど紀元二千六百年の行事のあった何日か後でしたので、電車の沿線のあちこちにいろいろなお祝いのしるしが見えました。 車掌さんにきくと、橿原神宮へは、乗り越し運賃十五銭で行けるとのことです。そこへお参りして、八木に引き返せば、きょうの伊勢行きに十分間に合うとのことです。そうしたわけで、思いがけなく橿原神宮にも詣でさせていただきました。 これも神さまのお手引きだと、ひとしおありがたく参拝させていただいたのです。 伊勢で一泊いたしまして、早朝に大神宮さまにお参りいたしました。そのとき、私は、旅立つ前の神さまの言葉を思い出しまして、私に法華経弘通の大使命があるとするなら、身を捧げて、一生懸命やらせていただきます、という祈念をこめてきたわけであります。 (昭和34年03月【速記録】) 召集解除 八 太平洋戦争もいよいよ末期的状況を呈していた昭和二十年の三月下旬、私にふたたび召集令状が来た。 そのころは、いわゆる丙種合格の、兵役に経験のない初老の人までかりだされ、消耗部隊にまわされていた時期だった。だから、いよいよこんどこそ修羅場に出なければなるまいと、覚悟をきめた。ところが、また妙佼先生に啓示があって、 「庭野は二十八日のご命日に帰る」 というのである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) こんどは前のことがありましたので、どういう順序で召集がありましょうかと、神さまにおうかがいを立てました。 当時、私の家族は昭和十九年八月から全員田舎へ疎開しておりました。妻子がそばにいませんから、修行になんのさわりもなくて申し分のない条件にあったわけです。 ところが神さまのほうからみると、 「そばにいながら、目に見えないから、別にじゃまにもなっていないし、煩悩が生ずることもないようだが、じつはお前はときどき夜分など目をさましたとき、妻子のことを思い出したりしている。お釈迦さまは十九歳で出家をされて、以後ふたたび妻のもとには帰らなかった。仏教を開かれたお釈迦さまが、そういうきびしい修行をしているのに、汝は子どもが六人もあって、その家族が田舎へ疎開していながら、いまだにときどき頭の中に妻子を思い出すとは何ごとか。神は許さぬ」 というのであります。 まことに手きびしいお言葉でした。 疎開させて、約半年間、とにかく妻子のもとには行ってなかったのです。手紙のやりとりさえなかったのであります。 さらに「召集になると、お前はいずれ田舎へ行くだろう。田舎へ行っても出家のような気持ちで、妻のそばへは行かない、そういう決定をもたなければならない。『提婆達多品第十二』にもあるように、国城妻子を捨てて布施するという大きな布施の気持ちになれば、お前は即日帰郷だ。お前が田舎でどういう態度をとるか、神が見張りをひとりつけて田舎へやる」というのです。 やがて二度目の召集がきましたので、見張り役として、幹部のひとりに私の田舎の家まで一緒に行ってもらったのであります。 (昭和34年03月【速記録】) 田舎では一晩中酒を飲み、親せきじゅうを集めて説法し、ついに寝ずじまいでした。そして朝、鎮守さまへ行って、みなさんにお別れして舞鶴へ行ったのでした。 (昭和54年01月【速記録】) 召集解除 九 舞鶴へ着いて駅頭に降り立ちました。私の友人たちは、私より五、六年も前に召集されていまして、それぞれ階級も上がり、重要なポストに就いていました。 その友人のひとり、すぐ隣村の高野という人が、私が召集でくることがわかっていたものですから駅前で待っていてくれました。そして列車から降りた私が、駅前で整列していると、「こちらへ来い」というのです。 (昭和34年03月【速記録】) 高野さんは、そのときは善行賞をつけた衛兵伍長になっておりました。「そんなところに整列していないで、こちらへ来い」と衛兵下士官の部屋へ連れて行かれました。 「何かうまいものは持っていないか」といいますので、銀めしのおむすびを出しましたら「それはこっちへよこせ。そのかわりご馳走してやるよ」と、昔海軍にいたときと同じ大根の切り干し、イワシの大きい丸煮を三本と麦めしを食べさせてくれました。 「お前は麦めしが大好きだったから、待っていたのだ」と、おむすびは取り上げられました。 召集兵たちが駅前に整列し始めたので、そちらへ行こうとしましたら「行かなくてもいいようにしてある。サイドカーで送ってやる」というのです。 駅から海兵団までは二キロ半ぐらいの道のりです。召集兵たちは、その道をゾロゾロと行列して行くのです。 ところが、こちらは一等水兵でしかないのに、サイドカーに乗って、司令官みたいにパーッととばしました。海兵団に着くと、高野衛兵伍長が、私の登録をしてくれて、みんなを待っていました。 「お前は、今までどうして召集されなかったのだ」と彼は不思議がっています。私は、即日帰郷のわけを説明しました。 「しかしこんどはもうだめだぞ」といいます。「いや、おれはきょう帰るのだよ」「そんなばかなことがあるものか」と彼は信じません。 ところが、身体検査をしたところ、またおかしいのです。そのときは脇腹の癰はすっかり治っていましたし、どこも自分では異常がないのです。 最後の軍医のところへ行きましたら、 「どうもはるばるご苦労さまです。現在の戦争は一億一心でなければ勝てない総力戦です。あなたは銃後でご活躍のほうが国家のためになると思います。あなたのその活動を通して、国家のためにお尽くしください。