1416 件中の 281 件目~ 300 件目を表示

法華三部経の要点20

仏教には一仏乗があるだけ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇20 立正佼成会会長 庭野日敬 仏教には一仏乗があるだけ みんな仏道の上にいる  第十七回に「法を現実化する方便こそが大切である」ことについて書きましたが、そうであればこそ法華経では、その現実化の行動者である菩薩が、仏を除けば人間の中で最も価値ある存在だと強調するわけです。  お釈迦さまは方便品の中で、「諸仏如来は但(ただ)菩薩を教化したもう」とか「諸の菩薩を教化して声聞の弟子なし」などと、繰り返し繰り返し菩薩をたたえ、信頼するお言葉を述べておられます。  ここで誤解してはならないのは、声聞や縁覚は相手にしないという意味ではないことです。  ――声聞も縁覚も仏となる道の上に乗っていることは確かである。しかし、まだ積極的な歩みに踏み出していない。だから、積極的な歩みをする菩薩になるように導きたいのだ――というみ心なのです。  「仏となる」とか「声聞」「縁覚」「菩薩」とかいえば、いかにも現実離れした存在のように思われますが、けっしてそうではありません。現代語で表現すればこういうことになります。  仏とは、前にも書いたように、「めざめた人」のことです。宇宙の真理と人生の真実にめざめ、その悟りにもとづいてこの世のあらゆる存在を幸福に導こうという大慈悲心の持ち主なのです。  声聞というのは、仏教の本を読んだり、説法を聞いたりして、仏の道を学ぼうとする人です。このような人も「めざめ」への道の上にいることは確かです。現代語でいえば「学習派の信仰者」ということになりましょう。  縁覚というのは、仏の教えについてひとり静かに思索し、暝想し、「めざめ」へ近づこうとする人です。こういう人も仏への道の上にいることは確かなのです。現代語でいえば、「暝想派の信仰者」ということになりましょう。  菩薩とは、声聞の要素も持ち、縁覚の要素も具(そな)えているのですが、ただ違うのは、他の多くの人びとへの教化や救済に奔走するという一点です。「行動派の信仰者」と名づけていいでしょう。 歩み出しさえすれば  法華経以前では、仏道修行者が「学習派」「暝想派」「行動派」の三派に分かれているように考えられていました。事実そういう傾向が顕著でした。そして「学習派」や「暝想派」の人たちは、もっぱら煩悩から解脱することを目標として修行し、仏になるなんてとうていできないことだと思い込んでいました。お釈迦さまも、みんなの機根(教えを受ける能力)がまだ熟していないと見られて、わざと「みんな仏の道の上にいる」ということをお説きにならなかったのです。  しかし、この法華経方便品に至って「十方仏土の中には 唯一乗の法のみあり 二なく亦(また)三なし」という大宣言をなさったのです。そして、法華経を行ずる者はことごとく仏になることができると、保証されたのです。  ――これまで学習派・暝想派・行動派の別があるように考えていたが、そのような派閥の別などありはしないのだ。あるのは「仏の智慧にめざめ、その慈悲を行ずる」という大きな一本道(一仏乗)しかないのだ。学習派の人も暝想派の人もその一本道の上にいるのだ。ただ、積極的な歩み(菩薩行)を起こしていないだけのことなのだ――という素晴らしい大宣言です。  これを仏教学者は「開三顕一」と名づけていますが、つまり――仏教書を読むことも、座禅を組むこともいいことなんだ。それも仏道の一段階なんだ。大いにやりなさい。ただし、「他を幸せに導く行動」という段階へ進むことを忘れてはいけませんよ――ということなのです。                                                                   ...

法華三部経の要点21

人を仏道に導く順序は

1 ... 法華三部経の要点 ◇◇21 立正佼成会会長 庭野日敬 人を仏道に導く順序は 一大事の因縁を以ての故に  方便品の大きな要点の一つに「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう」という一句があります。  「一大事の因縁」というのは「一つの大事な目的」ということです。では、その目的は何かといえば、「すべての人に仏知見を開かしめ、仏知見を示し、仏知見を悟らせ、仏知見を成就する道に入らせることである」と説かれています。  仏知見というのは、この世のあらゆるものごとの実相を見きわめる智慧のことですが、これを大づかみにいえば、すべてのものごとの本質の平等性と、さまざまな現象として現れている現実の相(すがた)を、ありのままに、そして、明らかに見通す智慧だと言っていいでしょう。  仏さまの側からいえば、そのような智慧をすべての人間に完成させることが、仏さまがこの世にお出ましになられた一大事の因縁ですが、われわれの側からいえば、そのような智慧を身につけることがこの世に生まれてきた一大事の因縁だといえます。つまり、人生の真の目的はそこにあるのだというわけです。  人生を楽しむのもいいでしょう。せっせと稼いでお金をもうけるのもいいでしょう。しかし、この「人生の真の目的」を見忘れたり、ないがしろにしたりすれば、人間としての向上もなければ、社会の進歩もありえません。それどころか、みんなが欲望を限りなく肥大させ、自己本位の生きざまに走り、奪い合い、足の引っ張り合いの世界をつくりあげてしまいます。現在の世相がそうではないでしょうか。  人類がほんとうに幸せになるためには、どうしても先に述べたような「人生の真の目的」に目覚めることが不可欠の要件なのです。法華経が歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう=生まれ変わりを重ねながら菩薩行を続ける)をも説く理由はここにあるのです。 開・示・悟・入の順序  それでは、この一大事の因縁である「開・示・悟・入」について説明いたしましょう。  「開」というのは、仏の智慧に眼を開かせることです。これまでそんなことに無関心だった人に「気づかせる」ことです。より高い、より尊いものに「気づく」ということが、進歩・向上の出発点となるのです。  「示」というのは、仏の智慧の実際を示すことです。たとえば、仏さまの説かれた縁起の法則を実際に起こったある例証によって示せば、初心の人も「そんなものかなあ」と心を動かすようになります。それが第二の段階です。  「悟」というのは、第二の段階からさらに進んで「なるほど」と心の底から納得する段階です。  そこでいよいよ「入」という段階へ進むのです。すなわち仏の智慧を成就するための修行に入るわけです。ご宝前で読経する。唱題する。経典の解説書を読む。その内容についていろいろ考えをめぐらす。説法を聞く。法座に参加したり、明るい社会づくりのためのさまざまな集会に出席する。みんなそのための修行です。そして、他の人を仏道に導く菩薩行へと進む。このような実践によってこそ、目覚めへの道は完成へと近づいて行くのです。  この順序は、世の万事に応用できる基本的なセオリー(理論)です。たとえば、緑の保存についても、そんなことに無関心な人にまず文書その他の方法でその大切さに気づかせること(開)が出発点です。そしてアフリカや東南アジアなどの実情を示せば、「このままでは地球が危ない」と心底から悟ります。そこで、その危機を救う実践(たとえば、本会で実行しているクズの種を中国に送る運動など)へと入らせるのです。  このように、開・示・悟・入は、現代語で表現すれば「啓発・例示・了解・実践」ということになり、すべてのキャンペーンに通ずる大法則なのです。                                                              ...

法華三部経の要点22

人間には無限の可能性がある

1 ...法華三部経の要点 ◇◇22 立正佼成会会長 庭野日敬 人間には無限の可能性がある 「十如是」の法門の意味  方便品のもう一つの大きな要点に「十如是」の法門があります。すべてのものごとの本質である平等性と、さまざまな現象として現れる現実の相(すがた)を、ありのままに見通すための法則です。すなわち、「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」という十の如是(にょぜ)です。  後世の学僧たちは、この三十四文字に法華経の哲理が結晶されているとして、これを「略法華」と呼んでいるほど大切な法門です。  如是の意味にはいろいろな説がありますが、「こうすればこうなる」という解釈がいちばん適切だと思います。ではこの十如是の意味を説明しましょう。  われわれがすべての事物を見るとき、まず目に入るのはその姿・形です。これを「如是相(そう)」と言います。  表面の現れであるその「相」を、一歩内面に立ち入って吟味してみますと、そのものの持つ性質というものがあることがわかります。それを「如是性(しょう)」と言います。  「相」があり「性」があるものには、必ずそのものの主体があります。それを「如是体(たい)」と言います。  主体を持つすべての存在は必ずそのものにふさわしい力、いわば潜在エネルギーというものを持っています。その力を「如是力(りき)」と言うのです。  その力(潜在エネルギー)は、機会を得ればはたらきだし、その機会に応じた作用を起こします。それを「如是作(さ)」と言います。  そして、どのような現象であろうと、それが生ずるのには、必ず原因があります。それを「如是因(いん)」と言います。  また、その原因も何らかの条件に合わなければ、現実に現象として現れることはありません。その条件を「如是縁(えん)」と言うのです。これが、「如是作」のところで述べた「機会」ということでもあります。  さて、ある原因がある条件に会えば、それにふさわしい結果が生じます。それを「如是果(か)と言い、その結果があとに残す影響を「如是報(ほう)」と言うのです。  以上の九つの如是は、初め(本)から終わり(末)まで、つまるところ(究竟して)宇宙の真理である法則のとおりになるということで等しい(等)というのが、最後の「本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」ということなのです。  実に整然とした哲理ではありませんか。 希望と勇気を与える哲理  この哲理を人間の生き方の上に大きく展開させたのが、天台大師の説いた「一念三千」の法門です。いま説明したように、「十如是」は――この世のあらゆる事物は固定したものではなく、変化・流動させうるものであり、「こうすればこうなる(如是)」という原理に従うものである――ということを説いたものであります。  ということは、自分の性格や才能などの個性も、自分と関係するさまざまなことがらも、もともと固定したものではなく、自分の心の持ちようにより、努力により、どんなにでも変化させうる可能性を秘めているのだ、ということなのです。この哲理は、われわれに大きな希望と勇気を与えてくれるものです。  われわれは、ともすれば自分の能力に限界を感じ、一種のあきらめをいだきがちです。それは自分がつくった限界であり、自らが立てた壁であって、ほんとうの自分はそんな壁に閉じこめられたものではなく、上へ向かってもどこまでものぼって行ける、横へ向かってもどこまでもひろがって行ける、そんな無限の可能性を持っているのだ、というのです。  そのような可能性を知らされると、心の牢獄の壁にポッカリと大きな穴が開いたのを感じます。あなたにも、そんな可能性があるのです。希望を持ち、大いなる勇気を出してください。 ...

