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法華三部経の要点 ◇◇72
立正佼成会会長 庭野日敬

「信」の力の偉大さ

八歳の竜女がたちまち成仏

 提婆達多品の後半は、海底の竜宮の娘でわずか八歳の竜女(りゅうにょ)が成仏するくだりです。海底の竜宮というのは、文明の中心地から遠く離れた島国と解すべきでしょう。したがって、竜女とは、そうした国や民族の幼女のことだと考えれば、つじつまが合います。
 そういう場所に布教に行っていた文殊菩薩が、そこでは妙法蓮華経だけを説いたという話をしますと、多宝如来の侍者の智積菩薩が「その国にすぐに仏の悟りを得そうな人がいましたか」と尋ねます。「いました。八歳になる竜王の娘がそれです」と文殊は答えます。すると、たちまちその幼女が現れて、お釈迦さまをうやうやしく礼拝するのです。
 それを見ていた舎利弗は、その娘に「仏の悟りというものは、計り知れないほどの年月、血の出るような修行をしてこそ到達できるものであって、もろもろの障りの多い女人のそなたがとうてい達しうるものではない」と言いました。
 竜女はそれには答えず、手に持っていた三千大千世界にも値するほどの宝珠をお釈迦さまに捧げました。お釈迦さまはただちにそれをお受け取りになりました。すると竜女は智積菩薩と舎利弗尊者の方に向き直り、「お釈迦さまは、わたくしの捧げた宝珠をすぐお受け取りくださいましたが、わたくしの成仏はそれよりも早いのです」と言ったかと思うと、たちまち男子の姿に変わり、はるか南方の無垢(むく)世界という所で仏となって法華経を説いているありさまを見せました。
 それを見た智積菩薩も、舎利弗も、その他の大勢の人々も、じっと黙りこんだまま深い感動をかみしめるのでありました。

素直な「信」が何より大切

 八歳の幼女というのは、「幼子のような素直な心」を象徴したものであり、竜宮界というのは先にも述べたように文明の中心地から遠く離れた国を象徴しているのです。そして、三千大千世界にも値する宝珠というのは、「信」ということにほかなりません。
 いつも言いますように、信仰というのは理屈ではありません。心と実践の問題です。純粋な心で仏さまの大慈悲心へ直入してしまうことです。そうしますと、その瞬間に宇宙の大生命ともいうべき本仏さまと溶け合い一体となる心境になれます。まことに「信」は三千大千世界に匹敵するほどの値打ちがあるのです。
 科学時代に育ったわれわれは、仏教を学ぶに当たっても、どうしても頭での「理解」ということを先に立てがちです。仏教の教義はたいへん理性的なものですから、たしかに理解できるものですし、それも大切なことです。しかし、宗教であり、信仰であるかぎりは、理解ということだけで「信」の働きがなければ、その究極の境地、すなわち涅槃(ねはん)という大安心の境地に達することはできません。このことを、よくよく心得ておくべきでしょう。提婆品の後半の竜女成仏のくだりには、このことが教えられているのです。
 ここで一言付け加えておきたいのは、真の男女平等を説いたのは世界中でこの法華経が最初であるということです。自由平等の本家とされているフランスでさえ、完全に婦人の参政権を認めたのが一九四六年(昭和二十一年)なのですから、ほんの最近のことです。そして、それは「権利」という人間に与えられた「権(か)り=仮」のものに過ぎません。それに対して法華経が認めた男女平等は、「仏になりうる」という人間のギリギリの本質における平等です。実に素晴らしいことではありませんか。
 一つ気になるのは、男の姿に変わって成仏したということですが、それはおそらく当時のインドの大衆を納得させるために、そういった表現をしたのでありましょう。
                                                     

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