法華三部経の要点 ◇◇27
立正佼成会会長 庭野日敬
信仰の種子は前世に播かれた
人との出会いは宿縁による
前回に、舎利弗の求道の苦悩と、ついに至上の法を得た喜びの告白について述べましたが、それをお聞きになったお釈迦さまは驚くべきことを言い出されました。「舎利弗よ。わたしは長い前世においてもそなたを教化しつづけてきました。そして仏の悟りを求めるように指導してきたのです。そなたはそれをすっかり忘れ、現世においてわたしの弟子になっても、ただ自身の解脱のみを願って修行していたのです。わたしは今、仏の本願によってそなたが過去世に行じたことを思い出させるためにこの法華経を説くのです」とのおおせです。
これは、われわれ後世の信仰者にとっても非常に大事なことですから、ここでじっくり考えておきましょう。
お釈迦さまのこのお言葉には、二つの真実がこめられていると思われます。
第一は、現世における人と人との出会いは、けっして偶然ではなく、前世の宿縁によるものだということです。
こんな例があります。天台大師が若いころ慧思禅師という高僧に学ぼうとして訪ねて行ったとき、慧思禅師は、
「おう。懐かしい。そなたとは前世に霊鷲山において共に法華経を聞いた。その宿縁によって今またわたしの所へやってきたのだ」と喜んだそうです。
つまり、この世で師弟となったり、友人となったり、夫婦となったりするということは、前世からの深い因縁の糸に結ばれているのだということです。ですから、そのような人との縁はけっしておろそかにできないものなのであります。
いま法華経を学ぶわれらは
第二に、この世におけるわれわれ人間の心というものは、その大部分は父母・兄弟その他の環境によって培われたものですが、その心の本質の部分は、やはり前世における経験や修行によって育てられているのだということが、このお釈迦さまのお言葉から察することができます。
たとえば、宗教のことなどにぜんぜん耳をかさない人があります。神社やお寺の前を通っても素知らぬ顔です。それに対して、道端の野の仏を見ても手を合わさずにはおられない人もあります。その違いはどこから来たのでしょうか。言わずともおわかりでしょう。
ましてや、仏教書を買って読もうとか、説法を聞きに行こうかとか、あるいは信仰者の仲間に入ってみようかとか思う人は、よくよく仏さまの教えに縁の深い人なのです。
わたし自身の幼時をふりかえってみても、朝は必ず神棚を拝んでから学校へ行きましたし、学校への途中にある諏訪神社や子安観音さまの前を通るときも、大日如来と刻まれた石碑の前を通るときも、必ずおじぎをして通りました。それで、村の人たちからは「あれはおかしな子だよ」といわれたものです。
ひとつには、校長先生の「人には親切にしなさい」「神さま仏さまを拝みなさい」という教えを素直に守ったせいもありましょうが、わたしの兄弟や他の生徒たちがいっこうにしようとしないことをわたしだけがしたというのは、やはり何か前世からの宿縁があったのだろうと、今になってつくづくと思われます。
とりわけ、いま法華経を学ぶわれわれは前世においても法華経を聞き、修行したのであるということをお釈迦さまのお言葉によって知るとき、たとえようのない深い感慨を覚えざるをえません。