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経典のことば5

世尊智見を得たまえる時、此の世間に於て、梵宮も、天も、人も、沙門も、およびバラモンも、世みな大いに明かなり。……其の間の所有の一切衆生、おのおの相見、おのおの相知り、おのおの語るらく「この所に、またまた衆生あるか。この所に、…

1 ...経典のことば(5) 立正佼成会会長 庭野日敬 世尊智見を得たまえる時、此の世間に於て、梵宮も、天も、人も、沙門も、およびバラモンも、世みな大いに明かなり。……其の間の所有の一切衆生、おのおの相見、おのおの相知り、おのおの語るらく「この所に、またまた衆生あるか。この所に、またまた衆生あるか」と。 (仏本行集経・巻30) 天地の万物が輝き出した  これは、お釈迦さまが十二月八日の暁に菩提樹の下で仏の悟りを得られた瞬間のありさまを描写したものです。  あたりはまだ暗く、東の空に明星だけがキラキラとまたたいていたのですが、世尊が悟りをひらかれるやいなや、すばらしい大光明が輝きわたり、神々の宮殿も、天人も、地上の人間たちも、出家者修行者も、バラモンも、ありとあらゆる存在がえもいわれぬ尊い白光に照らし出されたのです。  すると、人間を含むすべての存在(一切衆生)が、お互いに相手を発見し、知りあい、「おお、ここにもあなたがいたのか。ここにもいたのか」と語りあった……というのです。  仏教学者の玉城康四郎博士はその著『永遠の世界観・華厳経』のなかで、「華厳経では、自分が自分を知るだけではない、世界を知るのである。また、自分が世界を知るだけではない。世界が世界を知るのである」と述べておられます。  この「世界が世界を知る」ということが仏教の深遠な世界観なのであって、それをわかりやすく表現したのが、ここにかかげた「一切衆生、おのおの相見、おのおの相知り、おのおの語るらく『この所に、またまた衆生あるか。この所に、またまた衆生あるか』と」いうことではないでしょうか。  お釈迦さまの悟りを現代風に表現しますと、「この世のすべての存在は、宇宙に遍満しているただ一つの実在である大生命の分身である。つまり、もともとは同根なのである。しかも、それらはお互いに関連しあい、相依り、支えあって存在しているのであって、孤立しているものはただの一つもないのである」という真理です。 万人がしあわせになるには  お釈迦さまがこの真理を悟られた瞬間に世界中に大光明が輝きわたり、いままでお互いにその存在を知らなかったもろもろの衆生が、お互いを発見し、喜びあったということには、すべての存在がほんとうにしあわせになる大直道がそこに示されていると受け取らねばなりますまい。  わたくしどもの周囲には家族がおり、職場の仲間がおり、地域社会の隣人がおり、さらに国を同じくする多くの人たちがいます。わたくしどもはそれらの人びとの存在価値をしんから認識しているでしょうか。それらの人びとと自分とのあいだの「生かしあい」「支えあい」の関連をしみじみと感じ取っているでしょうか。  答えはおそらくノーでしょう。ましてや世界の遠い国々の人びとへの関心の度はもっと低いものと見なければなりますまい。そうした認識の浅さが冷淡な心情を生み、その冷淡さがさまざまな原因に触発されて不幸な争いを引き起こしているのです。  ですから、もしわれわれがお互いに宇宙の大いなるいのちを分け合っている仲間であることを心の底から悟ることができれば、そこから、手を握り肩を抱きあわずにはいられぬ友情が生じ、この世はおのずから潤いある平和世界と化していくでしょう。  仏教の究極の目的はそこにあるのですが、その根本理念はお釈迦さまが悟りをひらかれた瞬間に決定されたといっていいでしょう。そのことが、ここに掲げたことばに象徴的に語られているわけです。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば6

人、世間愛欲の中に在りて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。(仏説無量寿経・下)

1 ...経典のことば(6) 立正佼成会会長 庭野日敬 人、世間愛欲の中に在りて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。 (仏説無量寿経・下) 逆境の人こそこの句を  あなたはいま十分にお幸せですか。生計の心配はなく、家庭は円満で、お子さんたちは素直にすくすくと育っていらっしゃいますか。そういう方は、この一文をお読みになる必要はないでしょう。  いや、しかし、やはり読んでいただきましょう。人生に波乱はつきもので、一生のあいだずっとそんな状態にいられるとは限りませんから。  ましてや、あなたがいま失意の状態にあり、あるいはどうにもならぬような逆境にあって、これまで親しくしていた人からは背を向けられ、なんともいえぬ孤独感にさいなまれておられるとしたら、ぜひこの一句をしっかりと味わっていただきたいと思います。  ギリギリのところ、人間は独りで生まれ、独りで死ぬのだ……このきびしい真実を、一見非情とも感じられる口調で喝破しておられることに、あなたはかえって大きな励ましを覚えませんか。  まだ胸中に残っている周囲への甘い依頼心がキリリと引き締められ、落ち込んでしまいがちな気持ちから一種のひらき直った諦念へと立ち上がる思いを覚えませんか。  この一文は人間の究極の孤独をえぐり出していますけれども、この真実に徹しきれば、かえって孤独感を超越し、ひろびろとした自由の天地が開けるように思うのですが、どうでしょうか。  これを浅く読めば、「この世は万人万物の持ちつ持たれつで成立しているのだ」という仏教の世界観と矛盾するようですけれども、そうではありません。お釈迦さまは、そうした世界の中にあっても、他の人びとや社会に対して甘ったれた依存心を持ってはいけないことを常に戒められていました。  「自らを灯明として生きよ。法(真理)を灯明として生きよ」という自灯明・法灯明の教えは有名です。  スッタニパータにも次の名句を残しておられます。   音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀(さい)の角のように、ただ独り歩め……と。 代わってくれる人はない  さて、前掲の句に続いて「行いを当(お)いて苦楽の地に至り趣く。身自ら之を当(う)く。代る者有ることなし」と説かれています。  独りで生まれ、独りで死に、独りであの世へ行く(独り来る)。どういうあの世へ行くのか、苦の世界か、楽の世界か、それも自分自身が決めるのだ。生前の心ざまや行いがそれを決めるのだ。そして、だれも代わりに行ってくれる人はいない……というのです。  これまたじつにきびしい、容赦のないことばですが、まさにそのとおりです。  自分の蒔(ま)いた種は自分で刈り取らねばならぬ。これが仏教の説く因果応報の理なのです。独生・独死・独去・独来……なにか寂しい気のする人もありましょうが、この真実には素直に従わねばなりますまい。  己(おの)が食(は)む秣(まぐさ)を負うて夏野かな  許六  人間の一生も、そしてその死後も、この馬と同じなのです。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば7

池の中に蓮華あり、大きさ車輪のごとし。青色には青光あり、黄色には黄光あり、赤色には赤光あり、白色には白光あり、微妙香潔(みみょうこうけつ)なり。 (仏説阿弥陀経)

1 ...経典のことば(7) 立正佼成会会長 庭野日敬 池の中に蓮華あり、大きさ車輪のごとし。青色には青光あり、黄色には黄光あり、赤色には赤光あり、白色には白光あり、微妙香潔(みみょうこうけつ)なり。 (仏説阿弥陀経) 聖者は浄土を目前に見る  これは、釈尊が、阿弥陀如来のおられる極楽浄土のありさまをお説きになった一節です。  法華経にも、たとえば舎利弗が仏となったとき住する国土を「地面は瑠璃でしきつめられ、道の両側は金のなわで縁どられ、七宝で飾られた並木がつらなり、その木にはいつも美しい花が咲き、ゆたかな果実がみのっているであろう」と、予言されています。  また、同じ法華経の如来寿量品には、「衆生の目から見れば、この地球が現在の状態で存在する時代が終わって世界全体が大火に焼かれてしまうと見える時も、仏の国土は安穏であって、天人や人間が楽しく暮らしている。美しい花園、静かな林、りっぱな建物、それらは光り輝く宝玉によって飾られている。木々には花が咲きみだれ、実が豊かにみのっている」と述べられています。  お釈迦さまだけでなく、たとえば聖書の≪ヨハネの黙示録≫には「それから彼(天使)はわたしを霊において大きな高山の上につれて行き、聖なる町エルサレムが天から、神のところから、神の栄光をたずさえて下ってくるのを示した。その町の輝きは非常に高価な宝石のようであり、結晶した碧玉のように光っていた……川の両側には十二種の実のなる生命の木があって、月ごとに一つずつ実をつけていた」(佐竹明訳)とあります。  これらがあまりにも似かよっているのを見ますと、たんなる想像ではなく、すぐれた聖者のみが持つ神通力(超能力)で、霊の世界・四次元の世界が手に取るように見通されているのだろうと考えざるをえません。 我々も心の輝きを持とう  霊の世界とか四次元の世界とは、死んでからおもむく所とはかぎらず現実の世界と重なりあって存在するものです。したがって、浄土というものは、われわれの心がそれにふさわしいまでに澄みきわまれば、生きながらにしてそこに住むことができるのです。  経典の中に実相の世界や極楽浄土の美しいありさまを述べてあるのも、日ごと煩悩の泥水にまみれながら暮らしているわれわれを、ひとときそのような世界に遊ばせ、一歩でもそうした世界に近づけさせようというおはからいだと思うのです。そのような心理効果は大いにあるからです。  ですから、経典のそのようなくだりを読むときは、絵そらごとだという批判めいた気持ちを起こしたり、夢の世界のように軽い見方をすることなく、目の前にまざまざとそのような風光が展開しているのだという気持ちで、魂ごと吸い込まれるように読んで欲しいものです。  さて、ここにある極楽の池の蓮の花々は、理想社会のさまざまな人間の心のありようを象徴していると考えるべきでしょう。その人の個性によって心の相(すがた)はさまざまであるが、青色(しょうしき)には青光あり、黄色(おうしき)には黄光あり、赤色(しゃくしき)には赤光あり、白色(びゃくしき)には白光あり、すべてがいいようもなく香り高く清らかである(微妙香潔)というのです。  真の芸術家・真の学者・真の実業家・真の技能者・真の労働者、それぞれの心からはそれぞれ違った美しい光を発している。しかし、色と光はそれぞれ違っても、すべてが同じようにたとえようもない香気と清らかさを持っている……これが人間世界の理想の姿でありましょう。  これからは「心の時代」だといわれています。お互いさま、このような境地を胸に描きながら日々を送りたいものです。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば8