法華三部経の要点23

ありのままの尊さ

1 ... 法華三部経の要点 ◇◇23 立正佼成会会長 庭野日敬 ありのままの尊さ 諸法実相の三つの見方  前回には十如是の法門に示された「諸法実相」を、主として人間の生き方に即して説明しましたが、もっと視野をひろげて、大自然の姿にその真理を見てみましょう。  天台の教義では「諸法実相」を三重に説いています。まず第一は「すべての存在(現象)は空(くう)である」という見方。これを空諦(くうたい)と言います。  ところが、現象というものを一切否定し、その根源である空のみを見ていますと、おそろしい虚無感に襲われ、厭世観(えんせいかん)のとりこにもなりかねません。目の前に展開している現象をも認めなければ現実の生活はできないのです。その現象肯定の見方を仮諦(けたい)と言います。  しかし、現象肯定に片寄っていますと、どうしても目の前に現れるものごとにとらわれ、ふり回され、迷ったり苦しんだりします。そこで、あらゆる現象は因と縁との和合によって生じたものであるという縁起の法則にのっとって、ありのままに見るところに、諸法の実相のとらえどころがある。それがギリギリ真実の諦(さと)りであるというのです。これを中諦(ちゅうたい)と言います。中道というのもこの中諦と同じだというのです。  この中諦の境地は、理念的にはわかるけれども、現実的に「これこのとおり」とハッキリ示すことは難しく、言葉にも尽くし難いものです。だから、むかしの人は「妙」としか言いようがないと言いました。妙法蓮華経の「妙」もそれだというのです。 大自然の姿に学ぼう  言葉では言い尽くせないが、大自然の姿を見ればそれをマザマザと感得することができます。たとえば、自然林の姿などがそうでしょう。その中の一本の樹木をつくづくと見つめてみますと、たくさんの枝や葉が、それぞれ他の枝や葉の領分を侵さないようなほどよい空間を保ち、そこになんともいえない美しい調和がつくり出されています。だから、いつまで眺めていても飽きません。また、多くの木と木との間にも同じような美しい調和が保たれ、しかもみんながいきいきしています。  「芭蕉」という謡曲にこんな一節があります。  さてさて草木成仏の 謂(い)はれ(根拠)をなほも示し給(たま)へ 薬草喩品あらはれて 草木国土有情非情(生物・無生物)もみなこれ諸法実相の 峰の嵐や 谷の水音仏事をなすや――中略――されば柳はみどり 花は紅と知ることも ただそのままの色香の 草木も成仏の国土ぞ 成仏の国土なるべし 峰の嵐にも谷川のせせらぎにも諸法実相が現れているというのです。柳はみどり、花は紅というのは、ありのままということですから、つまり、大自然のありのままの姿にすべての存在の真実の相を見ることができる、というのです。  しかもそれらがすべて「仏事を成している」、久遠実成の仏さまの大いなるいのちを現しているというのです。大自然がありのままの状態であるときは、そこに宇宙の大生命そのもののいのちがいきいきと現れる。それが「草木国土悉皆成仏」の姿である……というわけです。  われわれはこのことに深く思いを致さねばなりません。人類は、とくに先進国の人間は、わがままな欲望のために大自然のありのままの姿を容赦なく破壊してはいないか。そのことを反省しなければなりますまい。  右の謡曲の中に「峰の嵐や谷川のせせらぎが仏事を成している」とありますが、人間が成す仏事も――もちろん人間でなければできない仏事もたくさんありますけれども――その根本は、「ありのままに生きる」ということではないでしょうか。ありのままに生きている人が、なんともいえず美しく、尊く見えるのは、やはり諸法実相の理にかなっているからでありましょう。 ...

法華三部経の要点24

心が変わればすべてが変わる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇24 立正佼成会会長 庭野日敬 心が変わればすべてが変わる 「念」は強くて継続的な心  前々回に天台大師の説いた「一念三千」について触れましたが、これは難しく考えればたいへん難しい説ですけれども、一口で言えば「心が変わればすべてが変わる」ということです。ただし、心といってもコロコロ変わるような軽い心ではありません。「一念」の念というのは、「念入りに書く」とか「初一念」とか「念力」とか「念が残る」とか「念を晴らす」といった使い方でもわかるように、非常に強く思い、そして絶えず思う心なのです。不適当な表現かもしれませんが、たいへんしつこいというか、根強い心なのです。  この強くしつこい心が悪い心であれば、その人の人格を低め、他の人への恨みなどとなって相手を傷つけることになりますが、善い心であれば、自分を無限に向上させ、多くの人を救い、環境をも、社会をも浄化するという偉大な働きを持つものなのです。  道元禅師はこう言っておられます。「(願い求めることは)行住坐臥、事にふれ、おりにしたがいて、種々の事はかわり来れども、其れに随いて、隙(ひま)を求め、心に懸(か)くるなり。此心あながちに(度はずれて)切なるもの、と(遂)げずということなきなり」と。日常生活の中で、ちょっと暇(隙)があればそのことを思い、度はずれるぐらいけんめいに思えば、その思いは必ず遂げられるのだ……というのです。 一念が三千を変える理由は  そういう一念が自分自身を変えることはだれでもわかります。しかし、それがどうして他人を変え、環境を変え、社会を変えるのでしょうか。まず常識でわかることから考えてみましょう。  第一に、心が変わればその人のものの考え方や、身の振る舞いや、口に出す言葉がひとりでに変わってきます。すると、周りの人びと(主として家族)がそれに感化されて変わってくる、これは当然のなりゆきです。  第二に、心が変われば、すべてのものを見る目が変わってきます。人に対しては、温かい目で相手の長所を見、短所は寛容の目で見るようになります。周りの自然に対しても、その美しさをこまやかに観察するようになります。芭蕉が「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」と詠んだように、だれもが見過ごすようなペンペン草の小さな花にさえ、いのちの美を発見するようになります。こういう主観的な意味で、世界が変わるのです。  第三に、強くて絶え間のない一念(善念)があれば、それは必ず同じ念を持つ同志と磁石のように引きつけ合い、合体します。そして、さらに強い力となって社会へ向かって波紋をなげかけます。それがしだいしだいに社会を変えていくのです。WCRP(世界宗教者平和会議)などがその好例といえましょう。  右に述べたようなはたらきのほかに、常識では測りしれない心のはたらきがあります。それは仏教でいう感応道交(かんのうどうこう=心と心が冥々のうちに響き合い交流すること)です。そんなはたらきはどうして起こるのでしょうか。現代最高の心理学者であるスイスのユングは「絶対的無意識」または「集合的無意識」というものがあると唱えています。これは、あらゆる人間に、いやあらゆる生物に共通する、最も深い所にある潜在意識だというのです。  とすれば、宗教者の祈りなどは、表面の心で祈っているようでも、それは深層にある自分の集合的無意識を動かし、それが多くの人びとの集合的無意識へ働きかけるのだ……と解釈することができ、納得することができます。  以上、いくつかの面から説明してきましたが、いずれにしましても、自分の心を変えることによって、人も環境も確かに変わったという体験は、信仰者にとって動かし難い事実なのであります。そこで私は、この「一念三千」をもう一歩突っ込んで、「自分が変われば、相手も変わる」と表現しているわけです。 ...

