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人間釈尊72

仏塔から生まれた法華経

1 ...人間釈尊(72) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏塔から生まれた法華経 比丘は葬儀にかかわるな  お釈迦さまがクシナーラの沙羅の木の下で偉大なる死を遂げられると、土地の住民であるマルラ族が、そこから一キロばかり離れた、同族が聖なる地としている場所まで野辺の送りをし、そこで火葬に付し奉りました。  なぜお弟子たちがそれをしなかったかといいますと、お釈迦さまのご遺言によるものなのです。ご臨終が近づいたとき、阿難が、「ご遺体をどうしたらいいのでしょうか」とお尋ねしたところ、世尊は、  「阿難よ。そなたたちはそのようなことに心を煩わしてはならない。比丘というものは最高の善に向かって努力するのがつとめなのだ。わたしの遺骸は、わたしに帰依している世俗の人々が処置し、供養してくれるだろう」  とおおせられたのでした。  それにしても、――わたしの遺骸は林の中に捨てて鳥や獣に食わせてくれ――とか、――灰をガンジス河に流してくれ――とかおっしゃらなかったところが、あくまでも「中道」の人であったお釈迦さまらしいと思われてなりません。  さて、ご入滅を聞いたマガダ国のアジャセ王や、ヴェーサーリー国のリッチャビ族や、カピラバストの釈迦族をはじめ、七つの国や部族たちがご遺骨を渡してくれと要求してきましたが、クシナーラのマルラ族は頑としてはねつけ、争いが起ころうとまでしました。そのとき、あるバラモンが仲裁に入って仲よく分骨することになり、それぞれが仏舎利塔を建ててお祀りしたのでした。 師の最高の遺産・法華経  そこまでは、お釈迦さまは大衆の心の中にしっかりと住んでおられたのですが、だんだん年月がたつにつれ、仏の教えを受け継いだ比丘たちが世間から離れて寺にこもり、自分の解脱のみを目的とした修行に専念するようになりました。  百年たち、二百年たつと在家の信仰者たちはお釈迦さまが懐かしく、恋しくてたまらなくなりました。そこで、富裕な商人(長者)たちを中心として仏塔を建て、そのまわりに集まってお釈迦さまをしのび、お残しになった教えをおさらいしました。  そして、一般民衆のみんなが一緒に救われるというのがお釈迦さまのご精神だったのだ……として、さまざまな経典を編集し、それを大乗(大きな乗り物)の教えだと唱え、比丘たちの守っている教えを小乗(小さな乗り物)とさげすみました。それに対して比丘たちは――おまえたちの経典は世尊の教えとは違う――といって反論し、論争がはてしなく続きました。  そのとき、仏塔礼拝者の中から、――いや、お釈迦さまの教えには小乗も大乗もない。ただ一仏乗しかないのだ――と主張する一団が現れ、お釈迦さまが最晩年に霊鷲山で説かれたこの教えこそがその一仏乗の教えだとして編集したのが、法華経にほかならない……といわれています。  そういえば、後世にはお釈迦さまが「この世は苦だ」とお説きになったことだけが増幅され、前(69回)に書いた「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」とおおせられたような一面はすっかり忘れられているようです。  その点、法華経は明るい人生肯定の経典で、お釈迦さまのみ心の底の底にあったお気持ちをよく表していると思われてなりません。お釈迦さまが悟りをひらかれた瞬間につぶやかれたという「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生みな如来の徳相を具有す」という言葉を思い出してみますと、そのことが胸に落ちるようにわかります。  お互いさま、師がお残しになった最高の遺産である法華経を、いのちと魂の糧として、この世を明るく元気よく生きていこうではありませんか。   (完) 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

法華三部経の要点1

法華経はすべてを「一つ」にまとめる教え

1 ... 法華三部経の要点 ◇◇1 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経はすべてを「一つ」にまとめる教え これこそが仏陀の真精神  法華経の成立にはさまざまな説がありますが、わたしはつぎの説が正しいと信じています。  お釈迦さまが入滅されてから年月がたつにつれて、出家の修行者たちはだんだんと世間の一般大衆から離れて山や寺にこもり、自身の解脱だけを目的とした修行に専念するようになりました。  一方、一般の人々にとっては、たぐいなき大聖者であられたお釈迦さまのおもかげとみ教えが、心の底に焼きついて離れません。それで、お釈迦さまをお慕いするやむにやまれぬ気持ちから、富裕な商人(長者)たちを中心にして仏塔を建て、その周りに集まって礼拝したり、残された教えをおさらいしたりしました。  おさらいをしているうちに、――お釈迦さまの教えの真精神はここにあったのだ――という新しい解釈をうち出すようになり、それをまとめて『般若経』をはじめとするいろいろな経典を世に出しました。その人たちは、それらの経典を、これこそが世の多くの人間を救いにみちびく大きな乗り物のようなものだという意味で「大乗」と称し、比丘たちが信奉している初期のままの経典を「小乗(小さな乗り物)」といってさげすみました。  それに対して比丘たちは、――おまえたちの説くのは仏説と違う。本当の仏教ではない――といって一歩も退きません。同じ仏教を信奉する者が、そうした二つの派に分かれて(細かくいえばもっとたくさんの派に分かれていたのですが)お互いに背を向け合うのは、なんといっても不幸なことでした。 仏の教えはただ一乗  そのとき、やはり仏塔礼拝者の中から――お釈迦さまの教えには大乗とか小乗とかの区別はないのだ。もともと一仏乗しかないのだ――と主張する一団が現れました。  そして、「お釈迦さまのご真意はどこにあるかといえば、ご入滅を前にして霊鷲山でなさったこのお説法に尽くされているのだ」と、そのお説法の内容をくわしく叙述し、しかもそれが説かれたときの有り様を目の前に見るようにいきいきと再生して、経典として編集しました。その経典が法華経にほかなりません。  ここに法華経の大切な性格があるのです。すなわち、もともとは一つであったものが形のうえで別物のようになってしまっていたのを、それらのすべてを受け入れ、包容しながら、しかも元の一つにまとめてしまうという、統合の精神であり、「和」のはたらきであります。  だからこそ、この経典はしだいに多くの人々の帰依をかち得たのです。そして、中国からインドに留学した高僧竺法護(じくほうご)が帰国して第一番に漢訳したのが『薩陀芬陀利経(さっだふんだりきょう=サッダルマ・プンダリーカ・スートラという原名を音写した題号)』であり、あとでふたたび訳し直したのが『正法華経』だったのです。  この二つの漢訳は文章が硬くて読みづらいものでしたので、あまり広く流布しませんでした。ところが、いまのシルクロードにあったクッチャ国の鳩摩羅什(くまらじゅう)という人が漢訳した『妙法蓮華経』は、まことに流麗な、そして胸にしみ入るような名文でしたので、たちまち中国の人々の間にひろまり、そして、日本に渡っても多くの人々の信仰をかち得たのでした。  これからわたしが解説しようとする法華経も、その『妙法蓮華経』なのであります。 ...

法華三部経の要点2

法華経はなぜ「諸経の王」といわれるのか

1 ...法華三部経の要点 ◇◇2 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経はなぜ「諸経の王」といわれるのか 仏さまの教えを一つに統合  むかしから「法華経は諸経の王」と呼ばれてきています。なぜでしょうか。  第一には、前回で述べたようにこのお経はお釈迦さまのお説きになったさまざまな教えの底にある真精神を掘り起こし、形のうえで別々になっていた教えを見事に一つに統合したものである、ということです。  さらに、その内容を見ますと、この宇宙のすべてのものごとのありようから、そのなかで人間はどう生きねばならないかという現実の指針までが、あますところなく述べ尽くされているのです。  現実に生きるわれわれには、さまざまな苦しみや悩みがつきまとっています。そうしたものごとに突き当たるごとにこのお経を読み返してみますと、おのずからそこに解決の道がひらけてくるのであって、このことはわたしの法華経信仰六十年の体験から、確信をもって申し上げることができます。  また、このお経には、「仏さまはいつもそばにいて、われわれを導いてくださる」ことと「すべての人は仏さまの実の子であり、だれもが仏さまと同じになれる」ことが教えられています。この真実を魂の底までしみこませ仏さまの心のごとくに実践すれば、現実の苦しみに振り回されることのない自由自在の境地に達しえられるのです。そこがまたこの上もなく有り難いのです。 生きる喜びを与える経典  そのような真実を、このお経はただ理論的に解説するのでなく、劇的な譬え話や美しい文学的な表現で説いてありますので、読んでいくうちに人間として生きる喜びに全身の血が躍動するのを覚えざるをえません。  しかも、たんに個人としての喜びだけでなく、縁あって触れ合う人々を仏道に導き、幸せな社会、平和な世界を築き上げねばならぬという使命感のようなものが燃え上がり、ほんとうの生きがいがわいてくるのです。そうしたエネルギーに充ち満ちていることも「諸経の王」といわれる大きな理由の一つでありましょう。  ですから、多くの重要な仏典を中国語に訳した鳩摩羅什(前回参照)が、インドで仏教を学んで帰国するとき、師の須梨耶蘇摩(しゅりやそま)がとくに法華経を授け、「この経典は東北に縁あり。なんじ慎んで伝弘(でんぐ)せよ」と告げたのでした。  また、中国においても、小釈迦といわれた天台大師が、あらゆる仏典を学び尽くした結果、「仏陀の真意はこの法華経にある」と断じて、このお経を中心にして仏教を説きひろめました。それがいわゆる天台宗です。  日本に渡ってからも、わが国仏教の始祖である聖徳太子がこのお経の精神を基にして「十七条の憲法」をお定めになったことはだれ知らぬ者もないでしょう。  時代が下って、伝教大師最澄が比叡山に延暦寺を建て、わが国仏教の中興の祖となりましたが、大師の信仰の中心となったのも法華経でした。  そして、後に念仏の教えをひろめた法然上人も、親鸞上人も、この比叡山で学んだ人でした。ですから、法華経を所依(しょえ)の経典とはしていない浄土宗の教えも、その奥の奥には法華経の精神がこもっていることは間違いありません。  わが国最高の法華経行者日蓮聖人は、十二年間比叡山その他のお寺であらゆる仏典を学び尽くした結果、法華経こそは仏教の神髄であるという信念に達し、この教えを説きひろめるために命をかけられたのでした。  このように、インド・中国・日本の最高の宗教者たちがこぞってこの経を賛仰している事実からしても、法華経が諸経の王であると断じていいのであります。 ...

