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...遷化 一 妙佼先生は、三十一年の晩秋あたりから、健康の衰えが目につきはじめました。それと反比例して、その布教活動はますます激しくなりました。以前に乳ガンの手術をされたことがありましたが、退院五日目には壇上に立って説法されたのです。それほどの強い精神力の持ち主でした。 しかし、こんどの場合は何かようすが違うように感じられました。ローソクが燃え尽きようとする前に一時パッと明るくなる……あれに似たものを感じさせられるような獅子奮迅ぶりでした。 (昭和51年09月【佼成新聞】) 三十二年の一月は、元日の本部での新年祝賀会をすまされると、翌二日から早くも新春布教の第一線に立たれた。(中略) 佼成病院の主治医からは、心身の静養をなさるようにという勧告がたびたびなされ、私たちもくどいようにそれをすすめたが、なかなか聞き入れられなかった。 いや、いちおうは聞き入れて、一月下旬に下部温泉へ静養に出かけられたが、そこにはわずか二泊されただけで、帰途にはわざわざ甲府道場へまわって説法されるというありさまだった。 身近の人たちが心配して、二月十六日に甲州の湯村へ静養に行ってもらうことになった。私だけはこの湯村行きには反対した。あまり良い方位ではなかったからである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 遷化 二 妙佼先生は、私の申し上げることはたいてい素直に聞かれるのが常でしたが、このときばかりは押し切って出発されたのです。そして、私の心配が現実となって、湯村の旅館でドッと床についてしまわれたのでした。 これはあとで聞いたことですが、甲府の会員のひとりがお見舞いに切り花をお届けしたところ、妙佼先生は「根のついた花ならいただきます」と言われたので、サクラ草の鉢植をお届けしたというのです。 妙佼先生は、東京へ帰られるまでその花を飾って喜んでおられたそうです。ふつう根のついた花は「寝つく」という語呂合わせから病人には禁物となっているのですけれども、妙佼先生がわざわざそのほうを望まれたのも、もはやふたたび起つ能わざることを悟り切っておられたものとしか考えられません。 それからというものは、ただ他人の心配ばかりをされるのでした。湯村の旅館には佼成病院の井戸内科部長と看護婦さんが付き添っていたのですが、妙佼先生は「私のそばにばかりいると退屈なさるでしょう。遊びにいってらっしゃいよ。自動車で案内させますから」とか、「宿の前にローラースケート場があるでしょう。やってらしたらどうですか」などと、ひじょうに気をつかっておられました。 東京へ帰って国立第一病院に入院されてからも、「あの先生にこうしてあげなさい」「この先生にこうしてさしあげたら……」とそんなことばかり言っておられました。また、新聞に小学生が自転車を盗まれた記事が出ていると、「じゃあ、その子に早く自転車を買って届けてあげなさい」と理事長さんに命じたりされました。 また、都会議員をしておられた大森さん(故人)の奥さんが子どもさんを連れてお見舞いにこられ、「先生のおかげさまで子どもがこんなに元気になりました」とお礼を言われると、「よかったね。あんたにこれをあげるよ」と身につけておられた指輪だったか、時計だったかをはずしてあげられました。 (昭和51年09月【佼成新聞】) 遷化 三 ほんの一部の人しか知らなかったが、じつは癌が再発していたのである。痛みがあり、注射をしないと夜も眠れないという状態であった。しかも、だんだん血管が硬くなり、注射がはいらなくなった。 私は、昼間は会の用事をし、夜は病院に泊まり込んで看病した。私がお経をあげて身体をさすってあげると、スヤスヤと安眠されるのだった。また、血管が柔らかになって、注射もはいるようになった。 しかし、医師から「もうあまり長くはない。せいぜい九月ごろまででしょう」と内々聞かされていたし、病人も帰りたがっておられ、方位も良かったので、六月十六日に退院し、自宅で療養をつづけられた。 医師からは「退院すると、また痛みますよ」と言われたが、不思議と痛みは出なかった。 私は、よくよくの行事以外はそばを離れず、付きっきりで看病した。眠っておられるときは、隣室で写経をしていた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 遷化 四 病状は一進一退で、ときには床の上にすわって、窓から外の緑を眺められる日もあった。そして、「早く治って、約束しておいた地方道場へ行ってあげたい」などと話された。 だが、その望みもむなしく、七月十七日に全支部長を招いて、交替交替に会われたのが、公式には妙佼先生に接する最後の機会になってしまった。 そのときも、妙佼先生はご自分の苦痛は一言も話されず、「みんな、しっかりやってね」と言われるのだった。感きわまって泣き出す人もあったが、「なんですかメソメソして……しっかりしなさいよ」と、普通のときと変わらぬ口調で励ましておられた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 亡くなる十日ほど前だった。お庭に大勢の支部長たちが集まって、もう一度お目にかかりたいということだった。 私は妙佼先生を抱いて二階から階段の踊り場まで降り、窓越しに対面させてあげた。 支部長たちはいっせいに合掌して見上げている。妙佼先生も合掌し、暖かい眼の色でみんなを見やっておられた。それが最後の別れだった。 妙佼先生の身体は信じられないほど軽かった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 遷化 五 亡くなる一週間か十日ほど前から、だんだん食が細くなってまいりまして、いろいろなことで、私の心に不吉な感じがよぎりました。しかし、最後が近づけば近づくほど、妙佼先生は、ひじょうにほがらかになられました。それまでは「少し足がかったるい」とか、「ここが痛い」とかいうことがあって、夜でも「少し揉んでほしい」「さすってほしい」ということがあったのです。 それが、亡くなる十日くらい前からは、「もう、あなたがたもたいへんだから」ということで、せきでもして目がさめたようなときでも、せきがおさまると「放っておきなさい。放っておきなさい」とつきそっていた私と岩船さんにいわれました。その言葉に私どもも和み、そのまま妙佼先生の両側に休ませていただくのが常でした。 