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法華三部経の要点16

なぜ求名が弥勒菩薩になれたのか

1 ...法華三部経の要点 ◇◇16 立正佼成会会長 庭野日敬 なぜ求名が弥勒菩薩になれたのか どうして光明を放たれたか  法華経序品の圧巻はなんといってもお釈迦さまが眉間(みけん)から大光明を放たれた奇瑞でありましょう。  無量義処三昧(「無限の教えの基礎」という瞑想)に入っておられる仏さまの額からとつぜん一条の光がサッと東方へ放たれたと見るや、その光は下は無間地獄の底から上は有頂天という天界までをあかあかと照らし出しました。そして、苦と迷いの世界にうごめいている衆生や、そこから脱け出して仏道を修行している人びとや、他の幸せのために慈悲の行為を実践している菩薩たちや、もろもろの仏さまが入滅される様子など、この世界のありとあらゆる生あるものの姿が写し出されたのでした。  これはもちろん、お釈迦さまの智慧は、この世のあらゆる生あるものの実相を明らかに見通す智慧であることの象徴ですが、その場にいた人びとはいったいどうしたわけでこのような奇瑞をお見せになったのかと、不可思議な思いにかられていました。  そこで弥勒菩薩は、過去世のことをよく知っている文殊菩薩に質問してみました。すると文殊菩薩は、過去世におられた日月燈明仏という仏さまが、同じような奇瑞を現ぜられたのち最も深遠な法をお説きになったという経験から、「釈迦牟尼世尊もこれから至上の教えである法華経をお説き始めになるだろう」と答えます。  その答えの中で文殊菩薩は「衆生をして咸(ことごと)く一切世間の難信の法を聞知することを得せしめんと欲するが故に、斯(こ)の瑞を現じたもうならん」と言い、また「是(こ)れ諸仏の方便なり」とも言っています。  この「方便」に関して、本多顕彰さんは『わたしの法華経人生論』(佼成出版社刊)という本の中で「さとりを開いた者が説教をしようとしても、大衆が耳を傾けようとしないから、奇跡を演出して、視聴を集めようとしたのだ、とマンジュシュリー(文殊師利菩薩)が説明する。どんないいことばにも、民衆が耳を傾けようとしないことがある。傾けなければ、無いに等しい。聴かせるためには、仏陀もしんぼう強く手段をつくさなければならなかった」と解説しておられます。  まことに名解説であり、われわれ現代の布教者にとってもよくよく味わい、胸に刻んでおかなければならないことだと思います。 凡夫も善行によって仏に  この品にはもう一つ、たいていの人が見過ごしている要点があります。それは、文殊菩薩が弥勒菩薩の前世の身について語っているくだりです。  ――はるかなむかし、法華経と同じ内容の教えを説いた妙光法師に一人の弟子があった。怠けてばかりいて、名声や利益をむさぼり、学んだこともすぐ忘れ、仏道の真義を悟ることができなかった。だから求名という綽名(あだな)をつけられていた。しかし、ただ一つ取りえがあった。それは人のために善い行いをすることだった。その因縁によって無数の仏さまに会いたてまつることができ、その教えに従って仏道を行じたので、今こうして釈迦牟尼世尊に会いたてまつることができた。そして世尊の教えによって未来には必ず仏になることができるだろう。その求名というのが、じつはあなただったのだ――  これを読みますと、弥勒菩薩も元はふつうの人だったことがわかります。それが、もろもろの善い行いをしたことによって、しだいに仏の教えを身につけるようになった。そのいきさつは、われわれにとってじつに素晴らしい手本です。大きな勇気を与えられる見本です。これも序品の中の大切な要点だといわなければなりません。 ...