法華三部経の要点3

さまざまな宗派の人々からも賛仰された

1 ...法華三部経の要点 ◇◇3 立正佼成会会長 庭野日敬 さまざまな宗派の人々からも賛仰された 道元は死の直前まで唱えた  法華経は究極の真理の教えです。ですから、いわゆる法華経系の宗派以外の人々も、ほんとうに真理を求め、真理を愛する人は、この教えに傾倒し、賛仰したのでした。二、三の例をあげてみましょう。  道元禅師といえば、わが国曹洞宗の開祖として、また不滅の名著『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の著者として、古今の宗教界にそびえ立つ巨峰ともいうべき禅者です。その『正法眼蔵』を読みますと、禅師の思想の底には法華経の精神が脈々として流れていることがはっきりとわかります。  その一々については後で触れることもありましょうが、禅師が亡くなられる直前の行動こそが、いかに深く法華経に傾倒しておられたかを端的に物語っています。  禅師は京都の一信者の家で死を迎えられたのですが、最期の時を前にして法華経神力品の一節を低い声で唱えながら部屋の中を静かに歩き回っておられたといいます。そして、その一節を正面の柱に書きしるし、終わりに「妙法蓮華経庵」と書かれたのでした。  じつに禅師は、法華経に生き、法華経に死んだ人といえましょう。 キリスト者もこの経を賛仰  白隠禅師は徳川時代の臨済禅の最高峰でした。出家して間もない十六歳のとき法華経を読みましたが、「譬え話と因縁話ばかりで何ということはない」と失望し、それ以来ずっと手にしたことはありませんでした。  ところが、修行を積んでひとかどの僧となってから、久しぶりに法華経を読み返してみました。すでに四十二歳になっていました。ある夜、譬諭品を読んでいて「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」という偈(げ=詩形で説かれた経文)のところにさしかかったとき、にわかに悟りが開け「法華経とはこんなお経だったのか」と、有り難さがジーンと胸に来ました。  ふと、軒下で鳴くキリギリスの声が耳に入りました。それを聞いたとたん、思わず大声をあげて号泣したといいます。  白隠禅師は八十四歳まで長生きし、当代随一の高僧として世の尊崇を受けましたが、その悟りも法華経によってこそ開かれたのでありました。  法華経は、宗教の違いにこだわらず、究極の真理を求める人には高く評価され、賛仰されました。その代表的な例が賀川豊彦師でありましょう。師は大正から昭和初期にかけて神戸の貧しい人々と共に住み、キリスト教の伝道に身命を惜しまず、のちに社会運動に転じた菩薩的キリスト者でした。  その著『生活と宗教』には次のような文章があります。  放蕩(ほうとう)息子の譬え(筆者注・長者窮子の譬え)、火宅の譬え、最微者(筆者注・弱い小さな存在)を愛する心持、すべてに化身して救いを全うする精神などを教えてくれる「法華経」はけっしてイエスの敵ではないと思う。永遠の生命を説き、真理の把持を説き、肉の誇りとする霊の勝利を説くことにおいて、「ヨハネ伝」の東洋流の注釈書と解してすこしも差支えない――。私は仏者が「法華経」を捨てる日にそれを拾い上げよう。そして「法華経」が教えてくれるすべての尊いものを、私自ら実行しよう。――  これを読んでいるあなたは、今まさしくこの法華経を学び、お釈迦さまのお心に直接触れているのです。ということは、お釈迦さまの直参の弟子であり、すでに救いへの第一歩を踏み出しているわけです。  どうか、頭で学ぶのでなく、心で、魂で、そして全身でこの尊い経典を読んでいって頂きたいものです。 ...

法華三部経の要点4

仏の本体は宇宙の大いなるいのちである

1 ...法華三部経の要点 ◇◇4 立正佼成会会長 庭野日敬 仏の本体は宇宙の大いなるいのちである 無量義経とはどんなお経か  では、いよいよ本文に入りましょう。  法華三部経とは、無量義経(むりょうぎきょう)・妙法蓮華経・仏説観普賢菩薩行法経(ぶっせつかんふげんぼさつぎょうほうきょう)の三つの経典をいいます。  無量義経は、お釈迦さまが妙法蓮華経をお説きになる直前に、おなじく霊鷲山でお説きになったものです。このお経を説き終わられてから長い三昧(さんまい=心を一つのことに定めてなす瞑想)に入られ、その三昧を終えてから、いよいよ妙法蓮華経を説き始められたわけで、いわば妙法蓮華経の序曲ともいうべきお経です。  ですから、むかしから妙法蓮華経の「開経」と呼ばれ、まずこれから学び始めるのが正しい順序とされてきました。  では、このお経の題名の無量義とはどんな意味かといいますと、このことばには次のような意味があります。  つまり、「数限りない意味をもった教え」ということです。しかし、このことだけでは、このお経の題名である無量義ということばの意味としては不十分です。  さらに、「その数限りない意味をもった教えは、ただひとつの真理から出てくるのだ」ということまでいわなければ、本当の意味にはなりません。  では、そのただひとつの真理とは、いったいどのようなものなのでしょうか。それをこのお経では「無相」であるといっているのです。そして、その無相とは「実相」と名づけられるものであるというのです。  いきなり難しいことを言い始めたようですけれども、仏さまの教えはすべてこの「実相」の悟りにもとづくものですので、難しくてもまず右に述べたことをいろいろと考えめぐらしてみてください。わかったようでもあり、わからぬようでもある……ぐらいで結構です。あとでだんだんわかってくるのですから。 仏さまのお徳の偉大さ  さて、その無量義経の第一章は「徳行品」(とくぎょうほん)ともうします。この品は、大荘厳(だいしょうごん)菩薩というお方が、仏さまの完全円満なお徳と、衆生をお救いくださる慈悲行の素晴らしさを賛嘆もうし上げる章です。  まず、仏さまの法身(ほっしん)についてほめたたえます。法身というのは、仏さまの本体であり、久遠実成(くおんじつじょう)の本仏とももうします。すなわち、この宇宙のあらゆるところに充ち満ちている大生命ともいうべきものであり、この世のすべてのものを生かしてくださっている久遠のいのちをもつ本仏のことです。  大荘厳菩薩は「其の身は有に非ず亦無に非ず 因に非ず縁に非ず自他に非ず」などと哲学的な表現をしていますが、つまるところは、久遠実成の仏さまは、無始、無終の存在であられ、つねにわれわれと共にいてくださり、天地の万物を生かしてくださっているお方であるということなのです。  お釈迦さまが、このむずかしい真実を、一般の人々になっとくさせるために、譬え話やその他のさまざまな形をとってわかりやすくお説きになったのが妙法蓮華経にほかなりません。ですから、大荘厳菩薩のこのことばは、法華三部経のいとぐちとして、大衆に向かって宿題を投げかけたものといっていいでしょう。  この宿題をいつも頭の中に置き、絶えずそれを意識しながら、これから展開される教えを学んでいって頂きたいと思います。 ...