それは、まるで病人のそばにいるような感じでなく、むしろ私どもを喜ばせるような言葉をかけられ、少しも苦痛があるような顔はなさらず、まことに明るい雰囲気であったのでございます。 (昭和32年10月【速記録】) 亡くなる二、三日前になって「一切のことを全部お願いします」というようなことをいわれますので、どうも変だと思ったのですが、ご自分ではもう息を引き取るということが、お分かりになったのでしょう。私どもの目から見ると、よく寝まれたとか、一日三度の食事はきちんと食べていただけたとか、ということで安心していたのですが、前日には、自分から「もうただではないよ」というようなことをいわれ、「お医者さんを呼んでほしい」と、四度いわれました。 しかし、外から見ますと、変わりがないようなので、私どもには、どこがどの程度苦しいのか分からなかったのですが、九日の日は、相当に苦しかったのではなかったろうかと、今になって思うのであります。 (昭和32年10月【速記録】) 遷化 六 いつも夕方には、理事長さんと長沼理事さんが本部からお山の病室に来られますが、いつもならば妙佼先生はおふたりに早く家へ帰りなさいとおっしゃるのです。ところが、その日に限って理事長さんが階段のところまで行きますと「もう帰るのかい」とおっしゃいますので、私はそばから「いや、帰るのではありません、戸をはずしたのです」と言って理事長さんに眼で合図をしました。すると妙佼先生は「他人さまにこうしてお世話になっているんだから、あんた少し代わりなさい」とおっしゃって、私に向かってはお風呂に入るようにおすすめになりますので、私は下に降りたのであります。 私がお風呂に入って五分もたたぬうちに、理事長さんも降りてまいりまして「もうよくお休みです」と言いますので、私も安心をしてお風呂からあがって二階へ行ってみますと、なるほどいつになく呼吸も楽そうにスヤスヤお休みになっておりました。また夜中の三時ごろ一度私が目をさましたときも、相変わらずよくお休みになり、そのまま朝まで熟睡されたようすでした。朝になりまして病院から主治医の先生をお迎えするまではそう信じておったのであります。 ところが病院の先生はいつになく丹念に診察いたしましたのでうかがいますと、ちょっとごようすがおかしい、このように余りよく休まれるのはただごとではないというわけで、急に周囲の者があわて出したのでございます。 そのような経過をたどりまして、あらゆる近代医学の最善をつくしたのでありますが、ついに十日の午後六時十五分、まったく眠るがごとくに久遠の彼方へ大往生されたのであります。 (昭和32年11月【佼成】) 妙佼先生といたしましては、一切自分の身体を、会員のみなさんに布施され、ささげられておりましたから、自分はどうなろうと、少しも悔いるところがなく、喜んで、いさぎよく大役を果たされ、遷化けされたわけでございます。 (昭和32年12月【速記録】) 遷化 七 葬儀は十四、十五日にわたって行なわれたが、十五日の本葬には全国から馳せ参じた会員二十五万、後半生を慈悲の菩薩行にささげつくした人にふさわしい盛儀であった。 妙佼先生の死に対する私の気持ちは、この本葬に際して私が読んだ、つぎの《歎徳文》に尽きていると思う。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】)...
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...方便時代 一 ふりかえってみますと、不思議と十年ごとに竹の節のような節があり、その節を境としていちじるしい躍進をとげているのであります。 第一の十年は、いわゆる日中戦争のさなかに本会が創立され、その戦争がしだいに泥沼におちいり、ついに太平洋戦争に突入し、そして日本国はじまって以来の大敗北を喫し、みじめな戦後社会を迎えるという大動乱期にあって、苦悩している民衆を現実の苦しみから救い、仏法の威神力をマザマザとあらわした時代であります。一面からいえば、疾風怒濤に呑まれようとするひとりびとりの人間を救いあげることに必死で、ほかのなにものをも顧みる余裕もなかった時代だったということもできるのであります。 第二の十年は、第一の十年間にあげられたあまりにも鮮やかな仏法の威神力を慕って集まる人びとが急速にふくれあがり、大教団の体制が固められた時代であります。そして、会員は身をもってきびしい修行をし、また身をもって信仰者の美しいすがたを世間に示した時代でもあります。 (昭和43年01月【佼成】) 方便時代 二 立正佼成会の創立は、太平洋戦争勃発の三年前です。日中戦争のさなかでしたが、すでに太平洋戦争の準備に入っており、物資を何もかも満州(現在の中国東北地方)や中国本土に注ぎ込んでいました。 ですから、日本国内はぎりぎりの生活でした。だれも彼も軍需工場に行って働かなくてはならず、のん気にしている時間などありません。 そうした時間のない人が本部にご指導をもらいにくるのですから、心の持ち方、実行のあり方を簡潔に言って聞かせ、「では、早く帰って一生懸命に家業をやりなさい」と、指示するのです。こういう信者があとからあとからやってきます。 来る人、来る人に気合いを入れて、「生活の方針はかくあるべきだ。早く帰って実行しなさい。隣近所の人にも話をして功徳を積みなさい。そうすれば、あなたが救われるのだ」と話をしてあげたものです。 主人が出征していて、子どもを育てて苦労しているような人に、このように修行を命じたわけです。じつにたいへんな時代だったのです。 (昭和52年12月【求道】) 方便時代 三 失業者は巷に満ち、明日の米代にも困るような貧困者や、貧乏ゆえに病気を悪化させて苦しむ人びともたくさんおりました。 そのような世相の中にあって、私どもは、「仏法によって心の持ちかたを変え、心の持ちかたを変えることによって身体や生活の苦悩をも消滅させる」というような、きわめて現実的な信仰活動に、火の玉のようになって取り組んだものでした。 しかもそれが、われながら驚くほどの結果を無数に生みました。 トラックに轢かれた妊婦が重態の中で入信したら、十数日目には歩けるようになって赤ちゃんを無事出産したり、小学生のとき失明した人が、三十数年後に入会してすぐ眼が見えるようになったり、砲弾の破片を受けて左手がぜんぜん動かなかった人が、先祖供養に加わって法の話を聞いただけで物が握れるようになったり……等々、外部の人にとってはまったく不思議としか考えようのない霊験が、日常茶飯事のように起こったのでした。 (昭和48年03月【佼成】) 方便時代 四 夜の十二時ごろになって、信者さんの家から使いが駆けつけてきて、病人が苦しんでいるから来てくださいと言う。すぐ出かけて行き、枕元でお経をあげ、お九字を切る。病人がスヤスヤと寝入るのを見て家へ帰るのは二時ごろ……というようなことがしょっちゅうでした。 のちに第八支部長になられた保谷さん(元・豊島教会長)など「コドモビョウキスグコイ」という電報を打って寄越されたこともあります。さっそく妙佼先生とふたりで北多摩郡保谷町(今の保谷市)まで出かけて行ったものでした。鎌倉に住んでいたNさんなどはちょっと具合が悪いと、電話で「来てください。来てください」と矢の催促です。ひどいときは、一週間おきぐらいに電車とバスを乗り継いで鎌倉へかよったものです。 まるで医者が往診でもするように、個人個人にたいしてこういう手取りをなしえたのですから、今にして思えば夢のような話です。 ところで、そのようにして病気が治った人はどうなったかといいますと、たいていの人は治ったとたんにやめていったものです。それも無理はないでしょう、病気治しのために入会したのですから。(中略) その後も、同じような過程をへ、みずからを退転・不退転の篩にかけて残った菩薩たちがしだいに数を増し、その人たちが今日の立正佼成会を築き上げたのだ、と言っても過言ではありません。 (昭和51年03月【佼成】) 方便時代 五 とくに太平洋戦争の戦前、戦中、さらに戦後にかけての日本の状態は、現在思い出してもぞっとするような社会情勢でした。食べたくとも物がない。そこで、市街地でも畑を耕し、ナスをつくったり、トマトをつくったり、あるいは麦までつくる。草まで取ってきて、ゆでて食べる、という時代でした。 しかし、私どもは、世俗的にとらわれないで、一心に法の精進を続けておりました。 やがて、戦争も最後の段階になり、東京につぎからつぎに空襲があるようになりますと、食糧の足りないことをひしひしと感じたものです。そこで、焼け跡を耕して菜っぱをつくったり、ソバを植えたりして、当座のしのぎにいろいろ工夫をしたものでした。 このように戦争がたけなわになって、私たちの周囲に危険が迫れば迫るほど、時間もなければ手間もないなかを、不便をなおして、みなさん時間までにおいでになり、ご命日ともなると本部の中に入りきれず、外まであふれる状態であったのです。 国民が一億一心で戦争に全力をあげなくてはならないというときに、「きちんとお参りをしないようでは、ご守護はいただけないのだ」という指導をしたのですから、たいへんな要求であったような気がいたします。ところが、当時の人びとはそれを信じてやってきたのであります。 (昭和48年10月【求道】) 方便時代 六 一般に立正佼成会は、戦後急に大きくなったといわれています。 しかし、立正佼成会は、戦前も、戦中も、戦後も、一貫して同じ教えを説いており、戦中あるいは戦後の混乱期には、精神的にひじょうに動揺していたかたがた、たとえば、主人を召集された人とか、病人とか、苦労を背負った人ばかりが信者になって会はどんどん発展してきたのであります。 戦争中にはまことに不思議がありました。仏法に説かれた経文どおりの行ないをしている人は、戦地に行っても戦死しなかったのです。私が武運長久と書いて祈願をし、戦地に送り出した人が四百五十人いましたが、ひとりも死ななかったというのですから、これはたいしたものです。 所属部隊が全滅したなかで、ひとりだけ生き残ったというようなことが、あちこちにありました。全滅したと伝えられた加納部隊の生き残りの中にも、立正佼成会会員がいたのです。 仏法というものは、本当に信じればこのように生きているのです。お経文に、仏さまは「常に此に住して法を説く」(法華経・如来寿量品第十六)とありますが、そのお言葉の真実を、私どもはこのような事実を通して、ありありと見せられたわけであります。 戦後の人びとは、奇妙なことに、自分がまともに信仰もしていないくせに、私どもを護ってくださっている神さま仏さまのほうに、敗戦の罪を着せて、「神も仏もあるものか」といってきたのです。口とは、まことに重宝なものであります。 ところが、立正佼成会では、「神仏があるからこそ、このようになったのだ」と、真実を説いています。そこで、戦後動揺していた人たちが、どんどん入会してこられたのです。 しかも、そうした新しい会員を指導したのは、戦争中しのぎをけずって、仏さまに一切を捧げた人たちでした。こうした数多いりっぱな指導者がいたからこそ、戦後たちまちに信者が増えてきたのであります。 (昭和48年11月【求道】) 方便時代 七 もちろん、私ども信仰者といえども、実生活における不安と苦悩を体験したのでありまして、経済的物質的な生活内容としては、なんら一般と変わりなく乏しいものでありましたけれども、さまで精神的な動揺はしなかったのであります。それは、足りないながらも法華経という大法につかまらしていただき、日々にその教えを実践に移し、人さまにもこれを実行していただく指導的な立場にあったおかげであったと、いま顧みて思うのであります。 (昭和32年09月【佼成】) 方便時代 八 一時はほとんど無警察・無道徳といっていいほどの混乱した状態におちいってしまいました。人びとはまったく心のささえを失い、その日その日を食ってゆくということが、生活のただ一つの目的となってしまったのです。 そういう時代に、立正佼成会がどんなはたらきをしたか、けっして自画自賛ではなく、それはじつに大きなものであったと断言することができます。第一に、生きる目標を失った、おおくの人びとに、仏法という心の依り所を与えました。そして、精神に一つのシンをつくることによって、生活に正しさと明るさを復活させていったのです。 〈衣食足って礼節を知る〉という言葉がありますが、当時の佼成会員は、衣食は足りなくても礼節はありうることを、如実に世の人に示したのです。さまざまな奉仕活動や、団参のときの規律の正しさ、公徳心にあふれたふるまいなどに、世間は驚異の目を見はりました。 当時の物質一辺倒の混とんとした世相のなかに、じつに一陣の清風を吹きおくったのであります。 また、そうした精神的な救われかたが、かならず生活的な救われかたにも通ずるものであることを、おおくの佼成会員が身をもって明らかにしました。そのために、いわゆる識者からは新興宗教とかご利益信仰とかいう批判的なレッテルをはられながらも、教勢は爆発的な伸長をとげ、大教団としての形を成してゆき、そして今日におよんだのであります。 (昭和43年03月【佼成】)...
