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法華三部経の要点100

あなたも観世音菩薩になれる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇100 立正佼成会会長 庭野日敬 あなたも観世音菩薩になれる 三十三身に示現の観世音  法華経は努力主義の経典です。仏さまを供養し、その教えを学び、修行を重ね、それと同時に世の多くの人々の幸せのために菩薩行を実践することを信条としています。  ところが、二十五番の観世音菩薩普門品だけはまったく趣が異なります。観世音菩薩のみ名を唱えただけでもさまざまな世間の苦から救われると説かれています。一見、絶対他力の法門のように思われます。  しかし、絶対他力の思想ではないのです。あとのほうに、観世音菩薩は、あるいは大王の身となり、あるいは一庶民の身となり、婦女子の身ともなり、子供の身ともなり、三十三の身を現じて人々を救われるのだ、とあるように、われわれの住んでいる現実の社会に即して考えるとき、結局は仏法の根本法である縁起、そして諸法無我の真理にもとづく「持ちつ持たれつ」の思想に落ちつくものなのであります。  つまり、「世間にはいたる所に観世音菩薩がおられるのだ。また自分自身も観世音菩薩になろう」ということです。このことは、この品を学び進んでいくうちによく納得できるはずです。 智慧と慈悲を兼ね具えて  観世音菩薩はどのような徳を持った菩薩でしょうか。そのみ名によく表れています。観世音というのは「世の中の音を明らかに観(み)る」という意味です。音を聞くというのでなく、音を観察するとなっているところにたいへん奥深い意義があるのです。  音というのはものが振動するときに出るものですから、世音というのは世の中の揺れ動きということです。また、人間の発する音でいちばん重大なのは声であり、言葉でありますから、人間の声や言葉には心の揺れ動きが如実に表れるのです。つまり観世音菩薩は、世の中がどういう原因で揺れ動いているか、人間の心が何に悩んでいるか、苦しんでいるか、何を願っているか、祈っているかを明らかに見通されるお方なのです。  もちろんただ見通してジッとしておられるのではありません。ずっとあとの偈に「真観・清浄観 広大智慧観 悲観及び慈観あり」とあるように、現実の世界をありのままに観察し、それも澄み切った見方で観、そこから生ずる広大無辺な世界観を持ち、そうした世界観を持てばおのずから湧(わ)いてくる慈心(すべての衆生を幸せにしてやりたいという心)と悲心(衆生の苦しみを抜いてやろうとする心)の持ち主が観世音菩薩なのですから、社会の混迷や人間の苦しみを見ればその救済のためにただちに発動される、それが観世音菩薩のお徳にほかなりません。  このことは、われわれの実生活のうえに置き換えて考えてみるとよくわかるはずです。  一家の父または母として子供たちを立派に育てていくには、子供たちの心や体の中に入りこんだように、その状態を見通さなければなりません。この子の体には何の栄養が不足しているか。この子の体力はどこが足りないか。この子はどんな天性を持っているか。この子は何を苦しみ、何を求めているか。そういう声なき声をよく聞き分けて、それに応じた食事をつくってあげる。生活指導をする。精神指導をする。しつけをする。しかも親らしい親ならば、自分に必要な時間や労力などを犠牲にしても、その子の幸せのために尽くすでしょう。これが観世音菩薩の精神にほかなりません。  職場やその他の団体において、長と名のつく立場にいる人でも同じです。部下の性格・能力だけでなく、それぞれの人の声や、声なき声を聞き分けて、それにふさわしい指導をすれば、その一人一人が幸せになるばかりでなく、仕事全体も順調に発展していくでしょう。こういう上司も観世音菩薩にほかならないのです。 ...

法華三部経の要点101

七難を逃れるとは

1 ...法華三部経の要点 ◇◇101 立正佼成会会長 庭野日敬 七難を逃れるとは 観世音菩薩の慈悲と智慧  普門品の初めのほうに、観世音菩薩を念ずれば火難・水難・風難・剣難・鬼難・獄難・賊難の七難から逃れることができると説かれています。観世音菩薩は透徹した慈悲と智慧の持ち主であることを前提とし、そして前回に説いた「われわれも観世音菩薩になろう」という念願に即して、この七難から逃れるということを現実に生活のうえで考えてみましょう。  火というのは煩悩の火です。人間だれしも煩悩を持っています。それがほどほどのものであるうちはいいのですが、怒りとか怨(うら)みとか妬(ねた)みとかの炎となって燃え上がると、自分自身を苦しめるばかりでなく、他人をも傷つけ、社会をも混乱させます。ですから、煩悩の火が燃え上がろうとしたときは、観世音菩薩の真観・清浄観・広大智慧観を思い出せばよいのです。そうすれば、身を焼く火難から逃れられるばかりでなく、「煩悩即菩提」の教えのとおり、煩悩によって悟りを得ることもできるのです。  次の水難ですが、人間の心は誘惑に対して、弱いもので、うっかりすると金銭に溺(おぼ)れ、酒に溺れ、異性に溺れ、名誉欲に溺れ、権勢欲に溺れ、虚栄心に溺れます。そういった誘惑にかかりそうだと気づいたとき、観世音菩薩の名号を唱えれば、心は正しい道(中道)へ立ちかえり、その難から逃れることができるわけです。  第三の風難ですが、人生の航海は順風のときばかりとはかぎりません。いつ、どこで、逆風や暴風に見舞われるかわかりません。そんな時、しっかりした心のよりどころを持たない人はただもう慌てふためいたり、失意のどん底に陥ったりします。ところが、久遠実成の仏さまのお使いである観世音菩薩の広大な慈悲と智慧を思い出せば、その逆風がかえって人生の試練であることに気づき、勇気をもってそれを乗り切ることができるでしょう。 心を切られても傷つかない  第四の剣難ですが、身体に受ける難はどんな聖者でも受けるときは受けるのです。お釈迦さまも提婆達多の投げおろした岩石が足に当たっておびただしく血を流されたことがあります。イエス・キリストも十字架にかかって殺されました。マハトマ・ガンジーも一ヒンズー教徒にピストルで撃たれて亡くなりました。  提婆達多によって傷を負わされたとき、お釈迦さまは仕返しをしようとする弟子たちを制止して静かに名医耆婆(ぎば)の手当てを受けられました。イエス・キリストも、最後の瞬間には「神よ、み心のままに」と言い、従容として死につきました。ガンジー翁は、担架で運ばれるとき、もう口もきけなくなっていましたが、両手で静かに施無畏(観世音菩薩の徳の一つ。次回に説明)の印を結んでおられたのです。  ですから、身体的な難を逃れられるかどうかは、人間の本質的な価値から見れば問題ではないのです。問題は、心を切られて傷つくかどうかということです。他の人の憎悪に切られ、侮辱に切られ、いわれなき非難に切られ、怨みに傷つき、怒りに傷つき、挫折に傷つくかということです。そのようなとき、観世音菩薩の広大な慈悲と智慧を思い起こせば、そのような精神的暴力を超越してしまうことができるわけです。 ...

