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法華三部経の要点87

仏性を認め合い拝み合ってこそ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇87 立正佼成会会長 庭野日敬 仏性を認め合い拝み合ってこそ 人を礼拝した常不軽菩薩  法華経は文学性においても、最高の仏教経典だと言われていますが、その中でも常不軽菩薩品は最も迫真の感銘深い章であると言っていいでしょう。というのは、そこに登場する主人公がいかにも人間臭く、それを取り巻く人々もごく普通の凡夫たちだからであります。話はこうです。  はるかなる昔に、一人の菩薩比丘がありました。(ただ「比丘」といわず「菩薩比丘」といってあるところに注目)。その菩薩比丘は、町や村で人に会うごとにその人を拝み「わたしはあなたを敬います。けっして軽んじません。あなたは必ず仏になる人だからです」と言うのでした。  拝まれた人の中には心の曲がった人もいて、「何だと。おれを軽んじないだと。余計なお世話だ」とか「わしが仏になるんだって……うそもいい加減にしろ」とか、怒って言い返す人もいました。中には、腹を立てて石を投げつけたり、棒でたたこうとする人もありました。しかし、常不軽は、さっさと逃げて、遠くのほうから相変わらず「わたしはあなたを軽んじません。あなたは仏になる人ですから」と合掌して言うのでした。 法華経の二つの大事な骨格  ところが、この菩薩が病気にかかってまさに死に至ろうとした時、虚空から響く真理の声を聞き、それによって寿命を増益(ぞうやく)しました。それからというものは、いまの法華経と同じ内容の教えを多くの人に説きました。前に常不軽を迫害した人々も、その教えを聞いて、ようやく仏の悟りを得ようという志を起こしました。  常不軽菩薩はやがて死を迎えましたが、そののち何度も生まれ変わってはその世その世で仏に遇(あ)いたてまつり、そのつど法華経の教えを聞き、しかもそれを人々のために説きましたので、数え切れぬ生まれ変わりの後、ついに仏となることができました。  ここまでお話しになったお釈迦さまは、あらたまった口調でこうおおせられたのです。「その常不軽菩薩はほかでもない。わたしの前世の身であったのだ。わたしはたくさんの仏のもとでこの法華経を学び、受持し、読誦し、人のために説いたがゆえに、仏の悟りを得ることができたのである」と。  この前世物語の中に、法華経の大事な二つの骨格がハッキリと浮かび上がらせてあります。  その第一は、「すべての人の仏性を拝め」ということです。これこそが菩提心を育てる――現代的に言えば人格完成を目指す――ための大道なのです。人の仏性を認め、それを礼拝すれば、心はおのずからエゴから離れ、清らかにしかも温かになってくるからです。  第二に、「但(ただ)礼拝を行ず」は、その大道の出発点にしか過ぎず、さらに進んで法華経の教えを学び、そして人のために説くことが大事だということです。そうして世の多くの人がお互いの仏性を認め合い、拝み合うようになってこそ、この世にほんとうの平和が生まれるからです。  この「仏性の拝み合い」こそは、倫理・道徳の域をはるかに超えた、地球上すべての人間関係を美しくし、和やかにする究極の道なのであります。 ...