法華三部経の要点5

われわれも仏さまと同じ悟りを得られる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇5 立正佼成会会長 庭野日敬 われわれも仏さまと同じ悟りを得られる 善業の因縁より出でたり  前回に引き続き無量義経・徳行品の要点について述べましょう。  法身(ほっしん)の仏さまの無量のお力とお徳を賛嘆した大荘厳菩薩(だいしょうごんぼさつ)は、今度は一転して、法身の仏のこの世への現れである応身(おうじん)の仏、すなわちお釈迦さまの完全なお徳を賛嘆します。  そして、どうしてそのようなお徳を完成されたかについて、「それは、長い間さまざまなご修行をなさった結果であり、そうして得られた慈悲のはたらきと、智慧のはたらきと、何ものにもはばかることなく法を説かれるはたらきによるものであります。さらにそのおおもとをただせば、衆生の一人として善業(ぜんごう)を積まれた因縁によるものであります」ともうしあげるのです。  この最後の一節は、原文では「衆生善業の因縁より出でたり」とありますが、これが徳行品の最大の要点の一つです。  お釈迦さまは完全円満な人格のお方でありますが、もともとは平凡な衆生の一人だったのです。また、ある日突然、神がかりになって仏となられたのでもありません。カピラバスト城の王子ではありましたが、とにかく普通の人間だったのです。妃もお持ちになり、お子さんもつくられたのです。  現世においてだけではありません。前世のそのまた前世においてもやはり衆生のひとりに過ぎなかったのです。それが、何世にもわたる多くの過去世においてさまざまな修行を積まれ、無数の善行をなさったその積み重なりに加えて、現世においても、一切の世の人びとを救おうという志を立てられ、数々の修行を積まれたその結果、たぐいのない大人格を成就(じょうじゅ)されたのです。  このことはつまり、われわれのような平凡な人間も仏道修行を積み、善い行いを重ねていけば、いつかは必ず仏さまのような悟りを得られるのだということにほかなりません。これが法華三部経全体に通ずる大思想ですが、「衆生善業の因縁より出でたり」の一句に、その大思想がさりげなく述べられているのです。ですから、この一句はしっかりと胸に刻んでおいて頂きたいと思います。 容貌も心と行いによって  次に大荘厳菩薩はお釈迦さまのお顔やお姿の美しさを、口を極めてほめたたえます。そして、その結論として「衆生身相の相も亦(また)然(しか)なり」ともうしております。これがまた大切な一句です。  もちろん、前の「衆生善業の因縁より出でたり」と密接につながっているのであり、われわれ衆生の顔や姿の相も、仏道修行と善い行いを積むことによってどんなにでも美しくなっていくものだ、という真実を述べているのです。  よくテレビなどで、娘時代から病人の世話に一身を捧げてきた看護婦さんとか、一生を草花の愛育に努力してきた園芸家とかの人びとが紹介されますが、そんな人たちの相貌(そうぼう)を見ますと、目鼻立ちといった表面の形を超えた何ともいえないりっぱな顔をしておられます。内から輝き出してくる美しさです。慈愛というか、慈悲心というか、そうした高い精神性がおのずから相貌に現れているのです。  真・善・美ということがいわれますが、これはけっして別々のものではなく、つながっているのです。「真」(宇宙の真理・天地の道理)を行いのうえに実践するのが「善」であり、真をありのままに具現したのが「美」なのです。花が美しいのは、本仏に生かされるままに咲いているから美しいのです。  ですから、見かけの姿・形の美醜にこだわることはありません。心に「真」を思い、行いの上に「善」を行っておれば、それは必ずあなたの相貌をほんとうの「美」に変えていくことに間違いありません。 ...

法華三部経の要点6

無量義経は深く考えさせる経典

1 ...法華三部経の要点 ◇◇6 立正佼成会会長 庭野日敬 無量義経は深く考えさせる経典 まず観察して考え抜け  無量義経の説法品に移りましょう。説法品といっても、ここに説いてある教えは主として「空(くう)」ということです。  大荘厳菩薩が「わたくしどもが、まわり道しないでまっすぐに仏の境地に達するためには、どんな修行をしたらよろしいのでしょうか」と、お尋ねしたのに対して、お釈迦さまはこう教えられます。  「無量義という法門を修めることです。そのためには、まずつぎのことを見究めなければなりません。すなわち、この世のあらゆるものごとは、宇宙ができてから(本)ずっと(来)今日まで(今)、その性質にしても、すがたにしても(性相)、固定されたものではなく、一切が平等でしかも大きな調和を保っている(空寂)のです。われわれが肉眼で見る現象は、大きいとか小さいとか、生ずるとか滅するとか、止まっているとか動いているとか、進むとか退くとか、さまざまな差別や変化があるように見えるけれども、ほんとうは、ちょうど虚空というものと同じように、凡夫が見るような相対的で、固定した存在ではないということを見究めねばならないのです」と。  この「見究めねばならない」という一語に注意することが肝要です。「こうだよ」と断定的におっしゃらずに、「よく観察し見さだめなさい」とおっしゃっているのは、つまり菩薩たちに宿題を出されたのです。一生懸命に考えさせてから、あとで妙法蓮華経の説法でわかりやすく説いて聞かせようというみ心なのです。宿題であり、伏線でもあるわけです。  ですから、現代の菩薩であるあなた方も、いますぐにはわからなくていいから、とにかく懸命に考えてください。考えずにただ教えを聞くのを声聞(しょうもん)といいますが、それではほんとうの悟りに達することはできません。考えて考え抜いたあげく、「こうだ」と教えられると「なるほど!」と、打てば響くようにわかり、ほんとうの菩薩行の実践ができるようになるのです。 なぜガタピシが起こるのか  さて、前述のお言葉に続いて、こうお説きになります。  「ところが多くの人々はこの真理を知らず、目の前にあらわれた現象だけを見て、此(こ)れは此れ、彼(あ)れは彼れ、これは得、これは損と、わがまま勝手な計算をして、そのために不善の心を起こし、さまざまな悪い行為をし、地獄(怒りの世界)・餓鬼(欲求不満の世界)・畜生(本能のみに振り回される世界)・修羅(闘争の世界)・人間(凡夫の世界)・天上(仮の喜びの世界)という六道をグルグル回り、いろいろな苦しみを受けるばかりで、いつまでたっても自分だけではほんとうの平安な世界に到達することができないのです」と。  まさにそのとおりですね。人間みんなはもともと仏の子なのだという真実を悟らずに、だれもかれもを他人だと見ることから、争いも起これば苦しみも生ずるのです。  この一節の初めの部分の原文は「是(こ)れは此(し)、是は彼(ひ)、是は得、是は失と横計して」とあります。この彼と此に注目してください。よく、建具などの具合のわるいのを「ガタピシする」と言います。また、人間と人間や国と国との関係がしっくりいかないのも「ガタピシする」と言います。  このガは「我」であり、タは「他」であり、ピは「彼」であり、シは「此」です。我だ、他だ、彼だ、此だと差別の眼で見るからお互いの関係がガタピシするようになるというのであって、ガタピシ(我他彼此)というのは仏教のそういう教えから出た言葉なのです。たいへん意味の深い言葉ですから、ついでによく記憶しておいて頂きたいと思います。 ...

法華三部経の要点7

注意深い観察のすすめ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇7 立正佼成会会長 庭野日敬 注意深い観察のすすめ かくすれば、かくなる  無量義経とは深く考えさせるお経だと前回に述べましたが、考えさせる宿題はなおも続きます。  「法の相(そう)是(かく)の如(ごと)くして、是の如き法を生ず。法の相是の如くして、是の如き法を住す。法の相是の如くして、是の如き法を異(い)す。法の相是の如くして、是の如き法を滅す。法の相是の如くして、能(よ)く悪法を生ず。法の相是の如くして、能く善法を生ず」  この「法」というのは「ものごと」という意味です。この一節のあらましの意味は、「ものごとの現在のあり方を見て、それがどう変化していくかを考えてごらん。どうすればどんな変化が起こるか、どうすれば悪い結果が出るか、善い結果が出るか、そこのところをよく観察し、考究してごらん」ということなのです。  この宿題が、妙法蓮華経方便品の「十如是」の法門につながり、天台大師の「一念三千」にもつながり、また、わたしがいつも言う「法華経とは、かくすればかくなる(こうすればこうなる)という教えだ」ということにもつながっているのです。だから、無量義経を読む段階でよく観察し、考えておきなさい、そうすればあとで「そうだッ」とはっきりわかるのですよ……というわけなのです。 注意力を集中せよ  そのすぐあとに、これまた重大な言葉があります。  「次に復(また)諦(あきら)かに一切の諸法は念念に住せず、新新に生滅すと観じ」という一節です。世の中のすべてのことがらは、一刻も元のままでいるものではなく、一瞬一瞬に生じかつ滅しているものだということをよく観察しなさい……というのです。  われわれがものごとをボンヤリ眺めていますと、それが一瞬一瞬に生滅しているようには見えません。しかし、真理に照らし合わせながら注意力を集中して観察しますと、それがよく見えてくるのです。  いま地球上の自然破壊や汚染が重大問題となっています。しかし、日々の生活をただ惰性的にやっていますと、その実態がピンときません。だから、相変わらず強い農薬を施したり、中性洗剤を使ったり、排ガスを撒(ま)き散らしたりしています。「これくらいなら……」とか「私一人が使ったくらい……」といった考えからです。  しかし、こういったものごとというものは、ある限界に達したとき爆発的な結末をもたらすものなのです。人類を危機から救おうと世界の知性を集めて結成されたローマ・クラブが先年刊行した警告の書『成長の限界』(大来佐武郎監訳・ダイヤモンド社)に、つぎのような譬え話が述べられています。  「池の睡蓮が毎日二倍に殖えて、その成長をとどめられることがないとしたら、三十日で池を完全におおいつくして、水の中の生物を窒息死させてしまうそうだ。しかし、睡蓮は小さなものだと思っていたので、池の半分をおおうまでは刈り取ることをしないでいたとする。いつ、その日が来るだろうか。答えはもちろん二十九日目である。その池の生物を救うのには一日しか残されていないのである」  なるほど。二倍、三倍と殖えて三十日目に池いっぱいになるのなら、二十九日目には池の半分を睡蓮がおおっている。それを、「まだ半分水面が見えている」と思って安心していると、翌日はアッという間に睡蓮は池を覆いつくしてしまうのです。油断大敵です。  誠に「念念に住せず、新新に生滅す」なのです。この教訓は、あなたの商売のうえにも、健康維持のうえにも、また子育てのうえにも、そのまま役立つものと思います。活用してください。 ...