法華三部経の要点102

観世音菩薩のような人になりたい

1 ...法華三部経の要点 ◇◇102 立正佼成会会長 庭野日敬 観世音菩薩のような人になりたい 恐れなき心を施すお方  観世音菩薩を念ずることによって逃れられる七難の第五は鬼難ということになっています。鬼難というのは、悪霊などに取り憑(つ)かれて正気を失うことです。観世音菩薩を念ずればそういった鬼難から逃れられるというのは、つまり、真実の智慧と大いなる慈悲を持とうと決じょうしておればそのような邪悪なものは近寄り難く、よしんば近づいてもひとりでに撥(は)ねのけられてしまう、というわけです。  次は獄難。牢獄(ろうごく)に閉じこめられているということは、心の自由自在が束縛されていることにほかなりません。人間の最大の願望は完全な自由ということです。しかし、「人」とか「物」とか「自然」を束縛の対象としているかぎり、未来永劫それから逃れることはできません。自分の心さえ真実の智慧と、大いなる慈悲をもてるようになれば、周りがどうあろうと自由自在の身となれるわけです。  最後の賊難ですが、これはわれわれから物的なものを奪い去る苦境・苦難を言います。最大の賊難は死ということです。凡夫はそういった賊難に遭えば、あるいは意気消沈し、あるいは狼狽(ろうばい)し、あるいは恐怖におののきます。  ところが、観世音菩薩の真実の智慧と大いなる慈悲を思い起こせば、そういった物的な変化は実体のない、例えば海上に生ずる波のようなもので、われわれの本質である永遠のいのち(仏性)は確固として揺るぎないものであることに思い至り、大安心を得ることができるのです。  ですから、あとのほうに「是の観世音菩薩は、怖畏急難の中に於て能く無畏を施す。是の故に此の娑婆世界に、皆之を号して施無畏者とす」とあるように、観音さまは畏れない心を施すお方であるとされているのです。 雨ニモマケズは観音思想  観音さまの代表的なお徳は、この「施無畏」ということのほかにもう一つ「大悲代受苦」ということがあります。それは、「人々の苦しみを自分が代わって受ける」という献身の精神に満ちた慈悲の実践です。宮沢賢治の有名な『雨ニモマケズ』の詩は観世音菩薩を歌ったものと言ってもいいでしょう。  「東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ」というのは、大悲代受苦にほかなりません。  「西ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイイトイヒ」というのは、そのまま施無畏です。  高名な思想家・谷川徹三氏が、これは明治以降の日本における最高の詩であると評しておられましたが、この詩が全篇「観音思想」に貫かれていることを、とくと見直したいものです。 ...

法華三部経の要点103

真理を活用される観世音の実践力

1 ...法華三部経の要点 ◇◇103 立正佼成会会長 庭野日敬 真理を活用される観世音の実践力 手に目のある千手観音さま  観世音菩薩は、澄み切った眼で世の動きを明らかに観察し、「普門示現」といわれるようにあらゆる所に現れて人びとを救済される実践の菩薩です。  そのことは千手観音さまの像によく現れています。その千の手(たいていの像は四十二本だけ造られていますが)には、病気を治す道具や福を授ける象徴物などさまざまな道具を持っておられます。しかも大事なことは、それぞれの手に目がついていることです。まさに千手観音さまは、その目で衆生の現実の苦しみや心に願っていることを見通され、その手で実際にお救いになるのです。  看護婦などというその「看」という字は、「目」と「手」を組み合わせて作られた会意文字です。この文字が、はからずも千手観音さまの手と目に合致していることに、尊い示唆を感ぜずにはおられません。われわれ法華経行者は、常に世の不幸な人びとに智慧の「目」を向け、そして慈悲の「手」によってその苦しみを救ってあげることに力を尽くさねばならない。そのことを千手観音さまの像容が示し、看の字が示しているのです。 首飾りを二仏に捧げたのは  さて、これまでは法華経全体の教相に即して、この普門品を「われわれも観世音菩薩になろう」という教えとして解説してきましたが、もっと素朴な、観世音菩薩の霊験を信ずる受け取り方が一般的であることは否めません。そして、そのような素朴な観音信仰による不可思議な功徳を受けた実例も数々あることも否定できません。  しかし、不可思議と見える観世音菩薩の救済力も、もともとは仏さまの大智慧に基づくものであることは、無尽意菩薩が尊敬と感謝の意を込めて捧げた首飾りを、観世音菩薩は直ちに半分を釈迦牟尼如来に、半分を多宝如来に捧げたことに象徴されています。  観世音菩薩としては、「わたくしの力ではございません」と謙遜(けんそん)して二仏に差し上げられたのでしょうが、われわれから見ますと、真理そのものである多宝如来と、その真理を現実に即して説き分けられた釈迦牟尼如来と、それを衆生救済のために活用される観世音菩薩の実践力と、この三つの相乗作用を示していることは歴然としています。そして、末端にあるその実践力こそが人びとを幸せにする決め手であることを、ここのくだりの行間から読み取らねばならないと思うのです。  もう一つ、ここのくだりで見過ごしてならないのは、無尽意菩薩が首飾りを供養しようとしたのに観世音菩薩が受け取るのを断られたとき、無尽意菩薩が「どうぞ、わたくしをあわれと思ってこれをお受け取りください」と嘆願したことです。  ここに、供養とか布施というもののほんとうの精神があるのです。現在でもそうですが、インドをはじめとして、ミャンマーでも、タイでも、スリランカでも、出家修行者や宗教団体に布施する際、「する」というのでなく、「させて頂く」という精神がありありと見受けられます。布施し、供養することによって、身に功徳を積ませて頂くという考えかたです。  われわれ日本人も、この無尽意菩薩の心を心としたいものであります。 ...

法華三部経の要点104

陀羅尼とは神秘の言葉

1 ...法華三部経の要点 ◇◇104 立正佼成会会長 庭野日敬 陀羅尼とは神秘の言葉 なぜ陀羅尼は梵語のままか  陀羅尼品は、これまた異色の一章です。陀羅尼とは梵語のダーラニーのことで、その意味はあとで詳しく説明しますが、密教では呪陀羅尼を、病気や災害を除く力を持つ神秘的な言葉(=真言)として特に尊重し、現在ではその「真言」が陀羅尼を代表するようになっています。わが国にも弘法大師が開かれた真言宗という大宗派があることは周知のとおりです。  さて、この品は法華経のこれまでの説法に感激した菩薩・諸天・鬼女たちが「この教えと、この教えを信ずる人びとを必ず守護いたします」と、強い言葉で誓言し、守護のための神呪(陀羅尼)を説いた章で、ほとんどがその神呪で満たされています。  それらの神呪は全部梵語を音写したものですが、それは中国の翻訳者(この場合、鳩摩羅什)が翻訳しないほうがよいと判断したからなのです。仏教経典を中国語に翻訳した人びとは、次の五つの場合は強いて翻訳せず、原語の音に似た漢字を当て(音写し)て、わざと原語のまま残したのです。  一、インドにあって中国にない動植物や、伝承の中の鬼神などの名。法師功徳品に出てくる多摩羅跋香(たまらばっこう)・多伽羅香(たからこう)など、また、たびたび出てくる迦樓羅(かるら)・緊那羅(きんなら)などがそれです。  二、一つの語に多くの意味が含まれているので、一語に翻訳すると原意が十分に尽くされないもの。たとえばダーラニーには「聞いた教えを心に保って忘れない力」という意味もあり、「あらゆる悪(不幸をふくむ)を止め、あらゆる善(幸福をふくむ)を進める力」という意味もあり、「それを唱えれば仏の世界へ直入できる神秘の言葉(真言)」という意味もあります。この品の場合の陀羅尼は、第二の意味が主ですが、第三の意味も多分にふくまれています。それで陀羅尼を「総持真言」とも訳したのです。  三、神秘的な言葉。これを翻訳すれば、その奥深い神秘性が減損され、またその音韻に含まれる不可思議な力が失われるというわけで、この陀羅尼品の神呪がそれです。  四、むかしからの習慣に従ったもの。たとえば阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)などがそれです。  五、翻訳すれば真の意味を失うもの。仏陀・菩提などがそれです。 陀羅尼品の神呪は神々の名  陀羅尼品の陀羅尼は、ほとんどむかしのインドの神々の名、もしくは異称の列挙であり、その神々への呼び掛けでありますから、つまりは「言葉の力によって仏・菩薩や諸天への感応を求める」ということになりましょう。仏教の本義とはずいぶん離れているようですが、しかし、陀羅尼の霊験は、じっさいにわたしも数多く経験してまいりました。  なぜそのような霊験をもっているかは、この経典が成立した古代インドと現代の日本とはあまりにもかけ離れているために、まったく不明です。 ...