善男子よ、もろもろの善知識に親近(しんごん)し供養するは是れ一切智を具する最初の因縁なり。このゆえに、此に於て疲厭(ひえん)を生ずるなかれ。 (華厳経・入法界品39・3)

1 ...経典のことば(8) 立正佼成会会長 庭野日敬 善男子よ、もろもろの善知識に親近(しんごん)し供養するは是れ一切智を具する最初の因縁なり。このゆえに、此に於て疲厭(ひえん)を生ずるなかれ。 (華厳経・入法界品39・3) 五十三人に教えを聞く  華厳経はお釈迦さまが菩提樹下で悟られた悟りの内容をつぶさにえがき出したお経です。お釈迦さまご自身は何も発言なさらず、多くの菩薩たちがつぎつぎに仏の世界の素晴らしさを語るのですが、つまりは、この大宇宙はビルシャナ仏(光の仏)が透き間もなく遍満しておられる光明世界だということになるのです。  しかし、初めのほうはじつに難解で、その説法の座につらなっていた智慧第一の舎利弗や神通第一の目連でさえポカンとするばかりだったと伝えられています。ですから、後世のわれわれにとって親しみやすいのは、後段の入法界品(にゅうほっかいぼん)だという人もおります。  この品は、大富豪の子である善財という少年が、一切智(すべてのものごとの真実を知る智慧)を求めようという志を起こし、文殊菩薩の指導によって四方八方に旅をし、さまざまな人に教えを受ける話です。  ここにかかげたのは、その文殊菩薩の教えの一節で、「一切智を得ようとするならば、何よりもまずさまざまな人生の先達(せんだつ)たちに近づき、尊敬のまことをささげ(その教えを受け)ることである。けっしてそのことを面倒に思ったり、途中で投げ出してはならない」というのです。  善財童子はそのことばを忠実に守り、諸国を旅して、じつに五十三人の人に教えを受けるのですが、その中には仏教以外の修行者もあり、仙人(超能力者)もあり、医者もあり、船大工もあり、自分より年下の少年少女もあったのです。その求道心の熱烈さには驚嘆せざるをえません。  話はそれますが、わが国の東海道五十三次というのは、この五十三人という数から出たものだといわれています。苦労の旅を重ねながら五十三の宿場を過ぎ、ついに目的の京の都に達する……というわけでありましょう。 自分以外の人はみな師  この善財童子の求道遍歴についてとりわけ教えられることは、相手が仏教者とは限らず、どんな人の話にも耳を傾け、その中から自分の魂の修行にプラスするものを吸収していった心の柔軟さです。姿勢の謙虚さです。  それにつけて思い出されるのは、作家の吉川英治さんの「自分以外の人はみんなわが師である」「大衆即大知識」ということばです。吉川さんは家運が傾いたために小学校を中退し、印章店の小僧、横浜税務監督局の給仕、雑貨商の店員、横浜ドックの船具工など、さまざまな職業を転々としました。  善財少年が一切智を求めて遍歴したのに対して、吉川少年は家計を助けるためにより多くの収入を求めて職業を転々としたわけですが、しかし、そうした遍歴の中においても、主人や、上司や、同僚や、周囲の人びとの言行の中から、魂の糧(かて)となるものを貪婪(どんらん)に吸収していったことは、前述の二つのことばからも推し量ることができます。  それが『宮本武蔵』や『新書太閤記』などの名作にしらずしらずの間に注ぎ込まれたのでしょう。それが日本中の庶民大衆の絶大な共感を呼んだ秘密だと思われるのです。  文殊菩薩の「もろもろの善知識に親近し」ということばは、裏返していえば「めぐりあう人の中に善知識を発見せよ」ということでありましょう。わたしども、どんな地位にあろうとも、どんなに年を取っていようとも、一生そのような心構えでいたいものです。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば9

衆生病めばすなわち菩薩も病む。 (維摩経・文殊菩薩問疾品)

1 ...経典のことば(9) 立正佼成会会長 庭野日敬 衆生病めばすなわち菩薩も病む。 (維摩経・文殊菩薩問疾品) 「同体の大悲」ということ  ここに掲げたことばは、維摩詰が病気になったと聞かれたお釈迦さまが文殊菩薩を見舞いによこされたとき維摩が言ったことばです。  文殊が「どうして起こった病気ですか。どうすれば治るのですか」と尋ねたのに対して、「衆生の無知と欲望が引き起こしたのです。衆生をわが子のように思っている菩薩は、衆生の心が病めば自分も病み、衆生の病が治れば菩薩の病も治るのです」と答えました。  大きく見れば「社会が救われないかぎり自分も救われないのだ」という大乗精神を言ったものですが、そのもう一つ前にあるのは、相手と一体となってしまうほどの深い愛情であって、ここではそれを問題にしたいのです。仏教ではこれを「同体の大悲」といい、菩薩などではなくてもほんとうに人間らしい人間ならば、愛する者に対して必ずこの「同体の大悲」を持ち、それを行動に現すものなのです。  かつて詩人の木原孝一さんが朝日新聞に次のような文章を書いておられました。  「恋人、愛人、女房。それらの女性はすべて、そのペアである男性にとっては、なんらかの意味で『永遠の女性』でなければならぬ。たとえば、画家モジリアニのあとを追ってアパートの五階から身を投げたジャンヌ・エピテルヌ、彼女はすばらしい絵を夫に描かせるエネルギーの泉だった。『王将』の坂田三吉の女房小春、彼女は将棋に生涯をかけた夫に、自分の生命をかけた。彼女たちのように、自分の夫とおなじビジョンのなかで、夫とともに生きた女性こそ、われら男性の求める『永遠の女性』にほかならない」  この「おなじビジョンのなかで」ということは、つまり精神的な「同体」であり、彼女らこそ「同体の大悲」の持ち主だったと言えましょう。 父親と地べたに寝た少年  徳川期の有名な学者中根東里(とうり)の少年時代の話ですが、東里の父は大の酒好きで、酔うと道ばたに寝てしまうくせがありました。  夏のある夜、よそに招かれて出かけた父が、夜半になっても帰ってきません。東里少年は母に「ちょっと探しに行ってきます」と言って出かけました。案の定、二キロばかり先の道ばたに寝ているのです。揺り起こしてみても目を覚ましません。  飛んで帰った少年は、母に事実を話せば心配すると思って、「父上はあちらのお宅にお泊まりになるそうです。わたしはこれから蚊帳(かや)を持っていって一緒に泊まってきますから、母上は安心しておやすみください」と言い、父親のところへ引き返しました。そして、道ばたの木の枝に蚊帳を張り、地べたの上に抱き合うようにして寝たのでありました。  この少年の心ばえと行為は、「同体の大悲」の典型というべきでありましょう。人間にはもともとこうした美しい感情が備わっているはずです。それを自然に行動に表したのは、型にはまった「孝行」という概念を超えた純粋な人間の美しさ、心の奥底にある「同体の大悲」の発露と言えましょう。  こんな話を時代離れしたもののように感ずる人があるかもしれませんが、それは時の流れに鈍感な人です。いまや時代は「心の時代」「美の時代」へと転換しつつあるのです。エゴと「物」ばかりに執着していたのでは破滅あるのみだと感じとった人間の英知が、志向するところをしだいに変えつつあるのです。そういう意味で、右のことばをよく味わって欲しいと思います。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば10

衆生の恩とは、すなわち無始よりこのかた一切衆生五道に輪転して百千劫を経(へ)、多生中に於て互いに父母となる。互いに父母となるをもってのゆえに、一切の男子はすなわちこれ慈父にして、一切の女人はこれ悲母なり。 (心地観経・巻2)