法華三部経の要点17

【機関紙誌】

現実化してこそ法は生きる

現実化してこそ法は生きる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇17 立正佼成会会長 庭野日敬 現実化してこそ法は生きる 方便品と名づけられた理由  方便品に入ります。  この章の初めに「諸法実相」とか「十如是」といった難しい理論が出てきますので、それがこの章の主題かのように思われがちですが、そうではないのです。それらはもちろん大事な法門ですからあとで詳しく解説しますけれども、ほんとうの主題は冒頭にあるつぎのお言葉にあるのです。  「吾成仏してより已来(このかた)、種種の因縁・種種の譬諭をもって、広く言教(ごんきょう)を演(の)べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著(じゃく)を離れしむ。所以(ゆえ)は何(いか)ん、如来は方便・知見・波羅蜜。皆已に具足せり」  現代語に訳しますと、「わたしは仏の悟りを得てからこのかた、いろいろと実例をあげたり、譬え話をしたりして、多くの人を教え導いてきました。すなわち、それぞれの人と場合に応じた適切な方法で、過度の欲望への執着のために苦しんでいる人々をその執着から離れさせ、苦から解放してきました。なぜそれができたかといいますと、わたしは巧妙な手段(智慧の発揮の方法)において最高の完成度に達しているからです」ということになります。  ここにおおせられているように、人間の苦しみはおおむね欲望への過度の執着から起こります。かといって、ふつうの人にただそれを理論的に説いたところで、なかなか納得させることはできません。それで、実際に執着を捨てることによって救われた人の実例をあげたり(これを因縁説という)、譬え話をしたり(譬喩説という)して、だれにもわかるような方法で説けば、「なるほど」と納得させることができるのです。  わたしどもの会でも体験説法(因縁説)ということをたいへん重視しています。生きた体験を聞くことによって――ああ、わたしもこの教えで救われるのだ――という実感がしみじみと胸にわくからです。また、第十回に書いた寒苦鳥の譬え話を聞けば――自分にも「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」怠け癖があるのではないか――と反省せざるをえなくなります。こういったところが方便の大切さなのです。  仏さまの智慧は、煎(せん)じ詰めれば、すべての人間を幸せにしてあげたいという慈悲心に結晶されます。しかし、その智慧も、慈悲心も、相手の苦しみのケースに応じた適切な言葉、あるいは行為によって現実化してこそ、生きてはたらくのです。その現実化の手段が「方便」にほかなりません。この章が「方便品」と名づけられた理由はそこにあるのです。 形から入ることも大切  われわれの信仰心も、その「心」を言葉により、行為によって現実化してこそ、充実し、ほんものになっていくのです。そのことを、この章の後半に説かれる偈の中でくり返しくり返し強調してあります。いわゆる「万善成仏」の法門です。(梵文ではすべて未来形になっており、それが法華経の経相から見ても当然ですからそれに従って解説します)  すなわち――仏さまの遺骨を供養する者も、塔を建てて仏徳を顕彰する者も、たわむれに砂を集めて仏塔を造った子どもさえも、それが因となって悟りを得る者となるであろう。  さまざまな仏像を造った者も、造らせた者も、遊び半分に木の枝や指先などで仏の絵を描いた子どもでも、だんだんと功徳を積んで、ついには悟りを得るであろう――  このように「心」を「行為」として現実化することが大切だというのです。また「子どもがたわむれに云々」とあるように、まず「行為」から入って、そこから「心」が生ずることも多々あるのです。イギリスの思想家カーライルは「形式は内容を決定する」と言っています。仏教の言葉にも「信は荘厳(しょうごん=お寺の建物や装飾などの美しさ)より起こる」とあります。これも「方便が大切」ということにほかなりません。 ...

法華三部経の要点18

【機関紙誌】

人間は本質的に平等である

人間は本質的に平等である

1 ...法華三部経の要点 ◇◇18 立正佼成会会長 庭野日敬 人間は本質的に平等である だれもが仏になれる!  前回に述べましたように、方便品の第一の要点は「方便(適切な手段)によって現実化してこそ法は生きてはたらく」ということでした。では、その「はたらき」の目的は何なのでしょうか。  これまでの四十余年の間、お釈迦さまは、さまざまな方便を用いて現実に苦しんでいる人びとを救ってこられました。しかし、お悟りになった真実のすべてはまだお明かしになっておられません。なぜならば、人びとの機根(教えを受け入れる能力)がそこまで高められていなかったからです。  その真実すべてをこの法華経で説こうとなさっておられるのですが、しかし、説きかけて「いや、やめておこう」と躊躇(ちゅうちょ)されました。舎利弗は「そうおっしゃらないで、どうぞお説きください」と熱心にお願いするのですが、お釈迦さまは「いや。このことを説けば、一切世間の人びとも諸天(天界の人びと)もみんな驚き、かえって疑いを持つだろう。増上慢の者はきっと大きな穴(大坑)に落ち込んでしまうだろうから……」と言ってお断りになります。  舎利弗がそれでもあきらめずに三度もお願いしましたので、その熱心さにほだされて、ついにその甚深無量の法をお説き始めになりました。それこそが、あらゆる方便をはたらかせる究極の真実、仏の教えの最終目的にほかならなかったのです。  それはどんなことか。「仏の教えを聞き、それを実践する人は必ず仏となることができる」という一大事です。これまでの四十余年間一度もお説きにならなかったことというのは、この破天荒な真実なのです。  これを浅く受け取る人はびっくり仰天し、――悪心を起こしたり、悪い行いをしたりする人間がみんな仏になりうるなんて、そんなことがあるものか――と、かえって仏さまのお言葉に疑惑を持つ恐れがあります。増上慢の人は反対に――おれはもう仏なんだ――と、うぬぼれの大穴に落ち込んでしまうかもしれません。だから、説くことを躊躇されたわけです。 仏説の平等は本質の平等  だれもが仏になれるというのは、だれもがそのような素質を平等に持っているということです。あらゆる人間は久遠実成の本仏の実の子であることをすべての人に悟らせてあげようとされたからこそ、お釈迦さまは、そのような大胆な宣言をなさったわけです。  この「人間平等」ということですが、一般社会においては、一七八九年(今年からわずか二百年前)のフランス革命の議会で初めて大衆的に認められました。ところがお釈迦さまは、それよりも二千数百年も前に法華経でそれを宣言しておられるのです。  しかも、フランス革命での平等宣言は、「法(法律)の前の平等」とか「課税の平等」といった人間の暮らしの上の平等であり、制度の上の平等であったのに対して、お釈迦さまの平等宣言は、もっと深いところに根ざした「人間の本質の平等」だったのです。  暮らしの上、制度の上での人間平等でも、人類にとってはたいへんな進歩でした。しかし、それは人間としての真の向上につながることばかりでなく、かえってエゴの主張ばかりが強くなったり、個人主義の悪い面が表に出るようになったり、それがもとで大小の紛争の種となるマイナスもあったのです。  それに対して、仏法が説く「人間の本質の平等」は「人格の向上」の原動力となり、人類のほんとうの幸せの基盤となるものなのです。このことについては、次回に改めて考えることにしましょう。                                                                                                                                   ...

