法華三部経の要点 ◇◇17
立正佼成会会長 庭野日敬
現実化してこそ法は生きる
方便品と名づけられた理由
方便品に入ります。
この章の初めに「諸法実相」とか「十如是」といった難しい理論が出てきますので、それがこの章の主題かのように思われがちですが、そうではないのです。それらはもちろん大事な法門ですからあとで詳しく解説しますけれども、ほんとうの主題は冒頭にあるつぎのお言葉にあるのです。
「吾成仏してより已来(このかた)、種種の因縁・種種の譬諭をもって、広く言教(ごんきょう)を演(の)べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著(じゃく)を離れしむ。所以(ゆえ)は何(いか)ん、如来は方便・知見・波羅蜜。皆已に具足せり」
現代語に訳しますと、「わたしは仏の悟りを得てからこのかた、いろいろと実例をあげたり、譬え話をしたりして、多くの人を教え導いてきました。すなわち、それぞれの人と場合に応じた適切な方法で、過度の欲望への執着のために苦しんでいる人々をその執着から離れさせ、苦から解放してきました。なぜそれができたかといいますと、わたしは巧妙な手段(智慧の発揮の方法)において最高の完成度に達しているからです」ということになります。
ここにおおせられているように、人間の苦しみはおおむね欲望への過度の執着から起こります。かといって、ふつうの人にただそれを理論的に説いたところで、なかなか納得させることはできません。それで、実際に執着を捨てることによって救われた人の実例をあげたり(これを因縁説という)、譬え話をしたり(譬喩説という)して、だれにもわかるような方法で説けば、「なるほど」と納得させることができるのです。
わたしどもの会でも体験説法(因縁説)ということをたいへん重視しています。生きた体験を聞くことによって――ああ、わたしもこの教えで救われるのだ――という実感がしみじみと胸にわくからです。また、第十回に書いた寒苦鳥の譬え話を聞けば――自分にも「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」怠け癖があるのではないか――と反省せざるをえなくなります。こういったところが方便の大切さなのです。
仏さまの智慧は、煎(せん)じ詰めれば、すべての人間を幸せにしてあげたいという慈悲心に結晶されます。しかし、その智慧も、慈悲心も、相手の苦しみのケースに応じた適切な言葉、あるいは行為によって現実化してこそ、生きてはたらくのです。その現実化の手段が「方便」にほかなりません。この章が「方便品」と名づけられた理由はそこにあるのです。
形から入ることも大切
われわれの信仰心も、その「心」を言葉により、行為によって現実化してこそ、充実し、ほんものになっていくのです。そのことを、この章の後半に説かれる偈の中でくり返しくり返し強調してあります。いわゆる「万善成仏」の法門です。(梵文ではすべて未来形になっており、それが法華経の経相から見ても当然ですからそれに従って解説します)
すなわち――仏さまの遺骨を供養する者も、塔を建てて仏徳を顕彰する者も、たわむれに砂を集めて仏塔を造った子どもさえも、それが因となって悟りを得る者となるであろう。
さまざまな仏像を造った者も、造らせた者も、遊び半分に木の枝や指先などで仏の絵を描いた子どもでも、だんだんと功徳を積んで、ついには悟りを得るであろう――
このように「心」を「行為」として現実化することが大切だというのです。また「子どもがたわむれに云々」とあるように、まず「行為」から入って、そこから「心」が生ずることも多々あるのです。イギリスの思想家カーライルは「形式は内容を決定する」と言っています。仏教の言葉にも「信は荘厳(しょうごん=お寺の建物や装飾などの美しさ)より起こる」とあります。これも「方便が大切」ということにほかなりません。
立正佼成会会長 庭野日敬
現実化してこそ法は生きる
方便品と名づけられた理由
方便品に入ります。
この章の初めに「諸法実相」とか「十如是」といった難しい理論が出てきますので、それがこの章の主題かのように思われがちですが、そうではないのです。それらはもちろん大事な法門ですからあとで詳しく解説しますけれども、ほんとうの主題は冒頭にあるつぎのお言葉にあるのです。
「吾成仏してより已来(このかた)、種種の因縁・種種の譬諭をもって、広く言教(ごんきょう)を演(の)べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著(じゃく)を離れしむ。所以(ゆえ)は何(いか)ん、如来は方便・知見・波羅蜜。皆已に具足せり」
現代語に訳しますと、「わたしは仏の悟りを得てからこのかた、いろいろと実例をあげたり、譬え話をしたりして、多くの人を教え導いてきました。すなわち、それぞれの人と場合に応じた適切な方法で、過度の欲望への執着のために苦しんでいる人々をその執着から離れさせ、苦から解放してきました。なぜそれができたかといいますと、わたしは巧妙な手段(智慧の発揮の方法)において最高の完成度に達しているからです」ということになります。
ここにおおせられているように、人間の苦しみはおおむね欲望への過度の執着から起こります。かといって、ふつうの人にただそれを理論的に説いたところで、なかなか納得させることはできません。それで、実際に執着を捨てることによって救われた人の実例をあげたり(これを因縁説という)、譬え話をしたり(譬喩説という)して、だれにもわかるような方法で説けば、「なるほど」と納得させることができるのです。
わたしどもの会でも体験説法(因縁説)ということをたいへん重視しています。生きた体験を聞くことによって――ああ、わたしもこの教えで救われるのだ――という実感がしみじみと胸にわくからです。また、第十回に書いた寒苦鳥の譬え話を聞けば――自分にも「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」怠け癖があるのではないか――と反省せざるをえなくなります。こういったところが方便の大切さなのです。
仏さまの智慧は、煎(せん)じ詰めれば、すべての人間を幸せにしてあげたいという慈悲心に結晶されます。しかし、その智慧も、慈悲心も、相手の苦しみのケースに応じた適切な言葉、あるいは行為によって現実化してこそ、生きてはたらくのです。その現実化の手段が「方便」にほかなりません。この章が「方便品」と名づけられた理由はそこにあるのです。
形から入ることも大切
われわれの信仰心も、その「心」を言葉により、行為によって現実化してこそ、充実し、ほんものになっていくのです。そのことを、この章の後半に説かれる偈の中でくり返しくり返し強調してあります。いわゆる「万善成仏」の法門です。(梵文ではすべて未来形になっており、それが法華経の経相から見ても当然ですからそれに従って解説します)
すなわち――仏さまの遺骨を供養する者も、塔を建てて仏徳を顕彰する者も、たわむれに砂を集めて仏塔を造った子どもさえも、それが因となって悟りを得る者となるであろう。
さまざまな仏像を造った者も、造らせた者も、遊び半分に木の枝や指先などで仏の絵を描いた子どもでも、だんだんと功徳を積んで、ついには悟りを得るであろう――
このように「心」を「行為」として現実化することが大切だというのです。また「子どもがたわむれに云々」とあるように、まず「行為」から入って、そこから「心」が生ずることも多々あるのです。イギリスの思想家カーライルは「形式は内容を決定する」と言っています。仏教の言葉にも「信は荘厳(しょうごん=お寺の建物や装飾などの美しさ)より起こる」とあります。これも「方便が大切」ということにほかなりません。