法華三部経の要点8

無量義とは一法より生ず

1 ...法華三部経の要点 ◇◇8 立正佼成会会長 庭野日敬 無量義とは一法より生ず 性欲無量だから説法無量  これまで「この世のすべてのものごとの変化のありさまをよく観察しなさい」と教えられてきましたが、ここで一転して、それを人々の説法のしかたに絞り「是(かく)の如(ごと)く観じ已(おわ)って、衆生の諸の根性欲に入る」とおおせられました。いよいよこの無量義経(もちろん後につづく妙法蓮華経も)の眼目である「人を救う」という本題に入るわけです。  根というのは「機根」のことで、その人が持っている根本的な能力のこと。性というのは性質。欲というのは欲望。この三つは人それぞれによって持ち前が違います。人を救うには、まずその持ち前を見究めよというわけです。そして、こうお説きになります。  「性欲(しょうよく)無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、義も亦(また)無量なり」  性質と欲望は人によって千差万別です。金銭を極度に欲する人、愛欲に溺(おぼ)れる人、名誉欲にかられている人、権勢には目のない人等々、数えあげればきりがありません。  いや、そのようにある欲求を極端に求める人もありますが、世の多くの人はそれらの欲求をおおむねいくらかずつ持ち合わせており、その持ち合わせ方の分量が人によって違うわけです。よくコーヒーなどでいろんな種類の品種を混ぜ合わせるのをブレンドするといいますが、人間の性質や欲望もそれと同じで、ごく普通の人でもさまざまな性質や欲望を自分なりにブレンドして持ち合わせているのです。  そのブレンドのありようがじつに千差万別なのです。ですから、人に仏法を説いて救いに導くには、その人の性質や欲望のブレンドのありようをしっかりと見究めて、それに応じた教えを説かなければならない……というのが「性欲無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、義も亦無量なり」の意味なのです。  どうかすると、どんな人に対しても型にはまった同じような説き方をする人がありますが、それでは現実に人を救えるものではありません。われわれの教団では「会員即布教者」を旗印としていますから、この「性欲無量なるが故に、説法無量なり」という一句こそは、全会員が常に頭に刻み込んでおかねばならぬ金言なのであります。 久遠本仏の大いなる慈悲  この一句は人を導く現実的な手段を述べられたものですが、しかし、その手段の枝葉末節ばかりにとらわれていますと、つい小手先の導きに終わり、大事な根本を忘れてしまう恐れがあります。そこで、続いて、  「無量義とは一法より生ず。其(そ)の一法とは即ち無相なり、是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを、名(なづ)けて実相とす」  とお説きになるのです。  それぞれの人の性質・欲望に応じてそれにふさわしい内容の法を説かなければならないのだけれども、その千差万別の説法の内容(無量義)も必ず宇宙の真理である一つの法にもとづくものでなければならない……というのです。  そのあとにつづく「其の一法とは即ち無相なり」に始まる実相ということはたいへん難しい教えですが、宗教的にわかりやすく言いますと、「この世の一切のものは、久遠本仏の大いなる慈悲によって生かされているのだ」ということになりましょう。  一人びとりは、現象面ではさまざまな姿・形・性質・欲望を持っているのだけれども、もとをただせば、久遠本仏の実の子という尊い存在だということです。別の言葉で言えば、みんな仏性をもっているのだということです。そのことをしっかりと胸の底におさめていてこそ、ほんとうの教化、ほんとうの救いができるというのです。 ...

法華三部経の要点9

真実の慈悲とは何か

1 ...法華三部経の要点 ◇◇9 立正佼成会会長 庭野日敬 真実の慈悲とは何か 仏の掌の外へは出られない  前回までに解説した無量義の説法の結論として、お釈迦さまは次のようにおおせられています。  「菩薩の皆さん。このような真実の相(すがた)を悟り、その悟りがすっかり身についてしまったときに起こる慈悲心というものは、はっきりした根拠の上に立った慈悲心でありますから、その働きは、必ず立派な結果となって現れるものです。すなわち、それぞれの境遇そのままで、多くの人々の苦しみを抜き去ってあげることができましょう。苦しみを抜き去ったら、そこで再び法を説いて、多くの人々に生きる喜びを与えることができましょう」と。  このお言葉の最初にある「このような真実の相」というのは、前回に述べたように「この世の一切のものは、久遠本仏の大いなる慈悲によって生かされているのだ」という真実を指すのです。  この真実を悟ることこそが最高の悟りなのです。考えてもごらんなさい。ひと握りの土、一匹の虫、一本の草、ひと片(ひら)の雲、一人の人間、どれとして久遠本仏の大いなる慈悲に生かされていないものがありますか。そのような存在を想像できますか。できないでしょう。そのとおりなのです。  人間の知恵がいくら進んだからといって、この本仏の大いなる慈悲の埒外(らちがい)に出ることはできないのです。孫悟空がお釈迦さまの掌(てのひら)から飛び立って三千里も飛んで行き、違った世界へ出たと思って着地してみたところ、やはりお釈迦さまの掌の上だった……という説話は、この真実を如実に物語っているのです。 共に生かされている一体感  では、そのような悟りに達したとき、われわれの心にどんな変化が起こるのでしょうか。一言にしていえば、「この世のすべてのものは自分と同じように仏に生かされているのだ」という思いが、切々として胸にわいてくるのです。あの人も、この人も、自分と同じように本仏に生かされている兄弟姉妹だ……という思いです。あの虫も、この草も、自分と同じように仏性をもっている同胞だ……という思いです。切実な一体感です。  そのような一体感が心の底に定着すればどうなるか。例えば苦しんでいる人を見れば、我を忘れて「ああ、なんとかしてあげたい」という思いがおのずからわいてくるのです。それがほんとうの慈悲心というものなのです。本仏の大慈悲に直結する真実の慈悲なのです。原文に「是(かく)の如(ごと)き真実の相に安住し已(おわ)って、発する所の慈悲、明諦(みょうたい)にして虚しからず。衆生の所に於(おい)て、真に能(よ)く苦を抜く」とあるのは、そこのところを言っているのです。    ロシアの文豪ツルゲーネフが、朝早く散歩に出ると、一人の男が近づいてきて、「どうぞお恵みを」と手を差し出しました。ブラリと出た散歩だったので、あいにくお金を持っていなかったツルゲーネフは「許してくれ。わたしは今お金を持っていない。今わたしにできるのはこれだけだ」と言って、その男の手をしっかりと握ったのです。そして「からだに気をつけなさい。そして、早く何か仕事をみつけて働くことですよ」と励ましました。その男は感激して、「だんなの握手が何よりのお恵みです。これからしっかり働きます」とはっきり誓って立ち去ったということです。  これこそが真の慈悲というものです。思わず手を握って励まさずにはおられなかった……そこに大きな一体感があったのです。だからこそ、そのたった一つの行動が相手にほんとうの幸せをもたらしたのです。 ...

