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法華三部経の要点 ◇◇47
立正佼成会会長 庭野日敬

魔をも向上のエネルギーに変える

魔には二種類ある

 お釈迦さまは摩訶迦葉への授記のお言葉の中で「魔事あることなけん。魔及び魔民ありと雖(いえど)も皆仏法を護らん」とおおせられています。はるか未来の後の理想社会のこととも受けとれましょうが、しかし、これをわれわれはいま現実に生きる世界の真実と受けとめることが大切だと思います。
 魔というのは、ひっくるめていえば、正しい道を妨害する邪(よこし)まな存在で、「邪魔」という日常語もそこから出ているのです。この魔には二種類があります。一つは外から襲ってくるもので「身外の魔」といい、もう一つは自分自身の内に潜むもので、これを「身内の魔」といいます。
 お釈迦さまが菩提樹の下で最終的な禅定に入られたとき、魔やその手先たちが入り代わり立ち代わりやってきてお悟りの邪魔をしました。その魔の正体については二説があります。一つは、実際にそうした悪霊がいたという説。すなわち身外の魔です。もう一つは、人間の潜在意識に巣くっている悪い経験の集積(身内の魔)だという説です。この後者のほうがより現実的だと思いますので、それについて吟味してみましょう。
 現在でも、すぐれた指導者のもとでなく独りで座禅などをしていた人がそうした潜在意識の表面化に襲われて異常な状態になった例もあるようです。しかしお釈迦さまは、たぐいなき精神力と、また諸天善神の加護によって、そのような危機を見事に乗り切り、悟りをひらかれたわけです。
 人間は、原始的な生物だった時代からこのかた、自身の生命の維持と種族の保存のためにさまざまなエゴの行為をしつづけてきました。残虐な殺りくをもあえてしました。そうした経験がすべて潜在意識の底に沈んでいてなかなか消え去らないのです。
 ですから、倫理・道徳の教える道を精いっぱい守っていても、その潜在意識からつき上げてくる悪念にそそのかされて、ついよくない行為をし、自分をも不幸にし、ひとをも傷つけ、社会にも害悪を流してしまうわけです。
 そうした深層意識がつくる「罪」を防ぐものは宗教の信仰しかありません。宗教の信仰は、まず顕在意識(表面の心)を清めます。さらに、潜在意識までも清めますので、心奥から突き上げてくる悪念をも抑止するのです。こんなはたらきをするものは、ほかにはないのです。

「魔があっても魔事がない」

 さらに、大乗仏教の教義に即していえば、信仰がさらに進めば潜在意識に潜む悪をも大きく包容してしまいますので、悪が悪のはたらきをしなくなるのです。かつてわたしが本紙の『会長随感(平成1・10・13)』に「人間の体は五十兆もの細胞の働きで保たれているのですが、その二倍もの細菌が体の中で共存しています。それが、間違った生活で体力が落ちると、よくない菌がどんどん増えてバランスが崩れてくる。これが病気です」と書きました。
 それと同じで、潜在意識に潜む悪菌をも「やはり自分の一部なんだ」と包容しますと、それらが全人格のバランスをつくる一員となりますから、わるさなどをしなくなるのです。これが「魔があっても魔事がない」ということにほかなりません。
 それどころか、そういった悪菌が自分に試練を与えて精神を鍛えてくれるエネルギーとなるのです。大乗仏教でいう「煩悩即菩提」というのはそのことなのです。お釈迦さまが、前世の物語にことよせて「わたしが正覚を成じたのは提婆達多という善知識(よき友)のおかげである」とおっしゃったのも、そのことにほかなりません。提婆という「悪」をも包容してしまわれたればこそ、あの比類なき大人格が形成されたのです。
                                                      

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