法華三部経の要点 ◇◇32
立正佼成会会長 庭野日敬
この三界は我が有である
宇宙と一体になられた釈尊
譬諭品の最大の要点は、というよりは法華経全巻の要点、いや全仏教経典の中で最も尊くありがたいお言葉、それは左の一句でありましょう。
「今此の三界は皆是れ我が有(う)なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難(げんなん)多し。唯我一人のみ能く救護(くご)を為す」
この宇宙はすべてわたしのものだ。その中の生きとし生けるものはすべてわたしの子だ。この世(宇宙)にはさまざまな苦しみや悩みが充(み)ち満ちている。それを救うのはわたし一人しかいないのだ……とおおせらているのです。
この「宇宙はわがもの」というのは、ふつうに考えられるような「わたしが所有するものだ」というのではありません。「わたしは宇宙そのものだ」と、お釈迦さまは自覚されておられるのです。「我(が)」というものがまったくなく、そのためにご自分が宇宙全体と完全に一体になっておられるのです。
元禄時代の名僧盤珪(ばんけい)禅師は、この「三界は我が有」ということを、きわめてやさしいことばで次のように解説しておられます。
「心に何もなきときは、どこへでも固うならずにおられる。それが自在じゃ。自ら在るのじゃ。心に一物(注・一物とは「我」のこと)もなきときは、わが家で自在であるのみならず、どこへいっても、遠慮せずに、自在じゃ。お釈迦さまは心に一物も持っておられなんだによって、三界はわがものと、世の中の主(あるじ)になられたのじゃ。どこでも自由に寝起きされたのじゃ」
まことに名解説だと思います。われわれ凡夫はお釈迦さまほどの徹底した「無我」にはなれないでしょうが、たまには夜空に輝く無数の星を眺めて無限の思いにひたったりした時、あるいは、ひとりの悩める人を幸せにしてあげたいと真剣に取り組んでいる時、ふと、そういう自分を顧みたりすれば、いつしか「我」が薄れていくのを実感することができましょう。そのひとときの自由自在な気持ちが、どれぐらいわれわれの人生を快いものにするか測り知れないものがあると思います。
大慈悲と責任感と自信と
さて、宇宙がわがものであれば、その中に住む生きとし生けるものはすべてわが子であります。お釈迦さまはそのことを心の底から実感しておられたからこそ、苦しみ悩んでいる者には救いの手をさしのべずにはおられなかったのです。それが仏の大慈悲にほかなりません。
それにしても「一切衆生を救うのはわたしだけしかいないのだ」というお言葉は、聞きようによっては思い上がった、ひとりよがりの考えのように受け取れるかもしれません。
けっしてそうではないのです。これは大きな責任感の表白なのです。「わたしがやらなければだれがやるのだ」という、やむにやまれぬ責任感からのお言葉なのです。
仏とは、宇宙と人生の真理にめざめた人のことです。最も深く、最も明らかにめざめた人です。そのような人は歴史上お釈迦さまよりほかになかったのです。だから、この「唯我一人のみ能く救護を為す」というのは、大いなる責任感と同時に、大いなる自信から発せられたお言葉なのです。「わたしにはできる力があるのだ」という大自信の表白でもあるのです。
お釈迦さまよりほかに、だれがこれほどの大慈悲と、責任感と、自信を持ちえた人がありましょうか。
われわれは人間の歴史始まって以来の、そうした第一人者の教えを学んでいるのです。受持し、信仰しているのです。われわれこそはこの世でいちばんの幸せ者といわなければなりません。日蓮聖人が譬諭品のこの一節から、「主・師・親の三徳」を説かれたり、白隠禅師が同じここのくだりを読んだとき思わず声をあげて号泣したというのも、その無上のありがたさにむせんだのでありましょう。
立正佼成会会長 庭野日敬
この三界は我が有である
宇宙と一体になられた釈尊
譬諭品の最大の要点は、というよりは法華経全巻の要点、いや全仏教経典の中で最も尊くありがたいお言葉、それは左の一句でありましょう。
「今此の三界は皆是れ我が有(う)なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難(げんなん)多し。唯我一人のみ能く救護(くご)を為す」
この宇宙はすべてわたしのものだ。その中の生きとし生けるものはすべてわたしの子だ。この世(宇宙)にはさまざまな苦しみや悩みが充(み)ち満ちている。それを救うのはわたし一人しかいないのだ……とおおせらているのです。
この「宇宙はわがもの」というのは、ふつうに考えられるような「わたしが所有するものだ」というのではありません。「わたしは宇宙そのものだ」と、お釈迦さまは自覚されておられるのです。「我(が)」というものがまったくなく、そのためにご自分が宇宙全体と完全に一体になっておられるのです。
元禄時代の名僧盤珪(ばんけい)禅師は、この「三界は我が有」ということを、きわめてやさしいことばで次のように解説しておられます。
「心に何もなきときは、どこへでも固うならずにおられる。それが自在じゃ。自ら在るのじゃ。心に一物(注・一物とは「我」のこと)もなきときは、わが家で自在であるのみならず、どこへいっても、遠慮せずに、自在じゃ。お釈迦さまは心に一物も持っておられなんだによって、三界はわがものと、世の中の主(あるじ)になられたのじゃ。どこでも自由に寝起きされたのじゃ」
まことに名解説だと思います。われわれ凡夫はお釈迦さまほどの徹底した「無我」にはなれないでしょうが、たまには夜空に輝く無数の星を眺めて無限の思いにひたったりした時、あるいは、ひとりの悩める人を幸せにしてあげたいと真剣に取り組んでいる時、ふと、そういう自分を顧みたりすれば、いつしか「我」が薄れていくのを実感することができましょう。そのひとときの自由自在な気持ちが、どれぐらいわれわれの人生を快いものにするか測り知れないものがあると思います。
大慈悲と責任感と自信と
さて、宇宙がわがものであれば、その中に住む生きとし生けるものはすべてわが子であります。お釈迦さまはそのことを心の底から実感しておられたからこそ、苦しみ悩んでいる者には救いの手をさしのべずにはおられなかったのです。それが仏の大慈悲にほかなりません。
それにしても「一切衆生を救うのはわたしだけしかいないのだ」というお言葉は、聞きようによっては思い上がった、ひとりよがりの考えのように受け取れるかもしれません。
けっしてそうではないのです。これは大きな責任感の表白なのです。「わたしがやらなければだれがやるのだ」という、やむにやまれぬ責任感からのお言葉なのです。
仏とは、宇宙と人生の真理にめざめた人のことです。最も深く、最も明らかにめざめた人です。そのような人は歴史上お釈迦さまよりほかになかったのです。だから、この「唯我一人のみ能く救護を為す」というのは、大いなる責任感と同時に、大いなる自信から発せられたお言葉なのです。「わたしにはできる力があるのだ」という大自信の表白でもあるのです。
お釈迦さまよりほかに、だれがこれほどの大慈悲と、責任感と、自信を持ちえた人がありましょうか。
われわれは人間の歴史始まって以来の、そうした第一人者の教えを学んでいるのです。受持し、信仰しているのです。われわれこそはこの世でいちばんの幸せ者といわなければなりません。日蓮聖人が譬諭品のこの一節から、「主・師・親の三徳」を説かれたり、白隠禅師が同じここのくだりを読んだとき思わず声をあげて号泣したというのも、その無上のありがたさにむせんだのでありましょう。