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法華三部経の要点50

人の本質を見れば一体感が生ずる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇50 立正佼成会会長 庭野日敬 人の本質を見れば一体感が生ずる 真の意味の「人間発見」  化城諭品には、深い意味を美しい情景に象徴させた表現がたくさんあります。その随一は次の一節でしょう。  「大通智勝仏阿耨多羅三藐三菩提を得たまいし時、十方各五百万億の諸仏世界六種に震動し、其の国の中間幽冥の処、日月の威光も照すこと能わざる所、而も皆大に明らかなり。其の中の衆生各相見ることを得て、咸(ことごと)く是の言を作(な)さく、此の中に云何(いかん)ぞ忽ちに衆生を生ぜる」  現代語に抄訳しますと、こういうことです。――大通智勝仏が無上の悟りを得られたとき、十方世界の諸仏の世界が感動にうち震い、それらの世界の中間にある日月の光も届かない暗やみの場所が急に明るくなった。そこにいた人間たちは、自分のまわりに大勢の仲間がいることを発見して、「おや、どうしてこんなに大勢の人間が急に生じたのだろう」と言い合った――  われわれは、身の回りに多くの人間を見ています。それはたいてい姿・形を見ているだけで、その本質を見ていません。すべての人間が宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の仏の子であるという本質を見ていないのです。ですから、見ているようで、ほんとうは見ていないのです。そうした心の状態を「幽冥の処、日月の威光も照すこと能わざる所」と言ってあるわけです。  ところが、大通智勝仏が仏の悟りを得られると、にわかにそのやみの世界が明るくなった。そして、まわりにだれもいないと思っていたのに急に大勢の人間仲間がいることが見えてきた。その意味はもはや説明の要もないでしょう。 「縁」というものを見直そう  いまの日本には、ここに説かれている「幽冥の処」にいる状態にある人がたくさんいるのではないでしょうか。一緒に住んでいながら、親が子を見ていない。子にも親が見えない。夫には妻が見えず、妻も夫が見えない。見ようともしない。だから、一日じゅう口をきかない親子が生まれ、帰宅拒否の夫が生まれ、離婚願望の妻が生まれるのです。  こういう人たちにこそ仏法を説いてあげたいものです。せめて仏教でつよく教える「縁」ということをじっくりと話してあげたいものです。  「袖(そで)すり合うも他生(たしょう)の縁」という言葉があります。道で見知らぬ人とすれ違い、袖と袖とが触れ合った。それも前世からの因縁によるものだというのです。「他生」でなく「多生」だという説もあります。何十ぺん・何百ぺんも死に変わり生まれ変わりながらつくりあげてきた縁があってこそ、袖を触れ合ったのだというのです。  ただ一瞬、袖を触れ合っただけでもそうなのですから、ましてや、親子・夫婦となった縁がどれぐらい深いものか、それを考えてほしいものです。  いまこの地球上には五十億の人間が生きています。あなた方夫婦はその中の二人です。「五十億分の二」という考えられぬほどの希少な確率で結び合わされた二人です。親子ともなれば、結び合いどころではない。もともと血を分けた仲なのです。同じ細胞から分かれた細胞を持ち、共通の遺伝子を持つ間柄なのです。  こういう深い深い「縁」というものに思いを致し、それをしみじみとかみしめれば、相手に対する「愛(いと)しい」という感情が湧(わ)いて来ざるを得ないはずです。「愛しい」という感情が湧けば、心の表面を去来する反目とか疎隔といった気持ちはたちまち解消してしまいます。なぜならば、その瞬間に相手との一体感が生ずるからです。この一体感こそが、相手と自分をほんとうに結び合わせるものなのです。  そして、この一体感を夫婦・親子といった身近なものから、隣人、そして世界中の人々へと少しずつでも拡大していくことです。「此の中に云何ぞ忽ちに衆生を生ぜる」といううれしい驚きも、ここまで深まってこそ、ほんとうの幸せに到達するものと知るべきでしょう。                                                                     ...