とりあえず不合格にします」 といって不合格の判をバーンと押してくれたのです。 その軍医は、「銃後も第一線も同じなんだ。国に貢献するためには、あなたは銃後で、人心を動揺させないよう活動してくれることが必要だから、不合格にします」というのです。 (昭和54年01月【速記録】) 召集解除 十 左手に卵ぐらいの、だ円形の青い判を押されて、不合格になってしまいました。そのまま即日帰郷ということになりました。 二十五日の検査日でしたが、その日は、ひじょうにたくさんの人が召集されて入団したため、その日のうちに帰れなくなり、海兵団に泊めてもらって、翌日、前の召集のときのように京都へ出て、桃山御陵と橿原神宮、それから伊勢へ参って東京へ帰りました。 官費で二回伊勢参りをしたことになります。 (昭和34年03月【速記録】) 私は東京へ引き返した。列車が着いたのが、二十八日の朝七時二十分であった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 神さまから、お役があるといわれても、なかなかそのことが信じられないで、ああしよう、こうしようということを考えるのでありますが、神さまは私につぎからつぎへと息つく間もないほど、いろいろ現証を見せてくださり、自分はどうしても法華経の大導師として進まなくてはならないのだ、と、だんだんに自覚に導いてくださったのです。 今日になって当時を振り返ってみますと、そう感ずるのであります。 (昭和34年03月【速記録】)...
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...本部落成 一 昭和十六年、そのころは会員が千名ばかりになり、私も妙佼先生も、商売をしながら信者の世話をする生活はもはや限界に達していた。 ちょうど、氷屋にも企業整備があり、配給所という形になることになったので、それを機に、まず妙佼先生が店をやめて宗教活動一本に打ち込む決意をした。 ある夜、妙佼先生が夢知らせに神示を受けた。 「汝がこれより住居を定める地は和田本町である。住居とする家はすでにその地にある」 そして、一軒の平屋建ての家が畑の中にぽつんと建っており、玄関脇に石の観音さまがあるのを夢に見たのである。 翌朝そのことを聞いた私は、さっそく妙佼先生と一緒に家捜しに出かけた。今の京王バスの中野車庫(当時は京王バス寿営業所と言っていた)の付近にさしかかると、妙佼先生の家に出入りしていた左官屋さんに声をかけられた。 「どちらへお出かけで……」 「和田本町にいい家があるというので、見に来たんですよ」 と、妙佼先生が答えると、 「私が最近お仕事をさせてもらった新築の家がすぐそこにあるんですけど、ごらんになりますか?」 と言うのである。 話によると、持ち主が自分の息子に住まわせるために建てた家だが、ひょっとすると手放すかもしれない、と言うのである。 そして、いまの旧本部のある付近へ案内してくれた。あたり一帯は畑ばかりだった。その中に一軒の平屋が建っていた。それを見るなり妙佼先生は、「あっ、この家だ」と叫んだ。夢に見た家とそっくりだと言うのだ。 門をはいって見ると、すぐの所に観音さまの石像が立っているのだ。「まあ、観音さままで……まるで私のために造ってくれたみたいな家ね」と、妙佼先生は、中を見ないうちから気に入ってしまった。 間取りは八畳、六畳、四畳半、それに玄関の三畳というこぢんまりした造りだったが、なんとなく明るい雰囲気を持つ家だった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部落成 二 医師の相沢先生のお父さんが左官屋さんで、この人が壁塗りを請け負った家でした。「しっかりしたいい家だよ」と左官屋さんがいうのです。 古材屋が、大きな神社か何かの太い柱の悪い所を落として、真ん中の芯だけで造った家ですから、古くても木材はたいへんりっぱなものでした。 (昭和54年01月【速記録】) さっそく持ち主に会って交渉すると、話はとんとん拍子にすすんで、一万一千円で買い求めることができた。 その家の八畳に妙佼先生の守護神である虚空蔵菩薩を祀り、ここを信仰生活の本拠としたのである。これが現在旧本部にある教堂(妙佼殿)である。 しかし、その家も小さかった。まして、私の牛乳屋の二階にある本部は、狭くてどうにもならなくなっていた。本部の建物を建設することは、ぬきさしならぬ必要事となった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部落成 三 十一月五日、虚空蔵菩薩さまのご命日の日に、信者の中から「どうも牛乳屋の二階が本部じゃうまくないから、ひとつ道場を建ててくれ」という議が起こりました。みなさんに諮ったところ、満場一致で「建てよう」ということになりました。 そこで神さまのご降臨を願っておうかがいしますと「何をいまごろ、ぐずぐずしているのだ。早く手配をしないと建てられなくなるぞ。大至急品物を手配しなさい」という神さまのきついお言葉でした。そのころは、まだ自由になんでも買えた時代でした。 しかし神さまのご注意に従って「それ」というので、みんなに呼びかけましたところ、一万六千円集まりました。そのときの信者全員が真剣になって、財布の底をはたいて集めてくださった結果でした。 (昭和41年03月【速記録】) 本部落成 四 千円も出してくれた人がふたりもありました。