1 ...経典のことば(10) 立正佼成会会長 庭野日敬 衆生の恩とは、すなわち無始よりこのかた一切衆生五道に輪転して百千劫を経(へ)、多生中に於て互いに父母となる。互いに父母となるをもってのゆえに、一切の男子はすなわちこれ慈父にして、一切の女人はこれ悲母なり。 (心地観経・巻2) 一切衆生は同根である  ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば  父かとぞ思う母かとぞ思う  これは行基菩薩がよんだと伝えられている歌です。現代人の常識からすれば、山鳥の声を聞いて「あれは死んだお父さんではなかろうか。お母さんではなかろうか」と想像するなど、ありえないことのように考えられましょう。  ところが、ほんとうの詩人というものは天地の万物と血のつながりを覚えるほどの一体感を持っており、ましてや行基菩薩のようなすぐれた仏教者ともなれば、そうした心情が一切衆生とのあいだに寸分のスキもないほどに透徹していますから、この歌も不可思議な実感をもってわたしどもの胸に迫るのです。  いま「不可思議な」と申しましたが、よくよく考えてみますと、けっして不可思議ではないのです。正真正銘の実感なのです。わたしどもとこの世のあらゆる生物とはけっして他人ではないからです。  おおむかしの地球はもともと渦巻く高熱のガス体だったわけで、生物はまったく存在しませんでした。そのガス体が冷えて固まったのが地球のはじまりであり、いまから約二十億年ほど前、そこにはじめて生物の祖先が誕生しました。それはアメーバよりも原始的な、単細胞の微生物だったといわれています。  そのただ一種の微生物から、より高等な原生動物が生じ、昆虫類・魚類・両生類・爬(は)虫類・鳥類・哺(ほ)乳類と進化し、哺乳類の一部が人類となったのはまぎれもない事実ですから、一切衆生はまさしくわれわれと同根の、遠いながらも親戚筋に当たるわけです。 人間仲間はみな血縁  ましてや人間仲間となれば、ますます近い血縁つづきなのです。わたしどもは両親を持っています。両親もそれぞれ両親を持っています。こうして二代前までを考えても、われわれは合計六人の「親」を持っているわけです。このようにして先祖の数を数えてゆきますと、十代前は千二十四人、二十代前になると百四万八千五百七十六人、三十代前だと十億七千三百七十四万千八百二十四人、五十代前までさかのぼるとなんと百十二兆八千九百九十九億人を超える「親」がいたことになるのです。ということはつまり、人類全体がごく近い血縁関係にあることを数字が証明しているわけです。  さらに過去世までさかのぼってみますと、右の経文にもありますように、百千劫という長い年月のあいだ死に変わり生き変わりしながらさまざまな世界を輪廻(りんね)してきたあいだには、人類すべてがお互いに父となり、母となってきた……と、お釈迦さまはそのたぐいなき宿命通(前世を知る超能力)によって見通されたわけです。  そうした理由によって、「すべての男子はこれを自分の慈父だと思い、一切の女子はこれを自分の悲母だと思い、その恩を感じなければならない」と教えられているわけです。  人間同士が争いあい、奪いあい、殺しあう不幸な状態は、お互いのあいだに心の繋(つなが)りがないからこそ起こるのです。心の繋りがないのは、いのちの繋りがないという無知にもとづくものだと思います。この経文はその無知をうち破る貴重この上もない真理のことばではないでしょうか。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば11

色即是空 空即是色 (般若心経)

1 ...経典のことば(11) 立正佼成会会長 庭野日敬 色即是空 空即是色 (般若心経) 空とは何か  仏教経典には随所に「空」ということばが出てきます。初めて仏典を読む人は、いったい「空」とはどんなことなのか、何のためにそれが説かれるのかがつかみにくくて、ぼう然と見過ごしている人が多いのではないでしょうか。  しかし、仏教の教義はこの空という思想――というよりは真理――を基礎として説かれているのですから、仏教を学ぶ以上はどうしてもこれを避けて通るわけにはいかないのです。そしてまた、空といえばたいへん哲学的で難しそうな感じがしますけれども、考えかたによっては案外やさしくわかるものだと思います。  現在の原子物理学では、この世の万物は素粒子という目に見えぬ極微の単位物質から出来ていることを立証しています。しかしその素粒子も、新しいもの(すでに三十種以上)が続々と発見されるところから、当然それらの素粒子をつくる大もとのなにものかがあるはずだということになっています。といっても、そのなにものかはもはや物質というべきものではなく、宇宙全体に透き間もなくみなぎっている「根源のエネルギー」と考えるほかはないわけです。  学者の説によりますと、この「宇宙の根源のエネルギー」こそが、じつは「空」にほかならないというのです。その目に見えないひといろの空が、さまざまな原因と条件の和合によってさまざまな存在をつくり現しているわけです。  こういう真実を、お釈迦さまはそのたぐいなき直観力によって悟られたわけですが、「この世のすべての存在には実体がないのだ」という一見全面否定と見えるその表現が昔の人にはなかなか理解できなかったのではないでしょうか。それに対して、原子物理学がすでに常識の世界にまではいりこんでいる今日では、わりあい容易に納得できるようになったと思われるのです。 空は宇宙の大生命と同じ  納得がいっても、右の般若心経の「色即是空(この世の存在はすべて空である)」という教えをストレートに聞けば、なんとなく自分自身が空中分解しそうな虚無感を覚える人もありましょう。そんな人は「空すなわち根源のエネルギー」という科学的な考え方を一転して「空すなわち宇宙の大生命」と考えればいいのです。結局は同じことなのですから。  そうすれば「ああ、自分は宇宙の大生命の一つの現れなのだ。宇宙の大いなるいのちに生かされているのだ」という深い喜びがわいてくるはずです。それが「空即是色」の真義にほかならないと思うのです。冷たい哲学思想が一転して宗教的法悦に変わるのです。般若心経のこの名句もそう考えてこそ人間の救いになるのだと信じます。  また、空の思想は、対人関係においても大きな救いをもたらすものです。もしわれわれと他の人とが絶対的に別々の存在だったら、対立や抗争こそ起これ、お互いの間に友情や思いやりとかが生ずることはありえません。もともとはただ一つの空すなわち宇宙の大生命に生かされている仲間同士であればこそ、そこに相通ずる心情がありうるのです。  自然に対する感情でもそうです。山の緑を眺め、野の花を見て「美しいなあ」と感ずるのは、やはり宇宙の大いなるいのちに生かされている縁つづきなればこそなのです。そうした感情は、空の思想に徹すれば徹するほど深まり、おのずから自然を大切にするようになり、したがって自然からも大切にされるようになりましょう。空の思想はこのように受けとるべきだと信じます。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば12

煩悩を断ぜずして涅槃に入る。これを宴坐となす。 (維摩経・弟子品)

1 ...経典のことば(12) 立正佼成会会長 庭野日敬 煩悩を断ぜずして涅槃に入る。これを宴坐となす。 (維摩経・弟子品) 凡夫が煩悩を断じ得るから  これは、舎利弗が林の中で座禅をしているときに、在俗の仏教者維摩(ゆいま)が投げかけたことばです。  「舎利弗さん。静かな所で無心になって座るばかりが座禅じゃありませんよ。煩悩は煩悩のままで持ちながら心の安らぎを得るのが、ほんとうの座禅というものですよ」  これにはさすがの舎利弗もギャフンとなってしまいました。  維摩は毘舎離(びしゃり)の大商人で、維摩経はこの人を中心として繰り広げられる、ドラマのような構成の経典です。「空」の思想をいかに日常生活に実践するかを主題としています。  聖徳太子が数ある大乗経典の中から、法華経と、勝鬘(しょうまん)経と、この維摩経の三つを選んで講義されたほど重要な経典ですが、なぜ太子がこれらの経を選ばれたかを推測しますと、こうした大乗の教えは、苦しみや、悩みや欲望や、競争などの渦巻くなかにあって、どうすれば心の安らぎを得、われ・ひと共にしあわせな人生を送ることができるかを説いた生活者のための教えだったからでありましょう。  現代の心ある人々は、あまりにも「物」と「金」に振り回されている生活にむなしさを覚え、宗教、特に仏教への関心を深めています。しかし、出家修行者のために説かれた経典を読んで、あらゆる煩悩を除きつくした「涅槃」が理想の境地だと知ると、とてもそんなことは不可能だとあきらめてしまったり、かえって反発を覚える向きもあるようです。  涅槃というのは、もともと「火を吹き消したようにあらゆる煩悩を除きつくした境地」を言い、もっと極端に、肉体がある以上必ずいくばくかの煩悩(たとえば食欲)は残っているのだから、肉体が滅してこそ真の涅槃だという論もあり、そこから「死ぬ」ことを「涅槃に入る」というようになったわけです。 生活に生かしてこそ仏教  ところが、世の荒波に揉まれながら生活費を稼ぎ妻子を養わなければならぬ普通の男性たちに、また、物価高のなかで家計のやりくりをし、何かと問題を起こしがちな子供を育てるのに苦心している主婦たちに、そんな涅槃を要求するのは無理というものでありましょう。  維摩は右のことばの前に「道法を捨てずしてしかも凡夫の事を現ずる、これを宴坐となす」とも言っています。真理の道にはずれないように心がけながら凡夫の生活をするのが座禅の神髄なんだ……というのです。この「しかも凡夫の事を現ずる」ということばに、あなたはホッとするような救いを覚えませんか。われわれは、ともすれば、ジッと座ってめい想するとか無心になるとかしなければ――もちろん、そんなひとときが持てればそれに越したことはないのですけれども――心の安らぎは得られないと考えがちです。  しかし、大乗仏教の教えはそこをもう一つ超えているのです。煩悩のなかにあって煩悩にとらわれず、さらに進んで煩悩をプラスの方向へ活用するところに、生々ハツラツたる前向きの心の安らぎがあるというのです。いわゆる「煩悩即菩提」の境地です。そして、多くの人のそうした姿勢や行動が大きなところで調和するところに、人類の進歩もあるというのです。  そのことを、維摩は右の短いことばに凝集させて喝破したのだと、わたしはそう受け取るのです。 題字と絵 難波淳郎  編集部注 前回の文中、「学者の説によりますと……」の学者とは、山本洋一工学博士のことです。...