法華三部経の要点51

【機関紙誌】

天人でさえ修行が大切なのだ

天人でさえ修行が大切なのだ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇51 立正佼成会会長 庭野日敬 天人でさえ修行が大切なのだ 人間界と天上界との交流  化城諭品には天上界における出来事が、まるで目に見えるように描写されています。天上界とは、薬草諭品(本紙41回)のところでも述べましたように、仏法を聞いて実践した人が死後就くことのできる「善処」です。お釈迦さまの言行を比較的忠実に伝えているという『スッタニパータ』四〇四にもこう説かれています。「法(に従って得た)財を以て父母を養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように暮している在家者は、(死後に)『みずから光を放つ』という名の神々のもと(天上界=六欲天の総称)に生まれるであろう」 (中村元先生訳岩波文庫』による)。  つまり仏教は、たんに現世のみを対象にした倫理・道徳の教えにとどまらず、「来世までをも念頭において正しい生活をせよ」という教えにほかならないのです。ですから、「輪廻」ということを信じないかぎり、仏教(とくに法華経)の信仰は成り立たないのです。 安楽な暮らしをお返しする  さて、化城諭品には、大通智勝仏が悟りを開かれると、人間界ばかりでなく、もろもろの天上界の宮殿までが輝き出した、とあります。この宮殿というのは、天上界における安楽な暮らしを意味しているのです。天人は何の苦しみも悩みもなく、安らかに暮らしています。しかし、そういう暮らしが永久に続くとなれば、いったいどんな気持ちになるでしょうか。よほど怠け好きなものでないかぎり、退屈で退屈でたまらなくなるはずです。  そこへ、何か知らぬが新しい光が差してきた。新鮮で、はつらつたる力のみなぎった不思議な光明です。天人たちは寄り集まって「いったいこれはどうしたわけだろう」と話し合いました。その結果「どうやら地上にすばらしい仏さまが出現されたに違いない」という結論に達しました。  そこで地上をあまねく探してみると、大通智勝仏が菩提樹の下で大光明を発していらっしゃるのが見えてきました。天人たちは自分の住んでいる宮殿ごと虚空を飛んで行って大通智勝仏のみもとに参り「この宮殿を世尊に奉ります。どうぞお受けくださいませ。その功徳によってわたくしどもも仏道を成じ、またその功徳を一切衆生に及ぼし、みんな一緒に仏道を成じたいと願っております。どうかわたくしどもにも仏さまの教えを、わかりやすくお説きくださいませ」とお願いしたのです。  天上界といえども、まだ仏界ではありません。そこでの安楽な生活に慣れきって本質的な修行を怠っておれば下界へ墜落する運命が待っていることを、お釈迦迦さまは「天人の五衰」(本稿41回参照)ということで教えられています。   では、どのような修行をしなければならないのか。自らも菩提心(仏の悟りを得たいという志)を起こし、その修行のために他の人にも菩提心を起こさせる努力(菩薩行)をすること、これが随一最高の修行なのです。 化城諭品の天人たちもそのような決意を起こし、仏さまから頂いていた安楽な暮らし(宮殿)を仏さまにお返しして、自ら苦労を求めて衆生教化に献身しようとしているわけです。   現実の世界である「娑婆」に生きるわれわれにとっても同じことが言えます。われわれがどんなに物質的に恵まれ、安楽な暮らしをしていても、それにおぼれて酔生夢死することなく、真の「成仏」を求め、その修行のために「他の人びとを同じ仏道へみちびく苦労にチャレンジすること」が最高の生き方なのです。  仏道修行とはそうした努力に尽きるといっても言い過ぎではないでしょう。ですから、この化城諭品の「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜん(願以此功徳=がんにしくどく・普及於一切=ふぎゅうおいっさい・我等与衆生=がとうよしゅじょう・皆共成仏道=かいぐじょうぶつどう)」は普回向(ふえこう)の偈といって、法華経系の宗派ばかりでなく、日本の各宗どちらでも、仏さまへのお誓いのことばとして唱えているのであります。 ...