法華三部経の要点25

諸仏は五濁の悪世に出でたもう

1 ...法華三部経の要点 ◇◇25 立正佼成会会長 庭野日敬 諸仏は五濁の悪世に出でたもう 文化の進歩の逆現象  方便品にはもう一つ見逃してはならぬ要点があります。「諸仏は五濁の悪世(ごじょくのあくせ)に出でたもう」の一句です。これは現代の世相にぴたりと一致しますので、この五つの世の濁りについて吟味してみましょう。  第一の濁りは「劫濁(こうじょく)」です。これは時代が長く古くなったために起こる悪です。世の中も人間の体と同じように、古くなると動脈硬化を起こします。  それが一番顕著に現れるのは、政党をはじめとする諸団体でしょう。ある団体が結成された当初は、理想に燃え、情熱をたぎらせていたのが、年月がたつにつれて、ともすれば惰性的になり、形式主義的になっていきます。「何のためにあるのか」「だれのためにやるのか」という根本精神がかすんでしまうのです。だから、時に応じて草創期を思い起こし、初心に立ち返ることが絶対に必要なのです。  第二の濁りは「煩悩濁(ぼんのうじょく)」です。文化が進むのはいいことですが、半面、社会構造が複雑になるにつれて煩悩も種類が多くなります。人類が単純な暮らしをしていたころは、煩悩は食欲と種族保存欲などに基づくものだけだったのが、文化が進むにつれ、名誉欲とか権勢欲といった新しい煩悩が生じ、それが過大になったり暴走したりして、大小さまざまな争いの原因となるのです。  第三の「衆生濁(しゅじょうじょく)」というのは、世の中が複雑化すると、衆生の一人一人が自分の立場だけからものを考えるために、小は人間関係から大は国際問題に至るまで、摩擦や背反が激しくなり、地球上が修羅(しゅら)の巷(ちまた)と化していくのです。そういう時にこそ、法華経が説く「久遠本仏の大慈悲心」つまり、「すべての人間は宇宙の大生命ともいうべき久遠本仏に生かされているのだ」という真理に深く思いをいたさねばならないのです。  なお、西義雄博士は国訳大蔵経の『倶舎論巻十二』の注釈に、衆生濁とは人間が小さくなり無気力になることだとしておられます。  最近、日本の青年が無気力になったことが問題となっていますが、右のような解釈も一考に値すると思います。 最も恐ろしいのは「命濁」  第四の「見濁(けんじょく)」というのは、ものの見方が人により民族により大きく相違するために起こる世の乱れです。正しい見方にいろいろな方向があるのならいいのですが、悪世においては、たとえば「宗教はアヘンなり」とか「道徳教育は不要である」といったような邪見が横行して、正見を蔽(おお)ってしまうことが多いために、世の中が濁ってくるのです。  第五の「命濁(みょうじょく)」というのは、人間の命が短くなるというのですが、これはちょっと解せないかもしれません。むかしは「人生五十年」が通り相場でしたが、今の日本では八十何歳とかが平均寿命になっていますから、人間の寿命が短くなるという意味がわからないと思います。  したがってこれを、核戦争によって人類はアッという間に絶滅してしまう意味であるとか、今日のように添加物の多い食品を食べていると人間は長生きできなくなることを示唆しているのだといったうがった説明もあります。また科学文明の発達によって人間が本来持っていた生命力がだんだん脆弱(ぜいじゃく)になっていくことを教えているのだともいわれます。  そのいずれにせよ、究極的には「どうせ限りある生命だから、いまさらあくせく修行しても始まらぬ」というように、人間が刹那主義になってしまうことが恐ろしいことであり、これが命濁の示す警告であるといってもいいでしょう。  そういう危機(悪世)に際してこそ諸仏が世に出でたもうというのも、仏さまそのものは出られなくても、仏の教えを世にひろめる人間が続々と出現するというように解釈することもできましょう。そのように受け取って発奮のよすがとしたいものです。                                                             ...

法華三部経の要点26

向上は反省と下がる心から

1 ...法華三部経の要点 ◇◇26 立正佼成会会長 庭野日敬 向上は反省と下がる心から 反省にもとづく求道心こそ  譬諭品は、前の方便品の説法を聞いて大歓喜した舎利弗の「今世尊に従いたてまつりて、此の法音を聞いて心に踊躍(ゆやく)を懐き、未曽有なることを得たり」という感激の言葉から始まります。  なぜそれほど歓喜したかといえば、これまで自分は仏の悟りとはかけ離れた境地に低迷しているとばかり思って「終日竟夜(ひねもすよもすがら)毎(つね)に自ら剋責(こくしゃく)しき」と自分の至らなさを責めていたのが、方便品の説法で、仏さまの教えはただ一仏乗であって声聞も縁覚もなく、自分もたしかに成仏への道程にいることがわかったからです。  ここで見逃してならないのは、舎利弗ほどの大秀才がつねに自分の至らなさを反省していたという事実です。釈尊教団では「智慧第一」とたたえられ、多くの経典に現れているように、お釈迦さまもつねに「舎利弗よ」「舎利弗よ」と呼びかけて法をお説きになっていました。その舎利弗がけっして有頂天にならず、威張ることもなく、いつも現在の自分を反省し、さらなる向上への道を求めていたわけです。これが譬諭品の第一の要点だと思います。  ほんとうに偉くなる人は、必ずそうした精神的欠乏感ともいうべき、反省にもとづく求道心をもっているものです。イエス・キリストが「さいわいなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」と言われたのも、そこのところなのです。 心の素直な人は「下がる」  舎利弗は、はじめ王舎城付近で世間の尊崇を集めていたサンジャヤという宗教家に弟子入りしました。わずか七日間(一説には三日間)で師の教えをすっかりマスターし、たちまち二百五十人の弟子を指導する師範代に任ぜられたのでした。それでも舎利弗は、より高いものを日夜求めつづけてやみませんでした。  たまたま王舎城の街頭で立ち居振る舞いの見事に端正な一修行者に出会い、一目でその人に引きつけられてしまいました。そして、「あなたの師は何というお方ですか」と尋ねたところ「釈迦牟尼世尊と申す正覚者です」との答え。「その師の教えはどんなものですか」と問えば「この世のすべての現象は因と縁との和合によって生ずるとお説きになります」という答え。 ――ああ、これこそ自分が求めていた最高の法である――と感動し、二百五十人もの弟子を持つ師範代の地位を惜しげもなく捨てて、お釈迦さまのもとにはせ参じたのでした。  入門してほどなく、さきにも述べたように舎利弗はお釈迦さまの弟子の中で「智慧第一」となったのですが、それでもけっして増長することはありませんでした。こんな話があります。  お釈迦さまの一行が王舎城から祗園精舎への旅の途中、ある精舎に泊まったときのことです。翌朝早くお目ざめになったお釈迦さまは、庭の一本の木の下で夜を明かしたらしい舎利弗をみつけられました。「なぜそんな所にいるのか」とお尋ねになりますと「昨夜は宿坊がいっぱいでございましたので」との答えです。若い比丘たちがわれ先にと部屋を占領してしまったのです。最長老の一人ですから、一声で部屋を空けさせることもできたのですが、舎利弗はそれをしなかったのです。その人格の崇高さにはただもう頭が下がります。  人間、有頂天になればそれで行き止まりです。方便品の説法を聞かずに退席して行った五千人がそれです。また、信仰上のことだけでなく、「平氏にあらずんば人にあらず」とうそぶいた平氏一門もそれです。頂点を極めて間もなく平家は転落の一途をたどり、ついに滅んでしまいました。  ともあれ、「智慧第一」の舎利弗が「終日竟夜毎に自ら剋責」したことを、われわれも時に応じて思い出したいものであります。                                                         ...