法華三部経の要点19

【機関紙誌】

仏性を尊重し合うところこそ寂光土

仏性を尊重し合うところこそ寂光土

1 ...法華三部経の要点 ◇◇19 立正佼成会会長 庭野日敬 仏性を尊重し合うところこそ寂光土 まず自分の仏性を自覚する  法華三部経には「仏性」という語は一回も出てきません。しかし、「仏の教えを聞き、よく持(たも)ち、よく実践する者は必ず仏となることができる」というのが、この経典をつらぬく根本理念であり、仏となれるのはそうした素質(仏性)があればこそなのですから、法華経は全巻これ仏性の教えだといってもさしつかえありません。  さて、前回の終わりに、仏法が説く人間の本質の平等は「人格の向上」の原動力となり、人類のほんとうの幸せの基盤となるものだと書きましたが、今回はそのことについて考えてみることにしましょう。  人間はだれでも仏すなわち「完成された人間」になりうる素質(仏性)が具(そな)わっているということがわかれば、われわれ凡夫にどんな変化が起こるのでしょうか。  われわれは日常の仕事に追われてあくせく働き、また身の回りに起こるさまざまなトラブルに右往左往しながら日々を送っています。それを一生のあいだ続けながら、ついに死を迎えるのだと考えれば、なんともいえない虚無感を覚えます。自分はいったい何のために生きているのか――と、絶望的な気持ちになることもあります。  そのような時に、法華経の教えによって「あなたのほんとうの生涯は仏になるためにあるのですよ。あなたには仏になる素質が具わっているのですよ」と聞かされると、ハッと目が覚めたようになります。「そうか。わたしにも仏になれる素質があったのか。この一生はそんなスバラシイ目的のためにあるのか」という思いが、その日からの生活を一転させ、はつらつとした、いきいきとしたものに変えてしまうのです。そして、「仏となるために、よいことを思い、よい行いをしよう」という気持ちが胸底に定着するようになります。それがすなわち「人格の向上」の原動力にほかなりません。 草木国土悉皆成仏へ  たんに自己の人格の向上の問題だけではありません。周りの人にも「完成された人間」になりうる素質があることがわかってきますから、人びとを見る目がガラリと変わってくるのです。これまで「つまらないやつだ」とさげすんでいた相手がいても、形の上に現れた状態ではなく、その人の本質である仏性を見るようになり、必ず仏になりうる人として認められるようになります。あとの『常不軽菩薩品第二十』に登場する常不軽菩薩がその典型でしょう。  そのようにして、すべての人間が他の人の仏性を信じ、尊重するようになれば、そこにこそ心の底からの「和」が生じます。嫉妬(しっと)することもなく、軽蔑(けいべつ)することもなく、みんなが認め合い、睦(むつ)み合って暮らすようになります。そういった社会こそが寂光土なのです。  もう一つ大事なことがあります。「自然とも仲よくするようになる」ということです。  仏教でいう衆生というのは、生きとし生けるものという意味です。もっと拡大解釈して、土とか水とか石とかいった無生物も、久遠の本仏に生かされているのだと仏教では見ているのです。ですから、中国の天台僧・湛然(たんねん)が言い始めたという「草木国土悉皆成仏」という理念が生まれたわけです。  今やこの考え方は、たんに仏教の中ばかりでなく、人類の運命をにない、その危機を救う一大事となっています。人間のあまりにもわがまま勝手な生きざまが、自然を破壊し、汚染し、このまま二十一世紀になれば、地球上で生きていくことさえ難しいといわれているのですから。  われわれが法華経精神の普及に必死に取り組んでいるのは、世界中の人間がお互いに「完成された人間」となる可能性を持つことを認め合い、と同時に、自然とも仲よくする関係になって、この世を寂光土化しようという大誓願のためにほかなりません。このことをよくよく心得ておいて頂きたいものであります。 ...