いずれも重体の病人が治った家の人でした。 (昭和54年03月【速記録】) 千円出してくれた人のひとりは戸沢さんという人でした。この人は自動車を持っていて、仕事がつぎつぎにあり、ひじょうに豊かだということを、導き親の丸山さんが知っていて「本部を建てるのだから、お前、思い切って出してくれ」と、熱心にいったのです。 ところが金を貯めるような人は出したがらないものです。それを出させようと、しつこくいったものですから、怒って「これを持って行け」と、わずかな金をたたきつけたのです。丸山さんも短気な人でしたから「そんな金は要らない」と帰ってきてしまいました。 ところが、その後、戸沢さんの子が腎臓病になってしまったのです。おしっこが出なくなって身体がむくんでしまいました。医者も「どうしようもない」と思案し、「さあ、たいへんだ」ということになりました。 おしっこが出ないのは、そのころの立正佼成会の論法でいうと、出し渋っているというわけです。「渋って百円しか出さなかったためだ」と戸沢さんが懺悔をしたところ、とたんにおしっこが出るようになりました。戸沢さんはさらに千円、合わせて千百円を出したのです。 (昭和54年03月【速記録】) 鎌倉のすし屋さんも千円出してくれました。 そのすし屋は新橋にも店がありましたが、私どもは鎌倉まで出かけました。庭の広い家でした。 そこのおばあさんは熱心に法華をやった人でした。座敷から廊下でつながる六畳の部屋にご宝前がりっぱに祀ってあり、その部屋の屋根は銅で葺いて、御殿のようにしていました。 おばあさんは、まるで行者のような感じの威勢のいい人でした。 その人の孫が大病で、医者も見放した状態でしたので、どこからか立正佼成会のことを聞き、あそこへ行けば病気が治るということで頼みにきたのです。そこで妙佼先生とふたりで鎌倉まで行って、拝んであげました。 すると、たちまち病気が治ってしまったのです。そのとき千円の布施がありました。千円集めるには、鎌倉まで出かけて行って、拝んで病気を治してこなければ、なかなかできないことなのです。 一万六千円集めるにあたって、千円がふたり、佐野さんが自分で五百円出して、それに家族のおばあちゃんと奥さん、岡部さんがそれぞれ百円ずつで計八百円。細谷さんが、おばあちゃんの分など合わせて六百円。大口は大体それくらいで、あとは五円とか十円です。普通の勤め人の月給が三十五円くらいでしたから、一万六千円集めるのはたいへんな時代でした。 (昭和54年03月【速記録】) 本部落成 五 ちょうど、妙佼先生の新居の隣は空地になっていた。その土地を本部の敷地にしたいと考えて地主に交渉すると、これも話がとんとんとすすんで、十一月の八日には早くも地鎮祭を行なうことができた。 その前後のこと、また妙佼先生に神示があって、「建築資材だけは早く準備せよ」ということだった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 大急ぎで材木を買い集めて、一か月後の十二月八日には手斧初めをしたのです。それまでに吉野杉をはじめ、一応材木を揃えたのですから、ずいぶん急いだものです。 神さまのいうとおり、木は木材屋で買えたのですが、土台に使うセメント三俵ぐらいの配給がぜんぜんなく、作業が進みません。 鍋屋横町の千葉さんという砂利屋さんは神田川の寿橋近くの工事をしたときに、砂利がたくさん出て、自分の砂利をぜんぜん使わず、しかも、ほかへ売るほどだったので仕事が好調でした。それを知っていたので「なんとかしてくれないか」と千葉さんに頼んだところ、「配給の券があるなら」といって、セメントを間に合わせてくれました。 おかげでコンクリートを敷いて本部を建てられるようになったのです。 ところが、うちへセメントを貸したら、千葉さんのほうでは券はあるが配給ストップして、いっこうに現物がこなくなったのです。千葉さんが怒ること、怒ること。私は、平身低頭で何度も謝ったものです。 (昭和54年01月【速記録】) 配給切符はちゃんと来ているのに、軍隊のほうに優先してまわすので、民間にはなかなか現物がやってこない。(中略) あのころは、きびしい統制経済下で、ないとなったらまったくないのだ。(中略) しかし、その間にも、お互いの災難を材料として、いろいろ法を説いて聞かせてあげた。向こうは、何を言ってるのだとばかり、ますます怒り出す。こちらは、それこそ和顔愛語で、粘っこく話してあげる。 とうとう千葉さんは根負けして、あなたの弟子にしてくれと言い出した。怒り怒り信者になった人は、後にも先にも千葉さんひとりである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部落成 六 十二月八日に大工さんが入って、順調に普請が始まったのですが、そのとたん、ラジオで太平洋戦争勃発の放送があったのです。 えらいことになった。これは神さまのいったとおり、真剣に早くしないと、道場は建たなくなるというので一生懸命に工事を進めたわけです。 (昭和54年01月【速記録】) 諸物資の入手は極度にむずかしくなってきた。それでも、十二月いっぱいは金さえあればなんとか手に入れることができたので、とにかく有り金を全部建築資材にかえた。そして、暮れの二十日には、めでたく上棟式を行なうことができた。 年が明けて十七年になると、消費物資の統制が一段ときびしくなり、建築資材もいくら金を積んでも手にはいらなくなった。じつにすれすれのところだった。