法華三部経の要点 ◇◇24
立正佼成会会長 庭野日敬
心が変わればすべてが変わる
「念」は強くて継続的な心
前々回に天台大師の説いた「一念三千」について触れましたが、これは難しく考えればたいへん難しい説ですけれども、一口で言えば「心が変わればすべてが変わる」ということです。ただし、心といってもコロコロ変わるような軽い心ではありません。「一念」の念というのは、「念入りに書く」とか「初一念」とか「念力」とか「念が残る」とか「念を晴らす」といった使い方でもわかるように、非常に強く思い、そして絶えず思う心なのです。不適当な表現かもしれませんが、たいへんしつこいというか、根強い心なのです。
この強くしつこい心が悪い心であれば、その人の人格を低め、他の人への恨みなどとなって相手を傷つけることになりますが、善い心であれば、自分を無限に向上させ、多くの人を救い、環境をも、社会をも浄化するという偉大な働きを持つものなのです。
道元禅師はこう言っておられます。「(願い求めることは)行住坐臥、事にふれ、おりにしたがいて、種々の事はかわり来れども、其れに随いて、隙(ひま)を求め、心に懸(か)くるなり。此心あながちに(度はずれて)切なるもの、と(遂)げずということなきなり」と。日常生活の中で、ちょっと暇(隙)があればそのことを思い、度はずれるぐらいけんめいに思えば、その思いは必ず遂げられるのだ……というのです。
一念が三千を変える理由は
そういう一念が自分自身を変えることはだれでもわかります。しかし、それがどうして他人を変え、環境を変え、社会を変えるのでしょうか。まず常識でわかることから考えてみましょう。
第一に、心が変わればその人のものの考え方や、身の振る舞いや、口に出す言葉がひとりでに変わってきます。すると、周りの人びと(主として家族)がそれに感化されて変わってくる、これは当然のなりゆきです。
第二に、心が変われば、すべてのものを見る目が変わってきます。人に対しては、温かい目で相手の長所を見、短所は寛容の目で見るようになります。周りの自然に対しても、その美しさをこまやかに観察するようになります。芭蕉が「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」と詠んだように、だれもが見過ごすようなペンペン草の小さな花にさえ、いのちの美を発見するようになります。こういう主観的な意味で、世界が変わるのです。
第三に、強くて絶え間のない一念(善念)があれば、それは必ず同じ念を持つ同志と磁石のように引きつけ合い、合体します。そして、さらに強い力となって社会へ向かって波紋をなげかけます。それがしだいしだいに社会を変えていくのです。WCRP(世界宗教者平和会議)などがその好例といえましょう。
右に述べたようなはたらきのほかに、常識では測りしれない心のはたらきがあります。それは仏教でいう感応道交(かんのうどうこう=心と心が冥々のうちに響き合い交流すること)です。そんなはたらきはどうして起こるのでしょうか。現代最高の心理学者であるスイスのユングは「絶対的無意識」または「集合的無意識」というものがあると唱えています。これは、あらゆる人間に、いやあらゆる生物に共通する、最も深い所にある潜在意識だというのです。
とすれば、宗教者の祈りなどは、表面の心で祈っているようでも、それは深層にある自分の集合的無意識を動かし、それが多くの人びとの集合的無意識へ働きかけるのだ……と解釈することができ、納得することができます。
以上、いくつかの面から説明してきましたが、いずれにしましても、自分の心を変えることによって、人も環境も確かに変わったという体験は、信仰者にとって動かし難い事実なのであります。そこで私は、この「一念三千」をもう一歩突っ込んで、「自分が変われば、相手も変わる」と表現しているわけです。
立正佼成会会長 庭野日敬
心が変わればすべてが変わる
「念」は強くて継続的な心
前々回に天台大師の説いた「一念三千」について触れましたが、これは難しく考えればたいへん難しい説ですけれども、一口で言えば「心が変わればすべてが変わる」ということです。ただし、心といってもコロコロ変わるような軽い心ではありません。「一念」の念というのは、「念入りに書く」とか「初一念」とか「念力」とか「念が残る」とか「念を晴らす」といった使い方でもわかるように、非常に強く思い、そして絶えず思う心なのです。不適当な表現かもしれませんが、たいへんしつこいというか、根強い心なのです。
この強くしつこい心が悪い心であれば、その人の人格を低め、他の人への恨みなどとなって相手を傷つけることになりますが、善い心であれば、自分を無限に向上させ、多くの人を救い、環境をも、社会をも浄化するという偉大な働きを持つものなのです。
道元禅師はこう言っておられます。「(願い求めることは)行住坐臥、事にふれ、おりにしたがいて、種々の事はかわり来れども、其れに随いて、隙(ひま)を求め、心に懸(か)くるなり。此心あながちに(度はずれて)切なるもの、と(遂)げずということなきなり」と。日常生活の中で、ちょっと暇(隙)があればそのことを思い、度はずれるぐらいけんめいに思えば、その思いは必ず遂げられるのだ……というのです。
一念が三千を変える理由は
そういう一念が自分自身を変えることはだれでもわかります。しかし、それがどうして他人を変え、環境を変え、社会を変えるのでしょうか。まず常識でわかることから考えてみましょう。
第一に、心が変わればその人のものの考え方や、身の振る舞いや、口に出す言葉がひとりでに変わってきます。すると、周りの人びと(主として家族)がそれに感化されて変わってくる、これは当然のなりゆきです。
第二に、心が変われば、すべてのものを見る目が変わってきます。人に対しては、温かい目で相手の長所を見、短所は寛容の目で見るようになります。周りの自然に対しても、その美しさをこまやかに観察するようになります。芭蕉が「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」と詠んだように、だれもが見過ごすようなペンペン草の小さな花にさえ、いのちの美を発見するようになります。こういう主観的な意味で、世界が変わるのです。
第三に、強くて絶え間のない一念(善念)があれば、それは必ず同じ念を持つ同志と磁石のように引きつけ合い、合体します。そして、さらに強い力となって社会へ向かって波紋をなげかけます。それがしだいしだいに社会を変えていくのです。WCRP(世界宗教者平和会議)などがその好例といえましょう。
右に述べたようなはたらきのほかに、常識では測りしれない心のはたらきがあります。それは仏教でいう感応道交(かんのうどうこう=心と心が冥々のうちに響き合い交流すること)です。そんなはたらきはどうして起こるのでしょうか。現代最高の心理学者であるスイスのユングは「絶対的無意識」または「集合的無意識」というものがあると唱えています。これは、あらゆる人間に、いやあらゆる生物に共通する、最も深い所にある潜在意識だというのです。
とすれば、宗教者の祈りなどは、表面の心で祈っているようでも、それは深層にある自分の集合的無意識を動かし、それが多くの人びとの集合的無意識へ働きかけるのだ……と解釈することができ、納得することができます。
以上、いくつかの面から説明してきましたが、いずれにしましても、自分の心を変えることによって、人も環境も確かに変わったという体験は、信仰者にとって動かし難い事実なのであります。そこで私は、この「一念三千」をもう一歩突っ込んで、「自分が変われば、相手も変わる」と表現しているわけです。