法華三部経の要点27

信仰の種子は前世に播かれた

1 ...法華三部経の要点 ◇◇27 立正佼成会会長 庭野日敬 信仰の種子は前世に播かれた 人との出会いは宿縁による  前回に、舎利弗の求道の苦悩と、ついに至上の法を得た喜びの告白について述べましたが、それをお聞きになったお釈迦さまは驚くべきことを言い出されました。「舎利弗よ。わたしは長い前世においてもそなたを教化しつづけてきました。そして仏の悟りを求めるように指導してきたのです。そなたはそれをすっかり忘れ、現世においてわたしの弟子になっても、ただ自身の解脱のみを願って修行していたのです。わたしは今、仏の本願によってそなたが過去世に行じたことを思い出させるためにこの法華経を説くのです」とのおおせです。  これは、われわれ後世の信仰者にとっても非常に大事なことですから、ここでじっくり考えておきましょう。  お釈迦さまのこのお言葉には、二つの真実がこめられていると思われます。  第一は、現世における人と人との出会いは、けっして偶然ではなく、前世の宿縁によるものだということです。  こんな例があります。天台大師が若いころ慧思禅師という高僧に学ぼうとして訪ねて行ったとき、慧思禅師は、  「おう。懐かしい。そなたとは前世に霊鷲山において共に法華経を聞いた。その宿縁によって今またわたしの所へやってきたのだ」と喜んだそうです。  つまり、この世で師弟となったり、友人となったり、夫婦となったりするということは、前世からの深い因縁の糸に結ばれているのだということです。ですから、そのような人との縁はけっしておろそかにできないものなのであります。 いま法華経を学ぶわれらは  第二に、この世におけるわれわれ人間の心というものは、その大部分は父母・兄弟その他の環境によって培われたものですが、その心の本質の部分は、やはり前世における経験や修行によって育てられているのだということが、このお釈迦さまのお言葉から察することができます。  たとえば、宗教のことなどにぜんぜん耳をかさない人があります。神社やお寺の前を通っても素知らぬ顔です。それに対して、道端の野の仏を見ても手を合わさずにはおられない人もあります。その違いはどこから来たのでしょうか。言わずともおわかりでしょう。  ましてや、仏教書を買って読もうとか、説法を聞きに行こうかとか、あるいは信仰者の仲間に入ってみようかとか思う人は、よくよく仏さまの教えに縁の深い人なのです。  わたし自身の幼時をふりかえってみても、朝は必ず神棚を拝んでから学校へ行きましたし、学校への途中にある諏訪神社や子安観音さまの前を通るときも、大日如来と刻まれた石碑の前を通るときも、必ずおじぎをして通りました。それで、村の人たちからは「あれはおかしな子だよ」といわれたものです。  ひとつには、校長先生の「人には親切にしなさい」「神さま仏さまを拝みなさい」という教えを素直に守ったせいもありましょうが、わたしの兄弟や他の生徒たちがいっこうにしようとしないことをわたしだけがしたというのは、やはり何か前世からの宿縁があったのだろうと、今になってつくづくと思われます。  とりわけ、いま法華経を学ぶわれわれは前世においても法華経を聞き、修行したのであるということをお釈迦さまのお言葉によって知るとき、たとえようのない深い感慨を覚えざるをえません。                                                        ...

法華三部経の要点28

ひとの仏性を見ることの大切さ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇28 立正佼成会会長 庭野日敬 ひとの仏性を見ることの大切さ 誰でも「仏」を内在している  「法華経は授記経である」といわれています。授記というのはお釈迦さまが「そなたは将来かならず仏になることができる」という保証を与えられることです。その授記を法華経の中で受けた第一号が、譬諭品における舎利弗です。すなわち、「舎利弗、汝未来世に於て無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし」とおおせられています。  これは譬諭品だけでなく法華経全体の要点中の要点ですから、ここでよくよく吟味しておきましょう。  ここに、仏となる三つの条件が述べられています。(一)多くの仏さまに遇(あ)いたてまつって供養申し上げること。(二)正法をしっかり守ること。(三)菩薩行を実践すること。この三つです。  まず(一)の条件ですが、これを、お釈迦さまのような仏さまに千万億人もお遇いすることと受け取れば、何百遍生まれ変わろうとも不可能だと思われます。  ところが、人間という人間すべて久遠実成の仏さまの実の子なのですから、表面の姿はどうあろうともみんな必ず仏としての性質、すなわち仏性を持っているのです。ですから、その一人一人の仏性を、一人一人の仏と考えればいいのです。  そして、日常の暮らしの上で出会うすべての人の本質である仏性を見つめ、それを拝むように心がければ、それがとりもなおさず仏さまを供養することになります。したがって、一日に十人の人に出会うならば、十人の仏さまに遇いたてまつることになるわけです。  第一の条件をこのように受け取れば、千万億の仏に遇いたてまつることもあながち不可能事ではないことがわかり、うつぼつたる勇気がわいてくるではありませんか。 この理想は現実につながる  (二)の「正法を奉持し」ですが、仏教ではいろいろな正法を説いており、そのすべてを持(たも)たねばならないと思えば、これまた凡夫にとっては不可能だとさじを投げたくなりましょう。ですから、これを仏教のギリギリの根本法である「縁起」に絞ればいいのではないかと思うのです。すなわち、この世の万物万象はすべて他との持ちつ持たれつの関係の上に成立しているという真理です。この真理をつねに頭において、他の人を大切にし、自然をそこなわず、すべてのものとの調和を心がけておれば、そうした生き方がひとりでに仏に近づいていくわけです。  (三)の菩薩行ですが、これは「縁起(もしくは諸法無我)」という真理を実践に現す行為です。すなわち、あらゆる面においてひとを幸せにする行為を積極的に行うことです。いわゆる布施行です。中でもとくに大事なのは、人を本質的な意味において幸せにする法施でしょう。物質的な布施はおおむね一時的な効果しかありませんが、積極的な布施である法施(仏法を説くだけでなく、人を仏道に導くことも)は、永久にその人を幸せにする次元の高い行為であって、これが最高の菩薩行であります。  こう考えてきますと、仏(目覚めた人)になるということは、われわれ凡夫にとって及びもつかぬことではないことがわかってきましょう。  法華経はすべての人間が仏になることを理想としてかかげているわけですが、それはけっして夢のようなことではありません。右の三つの条件に一歩でも近づく人がこの世に増えてくればくるほど、確実にこの世界が平和に、幸せになってくることは間違いないからです。その意味で、法華経はまったく現実的な教えなのです。                                                                      ...

法華三部経の要点29

古びた屋敷とは今日の地球か

1 ...法華三部経の要点 ◇◇29 立正佼成会会長 庭野日敬 古びた屋敷とは今日の地球か 心も手入れをしなければ  法華経は文学性においてもあらゆる仏教経典中の随一といわれていますが、中でも譬諭品『三車火宅の譬え』の偈は二十八品中の圧巻でありましょう。その冒頭にこう述べられています。  「ここに長者があって、大きな屋敷をもっていたとしましょう。その家はたいへんに古び、こわれかかっていました。建物は高くそびえてはいますが、柱の根は砕け腐り、梁(はり)や棟は傾きゆがみ、石段は崩れ、垣根や壁は破れ、壁土やしっくいは剥(は)げ、屋根をふいた苫(とま)も乱れ落ち、垂木(たるき)や庇(ひさし)は抜けかかり、屋敷のまわりの土塀は曲がりくねっていました」  これは末世の人間の心のありさまを描写したものです。家屋敷は、住んでいる人が手まめに掃除したり手入れしたりしておれば、古くなってもそれなりの風格を保っているものです。世界でいちばん古い木造建築である法隆寺の、あの底光りのするような美しさがそのことをよく物語っています。  ところが、住んでいる人が掃除や手入れを怠っていますと、当然この文章にあるように荒れ果ててしまいます。人間の心も同様です。ですから、絶えず正しい教えを聞いたり読んだりして、それを日々のくらしの上に実践し、過ちや至らないところがあったらそれを反省して、コマメに掃除や手入れをすることが絶対必要なのです。 一般人の自覚と行動こそ  そうした心の荒廃ばかりでなく、実際にわれわれが住んでいるこの地球が、二十世紀末の今日、この文章にえがかれているように荒れたものになりつつあるのではないでしょうか。法華経は五五百歳後の世への警告の経典だという説もありますが、その説が当たっているふしも大いにあるように思われます。  「建物は高くそびえてはいるが」というのは、文明というものが高く大きく発達したことを象徴していると考えていいでしょう。しかし、残念ながらその土台は腐っているのです。いわゆる文明のおかげで、人類は「より早く」「より楽に」「より大量に」交通したり、生活したり、生産したりできるようになりました。ところが、そのような生き方は、半面、大気・水体系の汚染や、地球の温室化や、酸性雨による森林の立ち枯れや、化学肥料による土壌のやせ細りや、砂漠化の進行など、人類の運命そのものにかかわる恐ろしい事態を引き起こしつつあります。  一部の心ある人びとはそうした事態に危機を痛感して何とか打開の道を講じようとしていますが、大部分の人びとは相変わらず「より早く」「より楽に」「より大量に」の生き方を当然のように享受しているのです。あたかも古びた大きな屋敷の中で遊び戯れている子どもたちのように。このままではいつ「大火(決定的な事態)」が起こって人類自滅ということにもなりかねません。  もちろん、進歩に進歩を重ねる科学技術も、国の政治も、国際機関も、けんめいにそうした危機防止の手段を考究しているでしょう。しかし、人類の大部分を占める一般人に、そうした自覚と、反省と、少欲知足の生き方への転換がなければ、この滔々(とうとう)たる大勢を食い止めることは不可能でしょう。さきごろテンプルトン賞を受賞されたヴァイツゼッカー博士も「(過去の歴史においても)まったく禁欲しない社会は数世代で滅びてしまった。最低限の禁欲、富の放棄ということは、文化の安定性に絶対に必要である」と語っておられました。  火宅の中の子どもたちも、自ら門外に走り出ることによって救われました。この教訓を二十世紀末のわれわれも、腹の底にしっかりと受けとめなければならないのではないでしょうか。   ...