法華三部経の要点105

信仰の奇跡とは人格が変わること

1 ...法華三部経の要点 ◇◇105 立正佼成会会長 庭野日敬 信仰の奇跡とは人格が変わること 子が父を正法に導いた  妙荘厳王本事品は、最高の親孝行とはどんなことかを言外に説いた、じつに大事な一章です。それは、はるかむかしにおられた妙荘厳王という国王と、その后(きさき)と、二人の王子の物語にことよせて説かれています。  后と二人の王子は仏法に帰依し、通達していましたが、王はほかの教えに心酔していましたので、なんとかして仏法のありがたさを知らせてあげたいと思っていました。二王子の師である雲雷音宿王華智仏という仏さまが法華経という至上の教えをお説きになることを聞き、ぜひ父の王をも誘って聴聞に行きたいと思い、母の后に相談しました。すると后は「父上の心を動かすには、おまえたちが奇跡を現してみせるほかはない」と言うのです。  そこで王子たちは父王の前に行き、空中に飛び上がって空の上を歩いたり、地の中に自由自在に潜ったり、さまざまな不思議を見せました。父王は驚いて「おまえたちはだれにそんな神通力を習ったのか」と聞きますと「法華経という教えをお説きになる雲雷音宿王華智仏という仏さまです」と答えます。王は「その仏さまにわたしもお目にかかってみたい」と言い出しました。  王子たちは大喜びしましたが、この機会をのがさず出家してずっと仏さまのみもとで仏道修行をしたいと母の后にお願いし、許されます。こうした二王子の熱意と后の理解あるはからいによって、王は、自分ばかりでなく、大臣たちをも、女官たちをも、そして多くの国民をも引き連れて仏さまのみもとへ参りました。そして、みんな仏法に帰依したのでありました。 自分が変われば人も変わる  この品には四つの要点があると思います。その第一は、二王子が演じた奇跡というのは、仏法を学び、信じて行ずることによって、人格が一変し、したがって日常の行いがすっかり変わったことを意味するのだ、ということです。  ひとを仏法に導くには、それを説いてあげるのももちろん大切なことですが、身をもってする実証がいちばんの決め手となります。自分が変わってみせることです。とくに、家族や職場の人を導くにはこれを欠いてはならないのです。いわゆる「後ろ姿で導く」ことであります。この説話にはそういった教えがこめられているのです。  第二の要点は、王の信仰が、大臣たちや、女官たちや、国民にまでも感化を及ぼしたということです。こういう指導的立場にある人が正しい信仰に入った場合、その影響はじつに計り知れないものがあるのです。  信仰はもともと個人の自由で、政治とか権力とかが介入すると不純なものになります。しかし、衆に尊敬されている指導者が正法の信仰に入ったために多くの人たちが自然とそれに感化されていくということは、けっして不純なことではなく、きわめて正しい影響といわなければなりません。  ですから、多くの人の上に立つ人は、どうか正しい信仰を身につけてほしいものです。もちろん、それを部下に押しつける必要はありません。正法の信仰によって生ずる人徳が自然と人びとを感化するからです。 ...

法華三部経の要点106

最高の親孝行と最高の先祖供養

1 ...法華三部経の要点 ◇◇106 立正佼成会会長 庭野日敬 最高の親孝行と最高の先祖供養 父母にも法を説かれた釈尊  妙荘厳王品の第三の要点は、そこに登場する二王子のように、親を仏法に導き、あるいは親に仏法を説くことが孝行の最たるものであるということです。妙荘厳王は、子に導かれて仏道に入り、出家したことによって、王位にある時は絶対に得られなかった大安心の境地に達することができました。その精神的な幸せこそ人生最高の幸福なのです。  親に法を説くことは、お釈迦さまが範を示してくださっています。亡き母上の摩耶夫人に対しては、その在所の忉利天に登って三ヵ月にわたって教化されたのです。  父上の浄飯王には、その臨終に際してなされた説法がじつに感動的です。お釈迦さまがヴェーシャリ国の重閣講堂におとどまりのとき、七十九歳になられる浄飯王がご病気との知らせがあったので、阿難・羅睺羅・難陀を連れて故郷に帰られました。  病室に入られたお釈迦さまは静かに父王の手を取られ、「父上、すべてのものは移り変わるもので、それはとうてい免れることはできませんから、けっしてお悲しみになってはなりません。それに、父上はすでに心の垢(あか)を除かれた清浄の身であられ、善根を積んでおいでですから、来世の安楽は疑いありません。どうか心安らかにおいでになってくださいませ」と、懇々とお説きになりました。浄飯王は「ああうれしい。わたしは幸せだ。幸せだ」とつぶやきながら安らかに息を引き取られたのでありました。 出家すれば九族が天に生ず  第四の要点は、二王子も妙荘厳王も出家されたとありますが、ここで、出家は大きな親孝行であると同時に、最高の先祖供養でもあることを知っておいていただきたいと思います。  南伝の小部経典の長老偈経に「智慧の豊かなる者が家に生まれ出家すれば、その者は七代の父母を浄める」と説かれています。七代の先祖の霊を安らかにするというのです。それを受けて中国や日本では「一人出家すれば九族天に生ず」という定型的説明が成立しました。九族というのは、祖父母の祖父母・曽祖父母・祖父母・父母・自己・子・孫・曽孫・玄孫のことで、出家すれば、この九族を天に生まれ変わらせ、安らかに暮らさせるというのです。  現代においては厳密な意味の出家修行者はたいへん少なくなりました。また、世の中全体を幸せにするには、人間の大多数を占める普通の生活をしているものがめざめなくてはどうにもならぬことが歴然としてきました。それゆえ、わたしは普通の生活をしながら、いささかの他への献身を行いながら人びとを仏道にみちびく人びとを「在家の出家」と呼ぶことにしています。立正佼成会会員のみなさんは、まぎれもなくその「在家の出家」にほかなりません。りっぱな菩薩なのです。  いろいろとご苦労もありましょうが、あなた方はこの世の浄土化という聖業の推進者であると同時に、あなた方の先祖から子孫までを天に生ぜしめるという功徳を積む身であります。これほどの先祖供養はなく、これほどの親孝行はなく、これほどの子孫孝行もないのです。 ...

法華三部経の要点107

法華経は実践によって完成する

1 ...法華三部経の要点 ◇◇107 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経は実践によって完成する 最後に登場の普賢菩薩  妙法蓮華経の最終章である普賢菩薩勧発品に入ります。この品は、東方の宝威徳上王仏の国から法華経を聞きにやってきた普賢菩薩がその教えに感激し、「のちの世にこの教えを受持する者があれば必ずそれを守護しましょう」と申し上げますと、お釈迦さまも「普賢菩薩と同じような行をなす者をわたしも守護しよう」とおおせられ、末世の法華経行者を励まされる章です。  法華経の初めのほうでは、菩薩の主役は「智」の文殊菩薩でした。中ほどでは「慈」の弥勒菩薩でした。そして、最後の結びで普賢菩薩が登場するのはなぜかといえば、真理を知る智慧にしても、一切の生きものに対する慈悲にしても、それを現実の生活に実践して初めてそれが救いとなり、幸せをもたらすのです。そこで、法華経のしめくくりとして「行(ぎょう)」の普賢菩薩が登場するわけです。  普賢菩薩は、六本の牙(きば)を持つ白い象に乗って出現されます。それはどんな意味を持つかといえば、象は目的地に向かって歩くとき、ゆくてをさえぎる樹木があればそれを押し倒し、岩石があれば足で転がし、まっしぐらに進んで行きます。  また、六本の牙というのは六波羅蜜を象徴しているのです。ですから、法華経行者が六波羅蜜を行ずるときに現れるさまざまな邪魔や障害をものともせず不退転の勇気をもってそれを乗り切っていかねばならないことを、この象の姿が象徴しているわけです。 法華経行者に守護を  といえば、普賢菩薩はいかにも実践を要求する「力」の象徴だけのように考えられるかもしれませんが、と同時に、たいへん慈悲深い菩薩でもあるのです。普賢菩薩を梵語ではサマンタバドラといいます。サマンタは「あまねく一切に」という意味、バドラは「幸福な」という意味です。それで、中国語には「遍吉(へんきつ=あまねく一切のものに吉祥を与える)」と訳されています。つまり、われわれを力づけ励まし、法の実践を勧めることによって、幸福をもたらしてくださる菩薩なのです。  その普賢菩薩がはるか東方の宝威徳上王仏の国から霊鷲山に来至して、如来の滅後においてはどうすれば法華経を身につけることができるのでしょうかとお尋ねしました。すると、お釈迦さまは、諸仏に護念せられ、もろもろの徳本を植え、正定聚(しょうじょうじゅ=正しい信仰に心を定めた仲間)に入り、一切衆生を救う心を起こすことであるとお答えになりました。これを「四法成就」の法門といい、非常に大切な教えですから、次回以降に詳しく解説しましょう。  そこで普賢菩薩は、「後の五百歳の末法の世にこの経典を受持する者があれば、わたくしはその者を守護し、修行を妨げる者をしりぞけ、また一句一偈でも忘れた所があればそれを思い起こさせてあげましょううんぬん」とお誓いするのです。普賢菩薩のすぐれた神通力で守護されたむかしの法華経行者の話は、さまざまな古典に述べられています。 ...

