法華三部経の要点 ◇◇33
立正佼成会会長 庭野日敬
信仰心は人間の本質
宗教への目覚めこそ
信解品に入ります。この品は、前の譬諭品で舎利弗に仏となる保証を与えられたことに感激した同じ声聞仲間が申し上げた『長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え』が中心となっています。
大富豪の実子であった窮子は、幼いときに父の家からさまよい出て諸国を放浪する身となりました。大富豪とは久遠実成の本仏さまのことであり、窮子とはわれわれ衆生のことです。
われわれの大部分は、本仏さまの実子であるという真実を知らず、ただ物的な欲望のおもむくままに、その本来の自分にふさわしくない生活を送ります。それが「父の家からさまよい出て諸国を放浪する」ということの意味にほかなりません。
しかし、そうした生活を送っているうちにも、いつとはなく故郷の家に引かれる思いが生じ、放浪の足も自然とふるさとのほうへ向いて行くのでした。
ここのところがじつに尊いことではないですか。われわれは宇宙の大生命ともいうべき本仏さまの子であることをぜんぜん知らなくても、ある年齢に達すると、なんとなく本仏さまのような見えざる存在に心を引かれるようになってくるものです。わかりやすくいえば、宗教への目覚めであります。信仰心のきざしであります。この目覚め、このきざしを逃(のが)さぬ人こそがほんとうに救われる人なのです。なぜなら、その目覚めこそが人間の本質である仏性の目覚めなのですから。
黙して之を識る
この物語の窮子は、それとも知らず父の邸宅の門前にさしかかりました。奥のほうを見ますと、おおぜいの侍者に囲まれた見るからに尊げな長者がおられます。あまりにも豪勢なその様子に恐れをなした窮子は「とてもこんな邸(やしき)で雇ってもらえるはずがない」と思って、すぐ立ち去って行きました。奥のほうからその姿を見ていた長者は、ひと目でそれが長年探していた自分の子であることを知りました。経文には「黙して之を識(し)る」とあります。
この一句に本仏さまの慈悲の広大無辺さがしみじみと表現されているのです。久遠の本仏さまは、この宇宙のあらゆる所に充ち満ち、あらゆる生あるものを見守っておられます。すべての生あるものがご自分の実子であることをちゃんと知っておられるのです。それが「黙して之を識る」です。
大乗仏教では、言葉を尽くしてそのことをこんこんと教えているのですけれども、説かれる仏の世界があまりにも高遠なのでたいていの人が「とうてい自分たちの及びうる世界ではない」と考えて、ついついその教えから遠ざかって行くのです。布教者にとってこれは非常に大切なポイントで、この信解品にもその対策が述べられていますので、次回にそのことについて解説することにしましょう。
さて、われわれ凡夫がどこへ立ち去って行こうとも、久遠の本仏さまは相変わらずわれわれのそばにおられるのです。わが子として温かく見守っていてくださるのです。
われわれは早くそのことに気づかなくてはなりません。気がつけば、それまで本仏さまのほうからわれわれを「識る」という一方通行だったのが、今度はわれわれのほうからも仏さまを「識る」ことになり、そこにいわゆる「感応道交(かんのうどうきょう)」という宗教や信仰ならではの妙境が生まれるのであります。
信解品の窮子は、その妙境に達するのに二十年かかりました。しかし、二十年かかろうとも、それこそが人間としての最大の幸福であり、人間として生まれた最高の意義であると知るべきでありましょう。
立正佼成会会長 庭野日敬
信仰心は人間の本質
宗教への目覚めこそ
信解品に入ります。この品は、前の譬諭品で舎利弗に仏となる保証を与えられたことに感激した同じ声聞仲間が申し上げた『長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え』が中心となっています。
大富豪の実子であった窮子は、幼いときに父の家からさまよい出て諸国を放浪する身となりました。大富豪とは久遠実成の本仏さまのことであり、窮子とはわれわれ衆生のことです。
われわれの大部分は、本仏さまの実子であるという真実を知らず、ただ物的な欲望のおもむくままに、その本来の自分にふさわしくない生活を送ります。それが「父の家からさまよい出て諸国を放浪する」ということの意味にほかなりません。
しかし、そうした生活を送っているうちにも、いつとはなく故郷の家に引かれる思いが生じ、放浪の足も自然とふるさとのほうへ向いて行くのでした。
ここのところがじつに尊いことではないですか。われわれは宇宙の大生命ともいうべき本仏さまの子であることをぜんぜん知らなくても、ある年齢に達すると、なんとなく本仏さまのような見えざる存在に心を引かれるようになってくるものです。わかりやすくいえば、宗教への目覚めであります。信仰心のきざしであります。この目覚め、このきざしを逃(のが)さぬ人こそがほんとうに救われる人なのです。なぜなら、その目覚めこそが人間の本質である仏性の目覚めなのですから。
黙して之を識る
この物語の窮子は、それとも知らず父の邸宅の門前にさしかかりました。奥のほうを見ますと、おおぜいの侍者に囲まれた見るからに尊げな長者がおられます。あまりにも豪勢なその様子に恐れをなした窮子は「とてもこんな邸(やしき)で雇ってもらえるはずがない」と思って、すぐ立ち去って行きました。奥のほうからその姿を見ていた長者は、ひと目でそれが長年探していた自分の子であることを知りました。経文には「黙して之を識(し)る」とあります。
この一句に本仏さまの慈悲の広大無辺さがしみじみと表現されているのです。久遠の本仏さまは、この宇宙のあらゆる所に充ち満ち、あらゆる生あるものを見守っておられます。すべての生あるものがご自分の実子であることをちゃんと知っておられるのです。それが「黙して之を識る」です。
大乗仏教では、言葉を尽くしてそのことをこんこんと教えているのですけれども、説かれる仏の世界があまりにも高遠なのでたいていの人が「とうてい自分たちの及びうる世界ではない」と考えて、ついついその教えから遠ざかって行くのです。布教者にとってこれは非常に大切なポイントで、この信解品にもその対策が述べられていますので、次回にそのことについて解説することにしましょう。
さて、われわれ凡夫がどこへ立ち去って行こうとも、久遠の本仏さまは相変わらずわれわれのそばにおられるのです。わが子として温かく見守っていてくださるのです。
われわれは早くそのことに気づかなくてはなりません。気がつけば、それまで本仏さまのほうからわれわれを「識る」という一方通行だったのが、今度はわれわれのほうからも仏さまを「識る」ことになり、そこにいわゆる「感応道交(かんのうどうきょう)」という宗教や信仰ならではの妙境が生まれるのであります。
信解品の窮子は、その妙境に達するのに二十年かかりました。しかし、二十年かかろうとも、それこそが人間としての最大の幸福であり、人間として生まれた最高の意義であると知るべきでありましょう。