法華三部経の要点30

火宅の動物たちは人間の煩悩

1 ...法華三部経の要点 ◇◇30 立正佼成会会長 庭野日敬 火宅の動物たちは人間の煩悩 高慢・怒り・愚かさ  譬諭品の『三車火宅の譬え』には、さまざまな動物の生態にことよせて、人間の煩悩の醜さ、汚さ、いやらしさが、これでもかこれでもかといわんばかりに描かれています。読んでいて胸がわるくなる思いがします。しかし、そんな思いがそのまま反省のよすがとなり、懺悔のきっかけになるのですから、性根を据えて読まねばなりますまい。  さて、古びて崩れかかった大きな屋敷の上をわがもの顔に飛びまわっているクマタカやカラスやワシなどの鳥は「慢」の象徴です。高い所から他を見くだしている高慢な心です。他の生物が地上をはいまわっているのに対して、自分は空中を自由自在に飛びまわっているのですから、よほど自省しないかぎりこのような驕(おご)りが生じやすいのです。いま世界一の経済力を誇る日本人には、このような驕りが生じつつあるのではないでしょうか。  つぎに、マムシやサソリやムカデなどが住みついているとあります。これらは他を刺したりかんだりして害を与える毒虫で、「瞋(しん)」すなわち「わがままな怒り」を象徴しています。自己中心の心から起こる怒りは、個々の人間関係をそこなうばかりでなく、それが民族的な「瞋」となると、長いあいだ中東あたりにくすぶりつづけているような戦争や紛争の元凶となるのです。「怒り」が慢性化すると「恨み」に変化するから恐ろしいのです。  また、イタチやタヌキやネズミなどが横行しています。これらは夜行性の動物で、智慧の光をきらい、やみにうごめく愚かな心「痴」を象徴しています。これらの動物に譬えられる人は、いちおうは利口なんです。利口は利口でもいわゆる小利口であって、コソコソした世渡りは上手だけれども、天地の理にかなった大きな智慧に欠けているために、たとえば一時の利益のためにやった贈収賄などが白日のもとにさらされると、小利口がじつは「痴」にすぎなかったことが露呈されることになります。心すべきことでしょう。 すべての苦しみは貪欲から  不浄物がいっぱい流れており、その上にクリムシの類がたかっている汚らしい光景がえがかれています。このクリムシは何を象徴しているかといえば「疑」の心です。心性の下劣な人は、えてしてうさんくさい物事にかかわり合うものです。したがって、何事にもまず疑ってかかります。こうして「疑う」のが心の習慣になりますと、心性はいよいよ下劣になっていくのです。  ですから、人間にとっていちばん大切なのは、いつも言うことですが、正直ということなんです。正直というのは何も難しいことではない。あたりまえのことを話し、あたりまえの行いをすればいいのです。多くの人がそうなれば、当然「疑」は人びとの心からしだいに消えてゆき、人と人との間に美しい信頼関係が生じてきます。そうなってこそ世の中はほんとうに寂光土化されるのです。  つぎに、いろいろなケモノが食をあさっていがみ合うあさましい姿がえがかれています。これは凡夫の心「貪欲」の象徴です。欲望というものは「生存」そのものと密着しているものであって、全面否定はできません。しかし、それが必要に応じたほどほどのものであり、そのほどほどに満足しておれば問題はないのですが、ともすれば「もっと、もっと」と限りなく肥大させがちです。それを貪欲というのです。  「もっと、もっと」と限りなく肥大しつづける貪欲が完全に満足されることはありえません。だから、そんな人はいつも欲求不満で心がイライラするばかりでなく、それによって病気を引き起こしたり、人間関係をそこなったり、犯罪に走ったり、いいことは少しもありません。まさにこの偈(げ)の中に喝破してあるように「諸苦の所因は貪欲これ本なり」なのであります。                                                       ...

法華三部経の要点31

人類がほんとうに救われるには

1 ...法華三部経の要点 ◇◇31 立正佼成会会長 庭野日敬 人類がほんとうに救われるには 人間性の立て直しこそが鍵  ハーバード大学のソローキン教授はその名著『人間性の再建』の中でこう言っておられます。  「世界永遠の平和のためには、人間性を立て直さなければならない」  まさにそのとおりだと思います。いま世界先進国の首脳たちによって核兵器の削減や、貿易の自由化や、開発途上国への援助等々について毎年のように話し合いが持たれています。たいへん喜ばしいことだと思います。  しかし、よくよく考えてみますと、そういった「物」や「金」についての相談や約束がいくらできても、肝心の「人間の心」が変わらないかぎり、権力のせめぎ合いや、富の奪い合いなどがやむことはなく、したがってこの地球上から暴力・殺りく・貧困・飢餓という不幸が消え去ることはないでしょう。  ですから、世界永遠の平和の根本方策はまさしく「心の立て直し」しかなく、それを遂行してこそ人間みんなが幸せになれるのです。 聞き、考え、実践する  法華経は、全巻その「心の立て直し」の教えにほかならないのですが、譬諭品の「三車火宅」の譬えにはその方策が最も端的に、そしてまとまった形で示されているのです。  衆生を火の家から脱出させるために、仏さまは「門の外に羊車・鹿車・牛車があるからそれに乗って遊びなさい」と誘いをかけられます。それはつまり「物や金や快楽だけにドップリ漬かっていないで、精神の喜びにも目を向けなさい」という誘いにほかなりません。  羊車というのは声聞の境地、鹿車というのは縁覚の境地、牛車というのは菩薩の境地なのですが、それだけ聞いたのでは現実離れがしているようで、現代人にとってはなじめないものと思われましょう。  そうではないのです。声聞というのは、いい本を読んだり、いい話を聞いたりすることなのです。そして、「なるほど」と理解する。感動する。その理解と感動が声聞の境地なのです。  縁覚というのは、つまり「考えてみる」ことにほかなりません。最近の多くの人たちは氾濫(はんらん)する情報の洪水に押し流されて、自分の頭脳・自分の心で「考える」ことをあまりしなくなっています。どんなにいい本を読み、いい話を聞いても、それについて自分なりに考えをめぐらしてみなければ、けっして「自分のもの」として定着せず、一過性の、ただの情報として右の耳から左の耳へと通過するだけに終わりかねません。  瞑想(めいそう)とか思索とかいえばいかにも高踏的(こうとうてき)で普通の人間にはできそうにないと感じる人があるかもしれませんが、なにもそう難しく考えることはありません。まず、「これはいったいどんなことかな」と考えてみればいいのです。考えてみて「うーん、そうか」と魂に響くものを覚えたら、それが縁覚の境地であり、それだけ精神的により高くなったわけなのです。  菩薩というのは、声聞の境地も縁覚の境地も兼ねそなえているうえに、「多くの人々との連帯」を考える境地です。ただ考えるだけでなくそれを実践に移す。実行する。それが菩薩の境地です。  ですから、声聞といい、縁覚といい、菩薩といっても、けっして現実から遊離したものではありません。人間の心を改造し、人間性の立て直しをするための、順序・次第を踏んだ着実な道程なのです。そして、われわれ一人一人が自らその道程を歩まなければ、人間としてのほんとうの幸福に達することはできず、世界永遠の平和も達成することは不可能なのです。  譬諭品のここのくだりは、そのように受け取らねばならないのであります。                                                       ...