法華三部経の要点108

法華経のしめくくりは四法成就(一)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇108 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経のしめくくりは四法成就(一) 護られているという確信  普賢菩薩勧発品最大の要点は、「四法成就」ということです。経文にはこうあります。  「仏、普賢菩薩に告げたまわく、若し善男子・善女人、四法を成就せば如来の滅後に於て当に是の法華経を得べし。一には諸仏に護念せらるることを為(え)、二には諸の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救うの心を発(おこ)せるなり。善男子・善女人、是の如く四法を成就せば、如来の滅後に於て必ず是の経を得ん」  この場合の「法華経を得る」というのは、法華経に遇うという意味よりも、法華経をほんとうに自分のものにし、ほんとうの功徳を得るという意味のほうが強いのです。そして、そのための条件が次の四つのことがらだというのです。  一、自分はもろもろの仏さまに護られ、たいせつに念(おも)われているのだという確固たる信念を持つこと。  これは、一言にしていえば、信仰の確立です。それがなければ、どんなに教理的に法華経を理解しても、大安心の境地に生きることはできません。順調なときは心配なく暮らしていても、何かトラブルが起こったり、逆境に陥ったりした場合、ともすればあわてふためいたり、挫折してしまったりします。つねに自分は諸仏に護念されているのだという確信を持っている人は、「これも仏さまのおぼしめしによる試練だ」と、あるいは「反省の機会を与えられたのだ」というふうに受け取り、前向きに対処しますから、マイナスをプラスに転ずることができるのです。 善い行いを積み重ねる  二、日常生活のうえにいろいろな善い行いを積み重ねること。  徳本というのは、徳を持つようになる本(もと)となるものという意味で、善い心です。その善い心を植えるというのは、つまり善い行いをすることにほかなりません。  普通には、善い心があってこそ善い行いができるのだと考えられていますが、そうとは限りません。人まねですることもあるし、周囲からの影響であまり気が進まないながらすることもあります。  もう一つ大事なことは、第一条にある「諸仏に護念されている」という信念を持っていますと、「仏さまが見ていらっしゃるのだから」という意識によって自分を励ましつつ善い行為ができるようになることも多いのです。  ところが、善い行いをすると、あとでなんともいえないような快い気持ちになります。そういう経験をたびたび味わっていますと、だんだんと自ら善い行いをするようになるのです。つまり、善い行いから善い心が育つわけです。  善い心が育てば、ひとりでに善い行いをするようになり、善い行いをすればますます善い心が育つというわけで、そこに素晴らしい循環が生まれ、その循環が無数にくりかえされるうちに、人格完成という理想の境地に近づいていけるのです。そのことを、法華経の終章であるこの品で「諸の徳本を植え」という一語にしめくくってあるわけです。 ...

法華三部経の要点109

法華経のしめくくりは四法成就(二)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇109 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経のしめくくりは四法成就(二) 正しい信仰者の集団に入る  「四法成就」の法門をつづけます。  三、正しいことに決定(けつじょう)した者の集団に入ること。  仏法では、人間の集団を三つに分けて、正定聚(しょうじょうじゅ)・邪定聚(じゃじょうじゅ)・不定聚(ふじょうじゅ)としています。  正定聚というのは、正しい教えを信ずる人びとの団体をはじめ、いろいろな社会奉仕のボランティア団体などがそれです。邪定聚というのは、暴力団とか、犯罪者の仲間といった、悪いことを目的とした者の集まりです。極端な破壊思想を持つ者の集団もこれに当たります。不定聚というのは、以上の二つの集まりに入っていない普通の人びとをいいます。その人たちは、正定聚・邪定聚のどちらへもおもむく可能性を持っているわけです。  われわれ信仰者も正しい信仰者の団体に入らなければならないことを、この「正定聚に入り」という一条に明らかに示されています。なぜでしょうか。信仰というものは個人個人の心の中の問題であることは確かですが、しかし、ひとり孤立して信仰し、法を求めていますと、往々にして独善に陥ったり、疑惑を生じたり、懈怠の心が起こったりしがちです。  そんなとき、同じ信仰に決定している仲間がいますと、お互いに相談し合ったり、教え合ったり、励まし合ったりして、逸脱や退転の危機を逃れることができるからです。  また、そうした危機が生じなくても、いつも仲間が集まって一緒に法の話を聞いたり、それぞれの信仰体験を話し合っていると、お互いの心がしっかりと結び合って、信仰の力が二倍にも三倍にもなるからです。  ましてや、不定聚の人びとを正しい信仰に導くことによって、あまねくこの世を寂光土化していこうという活動、いわば「信仰の社会化」という展開になりますと、どうしても集団の力というものが不可欠になります。お釈迦さまが、阿難が「よい仲間を持つことは仏道の半ばぐらいの価値があると思いますが」と申し上げたのに対して「半ばではない。仏道の全部だ」と答えられたのは、おそらくそういった意味であったろうと思われます。 全人類と共に救われよう  さて、最後に次の一条があります。  四、すべての人間を救おうという大きな志を持つこと。  自分ひとりが信仰によって救われても、社会全体がよくなり、人類全体がよい心を持つようにならなければ、結局は自分も幸せにはなれないのです。いつ強盗が押し入ってくるかわからない。いつ路上で暴漢に襲われるかわからない。  ですから、自分だけが悟り、自分だけが救われるというのでは、ほんとうの成道ではないのであって、自他共に救われることによってこの世に理想的な平和国土を建設するというのが、大乗仏教思想の根本なのです。  この「四法成就」の法門は、お釈迦さまのみ心を拝察するならば、「いままでいろいろ難しいことを説いたけれども、それを実践するにはつまりこれだけを心がけておればいいのだよ」と平易にまとめてくださったのであろうと思われます。法華経の教えの深遠さに少々たじろぎ気味だった人たちも、これをうかがって、なにか新しい勇気のわき起こる思いをすることでしょう。 ...

