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法華三部経の要点 ◇◇3
立正佼成会会長 庭野日敬

さまざまな宗派の人々からも賛仰された

道元は死の直前まで唱えた

 法華経は究極の真理の教えです。ですから、いわゆる法華経系の宗派以外の人々も、ほんとうに真理を求め、真理を愛する人は、この教えに傾倒し、賛仰したのでした。二、三の例をあげてみましょう。
 道元禅師といえば、わが国曹洞宗の開祖として、また不滅の名著『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の著者として、古今の宗教界にそびえ立つ巨峰ともいうべき禅者です。その『正法眼蔵』を読みますと、禅師の思想の底には法華経の精神が脈々として流れていることがはっきりとわかります。
 その一々については後で触れることもありましょうが、禅師が亡くなられる直前の行動こそが、いかに深く法華経に傾倒しておられたかを端的に物語っています。
 禅師は京都の一信者の家で死を迎えられたのですが、最期の時を前にして法華経神力品の一節を低い声で唱えながら部屋の中を静かに歩き回っておられたといいます。そして、その一節を正面の柱に書きしるし、終わりに「妙法蓮華経庵」と書かれたのでした。
 じつに禅師は、法華経に生き、法華経に死んだ人といえましょう。

キリスト者もこの経を賛仰

 白隠禅師は徳川時代の臨済禅の最高峰でした。出家して間もない十六歳のとき法華経を読みましたが、「譬え話と因縁話ばかりで何ということはない」と失望し、それ以来ずっと手にしたことはありませんでした。
 ところが、修行を積んでひとかどの僧となってから、久しぶりに法華経を読み返してみました。すでに四十二歳になっていました。ある夜、譬諭品を読んでいて「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」という偈(げ=詩形で説かれた経文)のところにさしかかったとき、にわかに悟りが開け「法華経とはこんなお経だったのか」と、有り難さがジーンと胸に来ました。
 ふと、軒下で鳴くキリギリスの声が耳に入りました。それを聞いたとたん、思わず大声をあげて号泣したといいます。
 白隠禅師は八十四歳まで長生きし、当代随一の高僧として世の尊崇を受けましたが、その悟りも法華経によってこそ開かれたのでありました。
 法華経は、宗教の違いにこだわらず、究極の真理を求める人には高く評価され、賛仰されました。その代表的な例が賀川豊彦師でありましょう。師は大正から昭和初期にかけて神戸の貧しい人々と共に住み、キリスト教の伝道に身命を惜しまず、のちに社会運動に転じた菩薩的キリスト者でした。
 その著『生活と宗教』には次のような文章があります。
 放蕩(ほうとう)息子の譬え(筆者注・長者窮子の譬え)、火宅の譬え、最微者(筆者注・弱い小さな存在)を愛する心持、すべてに化身して救いを全うする精神などを教えてくれる「法華経」はけっしてイエスの敵ではないと思う。永遠の生命を説き、真理の把持を説き、肉の誇りとする霊の勝利を説くことにおいて、「ヨハネ伝」の東洋流の注釈書と解してすこしも差支えない――。私は仏者が「法華経」を捨てる日にそれを拾い上げよう。そして「法華経」が教えてくれるすべての尊いものを、私自ら実行しよう。――
 これを読んでいるあなたは、今まさしくこの法華経を学び、お釈迦さまのお心に直接触れているのです。ということは、お釈迦さまの直参の弟子であり、すでに救いへの第一歩を踏み出しているわけです。
 どうか、頭で学ぶのでなく、心で、魂で、そして全身でこの尊い経典を読んでいって頂きたいものです。


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