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法華三部経の要点 ◇◇71
立正佼成会会長 庭野日敬

真の許しは仏性を認めること

悟りの究極は仏性の認識

 お釈迦さまは大悪人の提婆達多へも授記されました。天王如来という仏になるであろうと保証されたのです。これはいったいどういうわけでしょうか。
 その理由には智慧と慈悲の二面が考えられます。ではその智慧とは何か。すべての人間には平等に仏性が具わっていることを認める透徹した理知です。
 菩提樹の下でいわゆる仏の悟りをひらかれたとき、思わずこうつぶやかれたと伝えられています。「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生ことごとくみな如来の徳相を具有す。ただ、妄想・執着あるを以ての故に証得せず」。
 不思議だ。不思議だ。一切衆生はみんな仏と同じ徳を具えているではないか……という驚くべき発見、言い換えれば、すべての人間には仏となりうる本質(仏性)が具わっているのだ……という、これまでの人類だれひとり経験したことのない一大発見だったのです。
 「それでは、なぜ多くの人間は仏の悟りを得られないのか。なぜお互いに争い合い、奪い合いして苦しみ悩んでいるのか。それは仮の現れである自分の心身を確かな実体であるかのように妄想し、その心身の楽しみに執着しているからにほかならない」。これがお釈迦さまの人間観の基底となるものであります。
 提婆達多がそうでした。青年時代から、シッダールタ太子(後の釈尊)と張り合うほどの秀才で、武術の達人でもあったのですが、残念ながらあまりにも自己顕示欲が強く、したがって嫉妬深く、闘争・対立を好む人間でした。それで、つい身を誤ってしまったのです。しかし、お釈迦さまは透徹した理知をもって、そのような提婆にもちゃんと仏性が具わっていることを見通されたのです。

仏性を見れば自然と許せる

 では、慈悲の面とはどんなことでしょうか。
 お釈迦さまは無限の慈悲の持ち主でした。それは法華経譬諭品の「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」という一語の中に尽くされています。すべての人間をわが子として大きく包みこみ、一人として冷淡に突っ放すことをされませんでした。自分の名前さえ覚えられない知恵遅れのシュリハンドクをも教団の一員として粘り強く教化されました。どうしようもないほどの暴れん坊でプレーボーイのカルダイをも追放されることなく、ついに家庭教化の名人にまで育て上げられました。
 「愛とは許すことである」と言った人がありますが、お釈迦さまはすべての人を許す人だったのです。ご自分の命を何度も狙った提婆をも大きく許されたのです。それもただの許し方ではありません。普通の人間の許し方は、相手の悪に憤りや不満を覚えつつもそれを理性で抑えて許すのですが、お釈迦さまの許し方は、相手の本質である仏性を認めることによって、完全に、余すところなく許されるのです。だからこそ、成仏の保証まで与えられたのです。
 それにしても、なぜいま突然そのような発表をなさったのでしょうか。これまで法華経の説法の中で授記されたのは、おおむね誠実な弟子たちでした。順当な授記だったと言っていいでしょう。ところが、そうした順当さは、ともすれば聴法の人たちの心に一種のマンネリズムを生ぜしめがちです。右の耳から左の耳へ聞き流し、自分自身のこととしてかみしめることをしなくなりがちです。
 そこで、ここで突然「悪人成仏」という異常とも見えることを言い出され、強いショックを与えられたのではないでしょうか。後世のわれわれも、この提婆品に強いショックを覚え、「悉有仏性」ということを深く深く心にしみこませざるのをえないのであります。   


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