法華三部経の要点110

懺悔なくして宗教なし

1 ...法華三部経の要点 ◇◇110 立正佼成会会長 庭野日敬 懺悔なくして宗教なし 同信の人への懺悔の尊さ  仏説観普賢菩薩行法経に入ります。このお経は、お釈迦さまが法華経をお説きになったのち、ビシャリ国の大林精舎で説法されたもので、懺悔(サンゲ)ということが徹底して説かれているために一名「懺悔経」とも呼ばれています。  懺悔とは、自分の心の罪や行いの過ちを「ああ悪かった」と反省し、それを告白することを言います。それには二つの段階があります。一つは、同信の人や指導者に対し、言葉に表して告白することです。もう一つは、目に見えぬ神仏に向かって、自らの至らなさを悔い、心身の行いを改めることを誓うことです。  このお経には、おおむね第二の懺悔について説かれていますが、第一の懺悔もたいへん大切なことです。現実の問題として、初信の人にとっては、目に見えぬ神仏に向かって懺悔しても心が洗われたように清まる実感はなかなか得られません。それに対して、生きた人間に己の罪や過ちを思い切って打ち明ければ、心に溜っていた醜いものが洗いざらい排出されたような、なんともいえない清々しさを覚えるものです。  その気持ちこそが尊いのです。その清々しさは、心から「我」がすっかり吐き出されて空(から)っぽになった状態です。そうして空っぽになればこそ、そこへ真理がどんどん入りこむことができるのです。また、神や仏に帰依する真心もそのあとを埋めることができるのです。醜いものが充満しておれば、そのような尊いものは入って来られませんから。  「懺悔なくして宗教なし」という言葉は、そこのところを喝破しているわけです。 普賢菩薩を観ずるとは  さて、このお経は、題名の通り、普賢菩薩を観ずることがその大部分を占めています。観というのは、精神を統一し、智慧をいっぱいに働かせて、仏や、法や、そのほか宇宙・人生のさまざまな事象を観察し、思索し、そして悟りを開くことに努めることをいうのです。  といっても、そういうことは一般のわれわれにはたいへん難しいことですので、仏教では普通の人間にもできる方法(観法という)を教えています。それは、具体的ななにものかに心を集中し、それを見つめ、一心に念ずることです。普賢菩薩を観ずるというのも、そういった観法の一つです。  普賢菩薩は、理・定(じょう)・行をつかさどる菩薩とされていますが、表面的には「行」を象徴する菩薩です。われわれ在家の信仰は「行の菩薩」と観ればそれで十分だと思います。  われわれは法華経を学び終えて、宇宙と人生の実相を知り、新しい勇気をもって再出発しようとしています。しかし、日常生活の実情はどうかといいますと、往々にして汚い欲や悪い念を抑えきれぬこともあり、自己本位に陥って、法華経の神髄である「他を幸せにする行い」を怠りがちになります。  ですから、ここで普賢菩薩を観ずることによって懺悔の心を起こし、改めて心を清め、動揺を静め、徳を積む行いの実践へとおもむかなければならないのです。法華経の結経(けつぎょう=結びの経)としてこのお経が説かれたのは、そういう理由によるものであります。 ...

法華三部経の要点111

懺悔が仏性を磨き上げる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇111 立正佼成会会長 庭野日敬 懺悔が仏性を磨き上げる 懺悔を聞く人の心得  前回には「懺悔なくして宗教なし」ということについて述べました。実際その通りで、キリスト教のカトリックにおいても、教会の中に特別な個室が設けられてあって、そこで信者さんと神父さんが一対一で懺悔が行われるのです。初期仏教団における修行者たちの懺悔は公開的なものでした。一ヵ月に二回、新月と満月の夜に行われる布薩(ふさつ)という集会で、係の比丘が戒律の個条を一つ一つ読み上げていくうちに、もしその個条に触れる罪を犯したという自覚を持つ者があったならば、ただちに申し出るのです。内心のひそかなる罪をもすべてさらけ出し、仏陀もしくは長老比丘による指導を受けたのでした。  なお、われわれは法座その他において、ひとの懺悔を聞く立場になることがしばしばありますので、その場合の心得について、初期仏教教団に確立されたものがありますから、参考のために紹介しておきます。  一、時に応じて語る。  懺悔を聞く人は、それぞれの人に応じ、場合に応じ、適切な指導を与えるべきで、教条主義に陥らないことだ、というのです。いわゆる万億の方便が大切だということです。  二、真実をもって語る。  万億の方便を用いるといっても、それはあくまでも正法に根差したものでなければならないのです。  三、柔軟に語る。  声を荒らげて叱責(しっせき)したりせず、穏やかな調子で、優しく話し、相手が「なるほど」と心から納得できるように指導しなければならない、というのです。  四、利益(りやく)のために語る。  相手がそれによって正しい悟りを得、向上し、救われるように……という目的ばかりを思って話すべきで、そのことに心を集中すれば必ず適切な指導ができるものです。  五、慈心をもって語る。  相手に対する深い愛情をもって対さなければならないというのです。当然のことのようですが、ともすれば自分を偉く見せたいというような不純な気持ちが混じることがありますから、それを戒めてあるのだと思います。 仏性を磨き上げるために  人間はすべて平等に仏性を持っていることは法華経の教えによってハッキリ理解できました。いわば、それは仏性の発掘でした。しかし、発掘したばかりの宝石はまだ泥土にまみれていて、本当の輝きはありません。どうしてもその泥土を洗い落とさなければ、尊い宝石の真価は現れてこないのです。その泥土を洗い落とす第一の段階が、同信の人たちに対する懺悔です。それだけでもたいへんな結果が出ることは、立正佼成会五十数年の歴史が実証しています。  ところが、その段階では満足せず、さらにその宝石に磨きをかけたい人があります。泥土は洗い落としても、まだまだ宝石の表面には曇りや傷がありますから、それに磨きをかけ、曇りや傷の部分を取り除けば、いよいよ持ち前の燦然(さんぜん)たる輝きを発するようになるからです。それが、会員綱領にある「人格完成」の境地ですが、それを目指す第二段階の懺悔が、この観普賢菩薩行法経に説かれる「神仏に対する懺悔」にほかならないのです。 ...

法華三部経の要点112

実相を思念することが最高の懺悔

1 ...法華三部経の要点 ◇◇112 立正佼成会会長 庭野日敬 実相を思念することが最高の懺悔 肉体へのとらわれから離れる  これまでに、懺悔の第一段階と第二段階について説明してきました。ところが、このお経を読み進んでいきますと、そうした常識的な懺悔を超えた、深遠な、しかもきわめて直截的(ちょくせつてき)な行法が説かれているのです。  それはずっと後のほうにある次の偈です。  「一切の業障海は 皆妄想より生ず 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す」  現代語に意訳しますと、こういうことです。「人間のすべての行為の過ちも、それから生ずる心身のさまざまな障害も、ありもしないことをあると思う誤った考えから生ずるのである。だから、ほんとうに懺悔しようと思うならば、静かにすわって、すべてのものごとの実相を深く思念することである。そうすれば、もろもろの罪というものは、朝日の前の霜や露のようにたちまち消えてしまうのである」というのです。  では、その「すべてのものごとの実相」を深く思念するためにはどうすればいいのでしょうか。それには「自分の本質である仏性は宇宙の大生命ともいうべき久遠の本仏さまと同質なのである。そういう仏性をもつ自分は宇宙の大いなるいのちと同質の存在なのである」ということを確信することです。  そして、そういう尊い存在なのに、「自分がこのような罪を犯したのは、ありもしないものをあるとして妄想し、そういうものに執着していたからなのだ」と悟る。これこそが最高の懺悔だというのです。 真の懺悔とは積極的なもの  お釈迦さまは、この世に存在する生きとし生けるものは、お互いに関係し合って存在しており、不要なもの、無用なものは何ひとつない。だから、人間どうしはもちろんのこと、動物とも植物とも、ひいては全環境とも仲良く大調和して生きていかねばならない、と教えられました。  そのことと、この最高の懺悔のあり方を考え合わせますと、この世の現実が大調和しないのは一人一人が、ありもしないものをあると考えてそれに執着し、妄想によってものごとを見、考え、行動するからである。したがって、ほんとうに幸せな理想社会をつくろうとするならば、すべてのものごとの実相を正しくとらえて、自分中心ではなく大調和めざして、その時その場所に一番ふさわしい行動を積極的にとっていくことであるとも、この一偈で教えられていると、わたしは思います。  また、このお経の初めのほうで、阿難・摩訶迦葉・弥勒の三大弟子がお釈迦さまに「どうすれば、煩悩を断ぜず五欲を離れずに心身を清め、諸罪を滅除することができましょうか」と質問しています。その質問に対するお答えとしてこのお経が説かれたわけですが、その最終的結論が「端坐して実相を思え」という一句であると考えていいでしょう。  いずれにしても、懺悔といえば、いかにも消極的なイメージを感じがちですが、そうではなく、自分の存在というものに対するほんとうの自信と、人生に対する大きな勇気を奮い起こす、明るく積極的なものであると知るべきでしょう。 ...