経典のことば13

まだ涅槃を得ていない人でも、すでにそれを得ている人の声を聞いてその境地を知ることができるのです。 (ミリンダ王の問い・那先比丘経)

1 ...経典のことば(13) 立正佼成会会長 庭野日敬 まだ涅槃を得ていない人でも、すでにそれを得ている人の声を聞いてその境地を知ることができるのです。 (ミリンダ王の問い・那先比丘経) 体験談こそ人を動かす  「ミリンダ王の問い」は、一風変わった経典です。ギリシャ人であるミリンダ王(メナンドロス王=紀元前二世紀)が那先(ナーガセーナ)という比丘に仏教についてさまざまな質問をし、那先がどんな質問に対しても懇切に、忍耐強くそれに答え、王がついに仏教に帰依するいきさつを述べた実話ですが、標記のことばはそのなかにある那先のことばです。その前後の問答は次のとおりです。  「尊者那先よ。まだ涅槃を得ていない者が、涅槃が安楽であることを知ることができるでしょうか」  「できます」  「わたしにはそれがどうしても分からない」  「大王よ。手足を切断されたことのない人が、手足を切断することは苦しいものだと知ることができるでしょうか」  「尊者よ。それは知ることができます」  「どうして知るのですか」  「他人が手足を切断されたときの悲痛な声を聞いて、それを知ることができましょう」  「大王よ。それと同様です。まだ涅槃を得ていない人でも、すでにそれを得ている人の声を聞いてその境地を知ることができるのです」  那先が言った「声」というのは「説法」という意味もありましょうが、それよりもむしろ「体験談」という意味が強いと思います。  いつも言うように、信仰は体験の世界です。宗教には哲学的な要素もあり、道徳的な要素もあり、それらを理知に訴えて説くことも多いのですが、そうした説法を聞いたり、書物で読んだりして魂が奮い立つような感動を覚える人はよほどすぐれた人でありましょう。  ところが、どんな人の話でも、信仰によって苦しみのどん底からはい上がりえた血のにじむような体験談を聞けば、心の底から共感し「よし、わたしも……」という気持ちがフツフツとわき上がってくるものです。  わたしどもの会で「法座」というものを信仰生活の最重要の拠点とし、その法座においては体験を語り、かつ聞くことを最も重んじているのは、こうした理由によるものなのです。 体験を聞く功徳・語る責任  いわゆるインテリは、ともすればすべての場合に通ずる理論に飛びつきがちで、「個々人の体験は範囲が狭く自分自身に当てはまらぬことが多い」という理由で軽視するきらいがあります。  しかし、それは考え違いです。聞くその時点においては「自分に関係ない」と感じても、そういった場当たり的な気持ちを捨てて謙虚に耳を傾けることが大事なのです。なぜならば、その話は必ず意識の底に焼きつけられ、いつの日か自身がそれに類した場面に立った場合、フッとその記憶が浮かび上がり、善処や克服の貴重な指針となるからです。  このような「人の体験を聞くこと」の大切さは、それを裏返せば、「自分の体験を人に語ること」が世の多くの人を幸せに導く道であるということにつながります。目をもっと広く向ければ、人類の文化は無数の体験の積み重ねによって築かれ、進歩していくものですから、自分の体験を他のために語る責任がすべての人にあると言っていいでしょう。  とくにわれわれ日本人は、右の問答の例に引かれた「手足を切断される苦しみ」を原爆によって味わった世界唯一の民族です。その苦しみの悲痛の声を全人類に聞いてもらう責任があります。それを忘れてはなりますまい。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば14

世尊、わたくしは今日から悟りを得るまで、他人の容貌や装身具などに対して妬(ねた)み心を起こすことをいたしません。 (勝鬘経・十受章)

1 ...経典のことば(14) 立正佼成会会長 庭野日敬 世尊、わたくしは今日から悟りを得るまで、他人の容貌や装身具などに対して妬(ねた)み心を起こすことをいたしません。 (勝鬘経・十受章) 勝鬘の一念が仏陀に通じて  コーサラ国のハシノク王と王妃のマリ夫人が心からお釈迦さまに帰依していたことは有名です。二人は他国へ縁づいている娘・勝鬘(しょうまん)にも有り難い仏恩に浴せしめたいと望み、長い手紙を書いて帰依を勧めました。  勝鬘もかねがね仏の教えのすばらしさを聞き及んでおりましたし、純粋で素直な心の持ち主でしたので、父母からの手紙に接していよいよ渇仰の心を燃やし、ああ一日でも早く直接に尊いみ教えを承りたいものだ……と心から念じたのでした。  すると、その一念がお釈迦さまのみ心に通じ、ただちに勝鬘の前にお姿をお現しになりました。意外の出来事に感激した勝鬘が仏徳をたたえる偈をうたって帰依の真心を披歴しましたところ、お釈迦さまは、まだ初心の信仰者であるにもかかわらず、そなたはこれこれの修行をしたのち仏の悟りを得るであろうと予言し、保証されたのです。  ますます感激に燃え立った勝鬘は、即座に十個条の誓いを立ててお釈迦さまに申し上げました。これを「十大受」と言って、勝鬘経の重要な眼目となっているのですが、その一個条が標記のことばです。 妬みほど不毛なものはない  聖徳太子は数ある経典の中から、法華経と維摩経とこの勝鬘経を選んで講義をなさいましたが、この経を選ばれたのは(女帝推古天皇にご進講されたことからしても)それが女性による女性のための教えであるからに相違ありますまい。また、わたしがここに「十大受」の中からとくに妬みの心の一個条を選んだのも、それが女性にとって最も慎むべきことだと思うからです。  貪欲もよくない心には相違ありませんが、まだそれが軽くて「欲望」の域内にあるうちは、人生に対する積極的な意欲をかき立てるメリットがあります。  怒りも人間の心を狂わせるものですけれども、義憤という怒りが慈悲の行為の引き金となることもあり、公憤という怒りが社会の向上に役立つこともあります。  ところが、妬み心ばかりは自分自身を不幸に陥れるばかりで、プラスの要素は一つもありません。例えばここに挙げられている他人の容貌に対する嫉妬、これは羨んでみたところで、妬んでみたところで、どうなるものでもありません。まったく不毛の感情です。ただ劣等感と僧悪がない交ぜになって心を苦しめるばかりです。ましてや、他人の持ち物に対する妬み心は、必ず競争欲をそそり、家計を圧迫するような買い物に走らせたり、サラ金などの厄介になって生活を破たんさせることにもなりかねません。  草むらのスミレの花が高い梢に咲くサクラの花を妬んだとしたら、だれが考えても不合理かつ無用なことでしょう。スミレはスミレでそれ自身の美しさを持っています。地球上にただ一つそれしかない尊い存在価値を持っています。  人間とて同じです。あなたは、宇宙の中であなたしかない存在価値を持っているのです。それを丹念に磨き上げていくならば、どんな人にも劣らない立派な人間となることは間違いありません。それを忘れて、他との比較ばかりにとらわれるから嫉妬が生ずるのです。  とにかく、妬み心ほど人間を心身共に不幸に陥れるものはありません。勝鬘夫人のこの誓いを、二千数百年前のインドのすぐれた一女性の発心だと、ひとごとのように考えてはならないと思いますが、どうでしょうか。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば15

過去を追うことなかれ。未来を念(おも)うことなかれ。過去はすでに捨てられたるなり。未来はいまだ至らざるなり。ただ現在をよく観察すべし。 (一夜賢者経)