法華三部経の要点52

【機関紙誌】

四諦・八正道は不滅の教え

四諦・八正道は不滅の教え

1 ...法華三部経の要点 ◇◇52 立正佼成会会長 庭野日敬 四諦・八正道は不滅の教え 人生苦を滅するには  化城諭品には仏教の大切な法門が二つも説かれています。その一つは四諦の法門です。経文にはこうあります。  「即時に三たび十二行の法輪を転じたもう。(中略)謂わく是れ苦・是れ苦の集・是れ苦の滅・是れ苦滅の道なり」  「三たび十二行の法輪を転じたもう」というのは、四諦の教えを三とおりにお説きになったので、四掛ける三は十二で、十二行の法輪というわけです。  「是れ苦」というのは、苦は人生につきものだということを諦(さと)れということです。とりわけ、老いること、病むこと、死ぬことの三つは絶対に避けられないものです。  ですから、さまざまな苦を酒や麻薬やつまらぬ遊びなどで一時逃れにごまかしたりせずその現実を直視しなさいと教えられているわけです。吠(ほ)えかかる犬に背を向けて逃げようとすれば、かえって追っかけてくるものです。立ち止まって正面から見据えると、けっして飛びかかってはきません。人生のあらゆる苦もそれと同じなのです。  「苦の集」の集というのは集起(じゅうき)の略で、苦をもたらすトラブルの原因は表面は一つのようでもその奥を見極めるとさまざま原因が集まっているのだ、ということです。  そうした原因を取り除きさえすれば、人生苦というものは必ず消滅するものだというのが「苦の滅」の意味です。  最後の「苦滅の道」というのは、苦を滅する道(というよりは苦を起こさない道というほうがいいかもしれません)は、ものごとを正しく見(正見)、正しく考え(正思)、正しく語り(正語)、正しい行いをし(正行)、正しい生活をし(正命)、自分の使命に向かって正しく励み(正精進)、心を常に正しい方向へ向けており(正念)、境遇の変化によって心を動揺させることなく正しく保っていること(正定)の八つの心構えです。  この八正道は、鹿野苑で最初の仏弟子となった五比丘に対するご説法から、クシナガラで最後の仏弟子となったスバッダに対するご説法まで終始一貫しているのです。ですから、われわれは常に現実の自分の行為をこの八正道に照らし合わせてみることが大切なのです。 布教の三つのタイプ  さて、この四諦の教えを三とおりにお説きになったというのは次のようなことなのです。  第一に、「示転」といって、いまわたしが解説したように、教えをそのままの形でお示しになることです。  第二に、「勧転」といって、教えの実践をお勧めになることです。示転で教えをお示しになっても、すべての人がすぐそれを自分の修行や生活の上に実践するとはかぎりません。ですから、お釈迦さまは言葉を尽くして「実践こそが大事であるぞ」とお勧めになるわけです。  第三の「証転」というのは、実際の証拠をお見せになることです。教えを示され、その実践を勧められても、ふつうの人は「果たしてそれで救われるのだろうか」と疑念をいだくものです。そこで「ここに生きた証拠があるぞ」とその事実をお示しになれば、「なるほど。それではわたしも……」という気持ちになるものです。  われわれ後世の布教者は、特にこの「証転」を大事にしなければなりません。紋切り型に教えを説き、口先だけでその実践を勧めてみても、人はなかなか動くものではありません。証転にこそ人を動かすエネルギーがあるのです。わたしが体験説法を重んずる理由もそこにあるのです。                                                       ...

法華三部経の要点53

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十二因縁は人間教育の教え

十二因縁は人間教育の教え

1 ...法華三部経の要点 ◇◇53 立正佼成会会長 庭野日敬 十二因縁は人間教育の教え 差別心が争いを生む元凶  化城諭品に説かれる根本仏教の大切な二法門のもう一つは、十二因縁の教えです。これは、人間がどのように生まれ、どのように成長し、どのように老死に至るかという原因と条件(因縁)およびその結果との関連を十二の段階に分けて説き、それらの変化・成長が心の変化・成長と密接にからまっていることを解明されたものです。  しかも、単に個人の人生におけるものだけでなく、同時に、数十億年前の原始的生物から今日の人間に進化するまでの経過をもたどってあるのです。それらの所説は、二十世紀の生物学者・生理学者・心理学者が解明したこととほぼ一致しており、二千五百年も前に直観によってそれを悟られたお釈迦さまの偉大さには、ただただ驚嘆のほかはありません。  その法門全体については、紙面の都合上ここで解説し尽くすことはできませんので、わたくしの著書『法華経の新しい解釈』や『新釈法華三部経』の化城諭品の章を読んで頂くとして、ここにはその要点中の要点だけを述べることにしましょう。  この記事を読んでいる方はすでに青年期に達しておられる(あるいはそれ以上の)方だと思いますので、十二因縁の中の「取」以下に特に心を留めて頂きたいと思います。経文にはこうあります。  「取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死・憂悲・苦悩に縁たり」  「取」というのは、愛着を覚えるものごとをどこまでも追い求めていこうとする欲望と、いったん手に入れたものはしっかりつかまえていたいという気持ち。反対に、ただ感情的にきらいなものに背を向ける気持ち。それを「取」と言います。  こうした「取」が生じると、同じものごとに対しても、人によって違った感情・違った考えを抱くようになります。そこで、他人と自分との間の差別という意識がハッキリしてくるのです。そうした差別心を「有」と言います。  その差別心があればこそ、人と人、民族と民族、国と国との対立が生じ、争いが起こり、苦の人生が展開するようになるのです。ですから、仏教で説く「人間の本質すなわち仏性の平等」をわれわれ自身が常に心中に確立しているばかりでなく、その真実を多くの人々に知ってもらうように努力しなければならないのです。それをしないかぎり、人間みんなが苦から逃れることはできないのです。 胎教と幼児教育の大切さ  もう一つの要点は、これから生まれてくる生命を、また、二、三歳になった幼児たちを健全に育てるために、十二因縁の前半「受は愛に縁たり」までを深く理解することです。     「識は名色に縁たり」は、まだ胎内での状態です。ところが、生理学者が明らかにしたところによりますと、人間の大脳皮質の神経細胞の数は約百五十億個あるが、驚くべきことにはその百五十億個が胎児のうちにすべてつくられてしまうのだそうです。ですから、妊娠中の母親の精神のあり方がその子の一生に重大な影響を与える……というのです。  昔は胎教ということをやかましく言いましたが、ひところの浅い科学万能思想から、近年までそれが無視されていました。しかし、最近の進んだ科学は再びそれをよみがえらせたのです。お釈迦さまが十二因縁をお説きになった真意の一半はやはりそこにあったのではないかと推察できます。  また、「六入は触に縁たり」から「受は愛に縁たり」までは、幼児期の段階です。この時期の保育の善しあしがまたその子の一生にとっての重大な分かれ道になることは言うまでもありません。特に「受」すなわち感性を美しく育てることを、世の親ごさんたちはよくよく心得て頂きたいものであります。 ...

