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法華三部経の要点 ◇◇23
立正佼成会会長 庭野日敬

ありのままの尊さ

諸法実相の三つの見方

 前回には十如是の法門に示された「諸法実相」を、主として人間の生き方に即して説明しましたが、もっと視野をひろげて、大自然の姿にその真理を見てみましょう。
 天台の教義では「諸法実相」を三重に説いています。まず第一は「すべての存在(現象)は空(くう)である」という見方。これを空諦(くうたい)と言います。
 ところが、現象というものを一切否定し、その根源である空のみを見ていますと、おそろしい虚無感に襲われ、厭世観(えんせいかん)のとりこにもなりかねません。目の前に展開している現象をも認めなければ現実の生活はできないのです。その現象肯定の見方を仮諦(けたい)と言います。
 しかし、現象肯定に片寄っていますと、どうしても目の前に現れるものごとにとらわれ、ふり回され、迷ったり苦しんだりします。そこで、あらゆる現象は因と縁との和合によって生じたものであるという縁起の法則にのっとって、ありのままに見るところに、諸法の実相のとらえどころがある。それがギリギリ真実の諦(さと)りであるというのです。これを中諦(ちゅうたい)と言います。中道というのもこの中諦と同じだというのです。
 この中諦の境地は、理念的にはわかるけれども、現実的に「これこのとおり」とハッキリ示すことは難しく、言葉にも尽くし難いものです。だから、むかしの人は「妙」としか言いようがないと言いました。妙法蓮華経の「妙」もそれだというのです。

大自然の姿に学ぼう

 言葉では言い尽くせないが、大自然の姿を見ればそれをマザマザと感得することができます。たとえば、自然林の姿などがそうでしょう。その中の一本の樹木をつくづくと見つめてみますと、たくさんの枝や葉が、それぞれ他の枝や葉の領分を侵さないようなほどよい空間を保ち、そこになんともいえない美しい調和がつくり出されています。だから、いつまで眺めていても飽きません。また、多くの木と木との間にも同じような美しい調和が保たれ、しかもみんながいきいきしています。
 「芭蕉」という謡曲にこんな一節があります。

 さてさて草木成仏の 謂(い)はれ(根拠)をなほも示し給(たま)へ 薬草喩品あらはれて 草木国土有情非情(生物・無生物)もみなこれ諸法実相の 峰の嵐や 谷の水音仏事をなすや――中略――されば柳はみどり 花は紅と知ることも ただそのままの色香の 草木も成仏の国土ぞ 成仏の国土なるべし

峰の嵐にも谷川のせせらぎにも諸法実相が現れているというのです。柳はみどり、花は紅というのは、ありのままということですから、つまり、大自然のありのままの姿にすべての存在の真実の相を見ることができる、というのです。
 しかもそれらがすべて「仏事を成している」、久遠実成の仏さまの大いなるいのちを現しているというのです。大自然がありのままの状態であるときは、そこに宇宙の大生命そのもののいのちがいきいきと現れる。それが「草木国土悉皆成仏」の姿である……というわけです。
 われわれはこのことに深く思いを致さねばなりません。人類は、とくに先進国の人間は、わがままな欲望のために大自然のありのままの姿を容赦なく破壊してはいないか。そのことを反省しなければなりますまい。
 右の謡曲の中に「峰の嵐や谷川のせせらぎが仏事を成している」とありますが、人間が成す仏事も――もちろん人間でなければできない仏事もたくさんありますけれども――その根本は、「ありのままに生きる」ということではないでしょうか。ありのままに生きている人が、なんともいえず美しく、尊く見えるのは、やはり諸法実相の理にかなっているからでありましょう。


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