この本部が、ついにB29の大空襲にも焼けず、戦後の布教活動の本拠になったことと思い合わせてみると、どうしても神仏のお手配としか考えられないのである。 労働力の統制も、開戦と同時にひじょうに強化された。国民徴用令が改正され、大工ひとり、左官ひとり雇うにも、たいへんな困難がつきまとった。熱心な信者の人たちが、素人にもできる地ならしとか、木材運びとか、壁土練りなどの仕事を奉仕してくれていたけれども、大工の仕事だけは無理だった。しかし、無理というのは平時の考えで、非常時はそれではすまされない。とうとう素人の信者が大工までやるようになった。 じつに涙ぐましい働きだった。私がよく言うように、人間はときどき自分の能力の限界をとび越えてみる必要がある。そうすれば、思いがけない働きができるものである。これなどは、その尊い実例といえよう。 その工事の最中に、ノースアメリカン機による東京の初空襲があった。当局は大あわてにあわてて、防空演習や待避訓練に力を入れはじめた。そうした情勢下に、堂々として新しい木造家屋を建てていたのだから、よほど自信がなければできないことである。私たちには、不動の自信があった。絶対にこの家は焼けないと信じこんでいた。人間の小さな知恵では考えられぬ、不思議な自信であった。 たった二十五坪の家であったが、そうした悪条件下の建築だったので、落成まで百五十日もかかった。しかし、よくやったものだ。いま思い出しても感慨無量だ。私は毎日現場にいって指揮をとった。もちろん自分でも働いた。信者たちも、ほんとうに汗水たらして献身してくれた。妙佼先生は、乏しい食糧の中から奉仕者の食事やおやつに心を砕いてくれた。みんなの意気が溶け合った体当たりの作業だった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部落成 七 こうして和田本町の七〇九番地に、初めて二十五坪(八二・五平方メートル)の道場ができました。こんどは平屋でした。 (昭和40年03月【速記録】) 昭和十七年五月七日、よく晴れた初夏の日であった。新築のこの本部の門に、私が心をこめて大書した〈宗教結社 大日本立正佼成会〉という新しい板看板が掛けられ、感激の入仏式が行なわれた。お祝いの赤飯を炊く米がなかったので、故郷から長兄がモチ米二斗を持ってきてくれた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 道場ができて、その中に信者がいっぱい集まりました。 入仏式が済んでその晩、寄付をしてくれた人たちが残っていたところで、私は説法したのですが、みんなに怒られたのです。 じつはみんなを喜ばせるつもりだったのですが、分かってもらえなかったわけです。 私は、その説法の中で、 「とにかく『大日本立正佼成会』は道場を建てた。しかし、ご法からみると、こんなへっぽこ道場はまったく序の口で問題にならないが、一応道場ができたということは、まことにめでたいことです」 とあいさつをしたのです。 すると、幹部のかたたちは、おやじは道場を建てたら頭をやられたんじゃないかと怒りました。 みんながごそごそ始めたと思ったら、全員妙佼先生の家に引き揚げてしまって、だれもいなくなりました。どうしたのかと思っているうち、とりなしに行ってきた妙佼先生から「会長があんな説法するから、みんなが怒っている。一生懸命骨を折って建ててくれたのに、こんなへっぽこ道場で満足するご法じゃない、などとばかなことをいうものだから」と叱られたものです。 そこで私は、 「それはおかしな話だ。この道場で満足するご法なら建てる必要はない。牛乳屋の二階でもけっこう会の教えは弘まってきたのだ。こんなもので満足しているようだったら、神さまが道場を建てろといわれた真意にかなわないのではないか。これからも、第二、第三のもっと大きな道場を建てていくというご法があればこそ、小さくともこの道場に値打ちがあるのであって、これで満足しているような連中は役に立たない幹部だ」 と譲りません。 道場を建てたとたんに対立してしまったので、妙佼先生は困って「何しろばかになって幹部たちを一応なだめ、謝って、みんなにわかるように改めて説明してほしい」と言いました。 結局、私もしょうがなく、妙佼先生の家へ行って、 「言い方が悪かったかもしれないが、私のいう意味を取り違えないでほしい。やっと建てたこの道場だ。しかし一生涯このままいくようなご法であったなら、建てる必要はない。この道場は足場であって、いよいよこれから本格的な宗教活動に入るという心構えをみんなに発表したのであって、けっして君たちや道場をけなしたわけではない」 と、こんこんと説明したのです。ようやくお茶を飲んでもらい、お神酒を買って一杯やりまして、解散となったのでした。 翌日にはみんなが心から納得してくれて、おさまったのです。 (昭和54年01月【速記録】) それを機会に、私も牛乳屋を廃業し、住居をこの本部の中に移した。私としては、あくまでも宗教の専門家にはなりたくなかった。牛乳屋の主人でいたかった。それが本当の道だと信じていた。 しかし、信者の数がこうふえてきては、とうてい商売と指導と両立させることは不可能になったのだ。こうした大きな流れに逆らうのは不自然だ。素直にそれに従おう──こう決心したわけだ。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】)...