法華三部経の要点88

【機関紙誌】

仏教は徹底した平和主義である

仏教は徹底した平和主義である

1 ...法華三部経の要点 ◇◇88 立正佼成会会長 庭野日敬 仏教は徹底した平和主義である 信念を貫くために逃げる  常不軽品にもう一つ大事な要点があります。それは「衆人或は杖木・瓦石を以て之を打擲すれば、避け走り遠く住して、猶お高聲に唱えて言わく、我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべしと」ということです。  走って逃げるのを卑怯だとか弱い行為だとか思う人があるかもしれませんが、それは大きな間違いです。自分の主義主張をどこまでも貫き通すには命を惜しまなくてはなりません。生き抜かなくてはなりません。  常不軽菩薩がその典型なのです。逃げ走っても、信念は曲げませんでした。あいかわらず「わたしはあなた方を軽んじません。あなた方は仏になる人ですから」と言って拝みました。そういった態度こそが、ほんとうの意味の強い態度であります。 脈々と伝わる平和主義  そうした常不軽菩薩の生き方に、お釈迦さまの徹底した非暴力による平和主義が象徴されていることも見逃してはなりません。法句経に「怨みは怨みをもって報いれば、ついに消えることはない。怨みを捨てるとき、それが消えるのである」という不滅の名句が説かれていますが、お釈迦さま自身がそんなお方だったのです。たとえば、提婆達多がお命を狙って未遂に終わったとき、弟子たちがいきり立って仕返しをしようとしたとき、それをキッパリとお止めになったばかりか、法華経で「わたしが仏の悟りを得たのは、提婆達多という友人のおかげである」とまでおおせられています。  そのご精神は弟子たちにも脈々と伝えられていて、たとえば常随の侍者阿難の最期などに、それをまざまざと見ることができます。  阿難は年を取ってからマガダ国を去ってビシャリ国に移り住もうとしました。ところが、マガダ国のアジャセ王は阿難のような高徳の人に去られたのが寂しくてたまらず、自ら兵をひきいてその後を追いました。  追いついたときはすでに阿難はガンジス河の中流の舟の上でした。そして、対岸にはビシャリ国の軍が阿難を出迎えに来ていました。それを見た阿難は、このままビシャリ国に行っても、あるいはマガダ国へ引き返しても、必ず戦争になると見て取りました。そこで、平和を念じた阿難は、船上で自ら命を絶ったのでした。じつに悲しくも尊い最期でした。両軍は戦うどころではなく、号泣しながら共に遺体を火葬にし、その灰を二つに分けて持ち帰ったといいます。  仏教の徹底した平和主義の伝統は現代にも生き生きと残っています。一九五一年(昭和二十六年)、サンフランシスコで開かれた対日講和会議の席上で、セイロン(いまのスリランカ)代表のジャヤワルデネ氏は前出の法句経の名句を朗唱し、セイロンは日本に対して賠償を求める意思はないと演説されました。満場に万雷の拍手が起こり、しばらく鳴りやまなかったといいます。権謀術数のみの場と思われる外交の舞台にも、すべての人にある仏性が自然と顔を出した、じつに美しいシーンだったのです。 ...

法華三部経の要点89

【機関紙誌】

すべては一に発し一に帰す(1)