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...方便時代の意義 一 わが会は菩薩の集団です。行動的仏教者の集まりです。それゆえ、草創の時代は、六波羅蜜の順序のとおり、いきなり「布施」から入ったものです。 「何はともあれ、人を救うのだ。現実に悩み苦しんでいる人を、とりあえずその現実の苦悩から救うのだ」と、ガムシャラともいうべき布教、法施の行を展開しました。そして、じつに爆発的な成果をあげたのです。 救われた人も、救った人も、まわりの人びとも、ただ驚き、目を見張るばかり、といったありさまでした。いわば、信仰の奇跡に明け暮れた時代でした。 (昭和52年08月【佼成新聞】) 方便時代の意義 二 「方便の時代」とは、一般的にいって、病気とか、貧困とか、家庭の不和とかいった現実の悩みや苦しみから救われることによって信仰のありがたさを知り、ますます信仰の行に打ち込み、その実践の間におのずから法の核心に近づいていく……そういった時代です。何はともあれ、激しく流れながら、ひとりでに行くべき道をたどる谷川のような時代です。 法というのは宇宙の根本道理です。無限の過去から永遠の未来まで変わりなく存在している真理です。大昔の人間はそれを法則としてハッキリ知っておりませんでした。 ただ自分や他人の為す行為が、偶然その根本道理に合致したときは快さを覚え、幸せと和らぎを感じるので、それが繰り返されるうちに、何かそういった法則のようなものがあるはずだと考え、それを天とか神とかいう言葉で表現しました。 そして、天命に従い、神のみ心にかなった行為をすれば幸せになる、という教えが、いろいろな民族の間に、いろいろな形で説かれたわけです。 ところが、二千五百年前にお釈迦さまは、その根本道理をハッキリと法則としてお悟りになり、教えとしてお説きになったのです。一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の法門がそれです。 しかし、哲学的な思索の訓練を経ている高弟たちこそ、それを理解することができても、一般民衆にとっては雲をつかむようなものだったに違いありません。そこでお釈迦さまは、その根本道理を現実の人間生活のさまざまな場合に当てはめ、現実に救われる道をお説きになりました。それが方便の教えです。 ですから、方便の教えもチャンと根本道理から出ており、それとシッカリつながっているのです。ただ救われた人にはそのことが分からず、方便の教えに救われたように思い込んでいるのが一般です。それでも、救われたことはたいへんありがたいことであり、そのありがたさのゆえにますます信仰に打ち込むのは、それにも増して尊いことであります。「方便の時代」とは、おおむねこんな時代であります。 (昭和52年02月【佼成新聞】) もちろん、所依の経典である法華経には、仏の本体は永遠不滅の宇宙の大生命であることが明らかにされているのですけれども、まだ仏法に入ったばかりの、しかも目先の救いに必死にすがりつこうとしている人びとは、その真実を説いても、なかなか耳に入らないのです。 ですから、お釈迦さまも、『無量義経』に「種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」とおおせられているように、初期には、わざとそのことをお説きにならなかったわけです。 (昭和52年12月【躍進】) 方便時代の意義 三 真実顕現を打ち出すと、それまでの二十年間は方便であるからといって、何にもならないことをやってきたと思うのはまちがいであります。 方便は真実につながるものですから、重要なものであります。 (昭和52年12月【求道】) この方便という言葉を聞きますと、真実とはぜんぜん別なもの、真実とは切り離されたものを(中略)考えがちであり、とかくの世評もこの方便という点に拘泥されがちであります。 しかしお経の中をよく拝しますというと、三世の諸仏の説法の順序は、つねに無数の方便力を以て衆生を済度して最後には一仏乗を持ってゆくのでありまして、方便という語は真実への導入であり、われわれ凡夫としてはどうしてもこの入口をくぐらなければ真実へ至れないもの、またそれが結局は最も近道になるわけであります。 (昭和28年08月【佼成】) 法華経の中でも、「方便品」は最も大事なお経だといわれています。 仏さまのみ心から来る万億の方便がなければ、私どもはとても仏さまのみ教えにつながることができません。だれもが楽々と教えにつながれるように、方便をもってお導きくださっているのでございます。ですから、方便があるから真実顕現があるといっても過言ではないわけです。 (昭和52年12月【求道】) 方便時代の意義 四 お釈迦さまの言葉は、対機説法ですから、相手に合う話をされるわけです。相手がぜんぜんわからない話はなさらないのです。 お経の中に、舎利弗に対して「説くべからず」とお釈迦さまがおっしゃているときがあります。それを舎利弗が何回か繰り返して説いてください、とお願いしています。そこで、やっと「お前のために説くから、よくお聞きなさい」ということでお説きになっているのです。 立正佼成会も方便時代のころは、きつい、怖い教会長(当時は支部長)がいました。その教会長は、朝何時に集まれと指示して、その時間に遅れてきたり、来なかったりする人がいると、「もう口もきかない」といって、ぷいと横を向いているのです。信者にしてみれば、なかなか自分のほうを向いてもらえないので、せつない思いをして帰るということになります。そして明日こそは時間に間に合うように行こうと決心するわけです。 その時代の修行は生ぬるいことではとてもついていけないといっていいほどきびしかったものです。「もうあなたなんか来ても口をきかないよ」というのは、時間に来られないような者に話を聞かせる必要があるか。仏法というものはそんなに安いものではない、という態度から出たものです。これが方便なのであります。 (昭和52年12月【求道】) 方便時代の意義 五 当時、肺病は、今のガンと同じように不治の病といわれ、医者から肺病だといわれた時は、死の宣告のようなショックを受けたものであります。 ところが、肺病のかたが立正佼成会に来ますと「はい」と言いなさいと指導されます。