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法華三部経の要点 ◇◇34
立正佼成会会長 庭野日敬

法華経は最微者をも見捨てない

「賃金は倍もらえるぞ」

 前回に書いたように、父の長者の大邸宅の門前に来ていながら窮子はそこを立ち去って行きました。経文には「如(し)かじ貧里に往至して、肆力(しりき)地(ところ)あって衣食得易からんには」とありますが、つまり「自分は貧しい環境の所に住むのが気楽だし、賃仕事ももらい易いだろう」ということです。
 これも大切な要点です。長い年月のあいだ物的な欲望のみを追ってその日暮らしをしていますと、精神を高めるとか、人格の向上とかいったむずかしいことはどうでもいい、そんなことは自分にふさわしくない、と思うようになります。「如かじ貧里に往至して云々」というのは、そういう凡夫の心理をじつによくうがっています。
 長者は使いの者をやって窮子を連れて来させようとしましたが、窮子は父の心も知らず、恐ろしさのあまり気を失ってしまいます。父はそれでもあきらめず、子が逃げ去って住んでいる貧しい街に汚い服装をした使いを出し、「いい仕事がある。賃金は普通の倍もらえるぞ」と誘いをかけさせます。
 ここも非常に大事なところです。精神世界のすばらしさなどになんらの関心もない人に、いきなり宗教や信仰のよさを理論的に説いてみたところで、なかなかその人の心は動きません。それどころか、ますますそういった世界に背を向けるようにもなりかねません。そこで、相手が現在いる所まで降りて行って(汚い服装をして)、その上「賃金は倍もらえるぞ」と、現実の利益でもって誘うのです。

弱い愚かな人間にも救いを

 よく「現世利益(りやく)で信仰に誘うのは不純である」と説きます。たしかに純粋な信仰のあり方からすれば、そうでしょう。しかし、それがその人を真の信仰へ導くキッカケになるならば、それは大いに意義あることなのです。
 どのような世界的な宗教といえども、現世利益とまったく無縁であることはありませんでした。その奥底にはりっぱな哲学や世界観があったとしても、表面的には現世利益によって信者が増えていったことはまぎれもない事実です。
 たとえばイエス・キリストも、患者の頭を撫(な)でられただけで病気を治したり、足の不自由な人に「立って歩め」という一言で即座に歩くことができるようにされたことが聖書に明記されています。
 お釈迦さまも、伝道の手始めに、優楼頻羅迦葉(うるびんらかしょう)という拝火教の教主の家にわざわざ泊まりに行き、神通力によって火堂の中の毒蛇を手なずけることによって、たちまち千五百人の信者を獲得された……と仏伝にあります。
 今日の世界的な宗教においては、もちろん、教祖や聖者の人格に引きつけられた人もありましょうし、教えのすばらしさに傾倒した人もありましょうけれども、ごく普通の大衆はその教祖や聖者の持つ不可思議な力に魅せられて後について行ったことも、否定できない事実です。
 法華経は、「仏と成る」という究極の理想をかかげながらも、弱い人間、愚かな人間をけっして見捨てはしない。どんな人間にも救われの道をひらいている。そこが法華経のありがたさです。それが「賃金は倍もらえるぞ」の一語に象徴されているのです。
 ですから、昭和初期における最も行動的なキリスト者であった賀川豊彦師もその著『生活としての宗教』の中にこう書いておられます。「最微者(最も弱小な凡夫)に対する跪拝(きはい)!  その心持ちでゆく人が法華経行者の最大のものであることを知って、私は自分が必ずしも法華経の道に背いているものではないことを知った」と。
 わたしはけっして現世利益を説くことだけを勧めているのではありません。ただ、凡夫の心理というものをおろそかにせず、「いかにしたら正しい救われの道へ導いてあげられるか」ということを、いつも考えていくことが大切であるということを言いたいのです。         


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