法華三部経の要点54

【機関紙誌】

人間は前へ前へと歩まねばならない

人間は前へ前へと歩まねばならない

1 ...法華三部経の要点 ◇◇54 立正佼成会会長 庭野日敬 人間は前へ前へと歩まねばならない 安らぎの境地から菩薩行へ  化城諭品の核心は何といっても題名になっている『化城宝処(けじょうほうしょ)の譬え』でありましょう。こんな話です。  最高の宝を求めて、険しい、困難な道を旅する一行があった。ところが、その道程があまりにも長く、苦しいことが次々に起こるので、多くの人がへばってしまい、途中から引き返そうと言い始めた。その一行のリーダーは、智慧にすぐれ、その道の全貌を知り尽くしていたので、道の前方に一つの都城(城壁に囲まれた都市)を幻として現し、「あそこに行ってゆっくりしなさい」と言った。  人々は大喜びでその中へ入って休息した。しばらくして疲れがすっかり治ったのを見すましたリーダーは、その幻の城を消してしまい「さあ、出かけましょう。宝のある所はもうすぐそこですよ」と励ました。みんなは新しい勇気をふるい起こして再出発したのであった。  この譬えの古典的な解釈は、「仏になるための修行は大変長くて困難な道程なので、倦(あ)いたり疲れたりして退転する人が多い。そこで仏さまは声聞・縁覚という個人的な心の安らぎの境地を教え、そこから再出発して菩薩の道を進むことによって、究極の悟りへと達せしめようとするのである」ということです。法華経の精神をわかりやすく表現された譬えであります。 理想へ進む一歩一歩にこそ  これをわれわれ在家のための教えとして解釈しますと、人間は常に前へ前へと進まなければならない。後戻りしてはならないということです。人生にはさまざまな困難や障害がつきまといます。ある目標へ向かって努力しても努力してもなかなかそれに近づけない。そこでつい挫折して自分の人生を投げ出してしまったり、ヤケを起こして堕落の道をたどり、破滅してしまう人もあります。  動物心理学者によりますと、夏の虫は月がいくら明るく照っていてもその方へは飛んで行かず、誘蛾灯(ゆうがとう)――農薬の多用によって近ごろあまり見受けませんが――に向かってまっしぐらに飛んで行って自ら身を焼いてしまうのは、月へ向かって飛んでも明るさを増す感覚がないからだそうです。発達した頭脳と英知を持つ人間が、目標になかなか近づけないからといって、夏の虫と同じ行動をしていいものでしょうか。  堕落の道はすぐそこにあって、だれでもたやすく行ける道です。理想ははるか遠くにあって、行けども行けども近づき難い感じがします。しかし、理想というものは、到達して初めて価値を生ずるものではなく、それへ向かって歩く一歩一歩にすでにその価値が存在しているのです。その一歩一歩に理想の何百分の一か何千分の一かが達成され、それだけ確実に自分が高まっていくのです。ですから、あせることもなく、くじけることもなく、コツコツと歩き続けなければならないのです。  もちろんそうした緊張の連続では神経がもたない、挫折もしかねないという弱い一面も人間にはあります。その弱さに対処する妙策として、スポーツとか、山歩きとか、土いじりとか、カメラとか、バードウオッチングとか、その他の健全な趣味・娯楽によって心がホッと休まるひと時を持つことも大切です。坐禅や読経のような信仰の行によって我(が)をすっかり忘れてしまうのが、最高の安らぎであることはもちろんですが。  そうしたひと時の休みは必要ですけれども、後戻りしてはならないのです。前へ前へと歩き続けねばならない。これが万物の霊長と言われる人間に与えられたさだめなのです。   ...