法華三部経の要点10

四十余年には未だ真実を顕さず

1 ...法華三部経の要点 ◇◇10 立正佼成会会長 庭野日敬 四十余年には未だ真実を顕さず 究極の真理は妙法蓮華経に  無量義経・説法品の中にどうしても見落としてはならぬ要点があります。それは……  「諸の衆生の性欲(しょうよく)不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕(あらわ)さず」  とある、この一節の末尾の一句です。「人々の性質や欲望が千差万別であるから、これまでは方便(その人の機根に応じた適切な手段)によってさまざまな説き方をしてきた。それで、この四十年余りの間には、究極の真理をすっかり説き明かすことがなかったのである」とのおおせです。  古来、この「四十余年には云々」の一句が、無量義経が妙法蓮華経の開経であることを決定するポイントの一つとされてきました。と同時に、妙法蓮華経が法の真実の奥の奥(究極の真理)を顕されたお経であることの文証となる重大な一句なのです。 「真実」と「事実」との違い  それならば、これまでお釈迦さまは真実でないことをお説きになったのかといえば、決してそうではありません。  たいていの人が「真実」と「事実」を混同しているようですから、この機会にその違いをハッキリさせておきましょう。  「事実」というのは、現象のうえに現れた客観的なものごとを言います。前回にツルゲーネフがもの乞(ご)いをする男の手を握った話を書きましたが、その「手を握った」ということが「事実」なのです。  それに対して、「真実」というのは、仏法で言えば「究極の真理」のことであり、人間に即して言えば、その人の心の本質である「誠(まこと)」です。「真心(まごころ)」です。  こういった「真実」は目に見えないものですので、心ない人はそれを悟ることができません。たとえば、ツルゲーネフがもの乞いの男と握手したその場を通りかかったある人が「あの汚い手を握るなんて……」と思ったかもしれません。ひとの心の中の「誠」が見えないからです。  もう一つ例を挙げましょう。お釈迦さまがこんな話をなさったことがあります。  ――ヒマラヤの山中に寒苦鳥(かんくちょう)という鳥がいる。夜はひどく寒いので、雌の鳥は一晩じゅう「寒苦必死(かんくひっし=寒くて死にそうだ)」と鳴き続ける。雄の鳥はそれに応じて「夜明造巣(やみょうぞうか=夜が明けたら巣を造ろう)」と鳴き続ける。しかし、夜が明け日が差して暖かになると、ついノンビリして巣を造ることを忘れてしまう。そうしてまた夜を迎えると「寒苦必死」「夜明造巣」と鳴き続けるのだ――。  これはお釈迦さま得意の譬え話で「事実」ではありません。しかしわれわれはこの話を聞くと、われわれ凡夫の人生に対する態度をつくづくと反省させられます。そうさせるものが、フィクション(物語)の中にある「真実」なのです。  お釈迦さまは、これまでの四十余年間、このような巧みな方便を用いて現実に人々を救ってこられました。舎利弗のような高弟たちも、まだ法の真実のすべてを受け入れるだけの機根が熟していなかったので、お釈迦さまは――説いてもムダであろう、かえって迷いを深めるかもしれない――とお考えになって、さし控えておいでになったのです。  ところが、妙法蓮華経の方便品で、「法を聞いて実践すれば、だれもが私と同じになれる。すべての人を成仏させるために、方便力でもって法を説いてきたのだ」と述べられ、仏の本願をお説きになったので、まず舎利弗が悟りを開き大歓喜したのです。そして寿量品に至ってさらに深遠な真実を悟ることになるのです。  「四十余年には未だ真実を顕さず」にはこのような重大な意味があるわけです。 ...

法華三部経の要点11

義異なるが故に解異なり

1 ...法華三部経の要点 ◇◇11 立正佼成会会長 庭野日敬 義異なるが故に解異なり 「空」は積極的に解するもの  無量義経の説法品には、妙法蓮華経以前のお釈迦さまの説法についていろいろと解説されています。「初説・中説・後説、文辞は是(こ)れ一なれども而(しか)も義別異なり。義異なるが故に衆生の解(げ)異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦(また)異なり」という一節もその重要な一つです。  すなわち――これまで「空」とか「十二因縁」とか「六波羅蜜」などを繰り返し説いてきたが、説く言葉(文辞)は同じでも、初めて説いたときと、中ごろと、今ここに説くのとでは意味・内容に開きがあるのだ。そのために人々の受け取り方に違いが生じ、したがって、得た悟りにもおのずから違いがあるのだ――とのおおせなのです。  このことは、われわれがお導きをするに際しても重要なことですから、よく心得ておきたいものです。例えば、「空」の教えには、「この世の現象はすべて仮の現れであって、実体はないのだ」という意味(義)があります。これをうっかり否定的なムードで聞いてしまうと、仙人のような生活や悟りを追求する人にだけ通用するような「義」となってしまうこともありましょう。  したがって、普通の生活をしている人がこの「義」にとらわれると、ひどい虚無感に陥ってとんでもないことにもなりかねません。  しかし、この「空」の義を、「空であるすべての現象はある原因(因)にある条件(縁)が合致してあらわれたものである」と肯定的に正しく受け取りますと、「どのようなことに対しても、自分がよい縁となれば、ものごとをよい方向へ変えることができるのだ」という積極的な気持ちが生じ、勇気りんりんたるものを覚えるでしょう。あとで説かれる妙法蓮華経は、こうした積極的な受け取り方を教えているのです。 不殺生戒の現代的な「解」  また、例えば五戒の第一である不殺生戒にしても、その「義」には広狭の大きな開きがあります。いちばん狭い「義」は、あらゆる生きものを殺してはならぬということです。提婆達多はこの義にこだわり、戒律の改革案をお釈迦さまにつきつけ「比丘は魚や肉を食べてはならぬ」という規則をつくられるよう迫りました。  ところが、大自然の姿を透徹した眼で眺めてみますと、いわゆる食物連鎖という冷厳な事実があります。タカが小鳥を食べ、小鳥は昆虫を食べ、昆虫は植物の葉を食べますが、その代わりそれらの動物たちは自らの死骸によって土壌を肥やし植物を育てるという恩返しをします。そのような連鎖関係によってすべての生態系がバランスを保っているのです。  お釈迦さまはこのような大自然の姿を徹見しておられたのでしょう。比丘たちにも、自分で魚や肉を捕って食べることは禁じられましたが、托鉢などで出されたときなどはありがたく受け取り、食べてよいと定められていました。もちろん、提婆改革案など一蹴(いっしゅう)されたのです。  さて、二十世紀末のわれわれはこの不殺生戒をどのような義に解せばいいのでしょうか。「戦争をしてはならぬ」というのが第一義であることは言うまでもありません。もう一つ大切なのは「物の殺生をつつしめ」ということだろうと思います。地球の限りある資源を人間はあまりにもほしいままに浪費しつつあります。便利で安逸な生活をしたいという欲望を限りなく肥大させ、そのために「物のいのち」をムダに殺生しつつあるのです。少欲知足の生活における物の消費は、前に申した大きな連鎖の一環になるのですが、ムダな消費は全体のバランスを崩し、自然を汚染・破壊する自殺行為となります。  このように、経典の文辞はその「義」を時代に応じて柔軟に解せねばならないのです。 ...

法華三部経の要点12

教えは実践にこそ生きる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇12 立正佼成会会長 庭野日敬 教えは実践にこそ生きる 究極の慈悲心とは  それでは無量義経の十功徳品に移りましょう。この品の第一の要点は、大荘厳菩薩が「この教えはいったいどこから出てきたものでございましょうか。そしてどういう目的へ向かって行くものでございましょうか。また、この教えの住みつく所はどこでございましょうか」とお尋ねしたのに対して、お釈迦さまは、  「善男子、是(こ)の経は、本(もと)諸仏の室宅の中より来り、去つて一切衆生の発菩提心に至り、諸の菩薩所行の処に住す」  とお答えになっているところです。  これは、無量義経の「本質」と「目的」と「目的の完成」とを短い文句の中に言い尽くされた重大なポイントであります。  「本諸仏の室宅の中より来り」というのは、この教えは諸仏のお住まいになっているお部屋から出たものであるというのですから、つまり諸仏の大慈悲心からほとばしり出たものであるということです。  慈悲心にも広狭深浅いろいろあります。例えば、飢えに苦しんでいる開発途上国の人々に食糧を送ってあげるのも慈悲心です。その人たちに農業技術を教え、食糧自給の道を開いてあげるのはより深い慈悲心です。さらに、海外協力隊員が実践しているように、現地の人々と生活を共にしながら「自立の精神」を育てていこうとするのはもっと広大な慈悲心といえましょう。  身近な例をあげれば、子供が転んだとき「かわいそうに……」と助け起こすのは小さな慈悲心であり、「坊やは強いからひとりで立てるよ」と励まして手を貸さないのは大きい慈悲心ともいえましょう。  では仏さまの大慈悲心とはどんなものかといいますと、「この世のあらゆる存在をあるがままに生かしてやりたい」というみ心であり、これが究極の慈悲心なのです。これを現代風に表現しますと、「ありとあらゆる存在に、その本来の存在価値を十分に発揮させたいというのが仏の大慈悲心なのである」ということになります。  「成仏」という言葉がありますが、その最も広い意味は「それぞれの持つ存在価値と使命を百パーセント完遂する」ということです。これは、人間のみに限らず、あらゆる生物・無生物にも通ずる真実であり、「草木国土悉皆成仏」という言葉がそのことを端的に言い表しています。そして、それこそが無量義経の「本質」であるというわけです。 現実に人を救ってこそ  次の「一切衆生の発菩提心に至り」ですが、菩提心というのを『仏教語大辞典』で引いてみますと、「さとりを求めて仏道を行おうとする心」とあります。そういう心を起こすのが発菩提心ですから、すべての人々にそのような心を起こさせるのが無量義経の「目的」だというのです。  次の、この教えはどこに住するかというのは、「この教えは、どこにおれば最も真価を発揮するか」ということです。  その場所は、お寺の中でもありません。書物の中でもありません。頭脳の中でもありません。人を救うという菩薩行の中にこそそれがあるのだ……と説いてあるのです。現実に人を救わなければ、仏法も絵に描いたモチに過ぎないからです。ですから、菩薩行の実践こそが無量義経の「目的完成」の道だというわけです。  この三ヵ条はたんに無量義経のみならず、次に説かれる妙法蓮華経の、いやあらゆる大乗仏教典の「本質」と「目的」と「目的の完成」を述べ尽くしたものと知るべきでありましょう。 ...

