人間釈尊(72)
立正佼成会会長 庭野日敬
仏塔から生まれた法華経
比丘は葬儀にかかわるな
お釈迦さまがクシナーラの沙羅の木の下で偉大なる死を遂げられると、土地の住民であるマルラ族が、そこから一キロばかり離れた、同族が聖なる地としている場所まで野辺の送りをし、そこで火葬に付し奉りました。
なぜお弟子たちがそれをしなかったかといいますと、お釈迦さまのご遺言によるものなのです。ご臨終が近づいたとき、阿難が、「ご遺体をどうしたらいいのでしょうか」とお尋ねしたところ、世尊は、
「阿難よ。そなたたちはそのようなことに心を煩わしてはならない。比丘というものは最高の善に向かって努力するのがつとめなのだ。わたしの遺骸は、わたしに帰依している世俗の人々が処置し、供養してくれるだろう」
とおおせられたのでした。
それにしても、――わたしの遺骸は林の中に捨てて鳥や獣に食わせてくれ――とか、――灰をガンジス河に流してくれ――とかおっしゃらなかったところが、あくまでも「中道」の人であったお釈迦さまらしいと思われてなりません。
さて、ご入滅を聞いたマガダ国のアジャセ王や、ヴェーサーリー国のリッチャビ族や、カピラバストの釈迦族をはじめ、七つの国や部族たちがご遺骨を渡してくれと要求してきましたが、クシナーラのマルラ族は頑としてはねつけ、争いが起ころうとまでしました。そのとき、あるバラモンが仲裁に入って仲よく分骨することになり、それぞれが仏舎利塔を建ててお祀りしたのでした。
師の最高の遺産・法華経
そこまでは、お釈迦さまは大衆の心の中にしっかりと住んでおられたのですが、だんだん年月がたつにつれ、仏の教えを受け継いだ比丘たちが世間から離れて寺にこもり、自分の解脱のみを目的とした修行に専念するようになりました。
百年たち、二百年たつと在家の信仰者たちはお釈迦さまが懐かしく、恋しくてたまらなくなりました。そこで、富裕な商人(長者)たちを中心として仏塔を建て、そのまわりに集まってお釈迦さまをしのび、お残しになった教えをおさらいしました。
そして、一般民衆のみんなが一緒に救われるというのがお釈迦さまのご精神だったのだ……として、さまざまな経典を編集し、それを大乗(大きな乗り物)の教えだと唱え、比丘たちの守っている教えを小乗(小さな乗り物)とさげすみました。それに対して比丘たちは――おまえたちの経典は世尊の教えとは違う――といって反論し、論争がはてしなく続きました。
そのとき、仏塔礼拝者の中から、――いや、お釈迦さまの教えには小乗も大乗もない。ただ一仏乗しかないのだ――と主張する一団が現れ、お釈迦さまが最晩年に霊鷲山で説かれたこの教えこそがその一仏乗の教えだとして編集したのが、法華経にほかならない……といわれています。
そういえば、後世にはお釈迦さまが「この世は苦だ」とお説きになったことだけが増幅され、前(69回)に書いた「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」とおおせられたような一面はすっかり忘れられているようです。
その点、法華経は明るい人生肯定の経典で、お釈迦さまのみ心の底の底にあったお気持ちをよく表していると思われてなりません。お釈迦さまが悟りをひらかれた瞬間につぶやかれたという「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生みな如来の徳相を具有す」という言葉を思い出してみますと、そのことが胸に落ちるようにわかります。
お互いさま、師がお残しになった最高の遺産である法華経を、いのちと魂の糧として、この世を明るく元気よく生きていこうではありませんか。 (完)
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