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法華三部経の要点 ◇◇73
立正佼成会会長 庭野日敬

世にもすぐれた二人の比丘尼

母性愛が尊崇に変わって

 勧持品に入ります。この品は二つの部分に分かれており、前半はお釈迦さまの養母であった摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)比丘尼と、かつて妻であった耶輸陀羅(やしゅたら)比丘尼が授記されるくだりです。
 摩訶波闍波提は、お釈迦さまの生母摩耶夫人の妹で、お釈迦さまの誕生七日目に摩耶夫人が亡くなられたのち、浄飯王の二番目の夫人となり、生みの親にもまさるとも劣らぬ愛情をそそいで太子を育て上げた人です。その太子が出家されたときの悲歎は察するに余りがあります。
 その後、実子の難陀(つまりお釈迦さまの異母弟)も、愛孫の羅睺羅もつぎつぎに出家し、夫の浄飯王にも先立たれたのですから、一国の王妃でありながら別離の悲しみを味わい尽くした人であるといえましょう。その出家のいきさつは本稿六十回に書きましたのでここには略しますが、とにかくお釈迦さまの女性のお弟子としては最初の人でした。
 教養の高い、しっかりした人でしたから、在家のときは在家婦人としての務めを尽くし、出家しても比丘尼たちの統率者として信望を集めました。お釈迦さまも、比丘尼集団のことは一切この人に任せられたのでした。
 摩訶波闍波提比丘尼は、お釈迦さまが年を取られてお体がずいぶん弱られたのを見ると、そのご入滅に会うことはとうてい忍び得ないという思いから、おいとまごいをしてビシャリ国に行き、そこで禅定に入ったまま入滅しました。その野辺の送りは、お釈迦さまご自身によって執り行われました。遺体をお釈迦さまと難陀・羅睺羅・阿難の四人がかついで寒林(かんりん=墓場)まで運ばれたといいます。立派に生き、立派に死んだ、婦人の鑑(かがみ)ともいうべき人でありました。

「道心の中に衣食あり」

 耶輸陀羅尼は、夫の太子がとつぜん出家されたときは、身も世もあらぬほど歎き悲しまれましたが、すぐに気を取り直し、一子羅睺羅の愛育にすべてをささげました。
 そして、一切の化粧を断ち、太子が褐色の衣を召しておられると伝え聞いては自分も褐色の衣を着、太子が一日に一度しか食事されないと聞けば、自分も一度に減らし、つねに夫と共にある心を忘れませんでした。
 やがて、羅睺羅も出家し、舅の浄飯王も亡くなり、姑の摩訶波闍波提も出家してしまいましたので、自分もその後を追おうと決意し、ビシャリ国にいる姑の所へ行って比丘尼の仲間に入りました。
 それから祇園精舎におとどまりのお釈迦さまの下へ行き、教えを受け、修行に励みました。祇園精舎には羅睺羅も住んでいましたので、その近くに住居を定め、お釈迦さまのお許しを得ては羅睺羅を見舞ったりしておりました。
 生来おとなしい性格の人でしたので、比丘尼としての事跡にはあまり目立ったものは伝えられていませんが、しかしそのおっとりした人柄のせいか、在家・出家の多くの人たちに慕われていたようです。そして舎衛城の信者たちがわれもわれもと供養物をささげますので、王宮にいたときよりもかえって生活が豊かだったといいます。
 しかし、耶輸陀羅比丘尼はあまりそれを喜ばず、かえって煩わしく思い、ビシャリ国に移ってしまいました。ところが、そこでもいつしか同じような状態になり、またまた居を移して王舎城のほとりに住むようになったと伝えられています。
 清貧を好む人だったのでしょうが、それにしても伝教大師の名言「道心の中に衣食(えじき)あり」を絵に描いたようなことで、たいへんほほ笑ましく思われます。
                                                     

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