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法華三部経の要点 ◇◇1
立正佼成会会長 庭野日敬

法華経はすべてを「一つ」にまとめる教え

これこそが仏陀の真精神

 法華経の成立にはさまざまな説がありますが、わたしはつぎの説が正しいと信じています。
 お釈迦さまが入滅されてから年月がたつにつれて、出家の修行者たちはだんだんと世間の一般大衆から離れて山や寺にこもり、自身の解脱だけを目的とした修行に専念するようになりました。
 一方、一般の人々にとっては、たぐいなき大聖者であられたお釈迦さまのおもかげとみ教えが、心の底に焼きついて離れません。それで、お釈迦さまをお慕いするやむにやまれぬ気持ちから、富裕な商人(長者)たちを中心にして仏塔を建て、その周りに集まって礼拝したり、残された教えをおさらいしたりしました。
 おさらいをしているうちに、――お釈迦さまの教えの真精神はここにあったのだ――という新しい解釈をうち出すようになり、それをまとめて『般若経』をはじめとするいろいろな経典を世に出しました。その人たちは、それらの経典を、これこそが世の多くの人間を救いにみちびく大きな乗り物のようなものだという意味で「大乗」と称し、比丘たちが信奉している初期のままの経典を「小乗(小さな乗り物)」といってさげすみました。
 それに対して比丘たちは、――おまえたちの説くのは仏説と違う。本当の仏教ではない――といって一歩も退きません。同じ仏教を信奉する者が、そうした二つの派に分かれて(細かくいえばもっとたくさんの派に分かれていたのですが)お互いに背を向け合うのは、なんといっても不幸なことでした。

仏の教えはただ一乗

 そのとき、やはり仏塔礼拝者の中から――お釈迦さまの教えには大乗とか小乗とかの区別はないのだ。もともと一仏乗しかないのだ――と主張する一団が現れました。
 そして、「お釈迦さまのご真意はどこにあるかといえば、ご入滅を前にして霊鷲山でなさったこのお説法に尽くされているのだ」と、そのお説法の内容をくわしく叙述し、しかもそれが説かれたときの有り様を目の前に見るようにいきいきと再生して、経典として編集しました。その経典が法華経にほかなりません。
 ここに法華経の大切な性格があるのです。すなわち、もともとは一つであったものが形のうえで別物のようになってしまっていたのを、それらのすべてを受け入れ、包容しながら、しかも元の一つにまとめてしまうという、統合の精神であり、「和」のはたらきであります。
 だからこそ、この経典はしだいに多くの人々の帰依をかち得たのです。そして、中国からインドに留学した高僧竺法護(じくほうご)が帰国して第一番に漢訳したのが『薩陀芬陀利経(さっだふんだりきょう=サッダルマ・プンダリーカ・スートラという原名を音写した題号)』であり、あとでふたたび訳し直したのが『正法華経』だったのです。
 この二つの漢訳は文章が硬くて読みづらいものでしたので、あまり広く流布しませんでした。ところが、いまのシルクロードにあったクッチャ国の鳩摩羅什(くまらじゅう)という人が漢訳した『妙法蓮華経』は、まことに流麗な、そして胸にしみ入るような名文でしたので、たちまち中国の人々の間にひろまり、そして、日本に渡っても多くの人々の信仰をかち得たのでした。
 これからわたしが解説しようとする法華経も、その『妙法蓮華経』なのであります。


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