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法華三部経の要点 ◇◇78
立正佼成会会長 庭野日敬

法華経を説きひろめることが最高の人生

大慈・大悲の心を持とう

 第四の「誓願安楽行」についてはこう説かれています。
 まず「仏法が忘れ去られようとする末の世において法華経を受持する菩薩は、在家・出家の人びとに対して、その人びとの幸せを願う大きな心(大慈)を持たなければならない」とあります。これはもう解説の要はないでしょう。
 次に「みずからの人格完成ばかりのために仏法を学び、世の人のために仏法をひろめる努力をしない人(菩薩に非=あらざ=る人)に対しては、どうしてでもその人を救いたいという大きなあわれみの心(大悲の心)を起こして、つぎのように決意しなければなりません」とあります。
 それはどういう決意かといいますと、「このような人たちは、仏の方便・隨宜の説法(それぞれの人と場合に即したケース・バイ・ケースの説法)の真意が法華経に集められ、結晶されて説かれていることを知らないのだ。それを聞こうともしないし、したがって覚えることもない。尋ねようともしないし、したがって信ずることもない。しかし、たとえ今はこの法華経の教えを聞かず、信ぜず、理解しなくても、もし自分が最高の悟りを得たならば、どんな土地にいようとも、神通と智慧の力をもってそのような人たちを導き、この教えにはいらせずにはおかない」という決意であるべきだ……というわけです。

「入信即布教者」これぞ菩薩

 この誓願の中でひとつ気になるのは、「もし自分が最高の悟りを得たならば」という前提です。当時はそれぐらい法華経を理解し布教するというのは難しかったのでしょう。見宝塔品に「須弥山(しゅみせん)を手に取って他の世界へ投げるよりもこの法華経を説くことは難しい」というような「六難九易」の法門が説かれているぐらいですから。
 しかし、現在は事情がたいへん違ってきています。とくに大乗相応の国といわれている日本では、聖徳太子このかた人びとの魂の底に法華経精神が深く沈んでいますし、また一般に教養のレベルが高くなっていますから、それほど難事ではなくなっています。また、法華経のくわしい解説書も市販されていますし、その他の文書布教の媒体もそろっています。ですから、昨日法華経に触れた人でも、ほんとうにその教えに感動を覚えた人ならば、今日からでもそれを人に伝えることも可能になってきました。ですから、当時と違って「入信即布教者」――これが現代の菩薩の条件であることを、ここであらためて知ってもらいたいと思います。
 最後に、以上の四つの安楽行を成就する人は、神々が必ず守護されるであろうと説かれています。とくに「人あり来って難問せんと欲せば、諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護し、能く聴者をして皆歓喜することを得せしめん」という一節、これはわたし自身がつねに体験してきた事実です。菩薩である会員の皆さんも、しばしばそういう実感を得られていることと思います。ほんとうにありがたいことです。
 とにかく、至上の真理の教えである法華経を説きひろめることこそが人生の最も価値ある行いであることを、ここで再認識いたしましょう。


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