法華三部経の要点55

【機関紙誌】

創造と調和の世界こそ現実の宝処

創造と調和の世界こそ現実の宝処

1 ...法華三部経の要点 ◇◇55 立正佼成会会長 庭野日敬  創造と調和の世界こそ現実の宝処 全体の幸せのための創造  前回では「化城宝処の譬え」をおおむね個人の人生に即して解説しました。そして「宝処」とは何かということまで立ち至ることはできませんでしたので、ここであらためてそのことを吟味してみましょう。  元の意味での宝処はもちろん「仏の悟り」ですが、それはまずさておいて、ここでは二十世紀末あるいは二十一世紀の現実世界における宝処とは何かということについて考えてみることにします。  前回に「前へ前へと歩きつづけねばならないのが人間のさだめである」と述べましたが、その「前へ歩く」とはどんなことかといいますと、「創造すること」です。価値あるものごと、すなわち自分をも他人をも、世の中全体をもしあわせにするものごとをつくり出していくことです。  なにも「大きな仕事を」というのではありません。また、「物」を造り出すことばかりが創造ではありません。流通にせよ、サービスにせよ、文化活動にせよ、すべてが創造なのです。その人その人の才能や職分に応じ、それぞれの持ち前を正しく、十分に発揮しつくせば、それが創造なのです。  そうした創造のはたらきは、かならず目に見えぬところで総合され、大きな、ダイナミックな調和をつくり上げるものです。そのような創造と調和の状態こそが、人類究極の理想の姿「この上ない宝もの」だと断じていいでしょう。  お釈迦さまは、救われの一つの段階として「我(が)を捨てよ。現象を超越せよ。そうすれば心の安らぎを得ることができるのだ」と教えられました。つまり「化城」の中での安らぎです。ところが、自分自身はそうした安らぎを得てみたところで、世間のおおぜいの人があいかわらず苦しみもがいているのでは、その安らぎは独善的な自己満足に過ぎません。ですから、その「化城」を出て、人間みんなのしあわせのための創造的人生に歩み出す、それこそが宝処への再出発にほかならないのです。 後戻ってのやり直しも  もう一つ断っておきたいことがあります。前回に「後戻りしてはならない」と書きましたが、ただ一つ例外があります。それは、道に迷ったときの、やり直しのための一時的な後戻りです。こういう実例があります。  初めての山に挑んだパーティーが道に迷ってしまいました。六人のうちの五人は「なあに、そのうち見当がつくさ」と、そのまま進んでみることにしましたが、一人だけは「そんないい加減なことはできない。おれはおれのやり方でやる」と頑固に主張してそこに残りました。  ただひとりになったその人は、いま来た道を後戻りして、正しいルート上だったことが確認できる地点まで帰りました。そして、その場所を原点としてほかのルートをたどり、それも間違いだとわかるとまた原点まで戻り、また他のルートをたどってみるというやり方で、八度もやり直したあげくついに正しい道をみつけて助かったのでした。あとで、他の五人はけわしい谷間で遺体となって発見されたそうです。  いまの人類がそのとおりではないでしょうか。間違った道に踏み込んでいるのではないでしょうか。このまま進めば、破滅に立ち至るのではないかと心配されます。その悲劇から逃れるためには、いっぺん人間らしい人間という原点、自然と人間との共存という原点に立ち戻り、正しい道を発見して再出発すべきではないでしょうか。  法華経全体がそうですけれども、特に化城諭品は、人類の未来についていろいろなことを考えさせる一章です。                                                       ...