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...留置事件 一 昭和十八年に一大試練が訪れた。三月十三日のこと、とつぜん本部にヒゲづらのお巡りさんがやって来て、私と妙佼先生に「ちょっと警察に来てください」と言うのである。 何か聞かれるのだろう……ぐらいのかんたんな気持ちで、私はふだん着の和服のまま、妙佼先生も大島のちゃんちゃんこを着て、一緒に出かけた。すると、杉並警察署に連れて行かれて、すぐ留置場に入れられてしまった。理由は、妙佼先生の霊感指導が人心を惑わすというのである。 当時は治安維持法というものがあって、共産主義はもとよりだが、キリスト教や新興宗教に対しても官憲の弾圧がひどかったのである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 留置事件 二 全然取り調べをしないで留置場に入れたまま、一週間放置されました。私たちには、警察の取り調べを受けた経験はまったくないものですから、いったいどうなることかと不安でした。 (昭和54年01月【速記録】) 留置事件 三 一週間はぜんぜん何もしないで、続く八日間は、警視庁から特高が三人ぐらい交代できて、私を取り調べました。 (昭和54年01月【速記録】) 取り調べに当たった特高の係官は、「妙佼さんの信仰の指導のやり方がいかん、あんたが妙佼さんの導きの親だというのだから、間違っていたと素直に認めて、妙佼さんのやり方を改めさせろ」というわけなのです。 私の取り調べに当たったのは特高の刑事部長だったのですが、当時の特高の刑事は、思想関係の取り調べでは、とりわけ意地が悪くて、きびしかったのです。 「とにかく、おまえは牛乳屋をしていればいいんだ。他人の運命なんか、あれこれ言うから、警察にぶちこまれるようなことになるんだ」そして「立正佼成会なんていうちっぽけな会は、はやく潰してしまえばいいんだ」とおどすわけです。 しかし、私は負けていられません。 「あんたみたいに真理が分からん人は勝手なことを言えるから気楽でいいですが、私たちは仏さまのお使いとして人さまをお救いしなくてはならない責任があるんですからね。私にとって、牛乳屋をやって妻子を養っていくぐらいわけないことなんです。それをこんなに苦労して人助けしているのは、立正佼成会の信仰はどんな方向からみても間違いない。『法華経』はもちろんのこと、六曜、九星、姓名学のいずれに照らしても、私どもの指導原理は少しも間違っていない。そして、現に苦しんでいる人が救われているんですから……」 と、少しも譲らなかったのです。 警察としては、私が恐れ入って、少しでも妥協的な態度に出れば、すぐにでも釈放したい腹だったらしいのです。ところが、毎日、取り調べを受けても私が、がんとして「立正佼成会の指導原理は間違っていない」と言い張るものですから、向こうも弱ったらしい。出すわけにいかないので、私はとうとう十五日間も留置されてしまったのです。 (昭和53年03月【躍進】) 留置事件 四 刑事部長のほうが、「いくらか間違っていたって言ってくれよ」と言い出したのですが、もし私がそう言ったら、「立正佼成会なんて潰すんだ」という態度に出てくるわけですから、絶対に言えない。 「おまえの指導に絶対訂正しなければならんとこはないのか!」と何度念を押されても、「私の教えていることに絶対に間違いはありません!」と言い切りました。まだ、(中略)三十六歳のときだったから、その時分は、法を守ることにかけては自分でも不思議なくらい因業だったのです。 どんなに刑事に迫られても、私には、自分はだれに恥じるところはない。自分のためではなく人さまをお救いさせてもらっているのだから、という絶対の自信があったのですから、これは強いです。しかも病気や貧乏で苦しむ人びとが、教えのとおりに実行すると、奇跡のような現証を頂いて、つぎからつぎへ救われていく……そういった体験を数限りなく自分の目で見ているのですから。命にかえても、この教えを守らなくてはならない、という使命感が私を支えてくれていたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 留置事件 五 警視庁から特高の刑事が入れ替わり立ち替わり私を取り調べにくるのですが、だんだん私のことが分かってきて、「おまえのやり方で、おれの鑑定をしてみろ」と言い出すようになったのです。