法華三部経の要点20

【機関紙誌】

仏教には一仏乗があるだけ

仏教には一仏乗があるだけ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇20 立正佼成会会長 庭野日敬 仏教には一仏乗があるだけ みんな仏道の上にいる  第十七回に「法を現実化する方便こそが大切である」ことについて書きましたが、そうであればこそ法華経では、その現実化の行動者である菩薩が、仏を除けば人間の中で最も価値ある存在だと強調するわけです。  お釈迦さまは方便品の中で、「諸仏如来は但(ただ)菩薩を教化したもう」とか「諸の菩薩を教化して声聞の弟子なし」などと、繰り返し繰り返し菩薩をたたえ、信頼するお言葉を述べておられます。  ここで誤解してはならないのは、声聞や縁覚は相手にしないという意味ではないことです。  ――声聞も縁覚も仏となる道の上に乗っていることは確かである。しかし、まだ積極的な歩みに踏み出していない。だから、積極的な歩みをする菩薩になるように導きたいのだ――というみ心なのです。  「仏となる」とか「声聞」「縁覚」「菩薩」とかいえば、いかにも現実離れした存在のように思われますが、けっしてそうではありません。現代語で表現すればこういうことになります。  仏とは、前にも書いたように、「めざめた人」のことです。宇宙の真理と人生の真実にめざめ、その悟りにもとづいてこの世のあらゆる存在を幸福に導こうという大慈悲心の持ち主なのです。  声聞というのは、仏教の本を読んだり、説法を聞いたりして、仏の道を学ぼうとする人です。このような人も「めざめ」への道の上にいることは確かです。現代語でいえば「学習派の信仰者」ということになりましょう。  縁覚というのは、仏の教えについてひとり静かに思索し、暝想し、「めざめ」へ近づこうとする人です。こういう人も仏への道の上にいることは確かなのです。現代語でいえば、「暝想派の信仰者」ということになりましょう。  菩薩とは、声聞の要素も持ち、縁覚の要素も具(そな)えているのですが、ただ違うのは、他の多くの人びとへの教化や救済に奔走するという一点です。「行動派の信仰者」と名づけていいでしょう。 歩み出しさえすれば  法華経以前では、仏道修行者が「学習派」「暝想派」「行動派」の三派に分かれているように考えられていました。事実そういう傾向が顕著でした。そして「学習派」や「暝想派」の人たちは、もっぱら煩悩から解脱することを目標として修行し、仏になるなんてとうていできないことだと思い込んでいました。お釈迦さまも、みんなの機根(教えを受ける能力)がまだ熟していないと見られて、わざと「みんな仏の道の上にいる」ということをお説きにならなかったのです。  しかし、この法華経方便品に至って「十方仏土の中には 唯一乗の法のみあり 二なく亦(また)三なし」という大宣言をなさったのです。そして、法華経を行ずる者はことごとく仏になることができると、保証されたのです。  ――これまで学習派・暝想派・行動派の別があるように考えていたが、そのような派閥の別などありはしないのだ。あるのは「仏の智慧にめざめ、その慈悲を行ずる」という大きな一本道(一仏乗)しかないのだ。学習派の人も暝想派の人もその一本道の上にいるのだ。ただ、積極的な歩み(菩薩行)を起こしていないだけのことなのだ――という素晴らしい大宣言です。  これを仏教学者は「開三顕一」と名づけていますが、つまり――仏教書を読むことも、座禅を組むこともいいことなんだ。それも仏道の一段階なんだ。大いにやりなさい。ただし、「他を幸せに導く行動」という段階へ進むことを忘れてはいけませんよ――ということなのです。                                                                   ...