すべては一に発し一に帰す(1)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇89 立正佼成会会長 庭野日敬 すべては一に発し一に帰す(1) 信仰の対象はただ一つ  如来神力品は、釈迦牟尼仏をはじめとする諸仏が不思議な神力を現される神秘的な情景に終始していますが、じつはその中に法華経をつらぬく重要な真理と、世界の未来のあるべき真実のすがたが秘められているのです。その重要な真理というのは「すべては一つ」ということであり、そのあるべき真実のすがたというのは「現在はバラバラのように見えるものも、未来においては一つに帰する」ということであります。  まず、お釈迦さまが広くて長い舌をお出しになりますと、その舌は梵天という天界まで届いたというのです。これを「出広長舌(すいこうちょうぜつ)」といい、仏さまのお説きになる教えはすべて真実であり、究極永遠の真理であり、しかも究極の真理に二つはないということを象徴しているのです。  法華経の前半では、お釈迦さまは現実世界の仏としての立場から、人間の生き方についていろいろと教えてくださいました。ですから、法華経の前半を「迹門(しゃくもん・迹仏としての仏の教え)」と呼びます。そして人びとはお釈迦さまを仏としてあがめ、帰依していました。  ところが、後半になると、ご自分の本体は宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の本仏であり、現実の自分はその本仏がこの世に迹(あと)を垂れたもうたすがたであるとお説きになりました。そうすると、どちらの仏さまを帰依・礼拝の対象としたらいいかと迷う人があるかもしれません。そこで、この品であらためて「迹仏と本仏は別な仏ではない」ということを示されたわけです。ですから、この「出広長舌」という神力には「二門信一」という深い意味がこめられているのです。 根本の真理はただ一つ  つぎに、「毛孔放光(もうくほうこう)」といって、お釈迦さまの全身からさまざまな色の美しい光が射(さ)し出ると、十方世界が隅から隅まで明るくなった……とあります。  これは、仏法の光明はさまざまな色(方便)として現れるけれども、もともとは一つの真理(一法)から出たものであり、それぞれが人と場合に応じて迷いの闇(やみ)を破るものであるということです。ちょうどプリズムで分解すれば七色に分かれる太陽光線も、もともとは無色の光であるようなものです。具体的に言えば、仏教の教えはすべて諸法実相という真理から出ているのであります。ですから、この「毛孔放光」という瑞相は「二門理一」という意味がこめられているのです。 教えの帰する所はただ一つ  つぎに、釈迦牟尼仏をはじめとする諸仏がいっせいにせきばらいをされたとあります。これを「一時謦欬(いちじきょうがい)」といいます。謦欬は教えを説くことを象徴するもので、それが同時に行われたというのは、現実に説かれる教えはさまざまに違っても、その根本の教えは一つであるということです。法華経に即していえば、迹門も本門も結局は同じ教えを説いているということで、これを「二門教一」といいますが、もっと広義に解釈すれば、世界中にさまざまな宗教があるけれども、正しい宗教であるかぎりすべて同じ教えから出たもので、万教は同根であるということです。 ...

法華三部経の要点90

【機関紙誌】

すべては一に発し一に帰す(2)

すべては一に発し一に帰す(2)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇90 立正佼成会会長 庭野日敬 すべては一に発し一に帰す(2) 教えの目的はただ一つ  つぎに、釈迦牟尼仏をはじめとする諸仏がいっせいに指をパチンとはじかれた、とあります。これを「倶供弾指(くぐだんじ)」といいますが、インドでは「承知しました」と承諾し、約束するしるしにパチンと指を鳴らす習慣があるのです。ですから、一切の諸仏が「みんなと一緒にこの教えを説きひろめよう」と約束されたわけです。  一切衆生の幸せを思う慈悲心からこの約束をなさったわけですが、そのような慈悲心は「自他一体感」の極致にほかなりません。自他一体感があってこそ、心の底から他を愛(いとお)しむことができるのです。ですから、この「倶供弾指」は「二門人一(人はすべて一体)」の精神をこの世に説きひろめようと約束なさったわけです。 教えを顕現するものは一つ  諸仏がいっせいに指を鳴らしてこの約束をなさると、天地は感動して六種に震動した、とあります。というのは、ほんとうに感動すれば、それを実際の行動に現さずにはいられなくなる、ということの象徴です。  では、その実際の行動とは何かといえば、それは菩薩行にほかなりません。法華経前半の迹門(しゃくもん)では、どちらかといえば理論的に菩薩行をおすすめになり、後半の本門においては、自他一体感を深めることによってひとりでに菩薩行におもむかざるをえないように導かれています。帰着するところは同じです。  ですから、「六種地動」というのは、「二門行一」すなわち法華経の教えをこの世に顕現するには、ただ一つ、菩薩行よりほかにはないのだというわけで、これを「二門行一」というのです。 人間の機根は一つになる  さて、これからがいちだんと大事なところに入ります。というのは、これから現される神秘的な現象は、未来の人間と人間世界のあるべき真実のすがたについて述べられたものだからです。しかも、仏さまは実現不可能なことをおっしゃったり、示したりされることはないのですから、これらはじつに重大なことであり、ありがたいことなのであります。  まず、人間界・天上界等のあらゆる生あるものが、釈迦牟尼仏や多宝如来をはじめとする一切の諸仏がいっしょに集まっておられる光景をまざまざと見ることができた、とあります。これを「普見大会(ふげんだいえ)」といいます。曼陀羅(まんだら)という仏画があるのをご存じと思いますが、あの曼陀羅が普見大会の象徴だといっていいでしょう。  さて、これは、現在は教えを受け取る能力(機根)が人によって相違があるけれども、未来においては精神の進化が進み、すべての人が等しく真理を悟ることができるようになる、というのです。そのことを「未来機一」といいます。 ...