まるで語呂合わせのようですが、肺病になるような人は「はい、はい」と返事が素直にできない人だということです。 肺病でなくともたいがいの人は、素直に「はい」ということが難しいようです。とくに肺病の人は、少し頑固なところがあるのかも知れません。それまでは、病気だというので周囲の人が甘えさせていたこともあるでしょう。骨の折れることをすると熱が出るとか、身体が大儀だとかいうので、大事にしすぎていたところがあります。 ところが、道場に参りますと、家庭とはまるで逆で「はいはい」と何でもさせられてしまいます。雑巾がけをしなさいと言われれば素直にバケツを持ってきて、雑巾がけをしなくてはなりません。たいへんご苦労なことですが、病気など考えずにお役をやっているうちに病気のほうは治ってしまうのです。 当時、若い人たちもたくさん来ておりました。私は毎日、その人たちを畑などに連れていき、くわを使って一生懸命、作業をさせたものです。そうするうちに病気は治ってしまいました。今の最高幹部の中にも、当時肺病であったが、道場の雑巾がけなどのお役をしているうちに治ったという体験をもつかたが、現にいるわけです。 私どもはこのようにいろいろな奇跡を神さまから見せていただいて、まったく疑う余地がないのです。ますます信仰への気持ちを固めました。このようにして、会の創立当時は信の一字でいくという心意気であったわけです。 (昭和52年05月【求道】) 方便時代の意義 六 立正大学の久保田正文先生が法華経の「信解品」のお話をされたことがあります。その中にひじょうにたいせつな言葉がありました。それは「『信解品』というのですから、やはり信というのがまず先である」といわれたことです。「信あって慧なきは則ち無明を長じ、慧あって信なきは邪見を長ず」(『法華義疏』)という嘉祥大師吉蔵の言葉を話されました。 これは、信と慧はどちらも大事で、片方だけではいけないということです。しかし「信解品」というように、信のほうが先にあるのです。 会の草創のころは「解釈などはむだだ。ただ信ずればいい。陰を信じろ」といったものです。本体があるから陰があるのです。けれども、その本体を見ないで、陰を信じろといったのです。そこなのです。神仏は目に見えない。手にも取れない。けれどもその無相のところに相があるということで、陰を信じろといったのです。 「信あって慧なきは則ち無明を長じ」で、信だけでは迷いがなくならないのですが、信をたたき込む修行をしないで、いきなり慧のほうに入ってしまうと、とかく信のほうを軽く見てそっちのけにしてしまうものです。すると「邪見を長ず」ということになり、ご法をやっている人がどうしてあんなことをするのだろうとか、どうしてあんなに怠けるのだろう、といった状態になるのであります。 (昭和51年10月【求道】) 方便時代の意義 七 当時の信仰は、素朴といえばたいへん素朴でした。その素朴さが、強盛な「信」と「行」とを燃え立たせていたのです。「仏さまはたしかに身の回りにいらっしゃる」「いつも私を見ていらっしゃる」という実感がマザマザとありました。 (昭和55年02月【佼成新聞】) 仏さまの教えを守らなければ、たちまちその報いが現実化するのですから、いわゆる「持戒」にもきびしく、「精進」にも懸命でした。 また、当時は世間から“新興宗教”“ご利益信仰”といった白い目で見られることが多く、そのために「忍辱」の気風が強く、下がる心に徹していました。 ところが、そういった激動的な草創期が過ぎて、ひと落ち着きしますと、だんだんと心の目は信仰の本質へ向けられるようになりました。仏の教えとはいったい何なのか、その奥義を探究しなければならぬという空気が濃厚になりました。(中略) これはまことに自然の成り行きであって、谷川の激流も平野部へ近づけば静けさと深みを増すのと同様です。六波羅蜜でいえば「禅定」という“成果”の部分へさしかかったわけです。 (昭和52年08月【佼成新聞】) 方便時代の意義 八 方便品第二に「如来は方便・知見波羅蜜、皆已に具足せり」とあります。波羅蜜は梵語のパーラミターで、ものごとが完成するという意味です。そこで、方便波羅蜜というのは、人と場合と環境に応じて最も適切な方法で救うことのできる自由自在な能力が完成していることをいいます。知見波羅蜜というのは、智慧によって物ごとの真実を見とおす能力を完成していることをいいます。 仏さまがその二つを完成されたかたであるからには、「衆生すべてを自分と同じ境地に達せしめたい」という仏さまの本願の中にいるわれわれが、もし方便波羅蜜のみに満足したとすれば、片端の信仰となります。真実を観る智慧を養うことによって、みずからも恒久的に、魂の底から救われ、また人を救うにしてもそこまで徹底して救わなければ、仏さまの本願に正しく添わないことになります。立正佼成会が、真実顕現の期を迎えて教学に力を注ぎ始めたのは、こういう理由にもとづくのであります。 今述べましたのは、本会の信仰の「深まり」のあらましの過程でしたが、もう一つ忘れてならないのは、その「広まり」についての考察です。私がこの会を創立した目的はただ一つ「人を救うこと」であったと申しましたが、草創期のころはその「人」という概念は、正直な話、ごく狭いものでした。いわば、濃い因縁で結ばれた人を救い、その人が幸せになってくれれば、それでよい……といった程度のものでした。 しかし、しだいしだいに、それではすまされなくなってきました。個人としては救われたつもりでも、それは、仮の救われに過ぎないのであって、世の多くの人が救われなければ、自分も本当の幸せは得られないのだ……ということは時代を超えた道理ですけれども、昔のようにそれぞれの人の住む世界が狭かった時代、言い換えれば社会連帯意識の乏しかった時代には、その道理を切実に肌で感じ取る度合も少なかったのです。 ところが、戦後の民主主義の世の中になってその意識が急速に高まり、しかも、航空機やテレビなどの交通・通信機関が発達したことによって世界が極度に狭くなり、すべてのことをグローバル(全地球的)に考えなければどうにもならなくなりました。世界の人類が幸せにならなければ、日本人だけがヌクヌクとしておられるものではないということが、実感として肌に迫ってくるようになりました。 