法華三部経の要点56

【機関紙誌】

説法第一の富楼那に学ぼう

説法第一の富楼那に学ぼう

1 ...法華三部経の要点 ◇◇56 立正佼成会会長 庭野日敬  説法第一の富楼那に学ぼう 「助宣」の今日的な解釈  五百弟子受記品に進みましょう。この品は多くの弟子たちが「将来かならず仏の悟りを得るであろう」という保証を頂く章ですが、経文の大半は富楼那という高弟への授記とお褒めの言葉に尽くされています。お釈迦さまがよほどの信頼を託された人物であったのでしょう。こうおおせられています。  「我常に其の説法人の中に於て最も第一たりと称し、亦常に其の種種の功徳を歎ず。精勤して我が法を護持し助宣し、能く四衆に於て示教利喜し、具足して仏の正法を解釈して、大に同梵行者を饒益す。如来を捨(お)いてよりは、能く其の言論の弁を尽くすものなけん」  この一節の中に布教の心得がおおむね尽くされていますので、その要点をあげて説明することにしましょう。  第一に「我が法を護持し助宣し」とあります。この護持、すなわちお釈迦さまのお説きになった法を心の底から信じ、護り持(たも)っていること。これが布教者にとって絶対不可欠の第一条件です。いささかでも疑念などを抱いていたのでは、自然と人を説得するだけの迫力が不足してくるからです。  また「助宣」ということも大事な要件です。直訳すれば、お釈迦さまの助手として教えを宣(の)べ伝えることですが、後世のわれわれとしては次のように解釈すべきでしょう。  タテには時代の移り変わりがあり、ヨコにはさまざまに風習の異なる国や民族があり、それぞれに環境や生活様式やものの考え方がずいぶん違ってくるものです。そうした差別相を無視して千遍一律な説き方をしたのでは、根本においては万世不変である仏法であっても、すべての人を納得させることはできません。ですから、二千五百年前にインドで説かれた正法に、それぞれの差別相に応じた解釈を加えて人びとに「なるほど」と領得してもらってこそ、仏さまの説かれた正法が生きてくるのです。これが「助宣」の現代的な受け取り方であり、そのあとに「仏の正法を解釈して」とあるその「解釈」もやはりそういった意味に考えていいと思います。 教えを説く合理的な順序  次に「示教利喜し」とあります。これは教えを説き、人を導く合理的な順序です。  第一に、教えのあらましを示します。のっけから細かいことを説いたりすると、初心の人には何のことやらわからず、かえってそっぽを向かれてしまいましょう。ですから、未信の人も心を動かすような話題を選んで仏教のすばらしさを説くのです。それが「示」です。  そして、相手の人が「なるほど」と心を動かしたら、そこでもっと深く教えの意味を説いてあげます。それが「教」です。  教えの内容がほぼ理解できたら、次には教えを実行して得られる利益(りやく)を話します。それが「利」です。相手によってはこれを第一に持ってきてもよいのであって、そこは隨宜説法(ずいぎせっぽう=相手に応じて適宜な説き方をする)でいくことです。  そうしていよいよその人が教えに入ったら、絶えず感激を覚え、法の喜びを感じるように仕向けるのです。それが「喜」です。そこまでいけば、その人はもはや退転することはないでしょう。  もう一つ、お釈迦さまや富楼那に学ばなければならないことは、「わかりやすい言葉で法を説く」ということです。お釈迦さまは、マガダ国ではマガダ国の俗語で、コーサラ国ではその地方の方言で法を説かれたといいます。  富楼那は六十種もの言語に通じていて、どんな辺境にも布教に出かけて行ったといいます。今後の日本人は世界人とならなければなりません。政治家や事業人はもちろんですが、信仰者にしても、これからの若い人は、この点においても富楼那の後を継ぐ意気込みを持ってもらいたいものです。                                                       ...

法華三部経の要点57

【機関紙誌】

富楼那は布教者の最高の手本

富楼那は布教者の最高の手本

1 ...法華三部経の要点 ◇◇57 立正佼成会会長 庭野日敬  富楼那は布教者の最高の手本 半歩主義で好リードを  五百品の中で過去世の富楼那をお褒めになるお言葉に、見過ごしてはならない教えがあります。  「彼の仏世の人咸(ことごと)く皆、之を実に是れ声聞なりと謂(おも)えり。而も富楼那は斯の方便を以て無量百千の衆生を饒益(にょうやく)し」とあります。  富楼那は立派な菩薩でありながら、常にへりくだって一介の声聞のようにふるまい、そうした方便によって多くの人々を教化したというのです。あとの偈にも「自ら是れ声聞なり 仏道を去ること甚だ遠しと説く」(「わたしはまだ修行中の身なんですよ。仏の悟りなんぞまだまだ遠い先のことです」と話す)とあります。  そんな下がった態度でおれば、一般の人々は一種の親近感をおぼえて気安く付き合い、気軽に話を聞くことができます。そうしているうちに、富楼那の人柄に自然と感化され、またその素晴らしい教化力に導かれて、いつの間にかしっかりした信仰者となっているのです。  わたしはこれを「半歩主義」と名づけ、一般の人を導くうえでいちばん好ましい、そして効果的な態度として推奨したいのです。  お釈迦さまのような大威徳を持ったお方は別として、名も聞いたこともないような人がお導きをしようと近づいてこられた場合、一般の人が心からの信頼を持って迎えるとは思えません。もし偉そうにしておれば、近づき難い感じを覚えましょうし、かえって反発を感じる人もありましょう。  ですから、賢明な布教者は、一歩ではなく、半歩だけ未信の人より先を歩んでいるぐらいの気持ちでいなければならないのです。信仰の場合だけでなく、世間よろずのことで人をリードする時、特に青少年の場合は、これに限ります。後輩たちは、兄貴といったような親しみを覚えて、心からその人についてくるのです。ボーイ・スカウトなどがうまくいっているのはそのせいなのです。そして富楼那は、そういった態度のいい手本なのであります。 人・天交接して  富楼那への授記のお言葉のうち、もう一つ大切な一句があります。「諸天の宮殿近く虚空に処し、人・天交接(きょうしょう)して両(ふた)つながら相見ることを得」です。  天人の宮殿が地上のごく近い空中に浮かび、人間界のものは天上界をまざまざと見ることができ、天上界のものは人間界をまざまざと見ることができ、お互いに心が通い合うのである……というのです。  人間界のものは財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲といった欲を追いかけ、煩悩にふりまわされて生きていますが、天上界のものはそうした煩悩にとらわれない清らかな身であるとされています。従ってわれわれは、ふつう人間界と天上界は別々のはるかに離れた世界であると思っています。  ところが、人間界全体に仏法がひろまれば、人間界と天上界の区別はほとんどなくなってしまいます。つまり、仏法を信じ行じることによって人間としてのさまざまな欲望も、自行化他の善のエネルギーとなってしまうからです。  そこで、清らかさという点では人間界と天上界はぐっと近づき、ますますこの世を楽土と化していくであろうということなのです。これがこの句に含まれている深い意味であります。  ですから、われわれ佼成会員が朝夕のご供養で唱える回向唱に「先祖代々過去帳一切の精霊。別しては今日命日に当たる精霊志す所の諸精霊」とありますのも、一種の「人・天交接」であるとも言えましょう。われわれは天上界の方々を見ることはできませんが、天上界の方々はわれわれを見ていてくださるに相違ありません。それを信じながらご供養しなければならないのです。ついでながら、大歌人、窪田空穂の傑作を紹介しておきます。  我が心引きしまる時は大空は手もて触るべく近寄りきたる ...