法華三部経の要点32

この三界は我が有である

1 ...法華三部経の要点 ◇◇32 立正佼成会会長 庭野日敬 この三界は我が有である 宇宙と一体になられた釈尊  譬諭品の最大の要点は、というよりは法華経全巻の要点、いや全仏教経典の中で最も尊くありがたいお言葉、それは左の一句でありましょう。  「今此の三界は皆是れ我が有(う)なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難(げんなん)多し。唯我一人のみ能く救護(くご)を為す」  この宇宙はすべてわたしのものだ。その中の生きとし生けるものはすべてわたしの子だ。この世(宇宙)にはさまざまな苦しみや悩みが充(み)ち満ちている。それを救うのはわたし一人しかいないのだ……とおおせらているのです。  この「宇宙はわがもの」というのは、ふつうに考えられるような「わたしが所有するものだ」というのではありません。「わたしは宇宙そのものだ」と、お釈迦さまは自覚されておられるのです。「我(が)」というものがまったくなく、そのためにご自分が宇宙全体と完全に一体になっておられるのです。  元禄時代の名僧盤珪(ばんけい)禅師は、この「三界は我が有」ということを、きわめてやさしいことばで次のように解説しておられます。  「心に何もなきときは、どこへでも固うならずにおられる。それが自在じゃ。自ら在るのじゃ。心に一物(注・一物とは「我」のこと)もなきときは、わが家で自在であるのみならず、どこへいっても、遠慮せずに、自在じゃ。お釈迦さまは心に一物も持っておられなんだによって、三界はわがものと、世の中の主(あるじ)になられたのじゃ。どこでも自由に寝起きされたのじゃ」  まことに名解説だと思います。われわれ凡夫はお釈迦さまほどの徹底した「無我」にはなれないでしょうが、たまには夜空に輝く無数の星を眺めて無限の思いにひたったりした時、あるいは、ひとりの悩める人を幸せにしてあげたいと真剣に取り組んでいる時、ふと、そういう自分を顧みたりすれば、いつしか「我」が薄れていくのを実感することができましょう。そのひとときの自由自在な気持ちが、どれぐらいわれわれの人生を快いものにするか測り知れないものがあると思います。 大慈悲と責任感と自信と  さて、宇宙がわがものであれば、その中に住む生きとし生けるものはすべてわが子であります。お釈迦さまはそのことを心の底から実感しておられたからこそ、苦しみ悩んでいる者には救いの手をさしのべずにはおられなかったのです。それが仏の大慈悲にほかなりません。  それにしても「一切衆生を救うのはわたしだけしかいないのだ」というお言葉は、聞きようによっては思い上がった、ひとりよがりの考えのように受け取れるかもしれません。  けっしてそうではないのです。これは大きな責任感の表白なのです。「わたしがやらなければだれがやるのだ」という、やむにやまれぬ責任感からのお言葉なのです。  仏とは、宇宙と人生の真理にめざめた人のことです。最も深く、最も明らかにめざめた人です。そのような人は歴史上お釈迦さまよりほかになかったのです。だから、この「唯我一人のみ能く救護を為す」というのは、大いなる責任感と同時に、大いなる自信から発せられたお言葉なのです。「わたしにはできる力があるのだ」という大自信の表白でもあるのです。  お釈迦さまよりほかに、だれがこれほどの大慈悲と、責任感と、自信を持ちえた人がありましょうか。  われわれは人間の歴史始まって以来の、そうした第一人者の教えを学んでいるのです。受持し、信仰しているのです。われわれこそはこの世でいちばんの幸せ者といわなければなりません。日蓮聖人が譬諭品のこの一節から、「主・師・親の三徳」を説かれたり、白隠禅師が同じここのくだりを読んだとき思わず声をあげて号泣したというのも、その無上のありがたさにむせんだのでありましょう。 ...

法華三部経の要点33

信仰心は人間の本質

1 ...法華三部経の要点 ◇◇33 立正佼成会会長 庭野日敬 信仰心は人間の本質 宗教への目覚めこそ  信解品に入ります。この品は、前の譬諭品で舎利弗に仏となる保証を与えられたことに感激した同じ声聞仲間が申し上げた『長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え』が中心となっています。  大富豪の実子であった窮子は、幼いときに父の家からさまよい出て諸国を放浪する身となりました。大富豪とは久遠実成の本仏さまのことであり、窮子とはわれわれ衆生のことです。  われわれの大部分は、本仏さまの実子であるという真実を知らず、ただ物的な欲望のおもむくままに、その本来の自分にふさわしくない生活を送ります。それが「父の家からさまよい出て諸国を放浪する」ということの意味にほかなりません。  しかし、そうした生活を送っているうちにも、いつとはなく故郷の家に引かれる思いが生じ、放浪の足も自然とふるさとのほうへ向いて行くのでした。  ここのところがじつに尊いことではないですか。われわれは宇宙の大生命ともいうべき本仏さまの子であることをぜんぜん知らなくても、ある年齢に達すると、なんとなく本仏さまのような見えざる存在に心を引かれるようになってくるものです。わかりやすくいえば、宗教への目覚めであります。信仰心のきざしであります。この目覚め、このきざしを逃(のが)さぬ人こそがほんとうに救われる人なのです。なぜなら、その目覚めこそが人間の本質である仏性の目覚めなのですから。 黙して之を識る  この物語の窮子は、それとも知らず父の邸宅の門前にさしかかりました。奥のほうを見ますと、おおぜいの侍者に囲まれた見るからに尊げな長者がおられます。あまりにも豪勢なその様子に恐れをなした窮子は「とてもこんな邸(やしき)で雇ってもらえるはずがない」と思って、すぐ立ち去って行きました。奥のほうからその姿を見ていた長者は、ひと目でそれが長年探していた自分の子であることを知りました。経文には「黙して之を識(し)る」とあります。  この一句に本仏さまの慈悲の広大無辺さがしみじみと表現されているのです。久遠の本仏さまは、この宇宙のあらゆる所に充ち満ち、あらゆる生あるものを見守っておられます。すべての生あるものがご自分の実子であることをちゃんと知っておられるのです。それが「黙して之を識る」です。  大乗仏教では、言葉を尽くしてそのことをこんこんと教えているのですけれども、説かれる仏の世界があまりにも高遠なのでたいていの人が「とうてい自分たちの及びうる世界ではない」と考えて、ついついその教えから遠ざかって行くのです。布教者にとってこれは非常に大切なポイントで、この信解品にもその対策が述べられていますので、次回にそのことについて解説することにしましょう。  さて、われわれ凡夫がどこへ立ち去って行こうとも、久遠の本仏さまは相変わらずわれわれのそばにおられるのです。わが子として温かく見守っていてくださるのです。  われわれは早くそのことに気づかなくてはなりません。気がつけば、それまで本仏さまのほうからわれわれを「識る」という一方通行だったのが、今度はわれわれのほうからも仏さまを「識る」ことになり、そこにいわゆる「感応道交(かんのうどうきょう)」という宗教や信仰ならではの妙境が生まれるのであります。  信解品の窮子は、その妙境に達するのに二十年かかりました。しかし、二十年かかろうとも、それこそが人間としての最大の幸福であり、人間として生まれた最高の意義であると知るべきでありましょう。                                                        ...

法華三部経の要点34

法華経は最微者をも見捨てない

1 ...法華三部経の要点 ◇◇34 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経は最微者をも見捨てない 「賃金は倍もらえるぞ」  前回に書いたように、父の長者の大邸宅の門前に来ていながら窮子はそこを立ち去って行きました。経文には「如(し)かじ貧里に往至して、肆力(しりき)地(ところ)あって衣食得易からんには」とありますが、つまり「自分は貧しい環境の所に住むのが気楽だし、賃仕事ももらい易いだろう」ということです。  これも大切な要点です。長い年月のあいだ物的な欲望のみを追ってその日暮らしをしていますと、精神を高めるとか、人格の向上とかいったむずかしいことはどうでもいい、そんなことは自分にふさわしくない、と思うようになります。「如かじ貧里に往至して云々」というのは、そういう凡夫の心理をじつによくうがっています。  長者は使いの者をやって窮子を連れて来させようとしましたが、窮子は父の心も知らず、恐ろしさのあまり気を失ってしまいます。父はそれでもあきらめず、子が逃げ去って住んでいる貧しい街に汚い服装をした使いを出し、「いい仕事がある。賃金は普通の倍もらえるぞ」と誘いをかけさせます。  ここも非常に大事なところです。精神世界のすばらしさなどになんらの関心もない人に、いきなり宗教や信仰のよさを理論的に説いてみたところで、なかなかその人の心は動きません。それどころか、ますますそういった世界に背を向けるようにもなりかねません。そこで、相手が現在いる所まで降りて行って(汚い服装をして)、その上「賃金は倍もらえるぞ」と、現実の利益でもって誘うのです。 弱い愚かな人間にも救いを  よく「現世利益(りやく)で信仰に誘うのは不純である」と説きます。たしかに純粋な信仰のあり方からすれば、そうでしょう。しかし、それがその人を真の信仰へ導くキッカケになるならば、それは大いに意義あることなのです。  どのような世界的な宗教といえども、現世利益とまったく無縁であることはありませんでした。その奥底にはりっぱな哲学や世界観があったとしても、表面的には現世利益によって信者が増えていったことはまぎれもない事実です。  たとえばイエス・キリストも、患者の頭を撫(な)でられただけで病気を治したり、足の不自由な人に「立って歩め」という一言で即座に歩くことができるようにされたことが聖書に明記されています。  お釈迦さまも、伝道の手始めに、優楼頻羅迦葉(うるびんらかしょう)という拝火教の教主の家にわざわざ泊まりに行き、神通力によって火堂の中の毒蛇を手なずけることによって、たちまち千五百人の信者を獲得された……と仏伝にあります。  今日の世界的な宗教においては、もちろん、教祖や聖者の人格に引きつけられた人もありましょうし、教えのすばらしさに傾倒した人もありましょうけれども、ごく普通の大衆はその教祖や聖者の持つ不可思議な力に魅せられて後について行ったことも、否定できない事実です。  法華経は、「仏と成る」という究極の理想をかかげながらも、弱い人間、愚かな人間をけっして見捨てはしない。どんな人間にも救われの道をひらいている。そこが法華経のありがたさです。それが「賃金は倍もらえるぞ」の一語に象徴されているのです。  ですから、昭和初期における最も行動的なキリスト者であった賀川豊彦師もその著『生活としての宗教』の中にこう書いておられます。「最微者(最も弱小な凡夫)に対する跪拝(きはい)!  その心持ちでゆく人が法華経行者の最大のものであることを知って、私は自分が必ずしも法華経の道に背いているものではないことを知った」と。  わたしはけっして現世利益を説くことだけを勧めているのではありません。ただ、凡夫の心理というものをおろそかにせず、「いかにしたら正しい救われの道へ導いてあげられるか」ということを、いつも考えていくことが大切であるということを言いたいのです。          ...