法華三部経の要点91

【機関紙誌】

すべては一に発し一に帰す(3)

すべては一に発し一に帰す(3)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇91 立正佼成会会長 庭野日敬 すべては一に発し一に帰す(3) 妙法蓮華経という題名  その時、諸天善神が、「一切の衆生よ。釈迦牟尼仏がこの妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念という至高の教えをお説きになったことを心の底から喜び、その教えに帰依しなければならない。そして釈迦牟尼仏を礼拝し、供養申し上げねばならない」と呼びかける声が虚空から聞こえてきました。これを「空中唱声(くうちゅうしょうしょう)」と言います。  その中の「妙法蓮華」というのは、蓮の花が泥水の中から生じてあの清らかで美しい花を咲かせるように、一般大衆の苦に満ちた生活の中から生まれ出た至高の尊い教え、ということです。梵語からの直訳によりますと、法華経の題名は、『正しい教えの白蓮』となっていますが、単に正しいだけではなく、言うに言われぬ美しさ、尊さを持った経典ですので、中国語に訳した鳩摩羅什は「妙法」と冠したのです。実に名訳と言うべきでしょう。  「教菩薩法」というのは、菩薩を育て上げる教えということです。菩薩とは、これまで何度も説明しましたように、自らも悟りを求めると同時に、他の人々の幸せのために奉仕し、教えを説き広める在家信仰者のことです。法華経はそうした実践を本位とする経典であって、お釈迦さまが方便品で「私は菩薩を教化するためにこそ法を説くのである」とおっしゃったのは、実に決定的な宣言なのであります。 未来、教えは一つに帰する  「仏所護念」というのは、もろもろの仏が最高の教えとして念じ護っておられる教えということです。このことを忘れてはならないのです。これを忘れてしまえば、法華経は単なる哲学的な、道徳的な人生訓に終わり、心の底の底から救われて大安心に達する宗教的エネルギーに欠けたものになってしまいます。  法華経の締めくくりである勧発品で、法華経を本当に身につける条件を示された「四法成就」の法門の第一に、「一には諸仏に護念せらるることを為(え)」とお説きなったのも、そのことについて念を押されたものと思われます。  さて、この「空中唱声」は何を意味するかと言いますと、「未来教一」といって、「人類がそれぞれの宗教によって正しい信仰実践の道を歩んでいけば、必ず一つの真理、すなわち法華経に説かれる真理に帰着するであろう」と言っているのにほかなりません。  世界的な大宗教と言われるものは、その発生や、教義や、信仰の所作にはいろいろと違いがありますけれども、根本の真理は一つであるということを、すべての宗教の信仰者が悟るようになる、ということなのです。  WCRP(世界宗教者平和会議)の根本理念もそこにあるのです。どの宗教も、つまるところはすべての人間が幸せになり、平和な暮らしをすることを理想としているわけですから。従って、われわれが海外に布教する時も、法華経そのものを押しつけるのでなく、法華経精神を体得してもらうことを本義とすべきでありましょう。 ...