法華三部経の要点21

【機関紙誌】

人を仏道に導く順序は

人を仏道に導く順序は

1 ... 法華三部経の要点 ◇◇21 立正佼成会会長 庭野日敬 人を仏道に導く順序は 一大事の因縁を以ての故に  方便品の大きな要点の一つに「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう」という一句があります。  「一大事の因縁」というのは「一つの大事な目的」ということです。では、その目的は何かといえば、「すべての人に仏知見を開かしめ、仏知見を示し、仏知見を悟らせ、仏知見を成就する道に入らせることである」と説かれています。  仏知見というのは、この世のあらゆるものごとの実相を見きわめる智慧のことですが、これを大づかみにいえば、すべてのものごとの本質の平等性と、さまざまな現象として現れている現実の相(すがた)を、ありのままに、そして、明らかに見通す智慧だと言っていいでしょう。  仏さまの側からいえば、そのような智慧をすべての人間に完成させることが、仏さまがこの世にお出ましになられた一大事の因縁ですが、われわれの側からいえば、そのような智慧を身につけることがこの世に生まれてきた一大事の因縁だといえます。つまり、人生の真の目的はそこにあるのだというわけです。  人生を楽しむのもいいでしょう。せっせと稼いでお金をもうけるのもいいでしょう。しかし、この「人生の真の目的」を見忘れたり、ないがしろにしたりすれば、人間としての向上もなければ、社会の進歩もありえません。それどころか、みんなが欲望を限りなく肥大させ、自己本位の生きざまに走り、奪い合い、足の引っ張り合いの世界をつくりあげてしまいます。現在の世相がそうではないでしょうか。  人類がほんとうに幸せになるためには、どうしても先に述べたような「人生の真の目的」に目覚めることが不可欠の要件なのです。法華経が歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう=生まれ変わりを重ねながら菩薩行を続ける)をも説く理由はここにあるのです。 開・示・悟・入の順序  それでは、この一大事の因縁である「開・示・悟・入」について説明いたしましょう。  「開」というのは、仏の智慧に眼を開かせることです。これまでそんなことに無関心だった人に「気づかせる」ことです。より高い、より尊いものに「気づく」ということが、進歩・向上の出発点となるのです。  「示」というのは、仏の智慧の実際を示すことです。たとえば、仏さまの説かれた縁起の法則を実際に起こったある例証によって示せば、初心の人も「そんなものかなあ」と心を動かすようになります。それが第二の段階です。  「悟」というのは、第二の段階からさらに進んで「なるほど」と心の底から納得する段階です。  そこでいよいよ「入」という段階へ進むのです。すなわち仏の智慧を成就するための修行に入るわけです。ご宝前で読経する。唱題する。経典の解説書を読む。その内容についていろいろ考えをめぐらす。説法を聞く。法座に参加したり、明るい社会づくりのためのさまざまな集会に出席する。みんなそのための修行です。そして、他の人を仏道に導く菩薩行へと進む。このような実践によってこそ、目覚めへの道は完成へと近づいて行くのです。  この順序は、世の万事に応用できる基本的なセオリー(理論)です。たとえば、緑の保存についても、そんなことに無関心な人にまず文書その他の方法でその大切さに気づかせること(開)が出発点です。そしてアフリカや東南アジアなどの実情を示せば、「このままでは地球が危ない」と心底から悟ります。そこで、その危機を救う実践(たとえば、本会で実行しているクズの種を中国に送る運動など)へと入らせるのです。  このように、開・示・悟・入は、現代語で表現すれば「啓発・例示・了解・実践」ということになり、すべてのキャンペーンに通ずる大法則なのです。                                                              ...