1 ...経典のことば(15) 立正佼成会会長 庭野日敬 過去を追うことなかれ。未来を念(おも)うことなかれ。過去はすでに捨てられたるなり。未来はいまだ至らざるなり。ただ現在をよく観察すべし。 (一夜賢者経) クヨクヨが生命力を弱める  標記のことばを読むごとにわたしは、お釈迦さまは偉大な心理学者でもあり、精神身体医学の大家でもあられたのだ! と感嘆せざるをえません。  人間の苦悩の大部分はクヨクヨすることから生じます。心の中にある複雑な固定観念(コンプレックス)から生じます。病気でさえも、その多くが心因性であることを現在の医学は実証しています。標記のことばは、そうした苦悩や病気を治癒し、人間の生命力を回復せしめるすばらしい処方箋だと信じます。  あなたは過去の出来事や、過去における自分のあり方にこだわってはいませんか。「学生時代にもっと勉強していたらもっと出世していただろうに」とか、「あのとき思いきって商売替えをしていたら、今のようにかつかつの暮らしをしなくてすんだのではないか」とか、「あのとき、あの人が、あんな仕打ちをしなかったら……」とか。  過去のことはいまさらどうにもなるものではありません。しかし、人間の心理として、ときどきフッと過去の自分のマイナス面に思いがいくことがありますが、その思い出を深追いするなというのが「追うことなかれ」の真意だと思います。追っていけばついクヨクヨすることになり、それが心身の活力を大いに弱めることになりますから。 恐れるものはやってくる!  次に「未来を念うことなかれ」とありますが、これは未来についての希望や計画をさしているのではありません。「取り越し苦労をするな」という教えなのです。  あなたは、「子供が非行に走るようなことがありはしないか」とか、「夫がガンにでもかかったらどうしよう」とか、「この仕事がこのまま順調にいくだろうか。何かの事情で下向きになり、倒産でも……」などと、現在はなんでもないことを心配してはいませんか。まだ起こってもいない出来事を心に描いてあれこれと考えるのを取り越し苦労といい、これがまた心身に対して大きな悪影響をおよぼすものです。  そればかりでなく、お釈迦さまが「三界は唯心の所現」とおっしゃったように、聖書にも「恐れるものは来る」と説かれているように、強く心に描くものは現実に現れてくるものなのです。ですから、現在ありもしないことを心に描く取り越し苦労ほど愚かなことはないのです。  そこで大事なのは、現在を正しく生きることです。ここに「観察すべし」とあるのは、たんに「しっかり見よ」ということばかりでなく、八正道が「正見」に始まって「正思・正語・正行……」とつながっていくように、「現在を正しく見て正しく生きよ」という教えに違いないと思います。  子供の非行化が気になるなら、現在の家庭のあり方をりっぱにすればいいのです。ガンが恐ろしいならば、食事をはじめとする生活万般を正しくすればよいのです。  現在を正しく生きることは、たとえて言えば、畑によいタネをまき、その日その日に適切な管理をするようなものです。そうすれば、未来にはかならずよい収穫が約束されるのです。「未来」をつくるのは「現在」なのです。  ですから、毎朝起きたら「きょう新しい人生が始まったのだ」と明るい思いを抱き、その一日を精いっぱいに生きてみてください。あなたには必ず幸せが訪れましょう。それが心と生命の法則なのですから。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば16

一切衆生悉(ことごと)く仏性有り (大般涅槃経・迦葉菩薩品)

1 ...経典のことば(16) 立正佼成会会長 庭野日敬 一切衆生悉(ことごと)く仏性有り (大般涅槃経・迦葉菩薩品) 仏性のギリギリの意味は  すべての人間はみんな仏性を持っている!  なんというすばらしい大発見でしょう。なんという喜ばしい大真実でしょう。  仏法のすべての教えは、お釈迦さまの、この大発見をいとぐちとして展開され、八万四千というぼう大なその法門も、巻き納めれば、この大真実に帰結するのだ……と断じてもさしつかえはありますまい。  では、その仏性とはどんなものでしょうか。ごく普通の解釈では「仏すなわち精神的に完成した人間になりうる可能性」ということです。しかし、日々の暮らしに追われているわれわれにとって、お釈迦さまのような完全な人格者になりうる可能性がお前にもあるのだと言われても、現実の自分との間にあまりにも距離がありすぎて、ただ気の遠くなるような思いをするばかりです。  それよりも、もっと掘り下げたギリギリの意味の仏性のほうが、かえって身近に感じられるのです。すなわち、同じ涅槃経に「仏性とは第一義空なり」とあるように、「人間の本性は宇宙の大生命そのものである」ということです。  この世の万物万象は宇宙の大生命が生み出したものである……これはまったく抜きさしならぬ真実です。人間もやはり万物万象の一つですから、間違いなく宇宙の大生命が生み出したものです。目に見えぬ宇宙の大生命の具体化・現実化といってもいいでしょう。したがって、人間の本性は宇宙の大生命そのものであり、すべての人間が平等にその本性を持っているのだ……ということになります。  これが「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」のギリギリの意味なのです。 仏性の悟りが幸せを生む  自分の本性は仏性なのだ。宇宙の大生命そのものなのだ……という真実をしみじみとかみしめてみるとき、あなたの胸にはどんな思いがわいてきますか。  これまで自分をつまらぬ人間だ、地位も金もない下積みの存在だなどと思いこんでいたのが一転して、「現象のうえはどうあろうとも、本質的には宇宙のいのちの生みの子なのだ。だれにも劣らぬ光り輝くような存在なのだ」という自信がわきあがってはきませんか。  その自信は、宇宙の生命の法則にピタリ合致した意識ですから、それはあなたの生命力を限りなくもり立てる原動力となりましょう。心は明るくなり、積極的な意欲がおう盛になりましょう。したがって、健康もメキメキとよくなり、仕事も発展の一路をたどりましょう。すなわち、仏性を意識することがあなたにほんとうに幸せをもたらすのです。  あなた自身の幸せばかりではありません。「すべての人に仏性がある」という真実を悟れば、人を見る目もガラリと変わってきます。現象のうえでは、よくない行為をする人もあり、無能と見える人もあり、利己一点張りの人もありますが、これまでは現象のうえだけでその人を評価し、憎んだり、蔑視したり、排斥したりしたのが一転して、その人の奥にある本質は、やはり宇宙の大生命の分身なのだ、という真実を見るようになりますから、その人をひとりの人間として受け入れる気持ちになります。  あなた一人だけでなく、世の中の多くの人がそのような寛容の心を持つようになれば、ひとりでに世の中全体がおだやかになり、明るくなっていくことは必至です。そうした社会を建設するのが仏教の理想にほかならないのですが、その理想はつまるところ、多くの人が「一切衆生悉く仏性有り」と悟ることによって達成されるのであります。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば17

むかしの人たちはこういう宝物のために、お互いに傷つけあい、殺しあい、盗み、欺し、嘘をつき、それが原因で生まれ変わり死に変わりの中で苦しみを増大させ、大地獄に落ちたそうだよ。 (仏説弥勒大成仏経)

1 ...経典のことば(17) 立正佼成会会長 庭野日敬 むかしの人たちはこういう宝物のために、お互いに傷つけあい、殺しあい、盗み、欺し、嘘をつき、それが原因で生まれ変わり死に変わりの中で苦しみを増大させ、大地獄に落ちたそうだよ。 (仏説弥勒大成仏経) 実現しつつある予言  標記のことばは、弥勒仏が出現される未来の世の人びとが、だれでも自由に出入りできる宝物の蔵を見物しながら、話し合うことばです。彼らは美しく輝く宝物を見ても、それを鑑賞するだけで、欲しいとか私有したいとかいう心を起こさないのです。そして、物欲のためにさまざまな悪行をなし自ら不幸におちいった過去の人間たちを、ほんとうに気の毒な人たちだ……と感じているわけです。  このお経はお釈迦さまが舎利弗その他の弟子たちに説かれたものですが、その中には二十世紀のわれわれがオヤと思い当たるような予言の数々が述べられています。  まず、「未来世の都は道幅がたいへん広く、路上は油を塗ったように平らかで、人びとが歩きまわっても塵が立たない」とあります。アスファルトで舗装した現代都市の道路そっくりではありませんか。  次に、「街路のあちこちに明珠の柱があって、その光は太陽のように四方を照らし、夜でも真昼のように明るい」とあります。明珠というのはつまり何百燭光の電灯のことでしょう。  また、「人びとが大小便をすると地面が割れて中に吸いこみ、吸いこんだあとは元どおりにふさがり、その上に赤い蓮の花が生じていやな臭いを覆ってしまう」とも述べられています。現代の家庭の水洗便所と、そこに飾られているホンコン・フラワーや芳香剤などを思い合わせてみると、思わずほほ笑まざるをえません。 精神の時代が来る  このお経には、精神的に高い境地に達した人々との様子も、さまざまに予言されています。現代の人間がそこまで到達するには今後何十年、何百年かかるか、まことに気が遠くなる思いがしますが、しかし、物質面の予言がどうやら実現しているような現状からおしはかれば、いつかはそうなるに違いないと思われます。いや、そのように努力するのが人間らしい積極的な生き方でありましょう。  その努力の方向を知るために、精神面の予言も、二、三しるしてみることにします。  「人びとはいつも慈しみの心を持ち、恭敬和順で、官能をほどほどに抑制するであろう。そして語ることばは謙遜であろう」  この恭敬というのは、見えざる大いなる存在を敬い畏れる心でありましょう。和順というのは、まわりの人々と相和し仲よくすることでありましょう。  「人びとは不殺生戒をたもち、肉食をしないので、官能が平静で、顔かたちは美しくて威厳があり、天の童子のようであろう」  戦争をしない、殺しあいをしない世界の人びとの気高い様子が目に見えるようです。  「その時代の人間は、年老いて身が衰えれば、ひとりでに山林の木の下に行き、安らかに、楽しく仏を念じながら命を終え、死後に多くの者は幸せに満ちた霊界または諸仏のみもとに生まれ変わるであろう」  死も自然のままであり、そういう死こそがその後の安楽をもたらすことを教えていると思います。  「老若男女にかかわらず、遠くにいたままで、仏法のふしぎな力によって自由に相会うことができるであろう」  いわゆるテレパシーや霊視がごく通常のこととなるという予言でありましょう。  総合的に見て物の時代が終わって精神の時代が来ることを、この経は予言しているものと思われます。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば18