法華三部経の要点92

【機関紙誌】

すべては一に発し一に帰す(4)

すべては一に発し一に帰す(4)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇92 立正佼成会会長 庭野日敬 すべては一に発し一に帰す(4) 未来、人類は一つ心になる  「釈迦牟尼仏を有り難く思って礼拝せよ」という虚空からの声を聞いた宇宙のあらゆる生あるものはいっせいに合掌し、娑婆世界に向かって「南無釈迦牟尼仏」と唱えた、とあります。これを「咸皆帰命(かんかいきみょう)」といいます。咸(ことごと)く皆お釈迦さまの教えに帰依するということです。  お釈迦さまが説かれた教えは絶対の真理です。どの宗教の人も「なるほど」と思い「そのとおりだ」と納得せざるをえません。すでにそのことは始まっており、世界各国のすぐれた宗教者たちがそのように言明することをわたしはこの耳で聞いています。  一般の人々はまだそこまで進んではいませんが、未来においてはすべての人が必ずそうなるとここに述べられているわけです。そうなると地球上には悪人もいなければ、愚か者もいなくなり、それぞれ違った個性を持ちながらも、りっぱな人格をそなえ、正しい生活をするようになりましょう。ですから、「咸皆帰命」とは「未来人一」のことであるとされているのです。 すべての行為が仏心に合致  つぎに、虚空からさまざまな宝ものが降ってきて、地上に達する瞬間にただひといろの美しい帳(とばり=幕)に変じて諸仏を覆った、とあります。このことを「遙散諸物(ようさんしょもつ)」といいますが、この瑞相(ずいそう)は、宇宙のあらゆる生あるものが釈迦牟尼仏をはじめとする諸仏を供養もうしあげたということです。  供養には、仏前にお花や供え物を上げる利供養と、礼拝・読経などをする敬(きょう)供養と、身体をつかって仏さまの教えを実践すること、つまり菩薩行という行(ぎょう)供養とがありますが、仏さまがいちばんお喜びになるのは行供養であることは言うまでもありません。すべての宝ものがただひといろの美しい帳に変じ諸仏を覆ったというのは、この行供養の象徴にほかなりません。  ですから「遙散諸物」とは、現在は人々の行いが善悪さまざまであるけれども、未来においてはすべての行いが仏さまのみ心にかなった菩薩行になるという点において一致するということを述べたもので、これを「未来行一」といいます。 地球上が一つの仏土となる  そうなると、十方世界には区別がなくなり、ひとつづきの仏土となってしまう、とあります。これを「通一仏土」といって、未来のすべての人が一つの正しい法のレールにのって、完全に調和のある世界をつくることができるということから、「未来理一」をあらわしているとされています。  現在航空機の発達によって世界のほとんどの地が一日の航程に縮まり、通信機器の発達によって、地球の反対側のものごとも瞬時に知ることができるようになりました。そして、ある地に大地震などがあれば、他の国々からその日のうちに救護・医療のための人員が送られるようになりました。  ベルリンの壁が消えたことに象徴されるように国と国との区別もしだいになくなり、EC(欧州共同体)やASEAN(東南アジア諸国連合)などいろいろな国が協力してものごとを処理するようになりました。  これらのことからみれば、一歩一歩「世界は一つ」になりつつあります。つまり、「通一仏土」ということが、少しずつではあるが実現しつつあるということができましょう。 ...