法華三部経の要点35

神仏は信仰者を飢えさせない

1 ...法華三部経の要点 ◇◇35 立正佼成会会長 庭野日敬 神仏は信仰者を飢えさせない 仏は凡夫の域まで降り給う  窮子に与えられた仕事は便所などを掃除することでした。窮子はどんな汚い仕事でも素直にやっていました。長者は自分も汚いなりをし、手には糞を取る器を持つことによって窮子に親近感を抱かせながらそばに行き、「おまえは食うに困っているというじゃないか。だが、ここにおれば大丈夫だよ。賃金もあげてやろうし、米でも、塩でも、暮らしに必要なものを何でもあげるから安心して働きなさい」と言ってくれるのでした。  これも信解品の大事な要点です。仏さまといえば、目には見えないけれど、ただもう尊厳な聖なる存在として、近寄り難い気持ちを起こす人もありましょう。  しかし、そんな気持ちでいたのでは救いは生じません。仏さまと凡夫との間に、波長が合致するといいますか、響き合い、通じ合うものがあってこそ、救いは生ずるのです。  凡夫には心に自由自在さがありませんが、仏さまはすべてにおいて自由自在ですから、まず仏さまのほうから凡夫の所まで降りて来てくださるのです。長者がわざと汚いなりをして窮子に近づいて行ったというのはそのことなのです。久遠実成の本仏が釈迦牟尼世尊という肉体を持つ人間としてこの濁った世の中に出現されたのも、観世音菩薩が三十三種の人間の身をもって普門示現されるのも、やはりそうなのです。  このことは、われわれに二つのことを教えます。  第一は、「この世で出会うさまざまな人の中に、そうした仏や菩薩の化身を見いだす」ということです。そういった人の一言一行の中から救いの種子を感じ取ることが救われの道だということです。  第二は、「われわれ法華経の行者(布教者)はけっしてお高くとまってはいけない」ということです。いくら自分が高い境地にいようと、相手の境地にふさわしい所まで降りて行って心を溶け合わせることが大切だということです。これを「和光同塵(わこうどうじん)=自分の身の光をやわらげ、世俗の塵に同化する)」といって、菩薩行をなす者にとって忘れてはならない心得なのであります。 道心の中に衣食あり  ここのくだりにもう一つ大切な要点があります。それは「暮らしに必要な物は何でもあげるから安心して働きなさい」という言葉です。  よく「信仰活動に打ち込んでいると家業がおろそかになって食うに困りはしないか」と心配する人があります。無理もない心配ですけども、それはきわめて狭い考えです。  正しい信仰に生き、正しい信仰活動をしている人は、つまるところ久遠実成の本仏の教えそのものに順応しているわけですから、仏さまがその人を見殺しにするはずはないのです。むかしの中国の名言に「天道人を殺さず」というのがあります。イエス・キリストも、「なにを食らい、なにを飲まんと思い煩い、なにを着んと、からだのことを思い煩うな。(中略)まず神の国と神の義を求めよ。さらばすべてこれらの物は、なんじらに加えられるであろう」(マタイ伝六・二五―三四)と言っておられます。神に奉仕する者を神が飢えしめるはずはないというのです。  仏教においても、伝教大師は「道心の中に衣食(えじき)あり」と言っておられます。真剣に仏道を求める人には必要な衣食住は自然と備わってくるというのです。  この『長者窮子の譬え』で、長者が「生活に必要な物は何でもあげるから安心して働きなさい」と言ったのも、そうした意味なのであります。 ...

法華三部経の要点36

自分は宇宙の歯車の一つである

1 ...法華三部経の要点 ◇◇36 立正佼成会会長 庭野日敬 自分は宇宙の歯車の一つである 地味でたゆみない修行が  ここでちょっとお断りしておきたいことがあります。法華経は、つまるところは大衆の救いのためのものでありますが、なにしろ二千年も前のインドで、大乗の菩薩としての自覚にたった出家修行者が中心となって編集された「信仰の書」ですので、その大衆には、優婆塞、優婆夷という在家も含まれてはいますが、当面の救いの対象は、声聞とか縁覚とかいう出家修行者だったのです。そして、その大衆も仏と成る大道の上にあるのだというのが法華経迹門(しゃくもん)の根本思想だったのです。  ですから、この信解品においても、例えば声聞である須菩提や迦旃延らが「わたくしどもは自分が解脱したことで満足し、それ以上のことを求めませんでした」とサンゲしたことも要点には違いないのですけれども、それは出家修行者としての反省であって、われわれ在家の信仰者とはちょっと次元が違います。  この要点シリーズは、あくまでも現代に生きる在家のためのものですから、右のような出家修行者のための要点はなるべく取り上げないことにしています。その点をご承知おきください。  さて、信解品の『長者窮子の譬え』の窮子は、長者(仏)から命ぜられるままにどんな仕事もいやがらず、根気よく、コツコツと遂行していました。人のいやがるようなところの掃除だけでも二十年もやっていたのです。そこを見込まれてだんだん重要な仕事を任せられ、ついには総支配人といった立場に昇格したのでした。  それでも私欲などを起こさず、地味に、忠実に働いていました。ところが、長者が死を迎えようとするとき、内外の人々を呼び集めて――じつは、これはわたしの実子だったのだ――と打ち明け、その全財産を窮子に相続させたのでした。  そのとき窮子は心の中で「今此の宝蔵、自然(じねん)にして至りぬ」とつぶやきました。つまり「長者さまの言いつけどおりに働いているうちに、この大きな財産がひとりでに自分のものになった」という喜びの歎息なのです。この「自然にして」というのがこの品の要点の一つです。 仏の眼から見れば一切平等  どんな仕事でも、社会がそれを必要としているという点においては平等なのです。もっと大きな眼――仏さまの眼と言ってもいいし、宇宙の眼と言ってもいい――から見れば、仕事の相違とか地位の上下などは無いに等しいのであって、一切は平等なのです。  ですから、自分の地位に劣等感を覚えている人は、眼を大きく放って宇宙全体を見渡し、その中の自分をみつめてみるといいのです。  よく「自分は単なる歯車の歯の一つに過ぎない」と卑下する人がありますが、歯の一つでも尊いものではありませんか。あなたという歯があればこそ歯車全体が成り立っているのですよ。そういったより積極的な意味で「自分は宇宙の歯車の歯の一つなのだ」という自覚を持ってください。そうすれば、劣等感などはたちまち吹っ飛んでしまうでしょう。  森林太郎は三十六歳の若さで陸軍軍医学校長に任ぜられるほどの逸材でしたが、とつぜん九州・小倉の第十二師団軍医部長に左遷されました。失意のあまり辞職さえ考えたのですが、気を取り直し、閑職で余暇の多いのを利用してドイツ語の勉強に励みました。その結果生まれたのが不朽の名訳『即興詩人』だったのです。それがキッカケで、文豪森鴎外が生まれたわけです。むろん軍医としての職務にも忠実に励みましたので、のちに軍医総監という最高の地位に上りました。  何事にしても、逆境や不遇にめげず、地味にコツコツと修行することが最後にはものをいうのです。 ...