こういう時代に、どうして信仰活動だけが旧態依然たるものであっていいでしょうか。 (昭和51年03月【佼成】) 方便時代の意義 九 われわれが人を救うとなれば、結局は仏法にみちびくという化他行にしぼられてくるわけです。そして、この化他行も、根本精神においてはいつの時代も変わりはないのですけれども、その実践においては、時代に即し、世相に応じた考えかたと方式がとられなければならないのは当然のことです。 立正佼成会の初期においては病気や経済的な苦しみから入信する人がおおく、時代が移るにしたがって家庭の不和とか子どもの不良化という悩みの比率がおおくなりましたが、近年にいたっては、人間関係にもとづく苦悩がいちじるしく増加しているようです。 また、これといった悩みはないのだが、なんとなく現在の生きかたにあきたらぬものを感じて、ひとりでに宗教に引き寄せられた……という人もおおくなりました。こういう世相をしっかりと見きわめ、それに即応した態度と方式をもって効果的な化他行をするのが、現代の菩薩というものであります。 わが会の過去をふりかえってみますと、どちらかといえば個人の救いを単位としてきました。そして、世の人もおどろくような結果をあらわしてきました。それは、「法にしたがえばかくのごとく幸せになる」ということの実証の時代であったということができるとおもいます。言葉を換えて言えば、(中略)法の威神力を個人個人のうえにあらわして、その偉大さをたしかめてきた時代であったといえるのです。 (昭和43年01月【佼成】)...
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...創立二十周年を迎えるにあたって 一 これまで立正佼成会は、教義を二義的に考え、実践中心でまいりました。あれも実行、これも実行、一にも実践、二にも実践ということで来たのであります。 (昭和32年11月【速記録】) 私どもは、成仏を願い、一生懸命信仰しているのです。成仏は言葉を換えて言えば、人格の完成です。 まず、家庭にあっては、家族全部が円満で喜び合えるような人格を、お互いが磨かなければなりません。さらに、どなたが見てもりっぱな人格者であるためには、血のにじむような修行をつぎからつぎへとしていかなければなりません。 その修行とは、菩薩道の実践であります。つまり、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六波羅蜜の行であります。 自分に当てはめて考えたとき、たとえば、同じ幹部仲間に指示をするのにも、簡単な気持ちであってはならない。 どういう指示が、どのように徹底されるか、またそのことが、どういう部門にどう関係するか、ということを本当に探究して、心してやらなければならない。 私どもの信仰は、ただ人びとが大勢集まって、お題目を唱えたから救われるとか、お天道さまを拝むから功徳があるとか、そんな安易なものではない。もっと本質的な宗教であることを認識しなければなりません。 既成教団がたくさんあるなかで、何のために立正佼成会が宗教法人とし、独立教団として立たねばならないか。いろいろりっぱな教えがあるなかで、新しい教団ができたということは、できるだけの理由、必要があったからであります。 (昭和32年11月【速記録】) 創立二十周年を迎えるにあたって 二 法華経の中に「未だ得ざるを得たりと謂い」(方便品)とありますように、私どもは何か一つわかるというと、それで「得たり」と考えて安堵し、満足してしまって、それより精進しようとしないものです。そのことが最もいけないことであります。 ますます研鑽に研鑽を重ね、やがてはお釈迦さまのようにすべてを超越した境地に立って、真実の姿を見抜いて、あらゆる世の中のあり方をはっきりと社会に示していかなければなりません。 (昭和32年11月【速記録】) 今日は物質文明がひじょうに進歩いたしましたので、いかに精神をつかさどるところの宗教家といえども、また、立正大学や駒沢大学、大谷大学など、仏教系の学校においても、精神的な面を説いているだけでなしに、物質文明の影響を受けております。 ですから、今の教育を受けた人は、ことごとくものを割り切っていきたいという科学的な思考に慣れて、それでなければ物ごとが測れない、承知できない性分を持っていると思うのです。 これは悪いことかと申しますと、けっしてそうではありません。真理探究の一つの方法であり、物質文明の方式です。これによってだんだん世の中はよくなり、私どもの生活水準も上がってきたのです。 わずかな時間のうちに宇宙旅行ができるほど、物質文明のほうは伸びてきたのです。これはやはり、真理に向かったひじょうにまじめに、徹底的に精進をした賜物だと思います。 ところが物質文明の恩恵を受けると、どうかすると安易な気持ちになって、実際の生き方の探究を軽視し、執著する心を捨てさえすればいいんだ、というような無責任は観念論におちいりがちです。 私ども立正佼成会は、創立以来、そのような片寄った考え方を排し、現実の生活のあり方、人生の生き方など、現実を直視するよう指導してきたわけです。 しかし、二十年たった現在、立正佼成会のみなさんの状態を見ておりますと、やはり、非現実化がもたらす堕落の方向へいきつつありはしまいか、よく反省してみなければなりません。 ですから、私どもは、物質面のこともはっきりと把握し、さらにそれを超越した深い仏教の根源を求めて、本質的な仏教に心の転換を図らなければならない。これが今、立正佼成会に課せられた大きな役目ではないでしょうか。それを目指して精進してこそ、初めて本当の仏教として伸びる新興宗教であり、出来うべくして出来た宗教であり、まさに時代を担うところの宗教である。このようになってくるのではないか、と思うのです。 (昭和32年11月【速記録】) 創立二十周年を迎えるにあたって 三 本尊は何か、所依の経典は何か、真の目的は何か──私どもはこうしたことを世間から問いかけられ、諸仏諸天善神からも、明らかにすることを要求されているわけです。 すでに立正佼成会本部には、久遠実成の本師釈迦牟尼仏をお祀り申し上げておりますが、これまでは、それを中外に宣言する時期に至っていなかったわけであります。