法華三部経の要点13

煩悩もよい方向に生かせば

1 ...法華三部経の要点 ◇◇13 立正佼成会会長 庭野日敬 煩悩もよい方向に生かせば 宇宙の理法に従っておれば  無量義経の十功徳品に、次のような重要な一句があります。  「煩悩ありと雖も煩悩なきが如く、生死に出入すれども怖畏の想なけん」  煩悩というものは人間の生存本能からわき出てくる、いわば本能的な欲望というものであって、生身(なまみ)の人間としては避け難いものであります。お釈迦さまが「煩悩を滅せよ」とお説きになったのは比丘・比丘尼に対してであって、そうした出家修行者は阿羅漢という聖者の域に達するのをまずもっての目的として修行しているのですから、そうした本能的な欲望からも超脱する必要があったわけです。  しかし、在俗の信者たちには「煩悩が起こるがままにしておれば、それはいくらでも増大して身を誤るもとになるから、ほどほどに抑制しなければならぬ」と説かれたのでした。あくまでも「中道」を教えられたのです。「調和」を教えられたのです。「バランス」こそが平安への道であると教えられたのです。  ところが、この無量義経においては、「このお経の説く真実を悟れば、煩悩があっても煩悩がないのと同じような心境に達し、人生のどんな変化(生死)に遭っても動揺することがない」と説かれています。  つまり、宇宙の理法に素直に従って生きておれば、煩悩があってもそれが気にならなくなり、どんな逆境にあっても挫折することなく、いつも前向きの姿勢で暮らしていける……というわけでしょう。 「平等」と「バランス」  では、その「宇宙の理法」とはどんなものでしょうか。いろいろな見方がありましょうけれども、次の二つに要約できると思います。  第一に「この宇宙には千差万別の存在があるが、すべてがそれ自身の存在価値を持っているのだ」ということです。仏教的にいえば、「すべてが久遠の本仏すなわち宇宙の大生命の分身であり、本質的には平等な尊い存在である」ということです。  第二は「それらの千差万別の存在が一つの大きな調和を保ち、バランス(つりあい)をとることによってこの宇宙は成り立っている」ということです。仏法的にいえば「諸法無我」ということです。  この二つの理法をしっかりと胸におさめておれば、現実の生活のうえでさまざまな苦悩や異変につき当たっても、「このマイナスの裏には必ずプラスがあるのだ」というバランスの理を思い出し、そこから新しい世界が開けてくるはずです。  戦後の洋画界に新しい分野を開いたとして名声の高かった林武画伯は、まだ若い画学生のころ石こう像のデッサンをしながら、「自分には石こう像の前半分しか見えない。背後に見えない半面がある」という考えがひらめいたそうです。その考えをつきつめた結果、この世界はすべて明と暗、陰と陽、プラスとマイナスといった相反するもののつりあいによって成り立っていることを悟り、それが後半生の素晴らしい画業となって結実したのだそうです。  また、このあいだ「朝日賞」を受賞した映画評論家の淀川長治さんは、子供のころから体も弱く、勉強もできず、体操は絶対ダメ、何の取りえもない存在だったと自ら告白しています。しかし、好きでたまらなかった映画に打ち込んだ結果、世のすべての人に愛されるあの「サヨナラ、サヨサラ」の淀川さんとなったわけです。  このように、すべての人に、表面の姿はともあれ、その本質においては平等な存在価値があるのです。表面がマイナスであっても、裏面には必ずプラスの世界があるのです。それによってこの世はバランスがとれているのです。  そのことを悟れば、煩悩があってもかえってそれを活用することができ、また、逆境にあってもその裏にあるプラスを見つけ出すことができ、つねに勇気と希望に満ちた人生を送ることができましょう。 ...

法華三部経の要点14

だれでも人を救える

1 ...法華三部経の要点 ◇◇14 立正佼成会会長 庭野日敬 だれでも人を救える 「度」とは目覚めさせること  無量義経の十功徳品に説かれている第三の功徳に「未だ自ら度すること能(あた)わざれども、已(すで)に能く彼を度せん」とあり、第四の功徳にもまた「未だ自ら度せずと雖(いえど)も而(しか)も能く他を度せん」とあります。こうして二度も繰り返して説かれるほど、このことは無量義経最大の要点の一つであると言えましょう。  「度」というのは氵(さんずい)のある「渡」と同じくワタスと読み、他の人を迷いのこちら岸(此岸)から悟りのあちら岸(彼岸)へ渡してあげることです。といえば何か現実離れしたことのように聞こえますが、つまりは人を真理に目覚めさせてあげるということなのです。  そこで、冒頭の句は、自分はまだ真理に目覚めてはいなくても、人を目覚めさせることができるというのです。わたしどもの会では「信仰者即布教者」を信条としていますが、入会したての人で自分自身にある救いを自覚した人が、たとえまだ仏教の教義などはよくわからなくても「有り難い教えですよ。いっしょに信仰しましょう」といったごく素朴な言葉で人にすすめ、何十人という人を正法への目覚めに導いた例は数えきれぬほどあります。  まことに「自ら度すること能わざれども已に能く彼を度せん」なのです。 他を度せば自分をも度す  では、そうして「他を度した」本人はどうなるのか。他を度しているうちに、その努力と体験を通じてひとりでに自分も法に目覚めていくもので、そのような実例もわが会には無数にあります。古人がいみじくも言ったように「教えるは教えらるるものなり」であります。『心のプリズム』(朝日新聞科学部編)という本にこんな実話が載っていました。  意志が弱く、酒代のために三人の子供のふだん着まで質に入れ、二十年間に五十回も職を変えたというアル中の人が、ある断酒会に入ってついに酒をやめることができたという話です。  その人は、まず試しに三日ほど酒をやめてみたところ、断酒会の仲間から「大したものだ」とほめられ、ほめられると悪い気がせず、飲みたくてたまらないのを我慢していた。 そのうち、新しく会に入ってきた仲間のことを夢中で心配するようになり、なぜ酒をやめねばならないかをけんめいに話をするようになった。自分自身はまだ飲みたい気持ちは残っていたにもかかわらず、後輩たちを説得することがそのまま自分を説得することになり、とうとうまったく飲まずにいられるようになってしまった……という話です。これなどは、他を度することによって自らをも度してしまった典型的な例でありましょう。  ただここで見忘れてならないのは、その人が救われたのは、まず断酒会という正定聚(しょうじょうじゅ=正しいことを信条として結束した仲間)に入ったからだということです。その正定聚に入らなければ先輩にほめられてヤル気を起こすこともなく、後輩たちを説得するうちにいつしか酒から離れることもなかったのです。だからこそ、われわれの会でも、サンガへのお導きを何より大切な行としているのです。  冒頭にかかげた句は、結局のところ「まず人を救え」ということにほかなりません。大自然の姿を眺めてみても、花はまず蝶(ちょう)や蜂(はち)に蜜(みつ)を与えることによって雄しべの花粉を雌しべにつけてもらいます。熟した柿(かき)の実は、まず小鳥に果肉を食べさせることによって種子を方々に撒(ま)き散らしてもらい、子孫を増やしています。「まず与える」ことによって自分も利益を得ているのです。これが天地自然の理であると知るべきでしょう。 ...