法華三部経の要点58

【機関紙誌】

問題多きものをも見放されなかった釈尊

問題多きものをも見放されなかった釈尊

1 ...法華三部経の要点 ◇◇58 立正佼成会会長 庭野日敬 問題多きものをも見放されなかった釈尊 問題多き比丘・迦留陀夷も  五百品の一つの特色は、お釈迦さまに手間をかけさせてばかりいた問題多き比丘の迦留陀夷(かるだい)と、知恵遅れの周陀(しゅだ)が「仏の悟りを得るであろう」と保証されたことです。  迦留陀夷はカピラバスト国の名門の出で、太子時代のお釈迦さまのご学友でしたが、才気にあふれ、弁舌さわやかな美男子でした。太子が出家された後、外務大臣もしくは移動大使ともいうべき要職にあり、後に祇園精舎が建てられたコーサラ国に駐在し、そこの大臣の妻と問題を起こしたほどのプレーボーイでした。  カピラバストの浄飯王は、出家されたお釈迦さまを何とか翻意させて太子の地位へ引き戻そうと考え、この迦留陀夷を使者としてつかわしましたが、かえってお釈迦さまに教化されてお弟子入りをしてしまいました。  しかし、出家したとはいえ、在俗時代の素行はなかなか改まらず、沙弥(少年僧)たちの先頭に立って村々を歩きまわり、人びとをからかったり、大声で騒ぎちらしたりしました。若い比丘をなぐる。他教の修行者とケンカをする。祇園精舎の森のカラスを得意の弓で何羽も射落とす。そうしたヤンチャばかりでなく、出家の身でありながら、いろいろと女性問題を起こし、比丘尼や在家信者たちがお釈迦さまに訴え出たこともたびたびでした。  お釈迦さまは、そのつどこんこんと戒められました。迦留陀夷は恐れ入っておわびを申し上げるのですが、しばらくするとまたいたずらの虫が頭をもたげるのでした。それでもお釈迦さまは、教団から追放されることなく、辛抱づよく見守っておられました。  悟りをひらいてからの彼は家庭教化の名人となり、舎衞城の一千軒の家庭を夫婦もろとも仏道に導いたのでした。最後には、かつて自分が教化した女が人妻でありながら盗賊の首領と通じたのを改心させようと努め、かえってその女に謀られ、盗賊に殺されるという壮烈な殉教を遂げたのでした。 知恵遅れの周陀も悟った  周陀は周梨槃陀迦(しゅりはんだか=しゅりはんどく)の略です。たいへんな知恵遅れで、兄の離婆多(りはた・この五百品で一緒に授記された頭脳明せきな仏弟子)が出家した後は暮らしにも困っていました。そこで、兄にすすめられて出家し祇園精舎入りをしたのですが、なにしろ自分の名前さえ覚えられず、板に書いてもらって首にさげているという始末でした。  ましてや偈ひとつ覚えることもできなかったので、兄は最終的な励ましとして「おまえのような者はとても仏法を学ぶことはできない。出て行きなさい」と、祇園精舎の外へ押し出してしまいました。  門の外でシクシク泣いている周陀をみつけられたお釈迦さまは、「心配せずにここで暮らすがよい」と慰められ、一本のほうきを与えて「これで毎日精舎を掃除しなさい。掃除しながら『塵を払わん、垢を除かん』と唱えなさい」と命じられました。  周陀はいいつけられたとおりを懸命に行じましたが、この偈だけはなかなか覚えられず苦心しました。しかし、一心というものは恐ろしいもので、いつしか完全に唱えることができるようになり、と同時に、なんともいえぬすがすがしい心境に達したのです。ある日久しぶりに弟の顔を見た離婆多は「あッ、おまえは悟りをひらいたな」と言いました。そのとおりで、知恵遅れだった周陀も、後にお釈迦さまに命じられて比丘尼たちに説法するまでになったのでした。  この二人への授記は、後世の凡夫であるわれわれにとって絶大なる励ましです。と同時に、どんな人間をも見放すことをされなかったお釈迦さまの大慈悲にただただ頭の下がる思いを禁じえません。ありがたいことではありませんか。                                                        ...

