法華三部経の要点 ◇◇28
立正佼成会会長 庭野日敬
ひとの仏性を見ることの大切さ
誰でも「仏」を内在している
「法華経は授記経である」といわれています。授記というのはお釈迦さまが「そなたは将来かならず仏になることができる」という保証を与えられることです。その授記を法華経の中で受けた第一号が、譬諭品における舎利弗です。すなわち、「舎利弗、汝未来世に於て無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし」とおおせられています。
これは譬諭品だけでなく法華経全体の要点中の要点ですから、ここでよくよく吟味しておきましょう。
ここに、仏となる三つの条件が述べられています。(一)多くの仏さまに遇(あ)いたてまつって供養申し上げること。(二)正法をしっかり守ること。(三)菩薩行を実践すること。この三つです。
まず(一)の条件ですが、これを、お釈迦さまのような仏さまに千万億人もお遇いすることと受け取れば、何百遍生まれ変わろうとも不可能だと思われます。
ところが、人間という人間すべて久遠実成の仏さまの実の子なのですから、表面の姿はどうあろうともみんな必ず仏としての性質、すなわち仏性を持っているのです。ですから、その一人一人の仏性を、一人一人の仏と考えればいいのです。
そして、日常の暮らしの上で出会うすべての人の本質である仏性を見つめ、それを拝むように心がければ、それがとりもなおさず仏さまを供養することになります。したがって、一日に十人の人に出会うならば、十人の仏さまに遇いたてまつることになるわけです。
第一の条件をこのように受け取れば、千万億の仏に遇いたてまつることもあながち不可能事ではないことがわかり、うつぼつたる勇気がわいてくるではありませんか。
この理想は現実につながる
(二)の「正法を奉持し」ですが、仏教ではいろいろな正法を説いており、そのすべてを持(たも)たねばならないと思えば、これまた凡夫にとっては不可能だとさじを投げたくなりましょう。ですから、これを仏教のギリギリの根本法である「縁起」に絞ればいいのではないかと思うのです。すなわち、この世の万物万象はすべて他との持ちつ持たれつの関係の上に成立しているという真理です。この真理をつねに頭において、他の人を大切にし、自然をそこなわず、すべてのものとの調和を心がけておれば、そうした生き方がひとりでに仏に近づいていくわけです。
(三)の菩薩行ですが、これは「縁起(もしくは諸法無我)」という真理を実践に現す行為です。すなわち、あらゆる面においてひとを幸せにする行為を積極的に行うことです。いわゆる布施行です。中でもとくに大事なのは、人を本質的な意味において幸せにする法施でしょう。物質的な布施はおおむね一時的な効果しかありませんが、積極的な布施である法施(仏法を説くだけでなく、人を仏道に導くことも)は、永久にその人を幸せにする次元の高い行為であって、これが最高の菩薩行であります。
こう考えてきますと、仏(目覚めた人)になるということは、われわれ凡夫にとって及びもつかぬことではないことがわかってきましょう。
法華経はすべての人間が仏になることを理想としてかかげているわけですが、それはけっして夢のようなことではありません。右の三つの条件に一歩でも近づく人がこの世に増えてくればくるほど、確実にこの世界が平和に、幸せになってくることは間違いないからです。その意味で、法華経はまったく現実的な教えなのです。
立正佼成会会長 庭野日敬
ひとの仏性を見ることの大切さ
誰でも「仏」を内在している
「法華経は授記経である」といわれています。授記というのはお釈迦さまが「そなたは将来かならず仏になることができる」という保証を与えられることです。その授記を法華経の中で受けた第一号が、譬諭品における舎利弗です。すなわち、「舎利弗、汝未来世に於て無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし」とおおせられています。
これは譬諭品だけでなく法華経全体の要点中の要点ですから、ここでよくよく吟味しておきましょう。
ここに、仏となる三つの条件が述べられています。(一)多くの仏さまに遇(あ)いたてまつって供養申し上げること。(二)正法をしっかり守ること。(三)菩薩行を実践すること。この三つです。
まず(一)の条件ですが、これを、お釈迦さまのような仏さまに千万億人もお遇いすることと受け取れば、何百遍生まれ変わろうとも不可能だと思われます。
ところが、人間という人間すべて久遠実成の仏さまの実の子なのですから、表面の姿はどうあろうともみんな必ず仏としての性質、すなわち仏性を持っているのです。ですから、その一人一人の仏性を、一人一人の仏と考えればいいのです。
そして、日常の暮らしの上で出会うすべての人の本質である仏性を見つめ、それを拝むように心がければ、それがとりもなおさず仏さまを供養することになります。したがって、一日に十人の人に出会うならば、十人の仏さまに遇いたてまつることになるわけです。
第一の条件をこのように受け取れば、千万億の仏に遇いたてまつることもあながち不可能事ではないことがわかり、うつぼつたる勇気がわいてくるではありませんか。
この理想は現実につながる
(二)の「正法を奉持し」ですが、仏教ではいろいろな正法を説いており、そのすべてを持(たも)たねばならないと思えば、これまた凡夫にとっては不可能だとさじを投げたくなりましょう。ですから、これを仏教のギリギリの根本法である「縁起」に絞ればいいのではないかと思うのです。すなわち、この世の万物万象はすべて他との持ちつ持たれつの関係の上に成立しているという真理です。この真理をつねに頭において、他の人を大切にし、自然をそこなわず、すべてのものとの調和を心がけておれば、そうした生き方がひとりでに仏に近づいていくわけです。
(三)の菩薩行ですが、これは「縁起(もしくは諸法無我)」という真理を実践に現す行為です。すなわち、あらゆる面においてひとを幸せにする行為を積極的に行うことです。いわゆる布施行です。中でもとくに大事なのは、人を本質的な意味において幸せにする法施でしょう。物質的な布施はおおむね一時的な効果しかありませんが、積極的な布施である法施(仏法を説くだけでなく、人を仏道に導くことも)は、永久にその人を幸せにする次元の高い行為であって、これが最高の菩薩行であります。
こう考えてきますと、仏(目覚めた人)になるということは、われわれ凡夫にとって及びもつかぬことではないことがわかってきましょう。
法華経はすべての人間が仏になることを理想としてかかげているわけですが、それはけっして夢のようなことではありません。右の三つの条件に一歩でも近づく人がこの世に増えてくればくるほど、確実にこの世界が平和に、幸せになってくることは間違いないからです。その意味で、法華経はまったく現実的な教えなのです。