法華三部経の要点93

【機関紙誌】

菩薩行には言い知れぬ喜びがある

菩薩行には言い知れぬ喜びがある

1 ...法華三部経の要点 ◇◇93 立正佼成会会長 庭野日敬 菩薩行には言い知れぬ喜びがある お釈迦さまの大事な委託  嘱累品に入ります。嘱というのは委嘱という熟語もありますように、ある仕事を任せる、頼むという意味ですし、累というのはわずらいとか面倒事という意味ですから、この品は、お釈迦さまがたくさんの菩薩たちに、「仏の悟りを後世に伝えるという一大事を頼みたい。面倒だろうが、どうかこの法を一心に説き広めて、広くあらゆる衆生を幸せにしてもらいたい」と、お頼みになる章です。  それも、ただ言葉でお頼みになっただけでなく、右のみ手をもって多くの菩薩たちの頭をなでながら、そう仰せられたのです。頭をなでることは、インドでは「あなたに任せます。しっかり頼みますよ」という信任と激励の意味を込めた動作なのです。  こうしてお釈迦さまの絶大な信頼による委託を受けたのですから、菩薩たちは大いに感激して「世尊のお言葉通り、間違いなくいたします。どうぞご心配くださいますな」とお答えするのです。それも三度も繰り返して申し上げます。三度も繰り返すのは、固く固くお誓いする真心の現れです。  そこでお釈迦さまは、安心なさったのでしょう、十方から来集しておられた分身の諸仏に「どうぞご自分のお国にお落ち着きください。多宝仏の塔も元通りになられますように」と仰せられるのでした。聴聞の大衆は、言い知れぬ感動を覚えながら去って行きました。  ここで法華経の説法に一段落がついたわけです。すなわち、仏さまの本体である久遠実成の本仏を説く「本門」が完結したのです。そして、法華経のドラマの「理想(虚空)の場」がここで幕を閉じ、再び霊鷲山に降りて、「現実(地上)の場」が改めて展開されるわけです。 困難を克服する喜び  この品の第一の要点は、お釈迦さまの委託を受けたのは当時の菩薩たちばかりでなく、後世のわれわれも同じ委託を受けているのだということです。  法華経を説いて人を仏道に導くのは、実際問題としてそうたやすいことではありません。しかも、普通の生活をしながらその聖業にたずさわるには、いろいろな困難を伴います。だからこそお釈迦さまは「面倒だろうが、よろしく頼む」と仰せられているのです。  われわれ法華経を信奉する者は、片時もこのありがたい委託を忘れてはならないのです。あるいはその委託の実践にいささかの苦を覚える人もありましょうが、その時、お釈迦さまが当時の菩薩たちに与えられたこのお言葉を思い出せば、また新しい勇気がわいてくるはずです。  そうして、苦としてしまう心や懈怠の心を押し切って菩薩行に励めば、いつしかそのマイナスの思いを克服し、そこに何ともいえぬ喜びが生じてくるのです。人間というものは、もともとそういうふうにできているのです。  ノーベル文学賞受賞のインドの大詩人・タゴールもこう言っています。「人間の自由は、苦痛から救われるところにあるのではなく、その苦痛を愉悦の一要素に変えるところにある」と。 ...

法華三部経の要点94

【機関紙誌】

「徳の行い」は心を浄化する

「徳の行い」は心を浄化する

1 ...法華三部経の要点 ◇◇94 立正佼成会会長 庭野日敬 「徳の行い」は心を浄化する 法惜しみをしない  嘱累品のもう一つの要点は、菩薩たちに仏法の広宣流布を委託されたときに付け加えられた、左のお言葉です。  「所以(ゆえ)は何ん。如来は大慈悲あつて諸の慳恡(けんりん)なく、亦畏るる所なくして、能く衆生に仏の智慧・如来の智慧・自然(じねん)の智慧を与う」  現代文に訳しますと、  「なぜそうするかといえば、如来は大いなる慈悲の心を持っており、何事にしても惜しむ心がなく、また何ものをもはばかることもなく、よく衆生に真実の智慧と慈悲の智慧と信仰の智慧とを与えたいからである」  これらの智慧(次回に詳しく説明します)は、仏さまがわれわれ衆生に与えられるものではありますが、後世の仏弟子であり菩薩であるわれわれとしては、それを仏さまに代わって人びとへ与えなければならないのですから、その場合の心得をしっかり学んでおく必要があるわけです。  まず第一に学ぶべきことは「法惜しみをしない」ということです。仏法を人に説くとき出し惜しみをするようなことは、よもやありますまいが、現実的な技術・技能などを人に教える場合、肝心なところを隠しておきたがる人がなきにしもあらずです。そんな態度は世の進歩・向上を妨げるものですから、何事にしても広い心をもって惜しみなく教え、秘けつを伝えたいものであります。 情けは人のためならず  次に、「畏るる所なくして」ということですが、これは仏法を人に説く場合の大切な心得です。畏れるというのは、普通にいう恐れるということとはちょっと違って、「はばかる」とか「心がひっかかる」という意味です。「はばかる」というのは、この法を人に説けば、嫌われるのではないか、悪く思われるのではないか、バカにされるのではないかなどと考えて、しりごみする気持ちです。  「心がひっかかる」というのは、「こんなことをしていったい何になるんだ」と考えてみたり、「億劫(おっくう)だなあ」という気持ちになって、やはりしりごみすることです。  しかし、人に仏道を説くことは人を幸せにする「徳の行い」なのです。そして、仏さまが喜んでくださる「慈悲の行い」です。そういう行いをすれば、あなた自身の心が知らず知らずのうちに美しくなり、温かになり、なんともいえない、いい気持ちになることは必至です。  とにかく実践することなのです。やってみることなのです。朝日新聞の『天声人語』(二・九・十二)に、ボランティア活動をした山形県小国町の保科智春さんという高校生の報告が紹介されていました。要約するとこういうことです。  「早朝に橋を掃除していると、初めのころ『いやだな』という気持ちだったのがいつしか消えているのに気づいた。そして掃き跡を振り返ると、心が入っていないのが見えた。そこで元に戻って掃き終わったとき、うれしい気持ちがいっぱい詰まったため息が出た。これは人のためにするんじゃないと悟った」  これです。徳の行いをすれば必ずこういう心境になるのです。昔から言うように「情けは人のためならず」なのです。 ...