如来の身は汝と同じからず、汝、もし多く服(の)まば必ずさらに患(うれい)をなさん (賢愚経 3・15)

1 ...経典のことば(18) 立正佼成会会長 庭野日敬 如来の身は汝と同じからず、汝、もし多く服(の)まば必ずさらに患(うれい)をなさん (賢愚経 3・15) 愚かな対抗意識の毒  お釈迦さまが霊鷲山においでになっていたときの話です。  たまたま風邪をおひきになられたので、名医の耆婆(ぎば)が薬や酥(そ=ちちざけ)など三十二種を調合してさしあげました。  提婆達多もまた風邪気味だったとみえて、耆婆に薬を要求しました。耆婆が薬を調合して「これを一日に四両(両は重さの単位)服みなさい」と言いました。いつもお釈迦さまに対抗意識を持っている提婆は「仏陀は何両お服みになるのか」と尋ねましたので「一日に三十二両」と耆婆は答えました。  提婆は「それではわたしも三十二両服むことにする」と言います。「いや、仏陀のおからだとあなたのからだとは違います。あなたがそんなにたくさん服めば、必ず病気はもっと重くなりますよ」と言っても承知しません。「わたしのからだと仏陀のからだとどこが違うのだ。とにかく三十二両の薬を作ってくれ」と、しつこくせがむのです。  仕方なく耆婆が三十二両の薬を調合して与えますと、毎日それを服んだ提婆は、薬毒のため手足の関節に激痛が起こり、起き上がることもできなくなりました。うめきわめきながら苦しみ、身もだえして転げまわりました。  遠く離れた所にいらっしゃったお釈迦さまは、霊眼をもってその様子をごらんになり、「かわいそうに……」とおぼしめされ、はるかに手を差し伸べてその頭をさすっておやりになりました。すると、薬毒はたちまち消え、病気も治ってしまいました。  ところが提婆はそれに感謝するどころか、「シッダールタ(仏陀の太子時代のお名前)のさまざまな術を世間が受け入れないので、今度は医術を学んだのか。よし、このことを言いふらしてやろう」と悪態をつきました。 自己を知ることの大切さ  この経文を読んですぐ頭に浮かんだのは「自己を知る」ことの大切さです。愚かな人間は、自己を知る心がまえを忘れているために自らを不幸におとしいれているのです。提婆はたいへんな秀才でした。いわゆるエリートでした。しかし、自己を知ることを忘れた愚かさのために正法に背き、ついに生きながら地獄に落ちてしまったのでした。  自己を知ることには、二つの段階があると思います。第一は、自己の体格・性格・才能等々における「持ちまえ」を虚心坦懐(たんかい)に自覚することです。すべての人は宇宙が必要としたからこそ生まれてきているのであり、その「持ちまえ」は宇宙がその人ならではとして与えた役割です。  このことを悟り、他人との比較に心を煩わすことなく、ひたすら自己の「持ちまえ」を磨き上げ、精いっぱい発揮していくならば、それだけでだれにも負けない存在であり、社会にとってなくてはならぬ人間であることは間違いありません。  第二の段階は、体格・性格・才能といった表面の表れの奥に、ほんとうの自己(仏教的にいえば仏性)というものがあり、その点においては万人がまったく等しいのだと悟ることです。それを悟ることこそ自分の真の尊厳さを知ることであり、それを知れば他人へのムダな対抗意識を燃やすことなどはなくなります。  提婆は第一段階の「自己を知る」ことすらしなかったために、いっぱしのエリートでありながら身を滅ぼしてしまったのです。この実話に、特に標記の耆婆のことばに、われわれは大きな示唆を感じとるべきでありましょう。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば19

諸仏如来はこれ法界身(ほっかいしん)なり。一切衆生の心想の中に入りたもう。この故に汝ら心に仏を想うとき、この心すなわちこれ三十二相、八十随形好(ずいぎょうごう)なり。このこころ仏を作る、このこころこれ仏なり。 (仏説観無量寿経)

1 ...経典のことば(19) 立正佼成会会長 庭野日敬 諸仏如来はこれ法界身(ほっかいしん)なり。一切衆生の心想の中に入りたもう。この故に汝ら心に仏を想うとき、この心すなわちこれ三十二相、八十随形好(ずいぎょうごう)なり。このこころ仏を作る、このこころこれ仏なり。 (仏説観無量寿経) 仏を想い心にえがく  マガダ国のアジャセ太子は提婆達多にそそのかされて大それたことをもくろみました。お釈迦さまに深く帰依している父王ビンビシャーラを殺して王座を奪い、提婆に新教団を作らせ、政治と宗教両面に権力を得ようとしたのです。  そして父を牢獄に幽閉し、食物を一切与えぬよう番兵どもに厳命しました。妃のイダイケ夫人は、毎日面会に行くとき乾飯(ほしいい)の粉を蜜で練って全身に塗り、首飾りの玉の中にぶどう液を入れて行き、それらで夫の命を長らえさせたのでした。そのことを知った太子は激怒して母后を刺し殺そうとしましたが、重臣たちにいさめられて思いとどまり、これまた牢獄に閉じこめてしまいました。  獄中で悶々の日を送っていたイダイケ夫人は、ふと高窓から見上げた霊鷲山にお釈迦さまがいられることを思い出し、はるかに伏し拝んで一心に救いを求めました。その切ない願いがお釈迦さまに感応し、哀れとおぼしめされたので、折から説いておられた法華経の説法を一時中止され、目連・阿難を従えて獄内に姿をお現しになりました。そして夫人のためにお説きになったのが、浄土三部経の一つである観無量寿経です。  夫人が「こんな汚れた世の中がつくづくいやになりました。来世には阿弥陀仏の世界に生まれとうございます。それにはどんなことを思いめぐらせばよろしうございましょうか」とお尋ねしたのに対して、まず心の持ち方と行いの道についてお説き聞かせになってから、「仏を想い仏を心にえがくこと」が信仰にとって欠いてはならぬ大事であることと、その方法についてくわしくお教えになりました。その最初の一節が標記に掲げたおことばです。 仏像礼拝は偶像崇拝に非ず  ここに説かれておりますように、仏とはこの世界全体に充ち満ちている目に見えぬ存在(法界身)です。したがって、すべての人の心にもチャンと内在しておられるのです。ですから、われわれが仏さまを想えば、そこに仏さまが現れたもうのです(三十二相・八十随形好は仏の尊いお姿)。  それはちょうど電波とテレビの画面のような関係にあると言っていいでしょう。電波は目には見えないけれど、われわれの家の中にも入りこみ、充ち満ちています。しかし、受像機のスイッチを入れなければ、またスイッチは入れてもチャンネルを合わせなければ、望みの局の音声も画像も現れません。  それと同じように、われわれがさまざまな欲望に魂を奪われ、心を波立たせているときは、仏さまはチャンと内在しておられるのにそれと波長が合わないために、心身への救いが現れてこないのです。  では、どうすれば心の波長を仏さまに合わせることができるのか。標記のことばの後に「かの仏を想わん者はまずまさに像を想うべし」と述べられています。これはきわめて初歩の段階ではありますが、非常に大切なことなのです。  「仏を想う」といっても、もともと形のない存在ですから、どう想っていいのか見当もつきません。そこでまず仏像に現されたお姿を心にえがくことから入るべきだと教えられているわけです。  こうして仏像の慈顔に心の焦点を合わせてから、智慧と慈悲に満ちた仏さまのみ心に思いをめぐらしていけば、しだいに波長が合っていくわけです。ですから、仏像を拝むのもけっして偶像崇拝ではないのです。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば20

忿恚(ふんい)は百千大劫(こう)に集めし善根をすみやかに損害す。ゆえに忍辱(にんにく)の鎧を被(き)、堅固の力をもって忿恚の軍を砕くべし。 (大宝積経)

