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法華三部経の要点 ◇◇18
立正佼成会会長 庭野日敬

人間は本質的に平等である

だれもが仏になれる!

 前回に述べましたように、方便品の第一の要点は「方便(適切な手段)によって現実化してこそ法は生きてはたらく」ということでした。では、その「はたらき」の目的は何なのでしょうか。
 これまでの四十余年の間、お釈迦さまは、さまざまな方便を用いて現実に苦しんでいる人びとを救ってこられました。しかし、お悟りになった真実のすべてはまだお明かしになっておられません。なぜならば、人びとの機根(教えを受け入れる能力)がそこまで高められていなかったからです。
 その真実すべてをこの法華経で説こうとなさっておられるのですが、しかし、説きかけて「いや、やめておこう」と躊躇(ちゅうちょ)されました。舎利弗は「そうおっしゃらないで、どうぞお説きください」と熱心にお願いするのですが、お釈迦さまは「いや。このことを説けば、一切世間の人びとも諸天(天界の人びと)もみんな驚き、かえって疑いを持つだろう。増上慢の者はきっと大きな穴(大坑)に落ち込んでしまうだろうから……」と言ってお断りになります。
 舎利弗がそれでもあきらめずに三度もお願いしましたので、その熱心さにほだされて、ついにその甚深無量の法をお説き始めになりました。それこそが、あらゆる方便をはたらかせる究極の真実、仏の教えの最終目的にほかならなかったのです。
 それはどんなことか。「仏の教えを聞き、それを実践する人は必ず仏となることができる」という一大事です。これまでの四十余年間一度もお説きにならなかったことというのは、この破天荒な真実なのです。
 これを浅く受け取る人はびっくり仰天し、――悪心を起こしたり、悪い行いをしたりする人間がみんな仏になりうるなんて、そんなことがあるものか――と、かえって仏さまのお言葉に疑惑を持つ恐れがあります。増上慢の人は反対に――おれはもう仏なんだ――と、うぬぼれの大穴に落ち込んでしまうかもしれません。だから、説くことを躊躇されたわけです。

仏説の平等は本質の平等

 だれもが仏になれるというのは、だれもがそのような素質を平等に持っているということです。あらゆる人間は久遠実成の本仏の実の子であることをすべての人に悟らせてあげようとされたからこそ、お釈迦さまは、そのような大胆な宣言をなさったわけです。
 この「人間平等」ということですが、一般社会においては、一七八九年(今年からわずか二百年前)のフランス革命の議会で初めて大衆的に認められました。ところがお釈迦さまは、それよりも二千数百年も前に法華経でそれを宣言しておられるのです。
 しかも、フランス革命での平等宣言は、「法(法律)の前の平等」とか「課税の平等」といった人間の暮らしの上の平等であり、制度の上の平等であったのに対して、お釈迦さまの平等宣言は、もっと深いところに根ざした「人間の本質の平等」だったのです。
 暮らしの上、制度の上での人間平等でも、人類にとってはたいへんな進歩でした。しかし、それは人間としての真の向上につながることばかりでなく、かえってエゴの主張ばかりが強くなったり、個人主義の悪い面が表に出るようになったり、それがもとで大小の紛争の種となるマイナスもあったのです。
 それに対して、仏法が説く「人間の本質の平等」は「人格の向上」の原動力となり、人類のほんとうの幸せの基盤となるものなのです。このことについては、次回に改めて考えることにしましょう。                                                       
                                                                       
   

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