人間釈尊(68)
立正佼成会会長 庭野日敬
最後の旅への出発
「連れていっておくれ」
ある日お釈迦さまは、霊鷲山のご香室でひとり瞑想(めいそう)にふけっておられましたが、やがて傍らにいた阿難に、
「阿難よ。旅に出よう。今度は北へ向かって行こう」とおおせられました。
おん年すでに八十歳、お足もともなんとなくおぼつかないおからだなのに、また布教の旅にお出かけになろうとは、なんという強靭(きょうじん)な精神力でありましょう。
それにしても、北を目指されたのはどういうわけでしょうか。北といえば、生まれ育たれたカピラバストの方向です。やはりお年を召して故郷に引かれる思いが生じられたのではないかとも推測されるのですが、仏伝にはそれについてはなんら記されていません。
さて、阿難と数人のお弟子を連れて旅立たれたお釈迦さまは、まずナーランダ村におとどまりになりました。この地は、後に史上最大の仏教大学が建てられた所で、七世紀に中国の玄奘(げんじょう)三蔵(『西遊記』の主人公)もここで数年間学び、そのころは一万人の学僧がいたということです。
その地にしばらくご滞在になってから、お釈迦さまは「阿難よ。パータリ村へ連れていっておくれ」とおおせられました。中村元先生著『ゴータマ・ブッダ』の注に――「行こう」というパーリ文よりも「つれていってくれ」という梵文(ぼんぶん)のほうが、老齢の釈尊の姿をよく示している――とありますが、まことにそのとおりで、以前にも増して何かと阿難の介護が必要だったのでありましょう。
川を渡す人々への称賛
パータリ村はガンジス河の舟着き場で、北へおもむく旅人はここを通らねばならぬ交通の要衝でした。後には首都として栄えた所です。
人々は村をあげて世尊のご一行をお迎えし、心からの接待を申し上げました。世尊は村人たちのために戒・定・慧の三学についてこんこんとお説き聞かせになったと、仏伝には記されています。
いよいよ世尊がここからガンジス河を渡られる日が来ました。村人たちは総出でお見送りしました。ちょうどマガダ国の大臣が二人、この地に都城を築くために来ておりましたが、そのうちの一人がこう申し上げました。
「世尊よ。きょう世尊がお出になるこの門を『ゴータマの門』と名付けましょう。世尊がお渡りになる渡し場を『ゴータマの渡し』と名付けようと存じます」
世尊は感慨深げにその言葉をお聞きになりながら、一隻の筏(いかだ)にお乗りになったのでした。
さて、向こう岸にお着きになった世尊は、しばらくの間、はるかパータリ村のほうを眺めておられましたが、やがてお目を転じて、こちらの岸辺で働いている船頭たちや、筏造りの人々を親しげにご覧になりながら、次のような偈(げ)をお詠みになりました。
深い所をすてて橋を造り、流れを渡る人々もある。浮き袋を結びつけて筏を造って渡る人もある。渡り終わった人々は賢者である。
この偈の表面の意味は、煩悩と人生苦に満ちた世界から解脱の彼岸に渡る修行の種々相と、渡り終えた人の尊さを詠まれたのであることは明らかです。しかし、中村元先生は「交通が不便であった時代に、橋や筏をつくって実際に交通の便を開いてくれる人々に対する称賛の気持ちが含まれている、と見てよいであろう」と解説しておられます。
そういう見方をすれば、人間としての釈尊のお姿がまざまざと目前に浮かび上がってきて、ひとしお懐かしい思いが込み上げてくるのを覚えるではありませんか。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎
立正佼成会会長 庭野日敬
最後の旅への出発
「連れていっておくれ」
ある日お釈迦さまは、霊鷲山のご香室でひとり瞑想(めいそう)にふけっておられましたが、やがて傍らにいた阿難に、
「阿難よ。旅に出よう。今度は北へ向かって行こう」とおおせられました。
おん年すでに八十歳、お足もともなんとなくおぼつかないおからだなのに、また布教の旅にお出かけになろうとは、なんという強靭(きょうじん)な精神力でありましょう。
それにしても、北を目指されたのはどういうわけでしょうか。北といえば、生まれ育たれたカピラバストの方向です。やはりお年を召して故郷に引かれる思いが生じられたのではないかとも推測されるのですが、仏伝にはそれについてはなんら記されていません。
さて、阿難と数人のお弟子を連れて旅立たれたお釈迦さまは、まずナーランダ村におとどまりになりました。この地は、後に史上最大の仏教大学が建てられた所で、七世紀に中国の玄奘(げんじょう)三蔵(『西遊記』の主人公)もここで数年間学び、そのころは一万人の学僧がいたということです。
その地にしばらくご滞在になってから、お釈迦さまは「阿難よ。パータリ村へ連れていっておくれ」とおおせられました。中村元先生著『ゴータマ・ブッダ』の注に――「行こう」というパーリ文よりも「つれていってくれ」という梵文(ぼんぶん)のほうが、老齢の釈尊の姿をよく示している――とありますが、まことにそのとおりで、以前にも増して何かと阿難の介護が必要だったのでありましょう。
川を渡す人々への称賛
パータリ村はガンジス河の舟着き場で、北へおもむく旅人はここを通らねばならぬ交通の要衝でした。後には首都として栄えた所です。
人々は村をあげて世尊のご一行をお迎えし、心からの接待を申し上げました。世尊は村人たちのために戒・定・慧の三学についてこんこんとお説き聞かせになったと、仏伝には記されています。
いよいよ世尊がここからガンジス河を渡られる日が来ました。村人たちは総出でお見送りしました。ちょうどマガダ国の大臣が二人、この地に都城を築くために来ておりましたが、そのうちの一人がこう申し上げました。
「世尊よ。きょう世尊がお出になるこの門を『ゴータマの門』と名付けましょう。世尊がお渡りになる渡し場を『ゴータマの渡し』と名付けようと存じます」
世尊は感慨深げにその言葉をお聞きになりながら、一隻の筏(いかだ)にお乗りになったのでした。
さて、向こう岸にお着きになった世尊は、しばらくの間、はるかパータリ村のほうを眺めておられましたが、やがてお目を転じて、こちらの岸辺で働いている船頭たちや、筏造りの人々を親しげにご覧になりながら、次のような偈(げ)をお詠みになりました。
深い所をすてて橋を造り、流れを渡る人々もある。浮き袋を結びつけて筏を造って渡る人もある。渡り終わった人々は賢者である。
この偈の表面の意味は、煩悩と人生苦に満ちた世界から解脱の彼岸に渡る修行の種々相と、渡り終えた人の尊さを詠まれたのであることは明らかです。しかし、中村元先生は「交通が不便であった時代に、橋や筏をつくって実際に交通の便を開いてくれる人々に対する称賛の気持ちが含まれている、と見てよいであろう」と解説しておられます。
そういう見方をすれば、人間としての釈尊のお姿がまざまざと目前に浮かび上がってきて、ひとしお懐かしい思いが込み上げてくるのを覚えるではありませんか。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