法華三部経の要点15

法華経はあらゆる生あるものへの教え

1 ...法華三部経の要点 ◇◇15 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経はあらゆる生あるものへの教え 永遠不滅の教え  それでは妙法蓮華経に入りましょう。  まず第一章の序品ですが、この章はいかにも不可思議な光景や遠い過去世の追憶などに終始しています。それはもちろんたんなる神秘的な物語ではなく、法華経が空間的にも時間的にも無限永遠の教えであることを象徴しているのです。  空間的に無限のひろがりを持つ教えであることは、その説法の座に集まっている聴衆の顔ぶれを見れば歴然としています。実在の人物は男子・女子の修行者たちとマガダ国のアジャセ王とその家臣たちだけで、あとは文殊菩薩・観世音菩薩をはじめとする法身(ほっしん=現実に身体をもつ存在ではなく、真理や救済力の当体としての身)の菩薩、釈提桓因(しゃくだいかんにん=帝釈天)をはじめとするバラモン教の神々、八種の竜王たち、乾闥婆王(けんだつばおう)・阿修羅王・迦楼羅王(かるらおう)といった鬼神たちなどです。  ということはつまり、法華経が宇宙のありとあらゆる生あるものに正しい生き方を教える経典であることを象徴しているのです。  つぎに、時間的な永遠性ということは、後段に述べられている、過去に二万もの日月燈明仏(にちがつとうみょうぶつ)がおられたというくだりによく現れています。  最後の日月燈明仏が、まだ出家されない前の八人の王子が仏道に入って仏となられ、そのうち最後に成仏された方を燃燈仏と申し上げた……と述べられていますが、一般には、燃燈仏とは過去世に出られた仏の中でいちばん古い仏とされているのです。  ところが、この法華経においては、その燃燈仏の前に二万もの日月燈明仏が出られて次々に教えをリレーしてこられたと説くのです。ということはつまり、「法華経の教えは、無限の過去から永遠の未来まで永遠不滅の真理である」ということの象徴にほかなりません。 宗教協力の源流がここに  仏教の根本思想は、宇宙のあらゆる存在はいわゆる「神」によって造られたものではなく、ある因(原因)とある縁(条件)とが合致して生まれたものであるとしています。したがってお釈迦さまは、天上にあってこの世を支配する神々の存在を認めてはおられませんでした。  しかし、お釈迦さまは、古来のバラモン教の信仰を頭から排斥しようとはなさらなかったのです。法華経説法の座に、天上界の主である帝釈天や、月・星・日の神々であるという名月天子・普香天子・宝光天子や、その家臣であるという四天王などがつらなっているのは、そういった神々をも仏法の中に包容し、仏法によってそれらに新しい存在価値を与えようとされたわけです。  これもお釈迦さまの大智慧と大慈悲の現れだということができましょう。何事にしても、頭から否定し、捨て去ってしまっては、それでおしまいです。そうではなく、否定しなければならないものごとも、その否定を乗り越えて新しい存在価値を発見するならば、そのものの生命を新しく創造したことになります。つまり、生かせないものごとはなにもないのです。  このようにして、これらのバラモン教の神々は「仏法護持」の神々、言い換えれば「真理を護る徳と力の象徴」となったわけです。八百万(やおよろず)の神々の存在を信じていた日本人は、そうした思想をスムーズに受け入れ、帝釈天や毘沙門天などをお寺に祀り、崇敬しています。  ともあれ、いま世界の心ある人々に受け入れられて一大潮流となっている「宗教協力」の胎動が日本から始まったのは、その源流が法華経のこの序品にあり、それを日本人が素直に受け入れたからであると思うのですが、どうでしょうか。 ...

法華三部経の要点16

なぜ求名が弥勒菩薩になれたのか

1 ...法華三部経の要点 ◇◇16 立正佼成会会長 庭野日敬 なぜ求名が弥勒菩薩になれたのか どうして光明を放たれたか  法華経序品の圧巻はなんといってもお釈迦さまが眉間(みけん)から大光明を放たれた奇瑞でありましょう。  無量義処三昧(「無限の教えの基礎」という瞑想)に入っておられる仏さまの額からとつぜん一条の光がサッと東方へ放たれたと見るや、その光は下は無間地獄の底から上は有頂天という天界までをあかあかと照らし出しました。そして、苦と迷いの世界にうごめいている衆生や、そこから脱け出して仏道を修行している人びとや、他の幸せのために慈悲の行為を実践している菩薩たちや、もろもろの仏さまが入滅される様子など、この世界のありとあらゆる生あるものの姿が写し出されたのでした。  これはもちろん、お釈迦さまの智慧は、この世のあらゆる生あるものの実相を明らかに見通す智慧であることの象徴ですが、その場にいた人びとはいったいどうしたわけでこのような奇瑞をお見せになったのかと、不可思議な思いにかられていました。  そこで弥勒菩薩は、過去世のことをよく知っている文殊菩薩に質問してみました。すると文殊菩薩は、過去世におられた日月燈明仏という仏さまが、同じような奇瑞を現ぜられたのち最も深遠な法をお説きになったという経験から、「釈迦牟尼世尊もこれから至上の教えである法華経をお説き始めになるだろう」と答えます。  その答えの中で文殊菩薩は「衆生をして咸(ことごと)く一切世間の難信の法を聞知することを得せしめんと欲するが故に、斯(こ)の瑞を現じたもうならん」と言い、また「是(こ)れ諸仏の方便なり」とも言っています。  この「方便」に関して、本多顕彰さんは『わたしの法華経人生論』(佼成出版社刊)という本の中で「さとりを開いた者が説教をしようとしても、大衆が耳を傾けようとしないから、奇跡を演出して、視聴を集めようとしたのだ、とマンジュシュリー(文殊師利菩薩)が説明する。どんないいことばにも、民衆が耳を傾けようとしないことがある。傾けなければ、無いに等しい。聴かせるためには、仏陀もしんぼう強く手段をつくさなければならなかった」と解説しておられます。  まことに名解説であり、われわれ現代の布教者にとってもよくよく味わい、胸に刻んでおかなければならないことだと思います。 凡夫も善行によって仏に  この品にはもう一つ、たいていの人が見過ごしている要点があります。それは、文殊菩薩が弥勒菩薩の前世の身について語っているくだりです。  ――はるかなむかし、法華経と同じ内容の教えを説いた妙光法師に一人の弟子があった。怠けてばかりいて、名声や利益をむさぼり、学んだこともすぐ忘れ、仏道の真義を悟ることができなかった。だから求名という綽名(あだな)をつけられていた。しかし、ただ一つ取りえがあった。それは人のために善い行いをすることだった。その因縁によって無数の仏さまに会いたてまつることができ、その教えに従って仏道を行じたので、今こうして釈迦牟尼世尊に会いたてまつることができた。そして世尊の教えによって未来には必ず仏になることができるだろう。その求名というのが、じつはあなただったのだ――  これを読みますと、弥勒菩薩も元はふつうの人だったことがわかります。それが、もろもろの善い行いをしたことによって、しだいに仏の教えを身につけるようになった。そのいきさつは、われわれにとってじつに素晴らしい手本です。大きな勇気を与えられる見本です。これも序品の中の大切な要点だといわなければなりません。 ...

法華三部経の要点17

現実化してこそ法は生きる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇17 立正佼成会会長 庭野日敬 現実化してこそ法は生きる 方便品と名づけられた理由  方便品に入ります。  この章の初めに「諸法実相」とか「十如是」といった難しい理論が出てきますので、それがこの章の主題かのように思われがちですが、そうではないのです。それらはもちろん大事な法門ですからあとで詳しく解説しますけれども、ほんとうの主題は冒頭にあるつぎのお言葉にあるのです。  「吾成仏してより已来(このかた)、種種の因縁・種種の譬諭をもって、広く言教(ごんきょう)を演(の)べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著(じゃく)を離れしむ。所以(ゆえ)は何(いか)ん、如来は方便・知見・波羅蜜。皆已に具足せり」  現代語に訳しますと、「わたしは仏の悟りを得てからこのかた、いろいろと実例をあげたり、譬え話をしたりして、多くの人を教え導いてきました。すなわち、それぞれの人と場合に応じた適切な方法で、過度の欲望への執着のために苦しんでいる人々をその執着から離れさせ、苦から解放してきました。なぜそれができたかといいますと、わたしは巧妙な手段(智慧の発揮の方法)において最高の完成度に達しているからです」ということになります。  ここにおおせられているように、人間の苦しみはおおむね欲望への過度の執着から起こります。かといって、ふつうの人にただそれを理論的に説いたところで、なかなか納得させることはできません。それで、実際に執着を捨てることによって救われた人の実例をあげたり(これを因縁説という)、譬え話をしたり(譬喩説という)して、だれにもわかるような方法で説けば、「なるほど」と納得させることができるのです。  わたしどもの会でも体験説法(因縁説)ということをたいへん重視しています。生きた体験を聞くことによって――ああ、わたしもこの教えで救われるのだ――という実感がしみじみと胸にわくからです。また、第十回に書いた寒苦鳥の譬え話を聞けば――自分にも「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」怠け癖があるのではないか――と反省せざるをえなくなります。こういったところが方便の大切さなのです。  仏さまの智慧は、煎(せん)じ詰めれば、すべての人間を幸せにしてあげたいという慈悲心に結晶されます。しかし、その智慧も、慈悲心も、相手の苦しみのケースに応じた適切な言葉、あるいは行為によって現実化してこそ、生きてはたらくのです。その現実化の手段が「方便」にほかなりません。この章が「方便品」と名づけられた理由はそこにあるのです。 形から入ることも大切  われわれの信仰心も、その「心」を言葉により、行為によって現実化してこそ、充実し、ほんものになっていくのです。そのことを、この章の後半に説かれる偈の中でくり返しくり返し強調してあります。いわゆる「万善成仏」の法門です。(梵文ではすべて未来形になっており、それが法華経の経相から見ても当然ですからそれに従って解説します)  すなわち――仏さまの遺骨を供養する者も、塔を建てて仏徳を顕彰する者も、たわむれに砂を集めて仏塔を造った子どもさえも、それが因となって悟りを得る者となるであろう。  さまざまな仏像を造った者も、造らせた者も、遊び半分に木の枝や指先などで仏の絵を描いた子どもでも、だんだんと功徳を積んで、ついには悟りを得るであろう――  このように「心」を「行為」として現実化することが大切だというのです。また「子どもがたわむれに云々」とあるように、まず「行為」から入って、そこから「心」が生ずることも多々あるのです。イギリスの思想家カーライルは「形式は内容を決定する」と言っています。仏教の言葉にも「信は荘厳(しょうごん=お寺の建物や装飾などの美しさ)より起こる」とあります。これも「方便が大切」ということにほかなりません。 ...

