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法華三部経の要点 ◇◇46
立正佼成会会長 庭野日敬

言葉の力の偉大さを知ろう

「大王の膳」の譬え

 この授記品でまず摩訶迦葉が仏と成る保証を与えられました。すると、目連・須菩提・迦旃延らが偈(げ=詩)を頌(じゅ)して「世尊、どうぞわたくしどもにも仏となる保証をお授けくださいませ」とお願いしました。
 その偈にはいわゆる「大王の膳(ぜん)」の譬えが説かれています。すなわち「飢えたる国より来って 忽ちに大王の膳に遇わんに 心猶お疑懼を懐いて 未だ敢て即便ち食せず 若し復王の教を得ば 然して後に乃ち敢て食せんが如く 我等も亦是の如し」というのです。
 ――これまで長いあいだ自分たちが仏に成りうるなどとは思ってもいなかったのに、この法華経の説法において世尊は突然そのようなことをおおせいだされた。そして、まず舎利弗がその保証を与えられ、次にここで摩訶迦葉もその保証を頂いた。飢餓の国からはるばる来て、大王から最高のごちそうを頂いたようなものである。われわれの前にもそのごちそうが出されている。頂いていいものとはわかっているけれども、やはり一抹の不安がある。大王が「食べていいぞ」と一言いわれれば安心して頂戴(ちょうだい)できるのだが――という心持ちです。
 三人の微妙な心理がよく描かれています。目連は「神通第一」、須菩提は「解空(空をよく理解している)第一」、迦旃延は「論議(教えの要点を論ずること)第一」というお釈迦さまのお墨付きをもらっている教団中の逸材です。とはいえ、自分たちはもろもろの菩薩たちとは異質の、一段低い信仰者だと思い込んでいたのでした。ところが、この法華経の方便品以降の説法で自分たちも仏と成る軌道の上にいることがわかり、しかも、現に舎利弗・大迦葉という声聞仲間が授記されたのですから、自分たちもその資格があるぞと躍り上がりたい気持ちになっているのです。しかし、お釈迦さまから実際に成仏の保証のお言葉を頂かないうちは、一抹の不安がまだ心の隅にあるのです。上の「大王の膳」の譬えはその気持ちを率直に表白しているわけです。

言葉は神であり仏である

 言葉というものはそれほど大切なものです。
 われわれ立正佼成会会員が朝夕読誦する経典の開経偈にも「色相の文字は即ち是れ応身なり」とあります。「法華経に説かれている言葉、それを表している文字は、とりもなおさずお釈迦さまのおん身そのものなのである」というのです。
 キリスト教でも同じようなことを言っています。聖書のヨハネ伝の最初に「太初(はじめ)に言(ことば)ありき。言は神と共にあり、言は神なりき」とあります。
 言葉は仏であり、神であるというのです。善い言葉には神仏のお力が宿ります。人の運命を変えるばかりか、環境をも変える偉大なはたらきをもするのです。道元禅師の名言のように「愛語よく回天の力あり」なのです。
 逆に、よくない言葉を吐くことは、仏を汚し、神を冒涜(ぼうとく)する行為です。そして、人をおとしめ、傷つけ、不幸にします。
 われわれ布教者は、とりわけ言葉を大切にしなければなりません。われわれの一言一言が人を幸せにし、世の中を変えていくのです。愛の言葉、思いやりの言葉、慰めの言葉、励ましの言葉、それがわれわれの言葉でなくてはなりません。
 場合によっては折伏(しゃくぶく=相手を強く責めて回心させる)も必要ですけれども、それを用いるのはよほどの徳を具えている人でないと逆効果の危険があります。やはり摂受(しょうじゅ=相手を柔らかに抱き取りおだやかに説得する)が本筋であると心得るべきです。 いずれにしても、お導きや手どりをする人、あるいは人の上に立つ人の言葉は思いがけないほどの力を持つものです。大切の上にも大切にしましょう。
                                                     

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