妙佼先生がおいでになるうちに宣言すべきであったと思うのですが、はからずも急に他界されました。 妙佼先生のお言葉とお心にも通じ、どなたがごらんになっても絶対に間違いのないご法であることを、いよいよ世の中にはっきりと打ち出すべき時です。仏教の今日までの歴史からいっても、今その時が来ているわけであります。 (昭和32年11月【速記録】) 創立二十周年を迎えるにあたって 四 鎌倉時代、日蓮聖人より三十年ほど前にお亡くなりになられた親鸞上人は、出家の身でありながら妻帯し、真剣に仏教を学ばれ、浄土真宗を開かれました。どこまでも仏教の本義をたずねてみると、在家の者が正しく信奉するところの信仰でなければ、本当の仏教ではないということを示されたのです。 さらに七百年たった今日になりましても、既成教団がふるわないで、新しい宗教が伸びています。しかも、今日の時代の新しい宗教は、法華経が中心です。このことは、いよいよ最後のくくりということになるのではないか──こう思うのであります。 昭和二十年に、「法華経は立正佼成会を元として、世界万国に弘まるべし」という神さまのご指導がありましたが、そのときはどうも合点がいきませんでした。 法華経はインドから中国へ渡って日本に来たもので、信奉する教団は天台宗系もあり日蓮宗系もあります。数知れぬ先師先哲が法華経を信奉してきました。その流れをくんだいろいろな宗派もあり、お寺もあるなかで、在家から立った立正佼成会がもととなって、真の法華経が護持されるということは、いかに神さまのご指導でも、ちょっと合点がいかなかったのであります。 歴史を見渡してみますと、聖徳太子以来、さまざまなかたがたが、たくせんのお寺を建てて、いろいろの方式をもって仏像を請じておられます。 しかし、本式の本師釈迦牟尼仏を中心としたところの、法華経の精神、仏教の真の精神にかなった本尊の勧請の方式、修行の方法というものができていなかったということを、日蓮聖人は「『報恩鈔』や『観心本尊鈔』などにおいて、ひじょうにはっきりと、強く指南されているのであります。 日蓮聖人は、本仏釈迦牟尼仏を本尊として勧請することについて、つぎのような文証を遺されております。「末法闘諍堅固の時に至らずんば、造るべからざる旨分明なり。正像に出世せし論師、人師の造らざりしは、仏の禁めを重んずる故なり」(『四菩薩造立鈔』)。 それまでの正法、像法時代に本仏釈迦牟尼仏を本尊として祀られなかったのは、まだその時でないと、仏さまが止められていたのであると、日蓮聖人は、ご遺文の中に明記されているわけです。 今その時が来たのです。本尊勧請のご神示と、日蓮聖人がご遺文の中に示された教義の本旨が、ここにぴったりと決まったわけであります。「これは、なるほど安閑としてはいられない。いよいよ真実の時であり、名実ともに中外に声明しなければならない時が来た」──こう私は感じたわけであります。 (昭和32年11月【速記録】)...
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...新しき時代へ 一 妙佼先生の死によって、“神”の声を直接聞くことはできなくなった。私はこの現実を、「直接聞く必要がなくなったから聞けなくなったのだ」と、受け取ったのである。 妙佼先生に下がった“神”は、不動明王・八幡大菩薩・毘沙門天・七面大明神が主だった。すべて仏教を守護する“神々”であって、法華経を信奉する者の究極的な帰依の対象ではない。 法華経の教えるところによれば──、 人間が生活の規範とすべきものは、釈尊が説かれた教説であり、その教えに従って修行することによって人格完成の域に達し、同時に、自分自身に与えられた天分と役割を百パーセント発揮することができれば、それこそが成仏というものである。 人間ばかりでなく、天地の万物もその持つ本来の天分と役割を百パーセント発揮することがその物の成仏であるという哲学を持ち、こうした平等心をもって万物・万人に対さねばならぬ。 このようにして、人間を含めた天地の万物が成仏の境地に達したとき、この現実社会にも大調和の光明世界(常寂光土)が現出する。 人間の究極の理想はその常寂光土の建設にこそ置かねばならないのである(法華経の理性的な側面)。 このような理性のみでは、人間はなかなか救われない。なぜならば、人間は弱い存在であって、なにものかを心のよりどころとしなければ、安んじて生きてはゆけないからである。 ところが、現象として現われている万物はすべて移ろいゆくものであって、一つとしてよりどころとするにたるものはない。では、真に、そして恒久的に、心のよりどころとするにたるものは何か。それは、久遠実成の仏である。宇宙根源の大生命である。 人間を含むありとあらゆる存在は、すべてこの大生命の分身であり、その見えざるいのちの具象化である。 その宇宙根源の大生命、久遠実成の仏は永遠不滅である。したがって、その分身である人間も永遠不滅である。現象としての肉体は死んでも、根源にあるいのちは永遠不滅なのである。 この真実を魂の奥に悟ることができれば、そこにこそ恒久的な安心が生まれる。単なる安心のみではない、心身み脈打つ底の〈生きる喜び〉が生まれるのである。 また、その真実を魂の奥に悟ることができれば、万物・万人が自分と根源を同じうする兄弟姉妹であることが実感できるようになる。みんなが同じいのちにつながっているのだという一体感を覚え、したがって、万物・万人に対する平等な、深い愛情が生じてくるのである。この大いなる愛情を慈悲と言う。 このような慈悲を持ちうる人こそもっとも価値ある人間であり、そうした慈悲の交流する社会こそ、真に住みよい浄土なのである(法華経の宗教的な側面)。 以上のような法華経の教説に従い、日々の心の持ち方と身の行ないを正してゆき、久遠の仏に生かされているという無上の喜びを覚えつつ、万物・万人に愛情を覚えつつ生きていくならば、もはや守護神の神の声に指導を仰ぎ、それを心のよりどころとする必要はないわけである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 新しき時代へ 二 お経には、三千大千世界というような大きな表現の言葉がありますが、現在、科学は、人間の作った衛星が宇宙を回って、つぶさにその状態を報告するというまでに大きな発展を遂げつつあります。 