そこで私は刑事たちの姓名鑑定をするのだけど、「あなたたちは、三年もすると、みんなクビになりますよ」などと、まず耳に痛いほうからビシッと言ってやる。 昭和十八年のことですから、三年後の二十一年には敗戦で、特高の人がみんなクビになった。その刑事部長が机さんという人で、戦後、特高をやめて区会議員になり、都会議員に出るとき、「先生、お願いします」とあいさつにこられたのです。因縁でしょう。 鑑定では私にいやなことを言われるのですけど、性格や家庭環境のことがズバズバ当たるものだから「あいつは警察をなめとる」と怒りながらも、刑事たちが聞きにくるのです。当時、私は神経をとぎすまして鑑定に打ち込んでいましたから、的中率はすばらしかったのです。 そうして私を取り調べている間に、なんとか立正佼成会の弱味をつかもうと、佐藤という刑事が、私が留置場に入っている間じゅう、信者の家庭はもとより退会した人たちの家庭まで詳しく調べて回ったのです。その刑事が私の顔を見て、「きみは、どうも天才的な宗教家かもしれない」と、しみじみ言うのです。 「ほかの宗教団体では、いったんやめてしまえば、その信仰を全部捨ててしまうのに、きみんとこの信者は、会をやめても、仏さまを祀って、お花をあげ、お水をあげて、ちゃんとお経をあげている。その点は、つくづく感心したよ」 そして、結局、何もとがめられることなく私と妙佼先生は釈放されたのですが、そうして留置場を出るとき、あれほど「立正佼成会なんか潰すんだ」といきまいていた刑事部長が「佼成会は潰しちゃいけないぞ」と言うのです。引っ張られた警察で「天才宗教家」とレッテルをはってもらい、「佼成会を発展させろ」と励まされたのですから、これはありがたいわけです。 (昭和53年03月【躍進】) 留置事件 六 後でわかったことだが、呼び出されるにはつぎのような経緯があったのである。 家内は私を自分のもとへ引き戻したくてたまらない。また、近所に住んでいる天狗不動の綱木梅野さんも、もと自分の弟子だった私が目と鼻の先に教団を立てて隆々と発展しているのだから、面白くなかっただろう。そこで、もと大家の高橋さんと、町会の長老の小島さんという幼稚園の園長さんたちの力を借り、妙佼先生の霊能による指導は人を迷わすものだと、警察に申し出たのである。しかし、警察では、証拠がないと言って取り合わなかった。 そこでこんどは、近辺の家々をまわって署名を集め、それを持って再び警察に行ったのである。それを見てようやく警察も動き始め、前記の始末となったわけだ。もちろん、連れて行かれた当時は、そんないきさつはぜんぜん知らなかったのである。 会の事実上の首脳ふたりが同時に留置されたのだから、残された人びとはまったくなすすべを知らなかった。それどころか、第一支部長の富樫昌代さんと第二支部長の森田育代さんを除く全支部長が、会に見切りをつけてやめて行ったのである。(中略) その後、やめていった支部長たちもつぎつぎに復帰してきた。私たちが喜んで迎えたことはもちろんである。それらの人びとは、会の最高幹部として法のために精進したのであった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 留置事件 七 この事件を、私どもの会では、だれが言い出したともなく、〈階段〉と呼んでいる。われわれの信仰が堅固さを加え、かつ高められていくためのありがたい階梯だったと観じているからである。私どもの会には独特の用語がいろいろあるが、この〈階段〉などはその中の傑作だと自負している。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 立正佼成会が真の信仰者の僧伽に高まっていくためには、僧伽の人びとの心が一つに結ばれていかなければならない。ひとりびとりが信仰を一段一段高めていかなくてはならないのです。 そのために、仏さまは試練の“階段”を授けてくださったのだと受けとって、このときの試練を“十八年の段階”と呼ぶようになったのです。 (昭和53年03月【躍進】)...