法華三部経の要点113

観普賢経の重要な言葉(一)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇113 立正佼成会会長 庭野日敬 観普賢経の重要な言葉(一) 真の慈悲は大乗の精神から  このお経には、見逃してはならない重要な言葉がたくさんあります。その中でも最も重要だと思われるものについて簡単に解説しておきましょう。  方等経典は為(こ)れ慈悲の主なり。  「方」というのは正しいということ。「等」というのは平等ということ。大乗の教えは、中道の道理が方正であり、また、すべての人間がその本質においては平等であることを説くものですから、方等経典というのは大乗経典の別名なのです。  ところで、大乗経典の核心となる真実は、すべての人が平等に仏性を持っているということです。もっと掘り下げていえば、人間以外の動物も、植物も、無生物もすべて、もともとは久遠実成の本仏に生かされている平等な存在である、ということです。  このことを心の底から悟ることができれば、すべての人間・動植物・無生物、つまり全環境に対する愛情が、おのずからわいてこざるを得ません。そのような広大な愛情を慈悲というのです。  そういった慈悲は、大乗の教えをしっかりと学ぶことによって生ずるのですから、まさに方等経典は慈悲の主であるわけです。  身は為れ機関の主 塵の風に随つて転ずるが如し 六賊中に遊戯(ゆけ)して 自在にして罣礙(さわり)なし  現代語に訳しますと「人間の心身は、いろいろな働き(機関)をするものであるが、その働きが周囲の事情によってどうにでも変化することは、まるでチリが風に飛ばされるようなものである。その中には、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のわがままな欲望が、思う存分に暴れ回っているのである」というのです。  凡夫の心身のありさまをまったく如実に、文学的に表現してある名句です。そして、そのすぐあとに、そういった心身の混乱をおさめるには「大乗経を誦して 諸の菩薩の母を念ずべし」と説いてあります。菩薩の母というのは、万人・万物に対する平等な慈悲心のことです。 「信」がここまで極まれば  今日方等経典を受持したてまつる、乃至失命し設(たと)い地獄に堕ちて無量の苦を受くとも、終(つい)に諸仏の正法を毀謗(きほう)せじ。  現代語に訳しますと「今わたくしは大乗の教えを受持いたします。万一そのために命を落とすことがありましょうとも、あるいはまかり間違って地獄に落ちて無量の苦しみを受けることがありましょうとも、ぜったいに諸仏の説かれた正法をそしるようなことはいたしますまい」。  信心の一念はここまで徹底したものでなくてはなりません。目前の現世利益だけを目的として信仰している人は、なにか不都合なことが起こればすぐ疑惑を起こしたり、退転したりするものです。そうしたレベルにとどまっている人は結局救われない人なのです。  親鸞上人も「たとい法然聖人にすかされ(欺され)まいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」とおっしゃっています。これは、教えに対する「信」でもあり、それを教えられた師に対する「信」でもあります。「信」の極致といっていいでしょう。 ...

法華三部経の要点114

観普賢経の重要な言葉(二)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇114 立正佼成会会長 庭野日敬 観普賢経の重要な言葉(二) 煩悩に溺れなければよい  目を閉ずれば則ち見、目を開けば則ち失う。  普通の生活をしている信仰者は、朝夕の読経とか、唱題行とか、仏教書を一心に読んでいるときなどは、心が静かに深まり、一つに集中していますので、なんともいえない心の底からの喜びを覚え、仏さまの存在もマザマザと感得できます。それが「目を閉ずれば則ち見」です。  ところが、ひとたび日常の生活に戻れば、つい利己心のとりこになったり(貪)、わがままな気持ちから怒ったり(瞋)、本能の衝動に振りまわされて愚かな行動をしたり(痴)します。そんなときは仏さまの存在をも見失い、仏さまの教えをも忘れています。それが「目を開けば則ち失う」です。ですから、折に触れて反省・懺悔することが必要なのです。  菩薩の所行は結使を断ぜず使海に住せず。  この場合の菩薩とは、在家の生活をしていながら、至高の悟りを求め、人を救い世を救う行動に挺身する人びとをいいます。在家の生活をしていますと、煩悩をすっかり断ち切ってしまうのは事実上不可能です。出家修行者に対する教えでは煩悩を滅除することが強調されていますので、生真面目(きまじめ)な在家信仰者は、それを真(ま)に受けて自らの煩悩について思い悩みます。  そこでお釈迦さまは、右の句をお説きくださったものと思われます。結使というのは煩悩のことですが、「在家の信仰者は煩悩をすっかり断ち切っていなくてもいいのだ。ただ、煩悩の海(使海)にドップリ浸って溺(おぼ)れないように心がければいいのだ」というのです。じつに現実に即したありがたい教えです。  何者か是れ罪、何者か是れ福、我が心自ら空なれば罪・福も主なし。  この世のすべてのものごとは本来空なのだから、自分の心が罪とか福とかいうものにひっかからなければ、罪も、福も、もともと実体があるものではないのだから、振りまわされたり影響を受けることもないのだ……というのです。そして、自由自在な境地に遊ぶことができるわけです。 影響力の大きい者の懺悔  若し王者・大臣・婆羅門・居士・長者・宰官、是の諸人等貪求(どんぐ)して厭くことなく、五逆罪を作り、方等経を謗し、十悪業を具せらん。是の大悪報、悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎん。必定して当に阿鼻地獄に堕つべし。  現代語に意訳しますと、「もし元首とか、政府高官らが、宗教者や教育者などの指導的立場の人とか、知識人とか、大会社の経営者とか、上級職の役人とかいうような社会的地位の高い者が、あるいは物質や名誉や、他者の奉仕などを貪り求めて飽くことなく、あるいは五つの大罪をつくり、あるいは大乗の教えをそしり、あるいは十の悪い行いをすれば、その人は罪業の報いによって、豪雨にもまさる勢いでまっさかさまに悪い世界へと堕落することはまちがいない。まったく救いのない地獄へ必ず落ちてしまうであろう」  説明の要はありますまい。現在の世相を見ればまさに歴然たるものがあります。 ...

法華三部経の要点115

懺悔は心に発し実践に終わる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇115 立正佼成会会長 庭野日敬 懺悔は心に発し実践に終わる 在家仏教者の懺悔五ヵ条  懺悔ということの第一と第二の段階についてはこれまでに説明してきましたが、観普賢経に説かれる懺悔は非常に深遠で、夢に普賢菩薩を見るといった潜在意識の世界にまで踏み込んだものです。それで、たいていの人は、なんだか自分とはかけ離れた世界のことのように感じることもありましょう。そこで、その説法の結びにおいてお釈迦さまは、政治家などを含む在家の人間のための懺悔について、現実的な方法を五ヵ条に分けて次のようにお説きになっておられるのです。  一、在家の人は、どのようにして懺悔したらよいのかといえば、いつも正しい心を持ち、仏・法・僧の三宝をそしることなく、出家の修行の障害となることをしないことである。常に仏・法・僧・戒・施・天の六法を強く念じ、それらの道の実践につとめなければならない。また、大乗の教えを持(たも)つ人々の面倒をよく見、その人たちを尊敬することである。みずからも深遠な教えである「第一義空」を常に心にとどめていなければならない。これが在家の人びとの懺悔の第一の道である。  二、次に、父母に孝行をつくし、先生や目上の人を尊敬すること。これが第二の懺悔の法である。  三、次に、正法に基づいて国を治め、間違った考えによって人民を邪道へ曲がらせないこと。これが第三の懺悔である。  四、次に、月に六度の精進日(六斎日)には、自分の治めている土地に布告を出し、支配力の及ぶ限りの所で殺生が行われないようにすること。これが第四の懺悔の法である。  六斎日というのは、昔のインドの風習で、毎月八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日には、在家の人々が心身の行いをつつしみ、清浄な生活をし、罪を反省し、善事を行うようにつとめることになっていました。つまり、消極的にも積極的にも精進する日だったわけです。 仏は滅したまわず  第五の懺悔がじつに大事です。あえて原文を掲げておきます。  第五の懺悔とは、但(ただ)当に深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。是れを第五の懺悔を修すと名(なづ)く。  因果というのは、原因・結果の法則です。こういうことをすれば、こういう条件下においてこういう結果が出、そしてあとに必ずその影響を残すという因・縁・果・報の法則です。その法則を深く信じておれば、けっして悪いことはできず、つとめて善い行いをせずにはいられなくなります。  一実の道というのは、人間がたどるべきただ一つの道、すなわち仏になる道、菩薩道のことです。人間は好むと好まざるとにかかわらず、死に変わり生まれ変わりを繰り返しながら、仏の境地にまで向上しなければならないということを信じておれば、どうしてもその菩薩道を積極的に歩まざるをえなくなるのです。  仏は滅したまわざると知るべしというのは、久遠実成の本仏さまは不生不滅であり、常にわれわれと共にいてくださることを確信することです。これが信仰の極致であることはいまさら言うまでもありません。  この第五の懺悔の法には、短い文章の中に仏法の神髄が尽くされていると言っていいでしょう。この一節はぜひ暗記して、折に触れて暗誦してほしいものだと思います。  最後にこのお経を通観してみますと、懺悔というのは、「心」の反省から出発するものであるけれども、結局は「実践」に帰着するものであることがよくわかります。お互いさま、つとめて菩薩道に精進いたしましょう。  これで、この連載を終わることにします。汲(く)めども尽きぬ有り難い法華経をいつも受持したいものです。 (おわり) ...