法華三部経の要点37

根があってこそ枝葉も繁る

1 ...法華三部経の要点 ◇◇37 立正佼成会会長 庭野日敬 根があってこそ枝葉も繁る 薬草諭品の大意  薬草諭品に入りましょう。この章の大意は、――久遠実成の仏さまがすべての生あるものに注がれる「慈悲」はあくまでも平等であるが、それを受ける衆生はその個性によってさまざまな受け取り方をする――ということです。別な角度から見れば、この世のものごとには「平等相」と「差別相」の両面があるという哲理が述べられているのです。  その中心になるのが『三草二木の譬え』です。「迦葉よ。たとえていえば、この世界中の山や、谷間や、平野に生えている小さな木や、大きな木や、いろいろな草や薬草などは、種類がさまざまで、名前も形もそれぞれに違っている。それらの上に降って来る雨は一相一味であって、どの木にもどの草にも平等に降り注ぐ。しかし、その雨を受けるほうは、草木の大小や種類によって受け取り方が違うのである。それぞれの草木の性質に応じて、根・茎・枝・葉が違った形で生長し、思い思いの花をひらき、思い思いの実を結ぶのである」とあります。 信・戒・定・慧の四要素を  まず、この「根・茎・枝・葉」ということから考えていってみましょう。  これは信仰の不可欠の条件である、「信」「戒」「定(じょう)」「慧(え)」を象徴しているのです。  草木にとっていちばん大切なのは根です。根がなければ茎も枝葉も出ません。その根が「信」なのです。  「信」があってこそ「戒」も守れます。在家信仰者に示された五戒の、ムダな殺生をしてはいけないとか、ウソをついてはいけない等々の「戒」も、ともすればその場その時の自分の都合によってつい破ってしまうのが凡夫の常です。ところが、仏さまを信じ、いつでも自分を見守ってくださっているのだと信じていると、どうしてもそういった「戒」を守らざるをえないのです。畏(おそ)れる心からです。  「戒」を守っておれば、おのずから心が安定します。仏さまのみ心と自分の心と波長が合致するからです。従って「定(精神が統一して乱れない境地)」にも自然と入っていけるのです。  「定」の境地に入って初めてほんとうの「慧」を得ることができます。「慧」というのは一切のものごとの真のすがたを見きわめる智慧のことです。  ここまで来ればもはや「人生の達人」と言ってもいい素晴らしい人となれるわけですが、それも元をただせば「信」という根があってこそのことです。これが宗教のいのちです。宗教の存在価値です。宗教が一般の倫理・道徳と違うエネルギーを持っている理由はこの一点にあるのです。  この根・茎・枝・葉という順序を逆に考えていってみますと、いくら根が丈夫でも、あるべき枝葉が落ちたり、茎が切られたりしたら、ついには根も腐ってしまいます。それと同じで、ほんとうの「慧」がなかったら、「信」も間違った信、すなわち迷信になってしまいます。  また、「定」がなかったら、信仰に疑惑を生じてフラフラと迷いに陥り、不幸への道へ転落する結果になります。  また「戒」を守らずに暮らしていれば、「信仰なんていらない」といった気持ちが生じ、いつしか久遠の仏さまの慈悲に背を向ける生きざまに堕落してしまいましょう。そういう生きざまがどんな結果になるかは、火を見るよりも明らかなことです。  このように、「信」「戒」「定」「慧」の四つはいつもしっかりとつながって共存していなければならないもので、どれひとつ欠けても完全ではなく、信仰はスクスクと育ってはいかないのです。このことを、ここのくだりからくみ取らねばなりません。    ...

法華三部経の要点38

信ずる人こそ救われる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇38 立正佼成会会長 庭野日敬 信ずる人こそ救われる 日常生活も信で成り立つ  薬草諭品のギリギリの要点は、久遠の仏さまの大慈悲はあらゆる衆生に平等にそそがれているのだということです。そう聞かされてもなかなか信じられない人があるかもしれません。そんな人は、救いのレールに乗りきれない気の毒な人です。前回に「信」こそが宗教の「根」であることについて説明しましたが、じつはわれわれの日常生活も「信」によってこそ成り立っているのです。  バスに乗るにしても、暗黙のうちに運転手さんを信頼しておればこそ何のためらいもなく乗り込めます。理髪店に行っても、理容師さんを信用しておればこそあの鋭いカミソリを顔やノドに当てさせます。牛乳を買っても、そのブランドを信用しておればこそ安心して飲みます。それらに対していちいち疑いを持ったらとても暮らしていけません。  さて、久遠の仏さまは、われわれの五官(目・耳・鼻・舌・皮膚)で感じとることはできません。この世のものごとはおおむね五官で感じとれますが、絶対的な存在とも言える久遠の仏さまは、われわれの五官で直接感じとるというわけにはいかないのです。だから信じられないのでしょうが、それは、自分の五官で感じとれるものしか信用しない物質万能的な考えの人です。  久遠の仏さまだけでなく、この大宇宙の万物万象の中には、自分の五官のみで直接認識することができないことは、いろいろとあります。例えば、すべての物質は電子・陽子・中性子といった素粒子で出来ているということについて、もはやだれも疑念をいだきませんが、あなたはそれを見ることができますか。宇宙の果てにあるというクェーサー星は秒速二十数万キロメートルの速度で地球から遠ざかっているそうですが、あなたにはそれが見えますか。久遠の仏さまが五官で感じとれないから信じられないというのはそれと同じではないでしょうか。 ながむる人の心にぞすむ  久遠の仏さまの大慈悲を信ずるか信じないか、それはあなたが本質的に救われるか救われないかの分かれ道なのです。このことはむかしからよく月の光にたとえて説かれます。法然上人の歌にこういうのがあります。  月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ  月の光はどの町どの村にも平等にふりそそいでいるのだが、それを眺める人がどう受け取るかによってその価値に大きな差が生ずるというのです。  この「すむ」というのは「住む」と「澄む」の両方の意味を込めてあります。月の光を浴びていながらそれには全く無関心で、金もうけのことなどばかりを考えている人もありましょう。そんな人は、月の光になんらの印象も覚えず、なんらの感慨ももよおさない。精神的な深い喜びを知らない哀れな人です。  それに対して「ああ、いい月だなあ」とうち仰いでそぞろ歩きをするような人の心にこそ月の光が「住む」のです。「宿る」のです。さらに、その月を見上げながら、その光に天地のいのちの不思議を感じ、永遠ということに思いを馳(は)せ、心が洗われたような気持ちになる人があったら、そんな人の心にこそ月かげは「澄む」のです。  仏さまの慈悲もそれと同じです。あらゆる人に平等にそそがれているのですけれども、それを信じない人は何の喜びも感じません。喜びを感じないから本質的な救いに縁がないのです。いわゆる「縁なき衆生は度し難し」です。  反対に「ああ、仏さまに生かされている。ありがたい!」と感じる人は、しみじみとした歓喜を覚えます。そのような人の心にこそ仏さまの大慈悲はとどこおりなく、濁りなく、そのままスーッと通ずる。つまり、仏さまのみ心がその人の心に住み(宿り)もし、澄みわたりもする。  まことに、信ずる人こそが幸せな人であり、ほんとうの意味で救われる人なのであります。 ...

法華三部経の要点39

今後の家庭にはいよいよ宗教が必要

1 ...法華三部経の要点 ◇◇39 立正佼成会会長 庭野日敬 今後の家庭にはいよいよ宗教が必要 愛情は想像から生まれた  前回に、久遠の仏さまの大慈悲を信ずる人こそ救われる人だと述べました。それに対して、どうすれば五官で感じとれぬものを「信ずることができよう」か……と質問する人がありました。同じような気持ちをいだいている人も多いことと思いますので、この際じっくりと説明しておきましょう。  たしかに、五官で感じとれないものを「信じなさい」といわれてもにわかに信じうるものではありません。初めは想像するよりほかはないのです。「仏さまはどういうお姿でいらっしゃるのだろうか。仏像や仏画に見られるようなお姿だろうか。それとも白髪・白衣の神々しいお姿だろうか。姿・形はなく、ただ目もくらむような光明そのものだろうか」。そんなふうに想像してみるのです。それをくりかえし、重ねているうちに、その想像がしだいに実感を持つようになり、ついには抜きさしならぬものとして心の中に定着するようになります。  この「想像する」ということが、人間にとってじつに重大な意味を持つものなのです。人間らしい人間の第一条件である「愛情」というものも、この「想像」という心の作用から生まれたものだといわれています。  われわれがまだ原始人だったころのことですが、まだ他の動物とあまり差のなかったヒトがだんだん頭脳が発達してくるにつれて、過去の経験にもとづいて先ざきのことを想像できるようになりました。また、目の前に起こったことでないものごとを心にえがくことができるようになりました。  たとえば、猛獣などがそのへんをうろついているときなど、洞窟(どうくつ)の中でジッとしていながら、外にいる仲間のことを考えたのです。トラやライオンが不意に襲ってきた。逃げるに逃げられない。ついに鋭いツメにかけられてしまう。その様子を想像して「あ、たいへんだ」と自分も恐怖を覚える。次の瞬間「ああ、あの人がかわいそうだ」という思いがわいてくる。それが「感情」の発生です。そして「同情」の発生です。  このように、人間にとっていちばん高貴な心の作用である「愛情」とか「思いやり」とかは、じつに「想像」からこそ生まれたのです。 想像の欠如が冷たい社会を  ところが、じつはこの「五官で感じとれないものを想像する」という心の作用が近頃の子供に失われつつあるのです。これはゆゆしい大事だと思います。ひる間は塾やおけいこごと通いに追いまくられ、夜は個室にこもってひとりコンピューターゲームで遊ぶ。友だちづき合いは少ない。すべてが即物的な生活です。  むかしの子供は、赤頭巾ちゃんの映画を見ても、オオカミが森の中のおばあさんの家に入ろうとするのを見ると、思わず「入らないで!」と叫んだりしたものです。ところが今の子供は、「カラスなぜ鳴くの」の歌に対しても「カラスの勝手でしょ」といったそっけない対応をするようになりました。  「思いやり」とか「同情」とかいう情緒を持つことが人間らしさの大きな条件であって、これが欠けたらまさに冷血動物みたいなものだといっていいでしょう。そして、そのような人間が増えたら、この世はエゴとエゴとがむき出しにいがみ合う修羅の世界となってしまいましょう。  ですから、これからの教育には「五官に感じとれないものを想像する」という心の作用を養うことが絶対必要な条件となりましょう。  家庭においても、目に見えぬ神仏を拝む宗教がどんなに大切であるかは、この一事をもってしてもうなずけることと思います。                                                        ...