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...家族との別離 一 応召した会員の人たちが全部めでたく帰還したのに、終戦後七年たっても、八年たっても、自分の家へ帰れない一家族があった。ほかでもない、私の妻子たちである。(中略) 妙佼先生に下がった神示によって妻子を故郷の菅沼に送ったのは、昭和十九年八月十二日であった。数え年で長女知子が十四歳、次女羌子が十二歳、三女佳子が九歳、長男浩一が七歳、次男欽司郎が五歳、三男の皓司が二歳であった。 (昭和51年03月【庭野日敬自伝】) 家族との別離 二 お釈迦さまは、ラゴラという一子が生まれると、すぐ最愛の妻子を捨てて出家されるでしょう。そして六年間のきびしい苦行をされて悟りを開かれたのですが、自分が出家同様の生活をしてみまして、お釈迦さまが出家の道を選ばれたのが、いかに賢明であったか、しみじみ思い知られました。本当にそう思った。 そばに女房も子どももいなくなって、ひとりで『法華経』の勉強に没頭できるのですから。信者の導きも思う存分できるわけです。それはやはり、私を本物にしてくださるための試練だったのです。 家族と別れていた十年間は、夫として、父親としての役目より先に『法華経』の修行者としての道を究めさせてやろうという仏さまのお慈悲の年月だったのだと、今しみじみと、そう思うのです。 (昭和53年03月【躍進】) 家族との別離 三 十年間の別居が終わり、昭和二十九年の一月から三月にかけて、家族たちがつぎつぎに東京へ帰ってきたのは事実である。しかし、神示はまだほんとうの親子・夫婦にもどることを許さなかった。 それで、同じ家に住みながら別居生活が、さらに三年続いたのである。これは、菅沼と東京に住んでいるよりも、精神的にはもっと苦しかった。 階下の部屋に家内や子どもたちが寄り添っているのに、私は外から帰るとさっさと二階へ上がって行かねばならなかった。せっかく、「これでやっと父と暮らせる」と胸ふくらませて帰ってきたのに、やさしい言葉はおろか、風呂にも一緒にはいってやれなかったのである。食事も妻や子どもたちは下の食堂で食べ、私は二階でひとりで食べるという変則的な生活だった。 その禁が解かれた三年目のことについて、家内はこう話している。 「どんなに重い使命を持っているにしても、やはり自分の夫であるという気持ちはいっこうに抜け切れませんでした。ところが、やっとそれがすーっと抜けて、完全に『会長先生だ』という気持ちになったとたんにお許しが出たのでした」と。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 家族との別離 四 神さまの教えに才覚を捨てて自分の心を合わせていく修行を、私は二十年間やらせてもらってきたわけです。その中で、煩悩を捨て切るのが、どれほどたいせつであるか、何度も何度も体験させてもらいました。 いくら『法華経』を読んで学者のよう講義できても、この修行がないと本当に『法華経』を読んだことにならないのです。捨て切ることがどんなにたいせつか分からないと『法華経』は分からない。それを十年間の家族との別居で教えてもらったわけです。 (昭和53年03月【躍進】) ...
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...終戦 一 昭和二十年八月十五日がやってきた。その日は、本部にはいりきれないほど、たくさんの信者たちが集まった。そして、涙のうちに〈玉音放送〉を聞いた。それから、ご宝前で長い供養がいとなまれた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 当時、日本という国は世界一の国であるという誇りをみんながもっていました。軍国主義をあおり立て、自分たちは世界中でいちばん偉い人種だと思い込んでいました。国民の向かっている方向が一つで考え方もきわめて単純で安定していたといえましょう。 ところが、終戦です。太平洋戦争で敗けたことにより三千年来の歴史にきずがついたというので、みんな動転しました。 それまでは「日本は神国だから、絶対敗けない」「竹ヤリを持って待っていれば、B29は落ちてくる」といっていたのが、思いもかけず敗戦という結果になると、人間の罪を考えず、神仏の咎にしてしまって、こんどは「神も仏もあるものか」という風潮になってしまいました。それまでの戦争遂行という一つ所へ向いていた国民の気持ちが、一挙にばらばらになりました。みな本心に返って「さて、どうしょう」と考えたわけです。 ところが心の依り所がなくなり、ただ右往左往し、道義も退廃してしまったのです。 そういう状態ですから、病気も災難もない、財力にも恵まれている人でも、「この財産がいつまで持ちこたえられるか。かつおぶしをかじるように、いまの財産をかじって、やがてどうなるか」と、みなさんがひじょうに不安定な心理状態にありました。 こうして終戦後は、病気の悩みのほかに、精神面の問題で悩むかたがたが続々と入会してくることになりました。 現在、幹部になっているかたは、終戦のころまでに入会されたかたが多く、いろいろな尊い体験をされました。立正佼成会は在家仏教でございますから、専門の人はいないのです。 ですから一生懸命、商売をし、努力して時間をつくって、人さまの幸せのために歩いたのです。それは血の出るような日々でした。 戦争中は、焼夷弾の洗礼を受けながら、仏さまのみ教えを正しく守っているところには、「我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり」(法華経・如来寿量品第十六)とお経にあるのだから、絶対大丈夫だというので、東京を中心にしてがんばったのでした。上空から何回か焼夷弾の洗礼を受けたのですが、お経のとおりに立正佼成会の本部は被害がなく、町会も無事でした。 その間、幹部のかたがたもまた、いろいろの体験をされ、家の焼けたかたはありましたが、あの大戦災の中で、ただのひとりも、身体を傷めた人はなかったのです。 このように私どもは、仏さまから尊い、大慈悲の洗礼を受けたのであります。 (昭和32年04月【速記録】) 終戦 二 戦争中の体験を通しまして、いよいよ本当にこのご法は大丈夫だという確信をもったのです。まことに申しわけないことですが、ご法を自分の身体を通して試験させてもらったようなものです。法華経を試験管に入れて実験したといってもよいかもしれません。 その結果、絶対大丈夫だという確信を得た幹部が、千人ぐらいおりました。そのかたがたが、戦後の混乱期に右往左往している人びとに、本当の仏さまのお慈悲を伝えなければと、大活躍をされましたので、立正佼成会は、終戦後、一躍して、今日のような大教団になったわけでございます。 (昭和32年04月【速記録】)...