1 ...経典のことば(20) 立正佼成会会長 庭野日敬 忿恚(ふんい)は百千大劫(こう)に集めし善根をすみやかに損害す。ゆえに忍辱(にんにく)の鎧を被(き)、堅固の力をもって忿恚の軍を砕くべし。 (大宝積経) 怒りは火事のようなもの  電車の中でマナーの悪い少年を一老人が注意したところ、少年はカッとなって老人をなぐりつけた。その子は逮捕され、少年院送りとなった。最近あった話です。  このことを新聞で読んで、一瞬の怒りというものの恐ろしさをあらためて考えさせられました。その子が少年院で立ち直ってくれればいいのですが、万一「どうせおれは悪い人間だ」というレッテルを自分自身に貼りつけ、その後ズルズルと日陰の人生を歩むのではないかという危惧を抱かざるをえませんでした。もしそうなったとしたら、一瞬の怒りがその子の人生をめちゃめちゃにしてしまったことになります。  仏教では「貪・瞋・痴の三毒」ということを説いています。人間を破滅にみちびく心ざまの代表として、この三つを戒めているのです。貪(とん)は過去の欲望、瞋(じん)は私憤という怒り、痴(ち)は道理を知らぬ愚かさです。  人が財産を失う道にたとえていえば貪は快楽追求のためのムダな消費のようなものです。痴は無計画な借金のようなものです。この二つはジワジワとその人の財産を食いつぶしてゆきます。それに対して、瞋は火事のようなものです。これまでコツコツと築き上げた財産をたった一夜で灰にしてしまいます。  標記に掲げたことばは、人間の精神的財産について、同じようなことを言ってあるのです。百千大劫という長いあいだに積み重ねた善根も、私憤という怒りを爆発させれば、一瞬にしてそれを損なってしまう……というのです。  赤穂城主浅野内匠頭長矩は名君でした。藩民を可愛がり、製塩業を奨励し、国を繁栄させていました。しかし、吉良上野介の意地悪を腹にすえかねて江戸城内で斬りつけたばっかりに、自身は即日切腹を命ぜられ、お家は断絶、家臣たちは浪々の身となってしまいました。まことに、長いあいだに積んできた善根をたちまちに無に帰したばかりか、藩民すべてに大きなマイナスを与えてしまったのでした。 怒りを解消する最高の道  腹を立てることは自分自身の健康にも悪影響をおよぼします。ひどく怒れば、頭がガンガンし、手足がブルブル震えるという自覚症状からでも大方の察しがつきますが、医学的な検査によれば、脈摶が非常に速くなり、血圧が上がり、血液中の糖分が増加し、胃腸の運動が一時停止するのだそうです。恐ろしいことです。  では、腹が立ったらどうすればよいのか。ここには、忍辱の鎧を着て怒りの軍勢をうち砕け……とあります。この「忍辱」というのをたんに「忍耐する」という意味に解釈したのでは不十分だと思います。もちろん、腹が立った瞬間にジッとそれを抑える忍耐は必要ですが、そのままでは必ず相手に対しても、自分の心身にも、シコリが残ります。  お釈迦さまがお説きになった「忍辱」にはもっと深い意味があるはずです。それは「この世は調和と融和によってこそ成り立っている」という真理に裏打ちされた「和の心」だと思います。そうした「和の心」を持って事態を観じ、相手の立場を理解しようと努めるならば、きわめて自然に、そして後にシコリを残すこともなく、その怒りは消滅してしまうでしょう。「忿恚の軍」は完全に砕かれてしまうでしょう。  つまり、無理な抑圧でなく、真理に基づいて怒りを解消せよというのが、仏法の教えだと信じます。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば21

雑(ぞう)毒薬をもって太鼓に塗り、大衆の中においてこれを撃ちて声を発(おこ)さしむるがごとし。聞かんと欲する心無しといえども、これを聞けばみな死す。 (大般涅槃経・如来性品)

1 ...経典のことば(21) 立正佼成会会長 庭野日敬 雑(ぞう)毒薬をもって太鼓に塗り、大衆の中においてこれを撃ちて声を発(おこ)さしむるがごとし。聞かんと欲する心無しといえども、これを聞けばみな死す。 (大般涅槃経・如来性品) 潜在意識は忘れない  これは大般涅槃経の功徳を説かれた一節ですが、法華経その他の経典にもそのまま通ずる「経力(真理のことばの霊妙な力)」のはたらきを解き明かしたものと考えていいでしょう。  いろいろな毒薬を太鼓に塗りつけ、それを多くの人びとの中で打ち鳴らせば、たとえ聞こうとする心はなくても音は自然と耳に入りますから、人びとはその毒に当てられてみんな死んでしまう……というのです。  死んでしまうのに功徳とは? と不審に思う人もあるかと思いますが、じつは逆のことが言ってあるのです。仏法の教えを大衆に向かって説きますと、それを聞こうという気持ちのない人があっても、その一言一句はどうしても耳に入ります。表面の心では反発を感ずる人もありましょうし、サラリと聞き流す人もありましょう。  しかし、現代の心理学でも証明しているように、人間が経験する物事は、表面の心では忘れてしまっても、潜在意識には一つ残らず刻みつけられて消滅することはないのです。そしてある機会にふと表面の心に浮かび上がり、それが現実の行為となってあらわれるものなのです。  仏教ではそういった「経験」を「阿頼耶識(あらやしき=深層の潜在意識)に植えつけられた種子(しゅうじ)」と名づけ、その種子はある因縁に会うことによって表面の心に芽を出すのだ……と、現代の心理学とそっくりのことを言っています。  そこで、一度でも仏教の説法を耳にした人は、その場ではさほどの感銘も受けずに過ごしても、いつか何かの機縁に触れてフッとその記憶がよみがえり、仏法に心を引かれるようになるものです。それほどハッキリとは思い出さなくても、無意識のうちにその「さとり」の方向へ、その「救い」の方向へ近づくような心身の歩みを起こすことが多いのです。 布教にムダはない!  法華経の方便品に、ある人が「散乱の心に(いい加減な気持ちで)」仏の画像に花を供えたり、ほんの少し頭を下げて片手拝みに仏像を拝んだりしても、その人はいつか必ずさとりを得ると説かれています。  現代でも、宗教にはほとんど関心のない人でも、元日には初もうでをしたり、お彼岸やお盆には墓参りをしたりします。これらは、一見ただ儀礼的にしているようでも、心の底の底にはやはり「目に見えない大いなる存在に抱(いだ)かれたい」「天地の真理に合一したい」という願いが潜んでいるからなのです。そしてそういう願いの起こるのは、先祖代々の人びとが聞いた、あるいは信仰した真理の教えが、潜在意識に刻みつけられておればこそなのです。  作家の水上勉さんは≪悲しみの復権≫という随筆の中で標記のことばをそっくり引用され、そのあとに「怒りや、喜びなどの価値よりも、≪悲しみ≫の方に大きな価値があると太鼓をたたく者があれば、そっちの仲間へもぐりこみたい」と書いておられます。もぐりこみたいどころではなく、水上文学がどれほど多くの日本人の胸の奥に眠っていた「同悲の心」を呼びさましたことか。すばらしい太鼓だと思います。  ともあれ、われわれ仏教徒は、片時も布教ということを怠ってはならないのです。いい加減に聞き流す人もありましょうし、そっぽを向く人もありましょうが、けっしてムダには終わりません。聞く人の阿頼耶識にしみついた種子はいつかは必ず芽を吹くのです。その意味で、標記のことばをよく記憶していただきたいものです。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば22

もろもろの苦悩を脱せんと欲すれば、まさに知足を観ずべし。知足の法はすなわちこれ富楽(ふぎょう)安穏(あんのん)の処なり。足るを知る人は地上に臥(ふ)すといえどもなお安楽なりとす。 (遺教経)