経典のことば1

この小児の布施した土をもってわが房を塗れ(賢愚経 17)

1 ...経典のことば(1) 立正佼成会会長 庭野日敬 この小児の布施した土をもってわが房を塗れ (賢愚経 17) 土を布施しようとした子供  ある朝、お釈迦さまはいつものように阿難を連れて舎衛城を托鉢していらっしゃいました。  舎衛城といっても、インドでは外敵から守るために町全体が城壁に囲まれていて、その中には王宮もあれば、武士たちの館(やかた)もあれば、長者の邸(やしき)もあれば、さまざまの民家もあるのです。  インドの町では朝がいちばん活気を呈します。米や粟や麦を平たいザルに入れて並べている商店、さかんに客を呼んでいる香辛料の店、野菜をてんびん棒でかついで売りに来た農婦、羊の群れを追って草原へ急ぐ少年など、たいへんなにぎわいです。  その中を、お釈迦さまは静かにゆったりと歩いていらっしゃいます。それと知って、ていねいに手を合わせてごあいさつする者もあれば、そしらぬ顔で通り過ぎて行く者もあります。お釈迦さまは、どんな応対を受けようが、すこしも表情をお変えにならず、あいかわらずゆっくりと歩を進めていらっしゃいます。  ところが、ある広場にさしかかりますと、三、四歳ぐらいの子供たちが泥遊びをしていました。土を集めて水でこね、宮殿のようなものをつくったり、倉のようなものをつくったりしていました。倉の中には、小さく丸めた土を盛っています。米や麦のつもりです。  その中の一人が、お釈迦さまが来られるのを見ると、仲間たちに向かって、  「あの沙門の方にこの米や麦を布施しようではないか」  と言い出しました。仲間も、それがいい、それがいいと賛成しました。  お釈迦さまが目の前に来られるとその子は、「どうか、この米と麦をお受けください」と、もみじのような手いっぱいに土団子を盛って差し出しました。お釈迦さまは、ニッコリとほほ笑みながら立ち止まられました。 恭しくお受けになった釈尊  子供はたいへん小さく、お釈迦さまは人一倍長身のお方でしたので、手が届きません。子供は仲間の一人に、肩車をさせてくれといい、肩の上に乗りました。それでも、まだお釈迦さまのおなかのあたりの高さしかありません。  お釈迦さまは、身をかがめ、頭を低くして、恭しくその土団子を鉄鉢にお受けになりました。そして、それを阿難にお渡しになり、こうおっしゃいました。  「この土でわたしの房を塗りなさい」  祇園精舎に帰られますと、阿難はおいいつけどおり、お釈迦さまの部屋の一隅にその土を塗りました。ほんの少しの土ですから、ひとところを汚しただけですぐなくなりました。阿難が衣服をあらためて仏さまの前に進み、  「かえってお部屋の一隅を汚しただけでございます」と報告いたしますと、お釈迦さまは、  「それでいい。それでいい。あの子供が歓喜して施した土は、何よりも尊い布施なのである」とおおせられました。  わたしは賢愚経のここのくだりを読んだとき、思わず涙ぐんでしまいました。お釈迦さまはなんというお優しい方であろうか。小さな子供も人間としてひとしなみにごらんになる、なんという心の広い方であろうか。ひとの心情に対してなんという理解の深い方であろうか……と。  そして、布施というものの真実の意味をも、つくづくと思い知らされたのでありました。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば2

女人は顔貌の美しさをもって真の美とはしない。心が素直で行いのすぐれたのがほんとうの美しさなのである。(玉耶女経)

1 ...経典のことば(2) 立正佼成会会長 庭野日敬 女人は顔貌の美しさをもって真の美とはしない。心が素直で行いのすぐれたのがほんとうの美しさなのである。 (玉耶女経) 女性は神の最高傑作  祇園精舎を寄進した大長者の子息がめとった嫁の玉耶(ぎょくや)はたいへんな美人でしたが、わがままで、夫や舅・姑に対して高慢な振る舞いばかりしていました。どんなに教えさとしても改まらないので、お釈迦さまに教化をお願いしました。  お釈迦さまが長者の邸(やしき)にお着きになると家内一同がお出迎えしましたが、玉耶だけは奥の間に隠れて出てきません。お釈迦さまは神通力をもって目の前に引き寄せられました。玉耶はどうなることかと恐れおののき、真っ青になっておん前に座りました。  ところが、お釈迦さまは思いのほか優しいお顔で玉耶をごらんになりおだやかに、情理をつくして女性の生き方についてこんこんとお説き聞かせになりました。玉耶はうかがっているうちにしんそこから自分の非を悟り、それ以来すっかり人間が変わってしまいました。ここに掲げた言葉は、その長い説法のなかのいちばん肝心なところを抜いて意訳したものです。  多くの芸術家や詩人たちが、「女性こそは神が造りたもうた最高傑作である」とほめたたえています。それは決して表面の美だけを見て言っているのではありません。女性の深いところにひそむ永遠性を秘めたいのちと心の美しさをこそ賛嘆しているのです。こうした美しさをいまの女性たちは忘れているのではないでしょうか。 男性の真の憧れは「聖女」  男性はだれでも、一生に一度か二度はそうした「聖女」に巡り会い、いつまでもその記憶を珠玉のように胸に刻んで忘れないものです。わたしにもそういう経験があります。  水兵として軍艦に乗り組んでいたころのことです。何十日もの洋上訓練を終えて母港に帰ると、一定の民家に泊まって家庭的雰囲気を満喫させ、心身を休ませるという、味な制度が海軍にはありました。  わたしの宿の主婦鈴木千代美さんは、当時三十歳で小さなお子さんを持っておられましたが、親切で、きさくで、しかも知性豊かな美人でした。書籍・新聞・雑誌などをよく読んでいて、久びさに上陸したわたしたちに社会や政治のさまざまなニュースを解説入りでよく話してくれました。  わたしは姉を持たずに育ったので、何となく姉という存在に憧れていました。また、すでに母を失っていたので、無意識のうちに母性的なものに飢渇を覚えていたようです。その二つながらを鈴木さんは十分に満たしてくれたのですが、しかし、二十歳を過ぎたばかりの多感な青年にとっては、それをもう一つ超えた「聖女」的な思慕を覚えさせる人でした。そのほのぼのとした潤いに満ちた思い出は一生消えることはないでしょう。  わたしが結婚して漬物屋をしていたとき、鈴木さんが訪ねてきてくれたことがあります。夫婦で夜おそくまで明日売る煮豆を煮たり、サケの切り身を切ったりしながら、水兵当時の思い出話をし、温かい記憶をよみがえらせました。貧乏のどんぞこで余分の布団がなく、家内と鈴木さんが一つの布団に寝、わたしは座ったままウトウトして夜を明かしたのでした。  昭和十三年三月、立正佼成会を創立するとすぐ、わたしは鈴木さんを訪ね、会の青経巻を第一番に差し上げたのでした。  世に「永遠の男性」という言葉はなく、あるのは「永遠の女性」という言葉のみです。どうか現代の女性の皆さん、この事実をよく味わい直して頂きたい、と願われてなりません。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば3