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...本尊勧請の神示 一 立正佼成会が昭和十三年三月五日に創立いたしまして、以来「修行中には法華経以外は絶対に雑誌も新聞も読んではいけない」という神さまのご指導により、私は昭和二十年まで、そのとおりの修行をさせられたわけです。 (昭和32年11月【速記録】) 本尊勧請の神示 二 昭和二十年のお釈迦さまの涅槃会の日、二月十五日に、突然、神さまがご降臨になり、「いよいよ日蓮聖人のご遺文を読んでもよい」というお言葉をはじめていただいたのです。 私どもが法華経を信奉いたしております関係上、いろいろのかたがたから、日蓮聖人の『立正安国論』や、『開目鈔』『観心本尊鈔』などの話を、いろいろとお聞きするのですが、それまではぜんぜん拝読したことがなく、何がなんだかよくわからなかったのです。しかし、尊いものには相違ないという、ひじょうな渇仰心をもっておりました。 まず『立正安国論』を第一番に、つぎつぎに五大部を読ませていただいたのでした。 (昭和32年11月【速記録】) 本尊勧請の神示 三 不思議なことですが昭和二十年、日蓮聖人のご入滅の日にあたる十月十三日に、神さまがご降臨になり、いよいよ「立正佼成会に久遠実成のお釈迦さまを勧請せよ」という言葉があったわけであります。 「十一月十五日、庭野、汝の誕生日に勧請せよ」ということでありました。 私はひじょうに喜びました。 そのご指導は「お釈迦さまは四十二年の間、方便を告げられ、その後の八年の間に法華経のご説法をなさった。しかし、立正佼成会はそれと反対に、今までの足かけ八年間は方便であった。これから、いよいよ真実に変わる時に、お釈迦さまを勧請せよ」ということでした。 「あと四十二年間、庭野が真の法華経を弘めなければならないぞ」という言葉をいただいたのであります。 私はありがたく敬服して、そのお言葉のとおり、十一月の十五日を期して勧請申し上げたのでございます。 (昭和32年11月【速記録】)...
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...宗教法人立正交成会の設立 一 終戦後、教勢はみるみる伸びていった。二十年末に千三百世帯だった信者は、二十二年末には、一万世帯にふくれ上がっていた。 二十三年八月十一日には、新しく制定された、宗教法人令によって〈宗教法人 立正交成会〉とし、同日付をもって登記を完了し、東京都知事に届け出た。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 宗教法人立正交成会の設立 二 宗教法人というのは、宗教団体に教義があって、儀式行事を行ない、さらにその教義を布教しているということです。この三つが宗教法人格になるための条件であります。 まず、どのような教えによるかという根本となる教義があり、その教義によって儀式を行ない、そして、信者を教化、、育成し、人びとに布教していくというのが、宗教法人の三つの条件であります。 (昭和31年05月【速記録】) 宗教法人立正交成会の設立 三 宗教法人の資格をよく考えてみますと、少しおかしなことに気づきます。自分では宗教法人だと思っている教団が、実は布教、教化、育成というようなことはまったくやらないで、死んだ人に引導を渡すだけでは、本当は宗教法人にはならないのであります。 生きている人を教化、育成するところに宗教といわれ、宗教法人になる資格があるわけであります。 また宗教法人には、この目的を達成するために公益事業を行なうことができる、とうたわれています。ですから宗教の目的からいえば、いま申し上げたような筋道がちゃんとあって、いろいろな公益事業に力を尽くすべきだと思うのです。 そういう意味で、立正佼成会では、病人に対しては、病院を建てて、そこで科学的な治療をする。子どもたちには保育所があり、学校があって、教育事業をやっています。 今日まで立正佼成会がやってきました活動は、すべて宗教法人法に適合し、宗教法人法の規定の本質を生かす活動であり、それ以外の何ものでもないわけでございます。 (昭和31年05月【速記録】)...
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