法華三部経の要点59

【機関紙誌】

われわれはすでに救われているのだ

われわれはすでに救われているのだ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇59 立正佼成会会長 庭野日敬 われわれはすでに救われているのだ 衣裏繋珠の譬え  五百品には法華七諭の一つである『衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬え』があります。それは、世尊から憍陳如(きょうじんにょ・お釈迦さまの鹿野苑の最初の説法で教化された五比丘の筆頭)に続いて仏となりうる保証を頂いて大歓喜した五百人の阿羅漢たちが、これまでの考えの根本に誤りがあったことを譬え話によって告白するくだりです。こう申し上げるのです。  「ある貧しい人が親友を頼ってやって来ました。親友は酒さかなを出してもてなしましたので、その人はすっかり酔っぱらって寝込んでしまいました。ところが、その親友は急に公用で長期の出張に出かけなければならなくなり、寝ている友だちを起こすのも気の毒だと思い、計り知れないほどの値打ちのある宝石を着物の裏に縫いつけておきました。  目が覚めたその人は、親友が長く帰って来ないことを知り、仕方なくそこを立ち去って、あいかわらず食うや食わずの放浪をつづけていました。ずいぶんたってから、その親友とパッタリ出会いました。親友は以前と変わらぬ友の哀れな姿を見て『なんということだ。君が安楽に暮らせるようにと思って着物の裏に高価な宝石を縫いつけておいたのに……』と言いました。  世尊はこの親友のようなお方でございます。世尊は過去世でまだ菩薩であられました折、わたくしどもに『人間だれにも一様に仏性(計り知れぬほどの値打ちのある宝もの)が具(そな)わっているのだ』と教えてくださったのですが、現世に生まれ変わってからはそのことをすっかり忘れてしまい、ただ煩悩を除くことができただけで、それを悟りだと思い込んでおりました。  心がすっかり眠りこけていたのでございます。ところが、世尊はいまわたくしどもの目をはっきり覚まさせてくださいました。これからは菩薩としての自覚を持ち、世のため人のために尽くしていくことによって、ついには仏となれることがわかりました。こんなうれしいことはございません」  こうお礼を申し上げて、この品は終わりとなるわけです。 すでに救われているのだ  この章でお釈迦さまはなぜ大勢の弟子たちの成仏を保証されたのでしょうか。いや、この五百人の仏弟子をはじめとする千二百人の阿羅漢のみならず、一切の人間にその可能性があることを断言されるのでしょうか。  まえにもたびたび書いたとおり、すべての人間は宇宙の大生命ともいうべき久遠本仏と本質的に同じ仏性を平等にもっているからです。仏となる可能性を仏性といいますが、仏性というものは言葉を換えていえば「久遠実成の本仏と同質のいのち」なのです。  しかし、われわれはその真実をなかなか自覚できません。なぜかといえば、衣食のためにアクセク働き、欲望を追って右往左往しているこの身が自分であり、そういった心が自分そのものだと思い込んでいるからです。ちょうどこの貧しい人が、尊い宝石が縫いつけられた着物を現に着ていながら、それに気づかずにいたのと同じなのです。  この譬えをとことんつきつめていきますと、「われわれはほんとうはすでに救われているのだ」ということになります。われわれの本質は久遠本仏と同質の自由自在ないのちなのですから、すべての人間がすでに救われているのです。その真実を知らないからこそ、お互いさま苦の人生をさまよっているわけです。  したがって、救われるのはなにも難しいことではない。「すでに救われているのだ」という真実を心の底から自覚すればいいのです。これが『衣裏繋珠の譬え』の真義であり、五百品の結論でもあるのです。                                                       ...