法華三部経の要点22

【機関紙誌】

人間には無限の可能性がある

人間には無限の可能性がある

1 ...法華三部経の要点 ◇◇22 立正佼成会会長 庭野日敬 人間には無限の可能性がある 「十如是」の法門の意味  方便品のもう一つの大きな要点に「十如是」の法門があります。すべてのものごとの本質である平等性と、さまざまな現象として現れる現実の相(すがた)を、ありのままに見通すための法則です。すなわち、「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」という十の如是(にょぜ)です。  後世の学僧たちは、この三十四文字に法華経の哲理が結晶されているとして、これを「略法華」と呼んでいるほど大切な法門です。  如是の意味にはいろいろな説がありますが、「こうすればこうなる」という解釈がいちばん適切だと思います。ではこの十如是の意味を説明しましょう。  われわれがすべての事物を見るとき、まず目に入るのはその姿・形です。これを「如是相(そう)」と言います。  表面の現れであるその「相」を、一歩内面に立ち入って吟味してみますと、そのものの持つ性質というものがあることがわかります。それを「如是性(しょう)」と言います。  「相」があり「性」があるものには、必ずそのものの主体があります。それを「如是体(たい)」と言います。  主体を持つすべての存在は必ずそのものにふさわしい力、いわば潜在エネルギーというものを持っています。その力を「如是力(りき)」と言うのです。  その力(潜在エネルギー)は、機会を得ればはたらきだし、その機会に応じた作用を起こします。それを「如是作(さ)」と言います。  そして、どのような現象であろうと、それが生ずるのには、必ず原因があります。それを「如是因(いん)」と言います。  また、その原因も何らかの条件に合わなければ、現実に現象として現れることはありません。その条件を「如是縁(えん)」と言うのです。これが、「如是作」のところで述べた「機会」ということでもあります。  さて、ある原因がある条件に会えば、それにふさわしい結果が生じます。それを「如是果(か)と言い、その結果があとに残す影響を「如是報(ほう)」と言うのです。  以上の九つの如是は、初め(本)から終わり(末)まで、つまるところ(究竟して)宇宙の真理である法則のとおりになるということで等しい(等)というのが、最後の「本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」ということなのです。  実に整然とした哲理ではありませんか。 希望と勇気を与える哲理  この哲理を人間の生き方の上に大きく展開させたのが、天台大師の説いた「一念三千」の法門です。いま説明したように、「十如是」は――この世のあらゆる事物は固定したものではなく、変化・流動させうるものであり、「こうすればこうなる(如是)」という原理に従うものである――ということを説いたものであります。  ということは、自分の性格や才能などの個性も、自分と関係するさまざまなことがらも、もともと固定したものではなく、自分の心の持ちようにより、努力により、どんなにでも変化させうる可能性を秘めているのだ、ということなのです。この哲理は、われわれに大きな希望と勇気を与えてくれるものです。  われわれは、ともすれば自分の能力に限界を感じ、一種のあきらめをいだきがちです。それは自分がつくった限界であり、自らが立てた壁であって、ほんとうの自分はそんな壁に閉じこめられたものではなく、上へ向かってもどこまでものぼって行ける、横へ向かってもどこまでもひろがって行ける、そんな無限の可能性を持っているのだ、というのです。  そのような可能性を知らされると、心の牢獄の壁にポッカリと大きな穴が開いたのを感じます。あなたにも、そんな可能性があるのです。希望を持ち、大いなる勇気を出してください。 ...

法華三部経の要点23

【機関紙誌】

ありのままの尊さ

ありのままの尊さ

1 ... 法華三部経の要点 ◇◇23 立正佼成会会長 庭野日敬 ありのままの尊さ 諸法実相の三つの見方  前回には十如是の法門に示された「諸法実相」を、主として人間の生き方に即して説明しましたが、もっと視野をひろげて、大自然の姿にその真理を見てみましょう。  天台の教義では「諸法実相」を三重に説いています。まず第一は「すべての存在(現象)は空(くう)である」という見方。これを空諦(くうたい)と言います。  ところが、現象というものを一切否定し、その根源である空のみを見ていますと、おそろしい虚無感に襲われ、厭世観(えんせいかん)のとりこにもなりかねません。目の前に展開している現象をも認めなければ現実の生活はできないのです。その現象肯定の見方を仮諦(けたい)と言います。  しかし、現象肯定に片寄っていますと、どうしても目の前に現れるものごとにとらわれ、ふり回され、迷ったり苦しんだりします。そこで、あらゆる現象は因と縁との和合によって生じたものであるという縁起の法則にのっとって、ありのままに見るところに、諸法の実相のとらえどころがある。それがギリギリ真実の諦(さと)りであるというのです。これを中諦(ちゅうたい)と言います。中道というのもこの中諦と同じだというのです。  この中諦の境地は、理念的にはわかるけれども、現実的に「これこのとおり」とハッキリ示すことは難しく、言葉にも尽くし難いものです。だから、むかしの人は「妙」としか言いようがないと言いました。妙法蓮華経の「妙」もそれだというのです。 大自然の姿に学ぼう  言葉では言い尽くせないが、大自然の姿を見ればそれをマザマザと感得することができます。たとえば、自然林の姿などがそうでしょう。その中の一本の樹木をつくづくと見つめてみますと、たくさんの枝や葉が、それぞれ他の枝や葉の領分を侵さないようなほどよい空間を保ち、そこになんともいえない美しい調和がつくり出されています。だから、いつまで眺めていても飽きません。また、多くの木と木との間にも同じような美しい調和が保たれ、しかもみんながいきいきしています。  「芭蕉」という謡曲にこんな一節があります。  さてさて草木成仏の 謂(い)はれ(根拠)をなほも示し給(たま)へ 薬草喩品あらはれて 草木国土有情非情(生物・無生物)もみなこれ諸法実相の 峰の嵐や 谷の水音仏事をなすや――中略――されば柳はみどり 花は紅と知ることも ただそのままの色香の 草木も成仏の国土ぞ 成仏の国土なるべし 峰の嵐にも谷川のせせらぎにも諸法実相が現れているというのです。柳はみどり、花は紅というのは、ありのままということですから、つまり、大自然のありのままの姿にすべての存在の真実の相を見ることができる、というのです。  しかもそれらがすべて「仏事を成している」、久遠実成の仏さまの大いなるいのちを現しているというのです。大自然がありのままの状態であるときは、そこに宇宙の大生命そのもののいのちがいきいきと現れる。それが「草木国土悉皆成仏」の姿である……というわけです。  われわれはこのことに深く思いを致さねばなりません。人類は、とくに先進国の人間は、わがままな欲望のために大自然のありのままの姿を容赦なく破壊してはいないか。そのことを反省しなければなりますまい。  右の謡曲の中に「峰の嵐や谷川のせせらぎが仏事を成している」とありますが、人間が成す仏事も――もちろん人間でなければできない仏事もたくさんありますけれども――その根本は、「ありのままに生きる」ということではないでしょうか。ありのままに生きている人が、なんともいえず美しく、尊く見えるのは、やはり諸法実相の理にかなっているからでありましょう。 ...