1 ...経典のことば(22) 立正佼成会会長 庭野日敬 もろもろの苦悩を脱せんと欲すれば、まさに知足を観ずべし。知足の法はすなわちこれ富楽(ふぎょう)安穏(あんのん)の処なり。足るを知る人は地上に臥(ふ)すといえどもなお安楽なりとす。 (遺教経) 「しかない」か「もある」か  芭蕉の句に  春立つや新年ふくべ米五升 というのがあります。  新しい年を迎えて、ふくべ(瓢)の中に米が五升あるというのですが、これを詠んだ芭蕉の気持ちは「新年というのに五升しかない」というのでしょうか。それとも「五升もある」というのでしょうか。もちろん後者です。米が五升もある。ゆったりしたお正月ができるぞ……という満ち足りた、豊かな気持ちです。  五升(いまの計量でいえば約七・五キロ)という絶対量に変わりはありません。それを「しかない」と思うか「もある」と思うかによって、天地ほどの違いが感情のうえに生ずるのです。「しかない」と思えば、不安がわきます。焦躁(そう)も生まれます。劣等感を覚えることさえありましょう。「もある」と思えば、とたんに幸せな、やわらいだ、満足感を覚えます。人間の感情というものはじつに不思議な生きものです。  標記のことばは、そういった感情のはたらきを心に定着させ、いわゆる「情操」として持っているならば、つねに満ち足りた気持ちで人生を送ることができる、それがほんとうの豊かさだということを教えられたものです。 二十世紀への遺言か  「知足」というのは、足るを知る心、つまり満足感ということです。ところで、物質生活においてこうした満足感を覚えるためには、欠くことのできない前提があります。それは「少欲」ということです。標記のことばの前にも、こう説かれています。  「多欲の人は利を求むること多きがゆえに苦悩もまた多し。少欲の人は求むることなく、欲することなければ、すなわちこの患(うれい)なし」  欲求が少なければ、少ない物質にも「足るを知る」ことができる、というわけです。さきに紹介した芭蕉の生活感覚などがそれでしょう。その最高の典型をお釈迦さまに見ることができます。お釈迦さまの財産といえば、一枚の衣(ころも)と鉄鉢一つでした。しかも、法華経譬諭品に「今此の三界は皆是れ我が有なり」とあるように、宇宙全体がわたしのものだと考えておられたのです。まことに、世界第一の「富める人」だったのです。  普通の生活をしている二十世紀のわれわれは、お釈迦さまの真似などとうていできません。しかし「少欲知足」というその教えは、ますます重みが増しつつあるのです。多くの人が欲求不満のために、イライラした日々を送り、それが高じてあるいはノイローゼになり、あるいは家庭不和を生み、あるいは犯罪に走るという現代の苦悩から脱する道は、ただ一つ「少欲知足」よりほかにないのではないでしょうか。  さらに拡大して考えますと、これからの地球上は、資源は枯渇する一方ですし、食糧の生産は人口の増加に追いつかなくなることは必至ですし、人類が生き抜くためには、これまた「少欲知足」をつらぬくよりほかに道はありますまい。  この遺教経というお経は、その名のとおり、お釈迦さまがご入滅直前に遺言として説かれたものと伝えられています。表面は残されるお弟子たちへの戒めの形になっていますけれども、今になってみますと、二十世紀から二十一世紀にかけての人類のための遺言だったのではないか……と思われてなりません。  まことに「少欲知足」こそ、個人をも、人類全体をも救う最重要の大道だと断じていいと思います。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば23

心の中の弓矢と刀を捨てよ (法句譬喩経巻1)

1 ...経典のことば(23) 立正佼成会会長 庭野日敬 心の中の弓矢と刀を捨てよ (法句譬喩経巻1) 現実の武器は捨てても  舎衛国の一隅に夫婦そろって心が険悪で、人間の道をまるで知らない男女が住んでいました。お釈迦さまは、何というかわいそうな人間だろうと深くお哀れみになり、二人を教化しようとみすぼらしい修行者の姿となってその門の前に立たれました。  夫は出かけており、妻だけが留守居していましたが、修行者を見るや、「何の用だ。早く行ってしまえ」と、つっけんどんにののしるのでした。修行者が「わたしは仏道を修行している者です。一食を供養して頂きたい」と言いますと、ますます声を荒らげ「お前さんがそこで立ったまま死んでも、食べものなんかやらないよ」と悪態をつくのです。  すると、修行者はたちまち目をつり上げ、呼吸を止め、死相を現しました。妻は震え上がって逃げ出しました。  修行者は静かに立ち去り、近くの木の下に端座していました。そこへ夫が帰ってきて、妻が震えているのを見て「どうしたんだ」と聞くと、「あの修行者におどかされたのです」との答えです。  夫は大いに怒り、弓矢と刀をもって修行者のところへ走って行きました。修行者は神通力をもって自分の周りに城壁を造り、男を寄せつけません。男は怒りに狂って「城の門を開けろ」と、どなります。修行者は「お前が弓矢や刀を捨てれば開けてやる」と答えます。  男は考えました。――よし、弓矢と刀は捨てよう。そして、門を開けたら、げんこつでなぐり殺してやろう――と。男は弓矢を投げ出し、「さあ、開けろ」と言いました。しかし、門は閉じたままです。  男が「弓矢と刀を捨てたのに、なぜ門を開けない?」となじりますと、修行者は重々しい口調でキッパリと言いました。  「お前の心の中にある悪意の弓矢と刀を捨てよ、と言ったのだ。手に持っている弓矢と刀のことではない」  男は――この人はわたしの心の中を見抜いた。きっと偉い聖者に違いない――と直感し、思わずその場にひれ伏しました。そこでお釈迦さまは光り輝く仏の相を現され、夫婦にじゅんじゅんと正法をお説き聞かせになりましたので、二人とも人間らしい人間に立ち返ったのでありました。 世界平和も「心」から  この「心の中の弓矢と刀を捨てよ」という言葉ほど、二十世紀の人類にとって重大な戒めはないのではないでしょうか。  アメリカ・ソ連をはじめとする先進諸国の間で、核戦力に関するいろいろな取り決めが行われつつあります。しかし、どんな体制がつくられようとも、それぞれの国民、それぞれの民族の心の中にある敵意や猜疑(さいぎ)などがなくならないかぎり、戦争はなくなりません。核戦争の危険も去りません。この地球上にほんとうの平和をもたらすのは、人間の心の平和化よりほかに道はないのです。心の中の弓矢と刀を捨てるよりほかにはないのです。さればこそ、ユネスコ憲章の前文にも「戦争は人の心から起こる。ゆえに平和の砦(とりで)は人の心の上に築かれねばならぬ」とあるのです。  これは世界平和という大きな問題ばかりではありません。われわれの日常生活のうえでも、心の弓矢で人を射、心の刀で人を刺していることが多いのではないでしょうか。法律などにはかからぬそうした罪を犯すことによって、人をも傷つけ、自分の心にも悪業(あくごう)を積んでいるのではないでしょうか。大いに反省すべきことだと思います。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば24

若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん。 (法華経・法師功徳品)

1 ...経典のことば(24) 立正佼成会会長 庭野日敬 若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん。 (法華経・法師功徳品) 形而上は形而下に通ず  新しく生まれた電信電話会社の社長・真藤恒さんは、電電公社総裁時代から、おおむね評判のよくないわが国の官公庁・公団・公社などの中にあって、さまざまな思い切った新機軸を出し、名総裁とうたわれた人ですが、さきごろNHKの鈴木健二アナウンサーのインタビューに対して、こんなことを話していました。  それは、以前造船の仕事で苦労していたころ、ふと「自分には形而上的(けいじじょうてき)なもの(筆者注・現象を超越し、その背後にある本質を究めようとする考え、宇宙の成り立ち・神・霊魂などが主要問題)の根底がないのではないかと気づき、たまたま神田の古本屋で道元禅師の『正法眼蔵』を見付け、求めて読んだら大いに啓発された。そして、それが事業の上にたいへん役立ち、苦境を乗り越えることができた……という意味の話でした。  これを聞いてすぐ頭に浮かんだのは、法華経にある標記のことばです。俗間(ぞっけん)の経書というのは、宗教書以外の哲学・文学・評論など人生の諸問題を説く本をいいます。治世(じせ)の語言(ごごん)とは政治・経済・外交・法律・社会問題のような、世を治めることがらについて考究する言論のことです。資生(ししょう)の業を説くというのは、農・工・商など人間の物質生活を与える産業や職業について論じたり、アドバイスしたりすることです。  この句の前に「もし信仰深い男女がこの教えを受持し、読誦し、人のために解説し、書写したならば、次のような功徳を得るであろう」という前置きがあります。  つまり、仏法の教えを素直に信じ実践している人は、実生活上のことがらについて説いてもおのずからそれが仏法に一致してくる……というわけです。人に説く場合にかぎらず、自分自身の事業や生活についてもそのとおりのことが実現するのは言うまでもありません。 真理のレールに乗るから  仏法を学んだり信仰したりするのは、ともすればたんなる心の救いのためと考えられがちです。現実の生活とは離れた世界のことと思われがちです。それも一応は正しい考えだといえましょう。四六時中暮らしの現実に追われている人間にとって、心の救い、魂の浄まりを求めるのは大事なことですから。  しかし、仏法とは心の世界のみにとどまるものではありません。そんな狭いものではないのです。宇宙の万物・万象に通ずる真理・法則、それが仏法なのですから、それはそのまま現実生活のすべての問題に当てはまるのです。  したがって、しっかりと仏法を学び、素直な心でそれを信奉している人は、言うこと為すことがひとりでにその真理・法則のレールの上に乗るわけですから、万事スムーズに運び、生々発展するのは当然のことなのです。  真藤恒さんが『正法眼蔵』のどういうところに啓発されたかは知りませんが、道元禅師は法華経に深く傾倒していた方ですから、おそらく法華経の説く世界観・人間観と同じような言説に悟りをひらき、それを事業と人生の道しるべとされたものと推測されます。  古くは伝教大師が「衣食(えじき)に道心なし。道心に衣食あり」と喝破したのも、最近の識者たちが「これからの社会で事を成す人は自身の哲学を持つ人である」と断じているのも、右のような道理にほかなりますまい。哲学といえば難しげに聞こえますが、つまりは確固とした精神の背骨のことと考えていいでしょう。法華経こそはその背骨をつくる教えだとわたしは確信しています。 題字と絵 難波淳郎...