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法華三部経の要点 ◇◇35
立正佼成会会長 庭野日敬

神仏は信仰者を飢えさせない

仏は凡夫の域まで降り給う

 窮子に与えられた仕事は便所などを掃除することでした。窮子はどんな汚い仕事でも素直にやっていました。長者は自分も汚いなりをし、手には糞を取る器を持つことによって窮子に親近感を抱かせながらそばに行き、「おまえは食うに困っているというじゃないか。だが、ここにおれば大丈夫だよ。賃金もあげてやろうし、米でも、塩でも、暮らしに必要なものを何でもあげるから安心して働きなさい」と言ってくれるのでした。
 これも信解品の大事な要点です。仏さまといえば、目には見えないけれど、ただもう尊厳な聖なる存在として、近寄り難い気持ちを起こす人もありましょう。
 しかし、そんな気持ちでいたのでは救いは生じません。仏さまと凡夫との間に、波長が合致するといいますか、響き合い、通じ合うものがあってこそ、救いは生ずるのです。
 凡夫には心に自由自在さがありませんが、仏さまはすべてにおいて自由自在ですから、まず仏さまのほうから凡夫の所まで降りて来てくださるのです。長者がわざと汚いなりをして窮子に近づいて行ったというのはそのことなのです。久遠実成の本仏が釈迦牟尼世尊という肉体を持つ人間としてこの濁った世の中に出現されたのも、観世音菩薩が三十三種の人間の身をもって普門示現されるのも、やはりそうなのです。
 このことは、われわれに二つのことを教えます。
 第一は、「この世で出会うさまざまな人の中に、そうした仏や菩薩の化身を見いだす」ということです。そういった人の一言一行の中から救いの種子を感じ取ることが救われの道だということです。
 第二は、「われわれ法華経の行者(布教者)はけっしてお高くとまってはいけない」ということです。いくら自分が高い境地にいようと、相手の境地にふさわしい所まで降りて行って心を溶け合わせることが大切だということです。これを「和光同塵(わこうどうじん)=自分の身の光をやわらげ、世俗の塵に同化する)」といって、菩薩行をなす者にとって忘れてはならない心得なのであります。

道心の中に衣食あり

 ここのくだりにもう一つ大切な要点があります。それは「暮らしに必要な物は何でもあげるから安心して働きなさい」という言葉です。
 よく「信仰活動に打ち込んでいると家業がおろそかになって食うに困りはしないか」と心配する人があります。無理もない心配ですけども、それはきわめて狭い考えです。
 正しい信仰に生き、正しい信仰活動をしている人は、つまるところ久遠実成の本仏の教えそのものに順応しているわけですから、仏さまがその人を見殺しにするはずはないのです。むかしの中国の名言に「天道人を殺さず」というのがあります。イエス・キリストも、「なにを食らい、なにを飲まんと思い煩い、なにを着んと、からだのことを思い煩うな。(中略)まず神の国と神の義を求めよ。さらばすべてこれらの物は、なんじらに加えられるであろう」(マタイ伝六・二五―三四)と言っておられます。神に奉仕する者を神が飢えしめるはずはないというのです。
 仏教においても、伝教大師は「道心の中に衣食(えじき)あり」と言っておられます。真剣に仏道を求める人には必要な衣食住は自然と備わってくるというのです。
 この『長者窮子の譬え』で、長者が「生活に必要な物は何でもあげるから安心して働きなさい」と言ったのも、そうした意味なのであります。


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