法華三部経の要点24

【機関紙誌】

心が変わればすべてが変わる

心が変わればすべてが変わる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇24 立正佼成会会長 庭野日敬 心が変わればすべてが変わる 「念」は強くて継続的な心  前々回に天台大師の説いた「一念三千」について触れましたが、これは難しく考えればたいへん難しい説ですけれども、一口で言えば「心が変わればすべてが変わる」ということです。ただし、心といってもコロコロ変わるような軽い心ではありません。「一念」の念というのは、「念入りに書く」とか「初一念」とか「念力」とか「念が残る」とか「念を晴らす」といった使い方でもわかるように、非常に強く思い、そして絶えず思う心なのです。不適当な表現かもしれませんが、たいへんしつこいというか、根強い心なのです。  この強くしつこい心が悪い心であれば、その人の人格を低め、他の人への恨みなどとなって相手を傷つけることになりますが、善い心であれば、自分を無限に向上させ、多くの人を救い、環境をも、社会をも浄化するという偉大な働きを持つものなのです。  道元禅師はこう言っておられます。「(願い求めることは)行住坐臥、事にふれ、おりにしたがいて、種々の事はかわり来れども、其れに随いて、隙(ひま)を求め、心に懸(か)くるなり。此心あながちに(度はずれて)切なるもの、と(遂)げずということなきなり」と。日常生活の中で、ちょっと暇(隙)があればそのことを思い、度はずれるぐらいけんめいに思えば、その思いは必ず遂げられるのだ……というのです。 一念が三千を変える理由は  そういう一念が自分自身を変えることはだれでもわかります。しかし、それがどうして他人を変え、環境を変え、社会を変えるのでしょうか。まず常識でわかることから考えてみましょう。  第一に、心が変わればその人のものの考え方や、身の振る舞いや、口に出す言葉がひとりでに変わってきます。すると、周りの人びと(主として家族)がそれに感化されて変わってくる、これは当然のなりゆきです。  第二に、心が変われば、すべてのものを見る目が変わってきます。人に対しては、温かい目で相手の長所を見、短所は寛容の目で見るようになります。周りの自然に対しても、その美しさをこまやかに観察するようになります。芭蕉が「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」と詠んだように、だれもが見過ごすようなペンペン草の小さな花にさえ、いのちの美を発見するようになります。こういう主観的な意味で、世界が変わるのです。  第三に、強くて絶え間のない一念(善念)があれば、それは必ず同じ念を持つ同志と磁石のように引きつけ合い、合体します。そして、さらに強い力となって社会へ向かって波紋をなげかけます。それがしだいしだいに社会を変えていくのです。WCRP(世界宗教者平和会議)などがその好例といえましょう。  右に述べたようなはたらきのほかに、常識では測りしれない心のはたらきがあります。それは仏教でいう感応道交(かんのうどうこう=心と心が冥々のうちに響き合い交流すること)です。そんなはたらきはどうして起こるのでしょうか。現代最高の心理学者であるスイスのユングは「絶対的無意識」または「集合的無意識」というものがあると唱えています。これは、あらゆる人間に、いやあらゆる生物に共通する、最も深い所にある潜在意識だというのです。  とすれば、宗教者の祈りなどは、表面の心で祈っているようでも、それは深層にある自分の集合的無意識を動かし、それが多くの人びとの集合的無意識へ働きかけるのだ……と解釈することができ、納得することができます。  以上、いくつかの面から説明してきましたが、いずれにしましても、自分の心を変えることによって、人も環境も確かに変わったという体験は、信仰者にとって動かし難い事実なのであります。そこで私は、この「一念三千」をもう一歩突っ込んで、「自分が変われば、相手も変わる」と表現しているわけです。 ...