たまたま一あればまた一を少(か)き、是れあれば是れを少く、斉等(さいとう)あらんことを思う。 (仏説無量寿経・下)

1 ...経典のことば(3) 立正佼成会会長 庭野日敬 たまたま一あればまた一を少(か)き、是れあれば是れを少く、斉等(さいとう)あらんことを思う。 (仏説無量寿経・下) 欲求不満で一生を送るか  このことばの前に、お釈迦さまは「世の中の人は、田が無ければ田が欲しいと心を悩まし、持ち家がなければ家が欲しいと心を悩ます。牛や馬、金銭、衣服、食物、家財道具などについてもそのとおりである」という意味のことをお説きになっています。  そして、ここにあるように「たまたま一つの物があれば、他の一つの物について不足感をおぼえ(少き)これがあればあれがないと欲求不満を起こす。そして、何もかも等しく揃えて持ちたい(斉等あらん)と望むものである」と、煩悩多き凡夫の心理を説破しておられます。  これにつづけて、大略つぎのように述べられています。  「このように心を悩ましてみても、なかなか思うとおりにならぬものである。それなのに、ただ物を追い求めて心身ともに疲れはて、善を行ったり、道を求めたり、徳を積むことを忘れ、そうしているうちに一生が終わってしまう。そしてただ一つの物さえ持たず、ひとりあの世へ去ってしまうのである」  あなたはこれを読んで、二千五百年前のインドと今日の日本と、いっこうに変わりはないのだなぁ……とは思いませんか。  マイホームが欲しい。無理をしてローンで家を建てる。今度は車が欲しくなる。ピアノも欲しい。ついサラ金から金を借りる。ローンとサラ金への支払いに頭を悩まし、妻は家事に疲れたからだにむちうってパートに出る。ローンの支払いが終わるころ夫は定年になる。老いがしのび寄る。そして死を迎える。  そのときになって、自分はいったい何のためにこの世に生まれ、これまで生きてきたのだろうか……と、むなしい思いにさいなまれても、時すでに遅いのです。  ですから、ここに掲げたことばは、「人生とは何か」「人間は何のために生きるのか」という大命題について深く考えさせられる、貴重この上もない一句だと思うのです。 子供にも「斉等」を望むな これはまた、教育の問題についても大きな示唆と教訓を含んでいると思います。  あなたはお子さんに対して「一あればまた一を少き」の思いをいだき、たとえば国語がよくできれば算数の点数の劣るのを不満とし、「斉等あらんこと」を願って、それ塾よ、家庭教師よと騒いではいらっしゃいませんか。そのようにすべての成績を均等に上げようとすることは、その子の個性を伸ばさず、かえって持ち前の天分を殺すものだとは思いませんか。  あの大発明家エジソンは、いわゆる変わった子でした。小学校に入学しても、一人で変な実験ばかりしていました。数学の時間に先生が「一たす一は二です」と教えると、「なぜ一たす一は二になるんですか」としつこく追求するというふうでした。先生は、この子は精神薄弱児だと判断し、母親を呼び出して「お宅のお子さんはほかの子供と一緒に教育はできません」と言い渡しました。  その母親が偉かったのです。子供の本性を見抜いていましたので、さっそく退学させて自宅で教育し、その異常なほどの探究精神を伸ばしてやりました。エジソンは学校には三ヵ月しか行っていないのに、一生に千八百余りの発明を成し遂げたのでした。  子供はだれでも未知の可能性を秘めています。それぞれ持ち前の才能を具えています。それを「斉等ならしめん」として殺してしまうのは、その子自身のためにも、人類全体のためにも、大きな損失だと知るべきでありましょう。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば4

仏のたまわく「さえぎることなかれ。この老母は五百生の中においてわが母となれり。愛する心いまだ尽きず。これをもって我れを抱くなり」 (雑宝蔵経・巻1)

1 ...経典のことば(4) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏のたまわく「さえぎることなかれ。この老母は五百生の中においてわが母となれり。愛する心いまだ尽きず。これをもって我れを抱くなり」 (雑宝蔵経・巻1) 仏陀に抱きついた老婆  お釈迦さまが布教の旅の途中コンカナ国をお通りがかりになり、とある道ばたの木の下でお休みになっておられました。  道の向こうに井戸があって、一人のみすぼらしい老婆が水を汲んでいました。灰色の髪は蛇がからまったように乱れて垂れさがり、深い皺(しわ)をたたんだ顔はどす黒く、よれよれの衣を着ていました。  垢(あか)だらけの細い腕で、けんめいにつるべの綱をたぐっては水を汲み、水がめに移しているのです。  お釈迦さまは、おそばにいた阿難に、あの水をすこし供養してもらいたいと頼んでおいでと、おいいつけになりました。  阿難が老婆のところに行って、そう言いますと、老婆は水がめを頭にのせて道を横切っておん前までやって来ました。  ところが、その老婆は水がめを地に下ろすや、いきなりお釈迦さまに近づき、抱きつこうとするのです。  阿難がびっくりして、  「何をするのだ。この方は仏陀におわしますぞ」  と老婆の腕をひっつかんで引きもどそうとしました。そのとき、お釈迦さまがおっしゃったのが右のことばです。  阿難が思わず手を放すと、老婆はしっかりとお釈迦さまを抱きしめ、しばらく涙にむせんでいましたが、やがて引きさがり、いかにもうれしそうに手を叩き、足を踏みならして躍るようなしぐさをするのでした。 宿世を思えばみな血縁  その老婆はカタンシャラという名前で、ある家の奴隷として使われているのでした。お釈迦さまは阿難に命じて、その主人を呼んで来させました。そして、「この老婆を解放して出家させたらどうか、もし出家したら必ず阿羅漢(すべての煩悩を除き尽くした境地)に達するであろう」と相談されましたところ、主人は一も二もなくおことばに従いました。  お釈迦さまは、その老婆を波闍波提比丘尼(はじゃはだいびくに=出家前は釈尊の義母)に預けて修行させられましたところ、ごく短いあいだに阿羅漢の悟りを得、仏陀のお説きになる経文を理解すること比丘尼中で随一となりました。  お弟子たちは不思議に思ってその理由をお尋ねしたところ、お釈迦さまは、「じつはこの老母は、わたしの過去の無数の人生において常にわが母であった。ところが、ある宿世において物惜しみと貪りの心が強く、わたしが布施しようとするのを止めだてしたために、その因縁によって貧しい家に生まれたのだ云々」とお答えになりました。  それにしても、現実の問題として、汚らしい老婆が抱きついて来ようとしたのを、さえぎろうとする阿難を制してその行為を喜んでお受けになったお釈迦さまの隔てないみ心を思うとき、ただただ頭が下がります。  また、われわれはお釈迦さまのような宿命通(しゅくみょうつう=過去世を知る神通力)は持っていませんけれど、この世で巡り会う人びとが、はるかな過去世においてあるいは父であり、母であり、兄弟姉妹であったかもしれないことを思うとき、どんな人に対しても憎悪や、軽蔑や、拒否感をいだいてはならないことを、この経文によってしみじみと思い知らされるのであります。 題字と絵 難波淳郎 ...