現代は、物が豊富であるとか、交通の便がよくなったとか、ひじょうに物質文明の恩恵をこうむっております。しかし、娑婆というところは、なかなか骨の折れるところであります。精神面を見てみますと、私どもは安閑としておられないのであります。 現在ほど世界中、人類こぞって平和を叫んでいる時はありません。なぜ平和という言葉を使わなければならないのか、これは、それだけ平和という言葉を使わざるを得ないところの複雑さを意味していると思います。「お互いさまに仲良くしましょう」「本当にけんかはよしましょう」などというのは、何か胸に一物があって、争いをしたあとに使われる言葉です。 第二次世界大戦で、世界中の人間が戦争には飽きたか、と私は思っておりました。ところが、昭和二十年、日本が無条件降伏して、戦争に終止符が打たれたかと見えたにもかかわらず、わずか五年後の二十五年には、また朝鮮を中心として、世界中の力が、いや力というより心が衝突しまして、一つの民族が二つに分かれるまでに発展したわけであります。 このように考えますと、では、この世界の平和はいったいだれが成し遂げるのか。それは仏教徒のお役であります。二千五百年前にお釈迦さまは、われわれの智慧では計り知れない深い教えをお説きになっておられます。その教えは何年たっても訂正する必要がなく、この人工衛星の時代になっても、少しのズレもなければ狂いもないのです。 そのお釈迦さまの教えに沿った祈願の上に、生活を立てて幸せをいただいている私ども仏教徒こそ、世界を救う役があるのであります。 (昭和33年01月【速記録】) 新しき時代へ 三 仏教は、お釈迦さまの専売特許でもなければ、私や妙佼先生の専売特許でもありません。仏教の法則によって修行をいたしますと、どなたでも同じように現証、功徳をいただけるわけであります。 どんな困難なことでも、仏法の法則によって法のごとく修行いたしましたなら、解決をしないということは絶対にないのであります。 私は会の創立のころ、世界万国を救うとか、これだけ大勢の人を導いて、会員になろうとか、そういう考えは微塵もございませんでした。ただ神さまがお示しくださった方法によって、法華経を布教してまいりました。先祖のご供養はこのようにしなさい、家の中ではこのように実践しなさい、というようなご指導に沿って、そのとおりにやってきただけであります。 なんといいましても、まず、家庭を整えることが大事です。家庭というものを完全にしなければなりません。どんなにりっぱそうなことを道場に来て話しても、家へ帰って夫婦の仲が円満にいかなかったり、親子の間がうまくいかない、ということは、自分のどこかが間違っているのです。欠点のあることの現われであります。 そういう問題を根底から追求し、どこまでも懺悔を求め、掘り下げていくところに、その解決があり、菩薩行の尊さがあると思うのであります。 (昭和33年03月【速記録】) 新しき時代へ 四 社会を見渡しますと、親子心中とか、人殺しとか、いろいろの問題が散在しております。 このご法門は、すべての人の救われを説いているのです。私どもは仏さまのみ弟子であります。仏さまは、法華経の「譬諭品第三」に「今此の三界は皆是れ吾が有なり」と説いておられます。この地球上だけでなく、宇宙のすべてのことは、みな自分のものである。三界の主人公である、といわれています。 さらに、「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」。その衆生とは、生きとし生けるものということで、人間はもちろんのこと犬や猫に至るまで、一切みなことごとくわが子である、とおおせになっています。 「而も今此の処は諸の患難多し」。この世界はひじょうに難儀の多いところだぞ、というのであります。「唯我一人のみ能く救護を為す」と言われておりますように、仏さまは三界の師であり、宇宙のお師匠さんでございます。そういう師匠であり、父親であり、持ち主であるところの仏さまを本尊とするのが、仏教の本質であります。 (昭和33年03月【速記録】) 新しき時代へ 五 私どもは、戦争を起こそうとする間違った精神を、この法華経という武器をもって正し、地球上の争いの因縁を切らなければなりません。そういう大使命を担っているのであります。お互いさまに数珠を首にかけたことを誉れとし、立正佼成会の会員たることを深く自覚いたしまして、大道闊歩、すべての悩める人をお救いしなければならない大導師である、という自覚を持っていただきたいと思います。 (昭和33年3月【速記録】)...
『法華三部経』十巻の写経
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免震工事を見学する庭野日鑛2代会長
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佼成 1970年1月号 時代に即した布教活動を
【機関紙誌】
佼成新聞 1970年1月2日 庭野布教本部長に新年の抱負を聞く
【機関紙誌】
学林 学長就任式
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佼成新聞 1970年04月24日 「普門館」完成におもう
【機関紙誌】
普門館落成式 参加者
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普門館落成式に参列される庭野日敬開祖・日鑛2代会長・光祥さま
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練馬教会 親子運動会
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こどもの日の集い
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佼成 1970年7月号 随想 日々新たに
【機関紙誌】
佼成新聞 1970年7月3日 法名「庭野日鑛(にちこう)」に
【機関紙誌】
青年本部主催 第1回教会対抗少年野球大会
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