法華三部経の要点25

【機関紙誌】

諸仏は五濁の悪世に出でたもう

諸仏は五濁の悪世に出でたもう

1 ...法華三部経の要点 ◇◇25 立正佼成会会長 庭野日敬 諸仏は五濁の悪世に出でたもう 文化の進歩の逆現象  方便品にはもう一つ見逃してはならぬ要点があります。「諸仏は五濁の悪世(ごじょくのあくせ)に出でたもう」の一句です。これは現代の世相にぴたりと一致しますので、この五つの世の濁りについて吟味してみましょう。  第一の濁りは「劫濁(こうじょく)」です。これは時代が長く古くなったために起こる悪です。世の中も人間の体と同じように、古くなると動脈硬化を起こします。  それが一番顕著に現れるのは、政党をはじめとする諸団体でしょう。ある団体が結成された当初は、理想に燃え、情熱をたぎらせていたのが、年月がたつにつれて、ともすれば惰性的になり、形式主義的になっていきます。「何のためにあるのか」「だれのためにやるのか」という根本精神がかすんでしまうのです。だから、時に応じて草創期を思い起こし、初心に立ち返ることが絶対に必要なのです。  第二の濁りは「煩悩濁(ぼんのうじょく)」です。文化が進むのはいいことですが、半面、社会構造が複雑になるにつれて煩悩も種類が多くなります。人類が単純な暮らしをしていたころは、煩悩は食欲と種族保存欲などに基づくものだけだったのが、文化が進むにつれ、名誉欲とか権勢欲といった新しい煩悩が生じ、それが過大になったり暴走したりして、大小さまざまな争いの原因となるのです。  第三の「衆生濁(しゅじょうじょく)」というのは、世の中が複雑化すると、衆生の一人一人が自分の立場だけからものを考えるために、小は人間関係から大は国際問題に至るまで、摩擦や背反が激しくなり、地球上が修羅(しゅら)の巷(ちまた)と化していくのです。そういう時にこそ、法華経が説く「久遠本仏の大慈悲心」つまり、「すべての人間は宇宙の大生命ともいうべき久遠本仏に生かされているのだ」という真理に深く思いをいたさねばならないのです。  なお、西義雄博士は国訳大蔵経の『倶舎論巻十二』の注釈に、衆生濁とは人間が小さくなり無気力になることだとしておられます。  最近、日本の青年が無気力になったことが問題となっていますが、右のような解釈も一考に値すると思います。 最も恐ろしいのは「命濁」  第四の「見濁(けんじょく)」というのは、ものの見方が人により民族により大きく相違するために起こる世の乱れです。正しい見方にいろいろな方向があるのならいいのですが、悪世においては、たとえば「宗教はアヘンなり」とか「道徳教育は不要である」といったような邪見が横行して、正見を蔽(おお)ってしまうことが多いために、世の中が濁ってくるのです。  第五の「命濁(みょうじょく)」というのは、人間の命が短くなるというのですが、これはちょっと解せないかもしれません。むかしは「人生五十年」が通り相場でしたが、今の日本では八十何歳とかが平均寿命になっていますから、人間の寿命が短くなるという意味がわからないと思います。  したがってこれを、核戦争によって人類はアッという間に絶滅してしまう意味であるとか、今日のように添加物の多い食品を食べていると人間は長生きできなくなることを示唆しているのだといったうがった説明もあります。また科学文明の発達によって人間が本来持っていた生命力がだんだん脆弱(ぜいじゃく)になっていくことを教えているのだともいわれます。  そのいずれにせよ、究極的には「どうせ限りある生命だから、いまさらあくせく修行しても始まらぬ」というように、人間が刹那主義になってしまうことが恐ろしいことであり、これが命濁の示す警告であるといってもいいでしょう。  そういう危機(悪世)に際してこそ諸仏が世に出でたもうというのも、仏さまそのものは出られなくても、仏の教えを世にひろめる人間が続々と出現するというように解釈することもできましょう。そのように受け取って発奮のよすがとしたいものです。                                                             ...

法華三部経の要点26

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向上は反省と下がる心から