法華三部経の要点95

【機関紙誌】

法華経は三つの智慧に満ちている

法華経は三つの智慧に満ちている

1 ...法華三部経の要点 ◇◇95 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経は三つの智慧に満ちている 仏の智慧・如来の智慧とは  前回に「仏の智慧・如来の智慧・自然の智慧」というのを「真実の智慧・慈悲の智慧・信仰の智慧」と訳しました。これは単に言葉の問題だけでなく、われわれが法華経を学び、そして実践するうえの大切な心得でもあると思われますので、ここに解説しておきましょう。  まず仏の智慧ですが、仏というのは仏陀(ブッダ)の略で、「覚った人」という意味です。何を覚った人かと言えば、宇宙の真理と人生の真実を覚った人です。諸法の実相を見通した人です。仏さまはそのような尊い智慧を惜しみなくわれわれに与えようとなさったわけです。  次の「如来の智慧」ですが、如来というのは「真如から来た人」という意味です。真理そのものである真如の世界から、なぜ汚濁に満ちた人間界に来られたのか。言うまでもなく、さまざまな苦にあえいでいる人間を救いたいという慈悲心からにほかなりません。ですから、如来の智慧というのは慈悲の智慧なのです。 仏性から湧く自然の智慧  次の「自然の智慧」ですが、この自然(じねん)は、大自然とか自然界などという自然(しぜん)とは違って、「自(おの)ずからそのようにある」という意味です。では、自ずからそのようにある智慧とはどんなものかと言いますと、人間の本質である仏性からひとりでに湧き出した智慧のことを言うのです。われわれの利己心から生まれたちっぽけな知恵・才覚でなく、仏性から生じた自然の智慧によって行動すれば、それはひとりでに天地の真理に合致した正しいものになってくるのです。  だれにもそういう智慧は具(そな)わっているのですけれども、いつもはさまざまな心の迷いや汚れ(いわゆる煩悩)によって覆いかくされているのです。が、時たまスーッとひとりでに心の表面に出てくることがあります。どんな時かと言いますと、他の人の美しい行為に感動した時とか、胸を打つような物語を読んだ時とか、自らそのような「徳の行い」を実践した時などです。  信仰および信仰活動には、いま述べたような要素がすべて具わっているのです。経典を読んで心が洗われるような思いをしたり、法座や説法会で他の人の体験談を聞いて感動したり、自ら菩薩行を実践して何とも言えない心の喜びを覚えたりするなどがそれです。ですから、仏性からひとりでに湧き出してくるそのような至妙の心理を、信仰の智慧と言ったわけです。  人間がギリギリのところまで人格を完成し、「諸法実相を知る真実の智慧」と、すべての人を救いへ導く「慈悲の智慧」とを兼ね具えたら、その人を仏と言うのですが、われわれ凡夫がその境地に近づくためには、どうしてもその二つの智慧に感応して自分の身につける「信仰の智慧」を持たなければならないのです。  法華経は、この三つの智慧の教えに充ち満ちたお経ですから、その一応の締めくくりであるこの章で、改めてこの三つの智慧に言及されたのでありましょう。これもこの品の大事な要点です。 ...