法華三部経の要点18

人間は本質的に平等である

1 ...法華三部経の要点 ◇◇18 立正佼成会会長 庭野日敬 人間は本質的に平等である だれもが仏になれる!  前回に述べましたように、方便品の第一の要点は「方便(適切な手段)によって現実化してこそ法は生きてはたらく」ということでした。では、その「はたらき」の目的は何なのでしょうか。  これまでの四十余年の間、お釈迦さまは、さまざまな方便を用いて現実に苦しんでいる人びとを救ってこられました。しかし、お悟りになった真実のすべてはまだお明かしになっておられません。なぜならば、人びとの機根(教えを受け入れる能力)がそこまで高められていなかったからです。  その真実すべてをこの法華経で説こうとなさっておられるのですが、しかし、説きかけて「いや、やめておこう」と躊躇(ちゅうちょ)されました。舎利弗は「そうおっしゃらないで、どうぞお説きください」と熱心にお願いするのですが、お釈迦さまは「いや。このことを説けば、一切世間の人びとも諸天(天界の人びと)もみんな驚き、かえって疑いを持つだろう。増上慢の者はきっと大きな穴(大坑)に落ち込んでしまうだろうから……」と言ってお断りになります。  舎利弗がそれでもあきらめずに三度もお願いしましたので、その熱心さにほだされて、ついにその甚深無量の法をお説き始めになりました。それこそが、あらゆる方便をはたらかせる究極の真実、仏の教えの最終目的にほかならなかったのです。  それはどんなことか。「仏の教えを聞き、それを実践する人は必ず仏となることができる」という一大事です。これまでの四十余年間一度もお説きにならなかったことというのは、この破天荒な真実なのです。  これを浅く受け取る人はびっくり仰天し、――悪心を起こしたり、悪い行いをしたりする人間がみんな仏になりうるなんて、そんなことがあるものか――と、かえって仏さまのお言葉に疑惑を持つ恐れがあります。増上慢の人は反対に――おれはもう仏なんだ――と、うぬぼれの大穴に落ち込んでしまうかもしれません。だから、説くことを躊躇されたわけです。 仏説の平等は本質の平等  だれもが仏になれるというのは、だれもがそのような素質を平等に持っているということです。あらゆる人間は久遠実成の本仏の実の子であることをすべての人に悟らせてあげようとされたからこそ、お釈迦さまは、そのような大胆な宣言をなさったわけです。  この「人間平等」ということですが、一般社会においては、一七八九年(今年からわずか二百年前)のフランス革命の議会で初めて大衆的に認められました。ところがお釈迦さまは、それよりも二千数百年も前に法華経でそれを宣言しておられるのです。  しかも、フランス革命での平等宣言は、「法(法律)の前の平等」とか「課税の平等」といった人間の暮らしの上の平等であり、制度の上の平等であったのに対して、お釈迦さまの平等宣言は、もっと深いところに根ざした「人間の本質の平等」だったのです。  暮らしの上、制度の上での人間平等でも、人類にとってはたいへんな進歩でした。しかし、それは人間としての真の向上につながることばかりでなく、かえってエゴの主張ばかりが強くなったり、個人主義の悪い面が表に出るようになったり、それがもとで大小の紛争の種となるマイナスもあったのです。  それに対して、仏法が説く「人間の本質の平等」は「人格の向上」の原動力となり、人類のほんとうの幸せの基盤となるものなのです。このことについては、次回に改めて考えることにしましょう。                                                                                                                                   ...

法華三部経の要点19

仏性を尊重し合うところこそ寂光土

1 ...法華三部経の要点 ◇◇19 立正佼成会会長 庭野日敬 仏性を尊重し合うところこそ寂光土 まず自分の仏性を自覚する  法華三部経には「仏性」という語は一回も出てきません。しかし、「仏の教えを聞き、よく持(たも)ち、よく実践する者は必ず仏となることができる」というのが、この経典をつらぬく根本理念であり、仏となれるのはそうした素質(仏性)があればこそなのですから、法華経は全巻これ仏性の教えだといってもさしつかえありません。  さて、前回の終わりに、仏法が説く人間の本質の平等は「人格の向上」の原動力となり、人類のほんとうの幸せの基盤となるものだと書きましたが、今回はそのことについて考えてみることにしましょう。  人間はだれでも仏すなわち「完成された人間」になりうる素質(仏性)が具(そな)わっているということがわかれば、われわれ凡夫にどんな変化が起こるのでしょうか。  われわれは日常の仕事に追われてあくせく働き、また身の回りに起こるさまざまなトラブルに右往左往しながら日々を送っています。それを一生のあいだ続けながら、ついに死を迎えるのだと考えれば、なんともいえない虚無感を覚えます。自分はいったい何のために生きているのか――と、絶望的な気持ちになることもあります。  そのような時に、法華経の教えによって「あなたのほんとうの生涯は仏になるためにあるのですよ。あなたには仏になる素質が具わっているのですよ」と聞かされると、ハッと目が覚めたようになります。「そうか。わたしにも仏になれる素質があったのか。この一生はそんなスバラシイ目的のためにあるのか」という思いが、その日からの生活を一転させ、はつらつとした、いきいきとしたものに変えてしまうのです。そして、「仏となるために、よいことを思い、よい行いをしよう」という気持ちが胸底に定着するようになります。それがすなわち「人格の向上」の原動力にほかなりません。 草木国土悉皆成仏へ  たんに自己の人格の向上の問題だけではありません。周りの人にも「完成された人間」になりうる素質があることがわかってきますから、人びとを見る目がガラリと変わってくるのです。これまで「つまらないやつだ」とさげすんでいた相手がいても、形の上に現れた状態ではなく、その人の本質である仏性を見るようになり、必ず仏になりうる人として認められるようになります。あとの『常不軽菩薩品第二十』に登場する常不軽菩薩がその典型でしょう。  そのようにして、すべての人間が他の人の仏性を信じ、尊重するようになれば、そこにこそ心の底からの「和」が生じます。嫉妬(しっと)することもなく、軽蔑(けいべつ)することもなく、みんなが認め合い、睦(むつ)み合って暮らすようになります。そういった社会こそが寂光土なのです。  もう一つ大事なことがあります。「自然とも仲よくするようになる」ということです。  仏教でいう衆生というのは、生きとし生けるものという意味です。もっと拡大解釈して、土とか水とか石とかいった無生物も、久遠の本仏に生かされているのだと仏教では見ているのです。ですから、中国の天台僧・湛然(たんねん)が言い始めたという「草木国土悉皆成仏」という理念が生まれたわけです。  今やこの考え方は、たんに仏教の中ばかりでなく、人類の運命をにない、その危機を救う一大事となっています。人間のあまりにもわがまま勝手な生きざまが、自然を破壊し、汚染し、このまま二十一世紀になれば、地球上で生きていくことさえ難しいといわれているのですから。  われわれが法華経精神の普及に必死に取り組んでいるのは、世界中の人間がお互いに「完成された人間」となる可能性を持つことを認め合い、と同時に、自然とも仲よくする関係になって、この世を寂光土化しようという大誓願のためにほかなりません。このことをよくよく心得ておいて頂きたいものであります。 ...