法華三部経の要点96

【機関紙誌】

菩薩行こそが最大の供養

菩薩行こそが最大の供養

1 ...法華三部経の要点 ◇◇96 立正佼成会会長 庭野日敬 菩薩行こそが最大の供養 実例と体験談の大切さ  薬王菩薩本事品に入ります。まえの嘱累品で法華経の「教え」は一段落しました。完結したと言ってもいいでしょう。では、それからあとの第二十三品から第二十八品まではなぜ説かれたのでしょうか。まずその意義を知っておくことが大事だと思います。  われわれ凡夫は、教えを聞いて「なるほど」と理解し、「よし、教えのとおりを実践しよう」と決心します。しかし、日がたつにつれて、ともすれば心がゆるみ、怠りがちになるものです。ですから、折に触れて教えをあらためて噛みしめ、心を励ます必要があるのです。  それについていちばん効果があるのは、信仰によって功徳を得た実例を聞くことです。それを聞くと、「あ、そうだった」「これではいけない」と心を引きしめ、信仰の思いを新しくし、精進の決意を固めるのです。わたくしどものいろいろな会合において体験説法を何より大事にしているのも、そういう理由によるものです。  法華経の第二十三品以降もそういう目的のために説かれているわけです。そこに登場する菩薩はある一つの徳を代表する方々です。お釈迦さまのようにあらゆる徳を成就しておられる方は、あまりにも完全過ぎてわれわれがまねをしようとしても途方に暮れる思いがしますが、ある一つの徳を具足した菩薩の行いならば、われわれ凡夫のちょうどよい目標となるわけです。 献身による菩薩行こそ  さて、第二十三品に登場する薬王菩薩の前世の身(一切衆生憙見菩薩)は「献身」という徳の代表です。  一切衆生憙見菩薩は、日月浄明徳如来という仏さまに仕えて法華経の真理を聞き、修行の結果高い境地に達したのですが、死後再び同じ仏さまの国土に、国王の子として生まれました。たまたまそのとき、仏さまがこの世を去られたのです。菩薩は泣く泣く仏身を火葬に付し、その仏舎利を八万四千の瓶に納め、国中にりっぱな塔を建ててそれをお祀(まつ)りしました。しかし、それでも供養が足りないと思い、自分の両腕に火をつけて燃やしました。その光明に照らされて、無数の人びとが仏道に入る発心をしましたのですが、七万二千年たってそれが燃え尽き、菩薩の両腕がなくなってしまったのです。  人びとは、自分らの導師が不自由な身になられたのを嘆き悲しみましたが、それを見た菩薩は「わたしは両の腕を捨てたけれども、その代わりに永遠不滅の身を得ることができたと信ずる」と言いました。その瞬間、両の腕はたちまち元どおりになってしまいました。  この寓話(ぐうわ)の教えは、ほぼ察しがつくでしょうが、自分の身に火をつけて燃やすというのは、つまり「法のために徹底した献身を行い、労を厭(いと)わず菩薩行を実践することこそ、仏さまへの最大の供養である」ということにほかなりません。そして、「その献身という菩薩行はけっして自分にとってマイナスとなるのではなく、その人に永遠不滅の功徳をもたらすものである」ということで、われわれ菩薩行にいそしむ者への絶大な励ましとなる真実であります。 ...